学位論文要旨



No 126433
著者(漢字) 大泉,匡史
著者(英字)
著者(カナ) オオイズミ,マサフミ
標題(和) 脳内における効率的な符号化と簡略化された復号化
標題(洋) Efficient Encoding and Simplified Decoding in the Brain
報告番号 126433
報告番号 甲26433
学位授与日 2010.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第623号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡田,真人
 東京大学 教授 山本,博資
 東京大学 教授 能瀬,聡直
 東京大学 教授 深井,朋樹
 東京大学 准教授 國廣,昇
内容要旨 要旨を表示する

1はじめに

我々の脳内では神経細胞がスパイクと呼ばれる電気パルスを発することによって高度な情報処理が行われている.本研究は,スパイクによる情報の符号化という観点と,スパイク列がどのように復号化されるかという観点の双方の観点から脳内の情報処理機構の理解することを目標とする.

符号化と復号化という概念を視覚を例に取って説明する.我々が物を見るとまず網膜の神経節細胞集団がスパイクを多数出す.この過程を符号化と呼ぶ.図1は本研究で用いたサンショウウオ網膜神経節細胞の活動の様子を表したものである.縦線は神経細胞がスパイクを発した時刻を示している.神経細胞のスパイク列の特徴として重要なものが二つある.一つは1) 神経細胞の活動は確率的であるということである.同じ視覚刺激を与えた時にも神経細胞の活動は全く同じにはならず,確率的に揺らぐ.二つ目は2) 活動に相関があるということである.図1 の赤丸で囲んだ部分に示されるように,網膜の神経節細胞は同じタイミングで一斉にスパイクを出す傾向がある.すなわち,神経細胞は各々が独立に活動しているのではなく,強い相関を持って活動していることが分かる.このような神経相関(Neural correlation)は網膜だけでなく,脳内の様々な領野において幅広く見られる現象である.スパイク列が1) 確率的であること,2) 相関を持つことは,脳内の情報符号化における重要な特徴である.

網膜神経節細胞集団が発したスパイク列は脳のより高次の領野へと運ばれ,さらなる情報処理,形,色,大きさ等の分析が行われる.その結果,我々は今何を見ているかを認識することができる.この過程を復号化と呼ぶ.確率的なスパイク列から一体どのようにして正確な情報の復号化が行われているかは未解決の問題である.特に,神経相関が外部刺激に関する重要な情報を高次領野へと運ぶか否かは,神経科学において大きな議論の対象となってきた.

本研究において我々はまず,1) 効率的な情報符号化を実現する神経基盤の解明するための理論的枠組みを提案する.提案した理論的枠組は一次視覚野のネットワークモデルに適用し,一次視覚野における再帰型結合が情報符号化効率に及ぼす影響を議論する.次に,2) 脳内においてどのような情報復号化が行われているかを解明するための理論的枠組みを構築する.この理論的枠組は網膜のデータに適用し,簡略化された復号化が行われていると仮定した時の情報量損失を議論する.

2 符号化の観点―側方向結合が情報符号化効率に与える影響―

情報符号化の観点から重要な概念は,脳は刺激情報を最大限保持するように符号化しているという原理である[1].これは情報量最大化原理と呼ばれる.我々は一次視覚野における再帰型の側方向結合が効率的な符号化にどのような影響を与えるのかを調べた.一次視覚野の神経細胞は線分の方位に関する情報を符号化していると考えられているので,線分の方位に関する情報符号化効率を議論する.情報符号化効率の指標としてはFisher 情報量を用いた.我々はまず,スパイクレスポンスモデル又は一般化線形モデルと呼ばれる確率的な神経細胞モデルにおいて,解析的にFisher 情報量を計算する理論的枠組みを構築した[2].この理論的枠組みによって,ネットワークパラメータの網羅的な探索が可能となった.

一次視覚野では,神経細胞の最適方位が近い細胞同士は興奮させ合い,最適方位が遠い細胞同士は抑制し合うという,いわゆるメキシカンハット型結合が存在すると言われている[3, 4].我々はこのような興奮性結合と抑制性結合の結合強度パラメータを変化させた時に,Fisher 情報量がどのように変化するかを解析計算によって調べた.結果を図2A, Cに示す[2].図2A, Cを見ると分かるように,興奮性結合強度が抑制性結合強度より十分強い領域においてFisher 情報量が増大することが分かる(図2C の領域I).この時神経細胞のチューニングカーブの幅(線分の方位に対する反応選択性の幅)は鋭くなる.この領域においては,側方向結合によって生じる神経相関が情報量を下げる方向に働き,チューニングカーブの変化が情報量を上げる方向に働く.チューニングカーブが鋭くなることによる情報量の増大の方が大きいので,結果として情報量が上がる.

先行研究においては,側方向の結合によってチューグカーブを鋭くすることは,必ずFisher 情報量を減少させてしまうということが報告されていた[5].情報量が下がる原因は神経相関が生じることによるものである.我々の研究においても,先行研究で報告されているようなパラメータ領域は存在する(図2C の領域II).しかしながら,我々はチューニングカーブを鋭くすることによるFisher 情報量の減少は常に起こるわけではなく,Fisher 情報量が増加するパラメータ領域が存在するということを示した.実際の一次視覚野における尤もらしい結合強度[3, 4]において,Fisher 情報量が増加するかどうかを調べることは今後の重要な課題である.

3 復号化の観点―脳内情報復号化はどこまで簡略化され得るのか?―

情報復号化の観点から重要な概念は,脳はなるべく単純な復号化を好むであろうということである[6].特に重要な問題は,神経相関が復号化によって無視され得るのか否かという問題である.我々はこの問題を網膜神経節細胞のスパイクデータを解析することで議論した[8].視覚刺激としては自然風景の動画を用いた.スパイク列が刺激の情報をどれだけ持つかは相互情報量Iを用いて定量化した.相互情報量はいわば脳が最適な復号化をしていると仮定した際の情報量と言える.次に,脳が簡略化した復号化,例えば相関を無視した復号化をしていると仮定した際の情報量をMerhav らが導出した情報量I*を用いて定量化した[7] .I* がIに比べて十分大きければ,脳内において簡略化された復号化が行われている可能性があると言えるし,小さければそのような復号化が脳内において行われている可能性が低くなると言える.

我々はまず,網膜神経節細胞集団の活動が独立した時のスパイクパターンの出現頻度と,実際のスパイクパターンの出現頻度とが大きくずれるということを示した(図3(A)).この結果は,網膜神経節細胞集団活動が強い相関を持つことを示す.この結果だけを考えると,神経相関が刺激に関する重要な情報を運ぶのではないかと推測するのは自然である.しかしながら,実際にI* 及びIを計算してみると,相関を無視した復号化を行ったとしても視覚刺激に関する90%以上の情報が読み出せることが分かった(図3(B)).この結果が意味することは,強い神経相関の存在が必ずしも脳内の情報処理における相関の重要性を意味しないということである.今後はより多くの神経細胞の活動を考慮した時にも同様の主張が成り立つかどうかを調べることが重要な課題である.

4 まとめ

本研究で構築した神経ネットワークモデルにおいて情報符号化効率を計算する枠組み,及び簡略化された情報復号化が行われた際の情報量損失を計算する枠組みは一般的な枠組みであり,一次視覚野や網膜に限らず様々な領野に適用することが可能である.本研究で構築した理論的枠組みを様々な領野に適用することで,感覚系の違いによる情報符号化及び情報復号化の相違点や共通点を議論していくことは今後の興味深い研究課題となる.

参考文献[1] Linsker, R., Computer, 105-117, 1988.[2] Oizumi, M., Miura, K., Okada, M., Phys. Rev. E, 81, 051905, 2010.[3] Marino, J., Schummers, J., Lyon, D. C., Schwabe, L., Beck, O., Wiesing, P., Obermayer, K., Sur, M., Nat. Neurosci., 8, 194-201, 2005.[4] Stimberg, M.,Wimmer, K., Martin, R., Schwabe, L., Marino, J., Schummers, J., Lyon, D. C., Sur, M., Obermayer, K., Cereb. Cortex, 19, 2166-2180, 2009.[5] Series, P., Latham, P. E., Pouget, A., Nat. Neurosci., 7, 1129-1135, 2004.[6] Nirenberg, S., Carcieri S. M., Jacobs A. L., Latham P. E., Nature, 411, 698-701, 2001.[7] Merhav, N., Kaplan G., Lapidoth A., Shamai Shitz, S., IEEE Trans. Inform. Theory, 40, 1953-1967, 1994.[8] Oizumi, M., Ishii, T., Ishibashi, K., Hosoya, T., Okada, M., J. Neurosci., 30, 4815-4826, 2010.

図1: 網膜神経節細胞集団の活動の様子.

図2: (A) 興奮性結合及び抑制性結合を変化させた際のFisher 情報量の変化.結合が全くない場合と比べてどれくらい変化したかを%で表示している. (B)チューニングカーブの幅の変化.(C) Fisher 情報量の変化とチューニングカーブの幅の変化によるパラメータ領域のクラス分け.破線上では興奮性入力と抑制性入力が釣り合っている.

図3: (A) 神経細胞の活動が独立だと仮定した時のスパイクパターン頻度(縦軸)と実際に観測されたスパイクパターンの出現頻度(横軸)との大きなずれ.直線は縦軸の値と横軸の値が一致する直線を表す.(B) 神経相関を完全に無視した復号化によって得られる情報量の割合.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなり、第1章は論文全体の導入、第2章は脳内において効率的な情報符号化を実現する神経基盤を解明する理論的枠組み,及び一次視覚野のネットワークモデルの解析、第3章は脳内でどこまで情報復号化が簡略化され得るかを調べる理論的枠組み、及び網膜の実データ解析、第4章は論文全体のまとめと議論について述べられている。第5章は計算の詳細を記した付録である。本論文は脳内情報符号化と復号化の双方の観点から脳内の情報処理機構の理解を目指した研究である。

まず、第2章の内容について述べる。情報符号化の観点から重要な概念は,脳は刺激情報を最大限保持するように符号化しているという原理である。これは情報量最大化原理と呼ばれる。論文提出者はまず、スパイクレスポンスモデル又は一般化線形モデルと呼ばれる確率的な神経細胞モデルにおいて、解析的にFisher 情報量を計算する理論的枠組みを構築した。この理論的枠組みによって、ネットワークパラメータの網羅的な探索が可能となり、一体どのような神経ネットワークによって情報符号化効率の最大化が行われているのかを調べることが可能となった。

論文提出者は上記の理論的枠組みを用いて一次視覚野における再帰型の側方向結合が効率的な符号化にどのような影響を与えるのかを調べた。一次視覚野では、神経細胞の最適方位が近い細胞同士は興奮させ合い、最適方位が遠い細胞同士は抑制し合うという、いわゆるメキシカンハット型結合が存在すると言われている。論文提出者はこのような興奮性結合と抑制性結合の結合強度パラメータを変化させた時に、Fisher 情報量がどのように変化するかを解析計算によって調べた。結果、興奮性結合強度が抑制性結合強度より十分強い領域においてFisher 情報量が増大することが分かった.この時神経細胞のチューニングカーブの幅(線分の方位に対する反応選択性の幅)は鋭くなる。

先行研究においては、側方向の結合によってチューグカーブを鋭くすることは、必ずFisher 情報量を減少させてしまうということが報告されていた。論文提出者の研究においても、先行研究で報告されているようなパラメータ領域は存在する。しかしながら、論文提出者はチューニングカーブを鋭くすることによるFisher 情報量の減少は常に起こるわけではなく、Fisher 情報量が増加するパラメータ領域が存在するということを示した。

次に、第3章の内容について述べる。情報復号化の観点から重要な概念は,脳はなるべく単純な復号化を好むであろうということである。特に重要な問題は、神経相関が復号化によって無視され得るのか否かという問題である。論文提出者はこの問題を網膜神経節細胞のスパイクデータを解析することで議論した。視覚刺激としては自然風景の動画を用いた。スパイク列が刺激の情報をどれだけ持つかは相互情報量Iを用いて定量化した。相互情報量はいわば脳が最適な復号化をしていると仮定した際の情報量と言える。次に、脳が簡略化した復号化、例えば相関を無視した復号化をしていると仮定した際の情報量をMerhav らが導出した情報量I*を用いて定量化した。I* がIに比べて十分大きければ、脳内において簡略化された復号化が行われている可能性があると言えるし、小さければそのような復号化が脳内において行われている可能性が低くなると言える。

論文提出者はまず、網膜神経節細胞集団活動が強い相関を持つことを示した。この結果だけを考えると、神経相関が刺激に関する重要な情報を運ぶのではないかと推測するのは自然である。しかしながら、実際にI* 及びIを計算してみると、相関を無視した復号化を行ったとしても視覚刺激に関する90%以上の情報が読み出せることが分かった。この結果が意味することは、強い神経相関の存在が必ずしも脳内の情報処理における相関の重要性を意味しないということである。

本論文で構築された神経ネットワークモデルにおいて情報符号化効率を計算する枠組み、及び簡略化された情報復号化が行われた際の情報量損失を計算する枠組みは一般的な枠組みであり、一次視覚野や網膜に限らず様々な領野に適用することが可能である。これらの理論的枠組みを様々な領野に適用することで、感覚系の違いによる情報符号化及び情報復号化の相違点や共通点が議論され、脳の情報処理機構の原理が明らかにされていくことが期待される。本論文はその先駆的研究として重要な研究と考えられる。

なお、本論文第2章は、三浦佳二、岡田真人との共同研究であり、本論文第3章は、石井俊行、石橋和也、細谷俊彦、岡田真人との共同研究であるが、双方とも、論文提出者が主体となって研究計画、解析、論文の執筆を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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