学位論文要旨



No 126455
著者(漢字) 橋本,一径
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,カズミチ
標題(和) 指紋論 痕跡と登録 : 1880年から現代
標題(洋)
報告番号 126455
報告番号 甲26455
学位授与日 2010.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1018号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 中島,隆博
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 教授 田中,純
 東京外国語大学 教授 西谷,修
 立命館大学 教授 渡辺,公三
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、指紋の歴史を、「登録」と「痕跡」の二面性に着目しながら記述することである。警察や行政による身元確認のために「登録」され得るものでありながら、指先があちこちに残す「痕跡」でもあるという二面性は、DNAなどには見られない、指紋だけが持つ奇妙な特質である。本論文は、まったく別々の文脈に属するこの二つの特性が、指紋において半ば偶然的に結びつくまでの過程と、その帰結を描き出すことを目指す。

これまでの指紋の歴史研究は、指紋の「登録」としての側面が強調されるあまり、「痕跡」としての指紋には、十分な注意が払われてこなかった。本論文は、こうした不足を補うために、近年における写真研究の動向を取り入れながら、指紋の歴史を叙述することを試みる。本論文の第一章が、「心霊指紋」から書き始められる必要があったのもこのためである。一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて欧米を席捲した心霊主義運動の中で実践された、霊媒による「指紋作成現象」という、限りなくいかがわしい実践が、心霊写真の試みと比較されることによって、「幽霊の身元を確認する」という、中世ヨーロッパにおいてすでに問題となっていた、普遍的とも言える必要性に応えるものであったことが確認されるだろう。また写真から指紋へというその手段の移り変わりによって、身元確認における争点がいかなる変化を遂げたのかを素描することで、論文全体にとっての問題の在り処を浮かび上がらせることにもなるはずだ。

同様の観点から、第二章において取り上げられるのは、死者の身元確認という問題である。身元不明の遺体の名を特定するという、やはり古くから人類が直面してきた普遍的な問題は、一九世紀におけるテクノロジーの進展とともに、蒸気船や鉄道の事故による大量死という、これまでになかった事態に遭遇することになる。本章では、難破や火災の具体的な現場に立ち返りながら、死者の身元確認が、家族や知人の証言から、写真を経由して、やがて法医学者による骨や歯の鑑定によってなされるものとなっていく過程がたどり直されるだろう。

第三章では、累犯者の身元確認という、一九世紀のヨーロッパ、とりわけフランスに特有の問題が再検討される。同じ罪でも累犯者にはより重い刑罰を科すという、累犯加重の原則が徹底されたのに伴い、警察が直面することになったのは、身元を偽ることで過去の罪を隠そうとする犯罪者たちの存在だった。そこで問題となるのは、過去の犯罪記録をアーカイヴ化することと、犯罪者の身体からその記録に到達する手段を確立することである。それは記録と身体の同一性という、新たな同一性――「司法的同一性(identite judiciaire)」――の出現を意味した。ベルティヨンが人体測定法によって、この問題に対する最初の解答を提示してから、やがてそれが指紋法によって取って代られるまでが、たどり直されることになる。つまりそれは「登録」としての指紋の歴史である。

これに対し第四章で扱われるのは、「痕跡」としての指紋の歴史である。これまでの指紋の歴史研究の欠落を埋めることを目指した本章は、この論文の最も重要な成果と言って差し支えない部分である。「痕跡」と「登録」という指紋の二面性は、これまではヘンリー・フォールズとウィリアム・J・ハーシェルという、二人の指紋研究者の確執においてのみ捉えられてきた。本章は「痕跡」としての指紋を、こうした図式から脱却させ、ルネ・フォルジョによる、潜在的な指紋を浮かび上がらせる技術の発明が、フランスの法医学の伝統においてこそ可能となったものであることを明らかにする。その上で本章は、指紋という痕跡が、足跡などの伝統的な痕跡とは異質なものであることを、痕跡と推理の関係に着目しながら確認する。

痕跡の問題を経ることで、本論文が最終的に到達しようとするのは、主観性と権力の問題である。最終章となる第五章では、指紋を採られることの忌避を手掛かりに、この問題に取り組むことを目指す。指紋の採取が全市民に拡大されようとしたとき、警察や行政が直面したのは、市民の側からの頑なな拒絶だった。こうした拒絶は、今日においてもなお、形を変えて存続しているものである。ではなぜ私たちの多くは、指紋を採られることに嫌悪を感じるのだろうか。本研究は、権力の強制的な行使と、それに対する抵抗という図式に還元されてきたこのような嫌悪の中に、アイデンティティにまつわるより根本的な不安を読み取る。その不安が、自分のアイデンティティを自分では証明できないことに由来するのを確認した上で、本章は、パスポートの交付という具体的な場面に生じた変化を通じて、国家と主体がアイデンティティをめぐって取り結んでいる、ある種の共犯関係を浮かび上がらせることを試みる。

審査要旨 要旨を表示する

橋本一径氏の博士論文「指紋論――痕跡と登録:1880年から現代」は、指紋を通じて、19世紀末から現代に至る「身元確認」(アイデンティフィケーション)の問題系を扱った論考である。

序においてこの研究の世界的な背景を確認し、IDカードやパスポートに代表される「身元確認」の問題系が、従来の「同一性」(アイデンティティ)を権力関係の中で捉え直す可能性があると指摘する一方、主観的な「同一化」すなわち主体が権力を介して「同一性」を欲望する機制にも注目することを述べる。

第一章「幽霊の身元確認」では、幽霊たちの身元確認を例に挙げて、心霊写真から指紋に取って代わられる歴史が辿られた。心霊写真には、証言によってその「身元確認」が補強されなければならないという原理的な不確実さがあったのに対し、幽霊指紋は証言を当てにせず「身元確認」を可能にすると期待されたのである。それは、指紋が切り開いた新たな「身元確認」の方法を利用したものであった。

第二章「死者の身元確認」では、指紋による「身元確認」が登場する以前の「身元確認」の歴史が詳述される。その中心はモルグ(死体公示所)で、身元不明の遺体を公開し、近親者や友人の証言を募っていた。しかしそこでも、1880年代になると、法医学者による骨や歯の身元鑑定に移行し、証言からの脱却が図られた。

そして、身元鑑定における証言からの脱却が一つの頂点を迎えたのが、司法的同一性の出現であり、それを支えた指紋法であった。第三章「累犯者の身元確認」では、フランスにおいて身元を偽る犯罪者の「身元確認」のために登場した司法記録すなわち司法的同一性が論じられる。この司法的同一性に大きく寄与したのが、1870年代末にパリ警視庁において、増え続ける犯罪者の身元写真の分類のために人体を測定した数値を導入したアルフォンス・ベルティヨンであった。それに対し、フランシス・ゴルトンは人体測定法だけでは不十分であり、指紋法を補助として用いるべきとの主張を1890年頃に行っていた。ところが、指紋法は人体測定法の補助にとどまらず、19世紀末から20世紀初頭にかけて、逆に人体測定法を無用のものとしてゆく。なぜなら、指紋法には司法記録への「登録」にとどまらない、犯罪現場に残された「痕跡」としての機能があったからである。

この「痕跡」としての指紋を論じたのが、第四章「痕跡の身元確認」である。司法的同一性の「登録」に有効な指紋法の陰に隠れていた、「痕跡」としての指紋の活用に新境地を開いたのは、法医学者のルネ・フォルジョである。彼は潜在指紋を薬剤で浮かび上がらせることに成功したが、その背景にはリヨン大学法医学研究所に代表されるフランス法医学の伝統があった。この指摘は本論考の中でも出色のものであり、学界への貢献が最も認められる。

第五章「市民の身元確認」においては、パスポートを例にとって、主観性と権力の問題が論じられる。すでに指紋法による、より厳密な「身元確認」があるにもかかわらず、なぜパスポートには写真が用いられるのか。それは、市民が指紋を採取されることを、抑圧的な権力に対する抵抗として忌避するからというわけではない。より重要なことは、自分の同一性を自分で証明できないという根本的な不安を、近代の市民が有しており、それを取り除くために、国家と主体が共犯関係を取り結ぶからである。すなわち、主観性の側が「身元確認」のために国家を欲望している。これが本論考の理論的な到達点であり、最もプロブレマティークな箇所でもある。

そして、権力による管理よりも、主観性の側が権力を欲望することが、より恐るべきことであるとして、この論考は結ばれる。

審査委員からは、まず本論全体に対して、資料を渉猟した労作であり、読ませる文体であり、明晰で批判的な論述になっているとの評価がなされた。その一方で、メタ・レベルでの分析的叙述が最小限に抑えられているために、様々なアネクドートが記述されている印象を与えるとの指摘もなされたが、それもまた橋本氏が意識的に採用したパフォーマティブな「方法」であり、資料をして語らしめる歴史叙述として成功していると思われる。

各論の重要な論点は、副題でもある「痕跡」と「登録」の関係と、本論文の柱でもある権力と主体(主観性)の関係、そして「身元確認」の思想史的意義であった。

まず、「痕跡」としての指紋について、指紋と足跡の差異は明瞭ではなく、指紋においても足跡と同様の推理が働いているのではないか、と問われた。それに対しては、指紋においては職人的推理が不要になったとは言えるが、推理がなくなったわけではないと認めた上で、しかし、痕跡としての指紋は「似たもの」から「母型」を構成するのではなく、「同一のもの」を構成する点で、足跡とは区別されるとの説明があり了承された。

では、そうした「痕跡」としての指紋は「登録」とどのような関係にあるのか。審査委員からは、「登録」の背景にある論理と、「痕跡」の背景にある論理の構造の違いが問われた。それに対しては、「登録」によって成り立つ司法的同一性が、人を個体としての身体として捉えた上で、それを記録に結びつけて把握するという極めて独特の近代的な機制であるのに対し、「痕跡」の背景にある論理は、確率的に把握された同一性であるとの説明があり了承された。

次に、権力と主体(主観性)の関係については、なぜ国家が個体を識別し登録し管理したいのかを正面から論じるべきではなかったか、という指摘があった。それに対しては、主観性が欲望する権力の問題に接近するのが本論文の眼目であり、議論が管理社会論に陥ることを避ける必要があったことが強調された。

最後に、「身元確認」の思想史的意義について、審査委員から、近代国家においては、人が自分の「身元確認」の主体から下ろされ、国家という審級において「身元確認」されることでしか生きられなくなることから、自らのアイデンティティを国家を通じて欲望するようになる機制を論じるべきであるとの見解が出された。これは、本論考の目指したところからすると望蜀であるが、今後の研究課題とすべきテーマである。

とはいえ、こうした審査委員の指摘は、本論文が提示した「身元確認」をめぐる豊かな歴史像に刺激されてのものである。いくつかの課題を残したものの、本論文が「身元確認」の思想史のみならず、指紋をめぐるイメージ研究あるいは表象文化史に大きく寄与した優れた学術的業績である点については、審査委員全員の間で意見の一致を見た。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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