学位論文要旨



No 126456
著者(漢字) 泉,美知子
著者(英字)
著者(カナ) イズミ,ミチコ
標題(和) 文化遺産としての中世 : フランス第三共和政期の知・制度・感性に見る過去の保存
標題(洋)
報告番号 126456
報告番号 甲26456
学位授与日 2010.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1019号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三浦,篤
 東京大学 教授 石井,洋二郎
 東京大学 准教授 寺田,寅彦
 東京大学 教授 木下,直之
 名古屋大学 教授 木俣,元一
内容要旨 要旨を表示する

本論は「文化遺産」を革命後に誕生し、その後形成されたひとつの"思想"として捉え、現代社会では自明となっているこの思想がどのような歴史を持ち、どのように発展してきたのかについて考察したものである。この大きな問題を検討するにあたり、「中世」というもうひとつの主題を導入した。主題としての中世は、野蛮な様式として蔑視されたゴシック、啓蒙思想が迷信であると批判したキリスト教カトリックという二つの問題を含んでいる。つまり、ゴシックは19世紀において芸術の再評価の問題を、キリスト教カトリックは集団的アイデンティティの問題を提起することになる。かつて暗黒の時代と見なされた過去を、新たな眼差しで取り戻そうとする過程そのものが、文化遺産の思想形成と深く関わっていることを明らかにしようとした。

序論では、こうした問題提起や、本論の前提となる研究領域を明らかにし、先行研究の歩みを概観する。文化遺産という主題は、フランスでは1980年代以降活発に議論される対象となった。従来の研究は、保護政策の黎明期である1830年代から、ヴィオレ=ル=デュックが活躍した第二帝政期を焦点として蓄積されてきた。本論はそれらの成果を踏まえながら第三共和政、主に1880年前後から第一次世界大戦直前の1913年を分析対象としている。その時代設定は二つの法律の存在に基づくものであり、フランス文化財保護の歴史で言うなら、1887年の法から1913年の改正法の時期にあたる。本論は二つの学問領域――美術制度研究と文学研究――から文化遺産という思想が形成される場を見出し、知・制度・感性という三つの柱を立てることによって総合的な検証を行った。この領域横断的な研究方法によって、「文化遺産」という思想の全体像を捉え、様々な対立を乗り越えながら形成されたその思想のダイナミズムを描き出すことを目指した。

第I部では、19世紀末における二つの美術館コレクションと、それを構想した二人の美術史言説を分析し、長い間見過ごされてきた中世芸術に国民芸術の起源という権威を与え、復権させようとした試みを考察する。第1章の比較彫刻美術館は、19世紀の数々の修復事業に携わり、その経験をもとに中世建築の理論、歴史に関する著作を残した建築家ヴィオレ=ル=デュックが晩年に構想した美術館である。完成を待たずしてこの世を去るが、後継者たちの努力によって1882年に一般公開される。その計画は、中世フランス彫刻を古代ギリシア彫刻との比較という視点のもとで展示することによって、両者の類似性を浮き彫りにしようとする試みであった。この建築家の美術史観を著作や雑誌論文を通して明らかにしながら、美術館コレクションに込められた中世芸術の再評価のための戦略について分析する。

第2章では、ルーヴル美術館学芸員ルイ・クーラジョが1882年に取り組んだ中世・ルネサンス彫刻部門の展示室拡張計画に光をあてる。この美術館の19世紀における中世コレクションの形成過程を通して、学芸員とアカデミー勢力が対峙する歴史を振り返る。蒐集活動で手腕を発揮したクーラジョは、1887年からルーヴル美術学校で講義を受け持つようになる。起源という主題を掲げたその講義のなかで、中世フランスは古代ギリシアの子孫であり、ルネサンスの母として、西欧美術史の大きな流れのなかに位置づけられる。彼の過剰なまでの愛国的な言説は、中世芸術およびルネサンス芸術をフランス精髄の独自な芸術的表出として称揚するものであった。国民芸術の起源を探求するクーラジョの考察は、アカデミーの美学理論に代わる芸術評価の新たな制度、つまり美術史学という学問の成立へと結びついてゆくことになる。ヴィオレ=ル=デュックやクーラジョは、中世という時代が古代に劣らない芸術の源泉、近代が学ぶべき芸術創造の豊かな時代であることを主張した。彼らの言説が、文化遺産の歴史的・芸術的価値を創出し、文化財保護政策の発展と密接に関わっていたことを論じる。

第II部では、19世紀における美術史学と文化財保護の制度化の問題を扱う。第3章では、中世芸術への歴史的、考古学的関心の高まりとともに、古代ギリシア・ローマだけでなく中世教育の設置を求める声に、フランスの美術行政がどのように対応したのかを見てゆく。1863年の教育制度改革におけるメリメやヴィオレ=ル=デュックの改革派と美術アカデミーとの激しい衝突を経て、19世紀末に中世芸術講座が高等教育機関で設置されるようになるまでを追いながら、第三共和政における中世美術史学の制度化への動きを確認する。

第4章では、19世紀フランスの文化財保護制度の成立を明らかにする。1830年から始動する歴史的記念物行政の組織作りや、指定作業と修復事業という保存活動を通して、19世紀の政策の特質を浮き彫りにする。当時のヴァンダリスムの状況、さらに他の建築行政との対立関係から、どのような問題を抱えていたのかについて考察し、1887年の保護法が必要とされた背景を探ってゆく。

第5章では、ソルボンヌ大学でのキリスト教芸術講座を開始させたエミール・マールを取り上げる。マールのキリスト教図像学が、19世紀の中世芸術研究の傾向に対する批判から創始されたものであることを指摘し、19世紀が生み出したゴシック観の修正への取り組みであったことを明らかにする。また、従来の中世研究に新たな視点を導入しようとしたマールの研究が、世紀転換期の社会的・文化的背景においてどのような意味があったのかを問いながら、中世芸術にフランス・アイデンティティの栄光を重ねる中世美術史学の言説の歴史性について考察する。第三共和政が、過去の遺産に対する国家の責任を1887年法によって定めるだけでなく、その研究及び教育システムの形成を連動させながら、総合的な保護体制の確立を目指していたことを論じる。

文化遺産の思想が豊かな発展を遂げるには、時代の感性を代弁する作家たちの声が必要であった。20世紀初頭の政教分離政策によって引き起こされる新たなヴァンダリスムと闘ったのは作家たちであり、彼らは美術史家や行政官とは異なる視点から遺産の価値を見出してゆく。第III部では、作家たちの議論によって、文化遺産の思想が美学的・感情的な領域を獲得し、一部の専門家にとっての問題ではなく、国民全体の問題として広がりを見せてゆくことを明らかにする。

第6章では、宗教的コンテクストの再評価について、ユイスマンスの文学作品とプルーストの論考を通して考察する。19世紀にゴシック建築の復活に影響を与えたシャトーブリアンとユゴーの文学作品を踏まえながら、大聖堂を小説の主題にした作家の眼差しの特徴を捉える。そしてユイスマンスの関心を、1880年代から始まる脱宗教化政策の状況、19世紀の中世考古学の物質主義的傾向という問題領域のなかで分析することによって、この作家の言説が文化遺産の主題においてどのような歴史的な意味をもっていたのかについて検討する。さらにプルーストが政教分離法案に異議を唱えた文章のなかで、大聖堂の礼拝機能の重要性を訴えていたことに注目する。遺産の宗教的コンテクストを守ることの意義が、信仰の有無を越えて、プルーストによってどのように再発見されたのかについて考察する。政教分離へと向かうフランスにおいて、二人の作家の言説が、宗教建築を生み出したキリスト教の精神を軽視し、時には否定してきた19世紀の知と制度のあり方に対する異議申し立てであったことを明らかにする。

第7章では、愛好家たちのアンチ修復論とアンチ美術館論を取り上げ、過去の遺産を歴史的資料としてだけでなく、美的感性に訴えかけるものとして捉える彼らの眼差しについて考察する。世紀末には、英国から移入されたラスキン思想の影響を受けて、ヴィオレ=ル=デュックへの批判が噴出する。愛好家たちは時の経過が刻まれた石の美しさを評価し、ある時代を特権化するのではなく、重ねられてゆく記憶の痕跡を尊重するようになる。古い石の摩滅が、建造物の生命として語られ、保存活動において見過ごすことのできない要素となることを明らかにしてゆく。さらに遺産の生命を語るうえで重要となるもうひとつの主題が、土地との絆である。旅をする愛好家たちにとって、本来の場所に根を下ろす作品が何より魅力的なものとなる。作品と土地との結びつきを、審美的な関心ばかりではなく、現在に生きる自己のアイデンティティの問題にまで広げる作家の考察のなかで、美術館の再考が促されることになる。こうした愛好家の眼差しが、19世紀の保存理念の修正を迫るものであったことを確認する。

第8章では、1905年の政教分離法によって発生したヴァンダリスムと、村の教会堂を守るバレスの活動について考察する。政教分離法は礼拝用建造物の管理に大きな混乱を引き起こすことになり、その犠牲となったのは芸術的価値を持たない村の教会堂であった。見捨てられた「我々の教会堂」を救うために立ち上がったバレスの三度に渡る国会での演説を通して、政教分離後における教会堂の存在意義がどのように語られたのかについて考察する。バレスにとって、村の教会堂は芸術創造の源泉というよりもむしろ精神生活の源であった。魂の形成に関わり、教育的な役割を果たす教会堂を保護すべきは、国家の責任であることが主張される。このバレスの訴えは、党派や信仰の違いを超越して多くの賛同を得ることになった。彼の要求の全てが制度上で実現するには至らなかったが、その議論の成果は歴史的記念物基金の設立に結びついてゆく。さらに世紀転換期における過去の遺産をめぐる様々な議論が、1887年法の問題点を掘り起こし、1913年の法改正を後押しすることになった。

以上の考察を通して、フランスにおける文化遺産の思想は大革命、政教分離という文化的危機を乗り越えた末に獲得されたものであることを論じた。その歩みはまさに闘いの歴史である。19世紀末から20世紀初頭の世紀転換期が、フランス文化財保護体制の「確立」の時代であったこと、また、思想としての文化遺産が政治イデオロギーや信仰を越えて共有される時代に入ったことを指摘し、結論とした。

審査要旨 要旨を表示する

泉美知子の博士学位請求論文、「文化遺産としての中世――フランス第三共和政期の知・制度・感性に見る過去の保存」は、19世紀後半から20世紀初頭のフランスにおける中世美術復興という重要な動向を、文化財保護思想の形成という観点から歴史的に解明した独創性あふれる学問的達成である。

本研究が対象とする近代フランスにおける中世美術再評価については、美術史、歴史学、文学などの領域で個別研究はあるものの、その潮流はすべてに目配りし、欠落部分を埋めた総合的な研究は、本国のフランスにおいてすらこれまで皆無であった。当該テーマに関するきわめて有用な全体の見取り図を作り上げた功績は高く評価される。そうした総合性に加えて、本研究が優れている点はその学際性である。著者は文学研究を出発点としながらも、美術史研究の成果を幅広く取り入れ、さらには歴史関係の資料も渉猟するなどして、真に複数領域を横断する学際研究を成し遂げた。その視野の広さと方法論的な実践に対しては、惜しみない称賛の言葉を送りたい。調査研究の過程では、先行研究をくまなく把握した上で可能な限り原資料、古文献に当たり、美術館、美術学校、美術史言説、美術行政、文化財保護法、美術史の学問制度、文学テクスト、愛好家の保存論など、多領域から発する論点の総合関係性を整理し直し、独自の論を構築している。最終的には、文化遺産の思想形成を、第三共和制期のナショナリズムと政教分離という歴史的文脈の中で分析し、見事に跡づけている。

本論文は本文と別冊の2分冊から成る。本文は3部構成で全8章、および序論と結論が加わる。別冊の方には人物リスト、図版、年表、他の図表、並びに図版リストと文献リストが掲載されている。以下、論文の構成に即して議論を紹介し、審査委員からの指摘を記しておく。

序論において、著者は本研究の問題意識を明確に提示する。現代的課題とも言える文化遺産保護の考え方は、フランス革命時の破壊から文化財を守る行為に端を発し、19世紀における「歴史的記念物」概念の出現とともに発展した。筆者は1880年前後から第一次世界大戦前のフランスにおいて、中世美術復興をめぐって形成された文化遺産の思想を、知と制度と感性の三つの側面から検討することを目標に掲げる。

第1部では、前史として、フランス記念物博物館とクリュニー美術館という中世の美術品を所蔵したふたつの期間について言及した後、第1章で比較彫刻美術館について詳述する。建築家ヴィオレ=ル=デュックの構想が1882年に実現したこの美術館は、中世フランス彫刻を古代ギリシア彫刻と比較展示することで両者の類似性を浮き彫りにする試みを行い、ギリシア美術、イタリア美術を絶対視する美術アカデミーの価値観を相対化し、フランス中世美術の価値を認めさせようとする企てであった。第2章では、ルーヴル美術館中世・ルネサンス彫刻部門について、学芸員ルイ・クラージョが取り組んだ1882年の展示室拡張計画と、1887年からルーヴル美術学校で彼が受け持った講義が論じられ、古代ギリシアとルネサンスの間にフランス中世芸術を位置づける愛国主義的な考え方が分析された。こうしてヴィオレ=ル=デュックとクラージョが中世美術の称揚を通じて文化遺産の歴史的・芸術的価値を創出し、文化財保護政策の発展と密接に関わった経緯が説得的に記述されている。なお審査員からは、前史の部分の充実を図ることが可能だとの指摘があった。

第2部では、美術行政が対象となり、美術史学と文化財保護の制度化が扱われた。第3章は、中世芸術への歴史的、考古学的関心の高まりとともに、19世紀末に中世芸術講座が高等教育機関で設置されるようになる経緯を追い、第4章は、政治と法律の側面から問題にアプローチし、画期となる1887年の文化財保護法制定のプロセスが丁寧に跡づけられた。第5章では、ソルボンヌ大学でキリスト教芸術講座を創始したエミール・マールの図像学が、19世紀のゴシック観を修正しつつ中世芸術に国民的アイデンティティを重ね合わせるものであり、第三共和制の文化財保護政策と通底する研究教育制度の確立を意味したことが示された。審査員からは、美術行政と並んで美術品市場の問題も看過すべきではないとの意見があった。

第3部は、文学者の言説に着目して、文化財保護の概念や制度への批判的な立場を検討した。論文の中で最も力のこもった部分である。第6章では、ユイスマンスの文学作品とプルーストの文章を通して、文化遺産をめぐる宗教的コンテクストの再評価と政教分離法案への異議申し立てについて考察している。第7章は保存の美学を論じ、愛好家たちの反修復論と反美術館論を取り上げて、美的な感性と土地との絆という視点が、19世紀の保存理念の修正を迫るものであったことが確認された。最後の第8章は、1905年の政教分離法によって見捨てられた村の教会堂を守るバレスの活動について焦点を合わせ、精神生活の源泉としての教会堂を国家が守るべきというその議論が、1913年に歴史的記念物法の改正を促すことになった経緯を再構成している。審査員からは、文学テクストの分析がもう少しほしいとの要望が出された。

結論では、第3共和制期における文化遺産の思想形成を、知と制度の確立と感性の発展を軸に分析した結果が要約され、ゴシック蔑視の古典的美術観や脱宗教化政策との闘いの意義が確認された。最後に、1914年のドイツ軍によるランス大聖堂の爆撃破壊に対する激しい国民的反応にひとつの歴史の帰結を見て、論文は終幕を迎える。

全般的には、1900年前後の期間を主たる対象として、中世美術復興という現象を文化遺産保護の問題と重ね合わせ、その思想確立の歴史的な道筋を、力業とも形容すべき学際的方法によって適確に論証した功績を高く評価する点で、審査員全員の判断は一致した。豊かな発展性を秘めた各論もそれぞれに興味深く、専門性を帯びつつも明快で読みやすい文体も好ましいと判断された。第2部がやや薄いこと、個別問題において不用意な断定や適切でない言葉使いが散見するとの指摘もあったが、それらは瑕疵に過ぎず、本論文の学問的寄与を大きく損ねるものではないことが確認された。

以上の審査の後、審査員全員による協議の結果、全員一致で本審査委員会は、泉美知子の提出論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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