学位論文要旨



No 126459
著者(漢字) 倉田,明子
著者(英字)
著者(カナ) クラタ,アキコ
標題(和) 19世紀南中国におけるプロテスタント布教の発展と「開港場知識人」の誕生 : 洪仁と『資政新篇』の位置づけをめぐって
標題(洋)
報告番号 126459
報告番号 甲26459
学位授与日 2010.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1022号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 教授 遠藤,泰生
 東京大学 准教授 谷垣,真理子
 東京大学 准教授 吉澤,誠一郎
 国際基督教大学 教授 菊池,秀明
 亜細亜大学 教授 容,應萸
内容要旨 要旨を表示する

本稿はアヘン戦争後に現れた新たな開港場、特に発展の度合いが高かった上海と香港に注目し、そこで展開されたキリスト教(プロテスタント派)布教の影響下に誕生した新しいタイプの中国人知識人層の様相を、洪仁干という人物を軸に描こうとするものである。

本稿では、4つの課題を設定した。第一は、まだ未開拓の部分が多く残されている初期(1807年~1860年前後)の中国プロテスタント史の再構成で、個々の宣教師や伝道会の活動を可能な限り俯瞰的にとらえてゆくと同時に、宣教師たちのもとで信徒や助手として布教活動を支えた中国人たちにも目を向けることを試みた。次にキリスト教との関わりを視野に入れた洪仁干像の再構築を課題とした。洪仁干は太平天国運動に1859年になって合流し、その後政治指導者となった人物だが、彼とキリスト教との関係についての研究はあまり進んでいない。本稿ではキリスト教徒としての洪仁干の姿を明らかにし、その上で南京合流後の洪仁干とその代表的著作である『資政新篇』について再検討を加えている。そして第3の課題は、「開港場知識人」の誕生と台頭の跡づけである。洪仁干と同じように1850年代前後の香港・上海で宣教師の影響下に西洋知識を得た知識人は少なくなかったが、本稿では彼らを「開港場知識人」としてとらえ、その誕生と、洋務運動や香港の中国人社会を含むさまざまな場において見られた開港場知識人たちの台頭を跡づけようとした。その上で、第4の課題として近代化の流れにおける洪仁干の位置づけの再検討を挙げている。第2点、第3点の課題についての検討を踏まえ、19世紀初頭以来多方面で展開されてきた欧米との交流とそこから洋務運動へとつながる流れの中で開港場知識人が果たしてきた役割を検討しつつ、そこに洪仁干をも位置づけることを試みた。

本論は7章から構成される。

第1章においては、プロテスタント布教が開始された1807年から南京条約締結までの時期のプロテスタント史を概観した。南京条約によって開港場が開かれる以前のこの時期の宣教師たちにとって、中国内地での活動場所はわずかに広州のみであった。その広州とポルトガル領マカオで限定的ながら展開されていた布教活動を中心に、また、同時進行的に東南アジアに拠点を置きつつ進められていた本格的な中国内地布教に向けた動きにも目を配りながら、草創期の中国プロテスタント史について俯瞰してゆくことを試みた。

第2章では本稿で中心的に扱う2つの開港場、香港と上海についてとりあげ、開港後の両地でのプロテスタント布教の状況を概観した。また併せてプロテスタント・キリスト教と密接な関わりを持った太平天国運動についても、キリスト教史の側から見て従来の太平天国史研究を補足できると思われるいくつかのトピックをとりあげて論じた。

次に、第3章では洪仁干とキリスト教の関わりをテーマに、主に洪仁干について述べている。洪仁干のキリスト教受容の過程や、最初の南京行きの試み、ロンドン伝道会の助手としての生活などについて、バーゼル伝道会及びロンドン伝道会の史料を用いながら明らかにしようと試みた。また、ロンドン伝道会と洪仁干の関わりについても、筆者の修士論文の成果をさらに補足しつつ研究を深め、さらに李正高や王韜など洪仁干と親交があった信徒にも光を当てた。

第4章では、ロンドン伝道会の香港支部である英華書院と上海支部である墨海書館において1850年代に隆盛した出版事業に注目し、そこで展開された西洋の知識の伝播と開港場知識人の誕生について述べている。特に、洪仁干にとっても西洋知識に関する情報源として有用だったと思われる2つの月刊紙、香港の『遐邇貫珍』と上海の『六合叢談』をとりあげ、そこに掲載された記事の執筆者や協力者に焦点を当てることによって、英華書院や墨海書館に集った「開港場知識人」たちの姿を明らかにすることを試みた。また、1850年代後半に宣教師と中国人知識人とが協力して西洋の科学書の翻訳に尽力しており、そうした翻訳事業についても併せて言及した。とりわけ、墨海書館において長らく聖書・宗教書・科学書の翻訳や執筆で活躍した王韜にも注目している。

第5章では洪仁干の代表的著作とされ、従来から太平天国の近代化綱領として高い評価を得てきた『資政新篇』をとりあげる。『資政新篇』執筆から間もない時期に宣教師によって書かれた英語の紹介文をもとにその刊行過程を追いながら、洪仁干のキリスト教及び西洋知識の受容のあり方を検討し、また、『資政新篇』の内容に関する分析も行い、そこに反映された洪仁干の知識の淵源を探った。

第6章では南京に到着し「干王」となった洪仁干と宣教師との交流を軸に、1860年から1862年にかけての太平天国をめぐる情勢の変化について概観した。1860年は、太平天国が再び江南で勢力を拡大した年であるとともに、干王洪仁干の出現によって太平天国と宣教師との交流が密になった年でもあり、他方、年末には第2次アヘン戦争が終結し、天津条約が結ばれた年でもある。それから1862年の初めに太平天国と西洋諸国との関係の悪化が決定的となるまでの間に、洪仁干に対する宣教師を含む西洋人の見方は大きく変容していった。本章では、洪仁干との交流や交渉に関する報告や筆記、英字新聞の論評なども参照しながら、西洋人の目に映る太平天国像、洪仁干像の変遷を明らかにしようとした。

第7章では洪仁干と同時代を生きた開港場知識人に再び焦点をあてている。まず、太平天国と直接接触した数少ない開港場知識人の1人として王韜に注目し、キリスト教と距離の近かった開港場知識人の太平天国認識について検討した。さらに、太平天国後、清朝の洋務派官僚の幕僚として洋務運動の推進に当たった開港場知識人や、香港の中国人社会でエリートとして頭角を現した開港場知識人をとりあげ、その足跡をたどった。また1870年代に再び隆盛した宣教師による西洋知識の伝播にも注目し、洋務運動との関わりの中で論じている。

以上の考察を踏まえ、終章では結論として以下の3点について論じた。

まず中国における初期プロテスタント史に関して、宣教師の中国に対する態度、また科学知識の伝播に対する態度に関連して、例えば「用語論争」をきっかけに宣教師の側も中国の伝統的な思想や歴史に向き合い、理解を深めてゆく必要に目ざめていったことや、中国人知識人の数学のレベルの高さを認識したことが、西洋の科学書の翻訳が活発化する直接的な引き金となったことなどを指摘し、宣教師と中国人知識人とがどちらか一方的にではなく、互いに相手の文化や学術を学ぼうとする一面もあったことを指摘した。また太平天国とキリスト教との接点に関連して、1830年代初頭の梁発による比較的自由な「中国人による中国人への」布教活動が、『勧世良言』の完成と配付活動に結びついていたことや、1840年代にやはり「中国人による中国人への」布教を目標とした福漢会の活動が広西にまで及び、醸成期の太平天国運動への参加者を生んでいたことから、太平天国とキリスト教の関係を考える上では、宣教師以上に彼らのもとにいた中国人信徒の働きが大きかったことを指摘している。

次に洪仁干と開港場知識人について論じた。洪仁干については、キリスト教に対する積極的な態度がかなり早い段階から見えていたこと、また信徒となってからも宣教師から高い評価受けていたことを指摘したうえで、香港や上海で西洋知識に触れ、それを熱心に吸収しようとしていた洪仁干を「開港場知識人」の中に位置づけることを試みた。「開港場知識人」の類型としては、筆者は、伝統的な中国式の教育を受けていたのか、あるいは西洋式の教育を受けていたのかという点と、キリスト教を受容したか否かという点を指標に、4つのタイプを提示している。中国式の教育を受け、キリスト教を受容したタイプに洪仁干は入るが、このタイプの知識人は、儒教的価値観も保持しつつ、よりすぐれた教え、道徳としてキリスト教を受容としていたことを指摘している。これは中国式の教育を受け、儒教的価値観を持つ、キリスト教を受容しなかった知識人たちが、キリスト教を儒教と対立するものと考え、退けたのとは対照的であった。一方、西洋式の教育を受けた知識人たちの場合、キリスト教の受容の有無は上記の伝統的教育を受けた知識人たちのような葛藤を生じさせる問題ではなかったことも指摘している。そして、これらの知識人たちが洋務官僚の幕僚や香港の中国人社会におけるエリート層、あるいはジャーナリスト、キリスト教の伝道者など、さまざまな場面で活躍していったことを指摘した。

最後に洪仁干と太平天国の位置づけについて論じている。『資政新篇』に見られる洪仁干の改革方案は非常にキリスト教色の強いものであったが、これは宣教師がキリスト教と結びつけた形で西洋知識を伝え、キリスト教の伝道者であった洪仁干も、彼自身のキリスト教信仰に基づいてこれらの知識を受け止めたからであって、この書物は、キリスト教と西洋の先進知識との強い結びつきをそのままに、それらを改革の理想として描き出したものであったことを指摘した。これはキリスト教とは一線を画した知識人たちの姿勢とは根本的に異なるものであったが、儒教に匹敵する価値をキリスト教に認めない士大夫層が支配する清朝においては、洪仁干が提唱したようなキリスト教色の濃い改革方案が受けいれられる余地はなかったのであり、まがりなりにも「キリスト教」の影響下に成立した太平天国だったからこそ、そして洪仁干が著者であったからこそ、『資政新篇』は世に出ることができたと考えられる。すなわち、太平天国-洪仁干-キリスト教という3者のつながりの上に、『資政新篇』というキリスト教に根ざした「近代化」の試みは誕生したのである。

審査要旨 要旨を表示する

倉田明子氏の学位請求論文「19世紀南中国におけるプロテスタント布教の発展と「開港場知識人」の誕生──洪仁干と『資政新篇』の位置づけをめぐって」は,1840年代から1860年代にかけて香港と上海で展開したキリスト教(プロテスタント)布教の様態に着目し,この時期,南中国におけるキリスト教布教の結果形成された新しいタイプの知識人の活動や思想を,洪仁干という人物を軸にして描き出そうと試みたものである。

論文は,序章と本論7章,および終章からなり,巻末に別表2種(6頁),参考史料・参考文献一覧(11頁),および人物関係図(1枚)を収める。本文はA4版で全188頁あり,字数は約27万字(原稿用紙400字詰めに換算して約680枚)の分量になる。

まず,本論文の内容を紹介する。

序章で筆者は「開港場知識人」という独自の概念と視角を提示し,これに関連する先行研究を整理した上で,四つの課題を設定する。すなわち,(1)初期中国プロテスタント史の再構成,(2)洪仁干像の再構成,(3)「開港場知識人」の台頭・誕生の跡づけ,(4)中国近代化プロセスにおける洪仁干『資政新篇』の位置づけ,の四点を本論文が考察すべき課題とし,本論の構成を提示する。

第1章「南京条約以前の南中国におけるプロテスタント布教の展開」では,1807年のロバート・モリソンの広州到着から1842年の南京条約の締結に至るまで,ロンドン伝道会などキリスト宣教師によるマカオや広州での布教活動をたどりつつ,草創期のプロテスタント布教史を概観する。

続く第2章「プロテスタント布教の拡大と太平天国運動」では,1842年の開港以降,おもに香港と上海で本格化したプロテスタントの布教活動を整理し,これに刺激を受けて南中国に広がった太平天国運動にも眼を向け,宣教師側の史料を使いつつ,外国人と中国人を含めたキリスト教徒と太平天国の勢力拡張には錯綜する関わりがあったことを指摘する。

本論文の主人公とも言うべき洪仁干を扱うのが,第3章「洪仁干とキリスト教」である。ここでは,洪仁干がキリスト教を受容するに至った経緯やロンドン伝道会助手としての初期活動の実態が,バーゼル伝道会などの未公刊史料を駆使しつつ詳細に語られる。また,李正高や王韜など,本論文で「開港場知識人」に分類される人士と洪仁干の接触・交友関係も,本章で明らかにされる。

第4章「香港・上海における開港場知識人の誕生」は,ロンドン伝道会がそれぞれ香港,上海に設けた英華書院,墨海書館という印刷所兼出版社に着目し,ここで出版された書籍や刊行物が,洪仁干ら「開港場知識人」にとって西洋に関する知識を得る上でもっとも重要な情報源になっていたことを指摘する。なかでも,筆者は英華書院や墨海書館を運営した西洋人宣教師の活動のみならず,宣教師の助手や翻訳協力者・論文執筆者として貢献した中国人信者の存在に注目し,聖書や宗教書のみならず,科学書の翻訳や出版においてかれらの果たした役割を重視する。

つづく第5章「『資政新篇』における西洋文明とキリスト教の影響」では,洪仁干の主著とされる『資政新篇』に関する詳細なテキスト分析が展開される。筆者は,宣教師によって紹介された英文の資料なども参照しつつ,従来知られることのなかった『資政新篇』の著述と刊行の過程を逐一跡づけ,その思想内容についても新たな知見を加えている。洪仁干が『資政新篇』の執筆に当たり参照・引用した地理書とのテキスト対照一覧は,文中の表1-3や巻末の別表2に収められる。

第6章「洪仁干と太平天国」は,1860年太平天国の首都・南京に入り「干王」に封じられた洪仁干の動静を,おもに南京を訪問した外国人宣教師との交流を軸に考察する。筆者は宣教師たちの眼に映る洪仁干像の変化をおいながら,西洋諸国の太平天国評価が肯定から否定へと推移してゆくさまを,各種報告書や新聞記事などをもとに丹念にたどっている。

本論最後の第7章「開港場知識人の台頭」では,キリスト教や西洋理解,さらに太平天国との関わりで,洪仁干と共通する要素の多い王韜など複数の「開港場知識人」の思想や活動を取り上げ,改めて本論の主題である「開港場知識人」の存在様態について総括的な展望を提示する。

終章では,以上の各章で積み重ねてきた考察をもとに,大きく以下の三点の結論が導き出される。第一に,19世紀40年代から60年代にかけて,プロテスタント宣教師とかれらに近接した中国人信者の関係は,前者が後者に一方的に知識や信仰を施したというものではなく,互いに相手の文化や学術を学ぼうとする一面もあったこと。第二に,洪仁干という特異な経歴を有する人物は「開港場知識人」という,近代に誕生した新たなエリート群の中に位置づけられるが,この知識人群は,科学を含む西洋知識やキリスト教受容などの要素をもとに,さらにいくつかのグループに分節化しうること。そして,第三に太平天国──洪仁干──キリスト教というつながりのなかでこそ,『資政新篇』に含まれる時代的意義と中国近代化への独自の志向を見出しうること,以上が最後に提示される本論文の結論である。

以上のような構成と内容をそなえる本論文に対して,審査委員はおもに以下の三点で高い評価を与えた。

まず,従来西洋人宣教師の活動のみに光をあててきた中国プロテスタント史の中で,さまざまな背景や人脈によって結ばれる中国人信者が布教や科学伝播などの面で果たした役割を正当に評価し,太平天国とキリスト教の関係を再考する上で新たな視点を提示したことである。

次に,未公刊の一次資料などを用いながら,洪仁干の生涯と思想の全体像を見事に描ききったことである。とりわけ『資政新篇』のテキスト生成過程を丹念に跡づけ,その内容理解を深めたことは,本論文が国際的に誇ることのできる画期的な成果と言え,洪仁干および太平天国史の研究に新生面を切り開いたことは疑いない。

第三に,洪仁干という人物を基軸としながらも,「開港場知識人」という枠組みを設定して,それを一群の中国知識人の思想や活動に広げる展望を示し,この時期の中国近代史像の再構成に重要な視座を提供したことも,本論文の貢献の一つである。

さらに,本論で展開される丁寧な叙述のあり方や,日本語表現力の高さ,浩瀚な資料の調査と分析の能力に対しても,審査委員会は高く評価すべきとの意見で一致を見た。

ただ,本論文に若干の欠点や不足がないわけではない。審査委員からは,参考文献一覧の英文表記に不適切な箇所が多いとの指摘がなされた。また,「開港場知識人」という概念の曖昧さや定義のしかたについても,複数の審査員から疑問が呈された。さらに,文中多用される「西洋知識」の内実については,宗教的要素を含めたより細かな歴史的整理が必要だとの意見が出された。

とはいえ,以上述べたような短所は,本論文の学術的な価値を損なうものではない。

以上,総括するに,本論文の達成が中国地域研究,中国近現代史研究に大きな貢献をもたらしたことは疑いない。したがって,本審査委員会は一致して博士(学術)の学位を授与するのにふさわしい論文と認定する。

UTokyo Repositoryリンク