学位論文要旨



No 126460
著者(漢字) 松岡,格
著者(英字)
著者(カナ) マツオカ,タダス
標題(和) 失敗の本質 : 台湾原住民社会地方化の道程
標題(洋)
報告番号 126460
報告番号 甲26460
学位授与日 2010.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1023号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 教授 木村,秀雄
 東京大学 准教授 森山,工
 早稲田大学 教授 若林,正丈
 横浜国立大学 名誉教授 笠原,政治
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、大日本帝国と国民党政権が台湾原住民に対してとってきた政策がスコット(James C. Scott)の言う単純化に強く規定されたものであることを実証し、その単純化の帰結によって政策の失敗がもたらされたことを論ずるものである。

スコットの言う単純化とは、特定の政策によって地域社会の再編が行われる際に、統治者が地域の中に育まれてきた多様な要素を、例えば近代的な知識・思想などによって単一化していくことを指している。このような単純化は、社会を可視化し、社会の統制を強化し、社会からの資源の流用度を高めるといった目的の達成には成功をもたらすが、しばしばそのような単純化に規定された政策全体の目標達成の失敗を導く。特に、高度近代主義にもとづく極端な単純化がなされる時に地域社会にとっての重大な帰結を招く、とスコットは指摘している。

本論文では、まず台湾の原住民に対して行われてきた政策が、いくつかの点から言って単純化に強く規定されたものであることを実証していった。戦前・戦後の対原住民政策の主軸を担ってきたのは、原住民居住地域を一元的統治・行政体系(地方行政体系)下へと組み込んでいく過程(以下では、これを「地方化」と略称)である。対原住民政策を規定する主要な単純化は、この地方化である。本論文は、序章・終章を除いて、三章からなる第一部とやはり三章からなる第二部から構成されている。まず第一部では、大日本帝国が台湾原住民居住地域「蕃地」における実効支配を確立した後、地方化を起動し、ある程度推進していったことを明らかにした。

まず第一章では、地方化の前提となるものを次の二点から示した。一つは、地方化開始以前における伝統的社会構造の姿である。原住民社会の社会統合単位となってきたのは、焼畑農耕にもとづいて生活してきた原住民が形成してきた部落である。例えばルカイ族・パイワン族の各部落では首長を頂点とする社会階層制度が社会秩序を構成しており、各部落それぞれが自律的共同体であった。もう一つは、地方化の必要条件となる、原住民居住地域「蕃地」実効支配の確立過程である。ブダイ事件を例に示したように、原住民諸部落と統治者の間で実効支配権が争われたのであり、当局は1910年代中頃にこの争奪戦に勝利することによって、はじめて「蕃地」の実効支配を確立できたのである。

第二章では、実効支配確立後に「蕃地」に整備されていった「理蕃」統治体制とそれによって開始された地方化について明らかにした。この「理蕃」統治体制によって、当局は原住民を国民へと変換し、部落を「村」へと変換していくことで、やがて「蕃地」原住民社会全体を台湾規模の一元的統治・行政体系下へと組み込んで行こうとしていた。言い換えれば、統治者は国民形成を基礎として可視的ユニットの重層構造を構築していくことで、地方化の完成を目指したのである。この原住民社会の単純化は、部落から自律性を奪い、首長から権威を剥奪することで原住民社会の自律性を決定的に奪い、原住民社会の政治的地位を全体として低い位置へと固定化しようとしていた。

対原住民政策の主軸となる政治施策を中心に地方化政策について見た第二章に対して、第三章では、稲作普及を例に、地方化政策の経済施策や、それと関わる文化施策について扱い、そこに含まれる単純化やその作用について明らかにした。経済施策の中心となるのは農業構造の改変と資本主義経済体系下への組み込みであり、このうち農業構造の改変は、原住民の農業実践を定地耕へと限定していくことで、農業の単純化を推し進めた。そしてこの農業の単純化は、「生活改善」と呼ばれた文化の単純化活動と組み合わさることによって、原住民文化の抑圧・破壊に貢献した。

第二部では、こうして大日本帝国によって起動された地方化を国民党政府が引き継いだことを明らかにするため、戦前の「理蕃」統治と戦後の「山地」行政の連続性について検討することから議論を始めた。まず第四章では、「山地」行政によって行われる経済施策・文化施策を含めた対原住民政策が、戦前の「理蕃」統治からの連続性を強く持っていることを指摘した。政治施策について見てみても、国民党政権は、「理蕃」統治の完成できなかった地方化を、台湾接収直後に形式的に完成させたという側面がある。地方化の形式的完成によって、原住民社会の政治的地位は地方行政体系の諸下層組織「郷」に変換されたのであり、まずこの点から言って原住民社会の政治的地位は全体として低い位置に固定化されたのである。このように、戦前の「理蕃」統治と戦後の「山地」行政は全体として強い連続性を持っていると言える。ただし、次の点だけは例外であった。国民党政権は、そうして元「蕃地」に成立させた(30の)「山地郷」郷長の選挙を、候補者を原住民に限定して行っていったのである。「山地」自治制度を構成するのは、この30の山地郷であった。

「山地」自治にこのような民族自治的性格が与えられたのには理由があった。第五章ではそのことを次の二点から明らかにした。第一に、こうした「山地」行政区域を「蕃地」のエリアを変更せずに引き継いだこと、「山地」への入境制限を解かずにきたこと、そして郷長の原住民への限定のような保護的・優遇的措置を導入したことの背後にあるのは、国民形成である。すなわち、国民党政権は「山地」においても国民形成を通じて社会統制を実施し、強化していくために、こうした特別措置を採用したのである。そしてこの国民形成の先にあるのが地方化である。第二に、こうした保護的・優遇的措置はあくまで地方化完成までの過渡的措置である。上述のように国民党政権は台湾接収直後に「山地」の地方化を形式的に完成させたのだが、「山地」を一元的統治・行政体系下へと完全に組み込むためには――すなわち地方化を完成させるには――、まだ条件が揃っていなかった。戦前に引き続いて「山地」の資本主義経済体系下への組み込みを進めようとする経済施策にしても、戦前の「生活改善」と同様に言語・習慣などの一元化を進めようとする文化施策にしても、その条件を揃えるための手段であった。山地郷の郷長を原住民に限定するというような特別措置は、その地方化完成までの過渡的措置であった。なぜこれが過渡的措置に過ぎないのか、その主因と目されるのは次のことである。戦後の対原住民政策の原則とされてきた孫文の「建国大綱」、それを採用した台湾調査委員会の「接管綱要」、そして中華民国憲法などを検討すると、国民平等にもとづく権利として、「山地」に地方自治が与えられたに過ぎないことがはっきりする。であるから、「山地」自治に民族自治的性格が与えられたとは言っても、それは過渡的措置として与えられているだけなのである。

第六章では、戦後の地方化によっても原住民社会の政治的地位が全体として低い位置へと固定化されていったこと、そしてそのことによって最終的には原住民社会にとっての複合的危機状況を招来し、その中から地方化政策を否定する言説や運動が有力化することによって地方化自体が破綻に至ったことを明らかにした。

戦後における「山地」行政体制とは、台湾省政府民政廳を司令塔とし、地方行政体系の秩序に従って地方化政策の各種施策を推進するものであった。その地方行政体系の下層組織として組み込まれた山地郷は、組織を挙げてその施策を執行する存在であった。山地郷には、政策の決定権も、施策の決定権もなかったのである。この点から言っても、原住民社会の政治的地位は全体として低い位置に固定化されたと言えるのである。

地方化政策を進める統治者にとって、原住民という集団設定は、やがて消え去るべきものであり、この集団を対象にした保護的・優遇的措置は、地方化完成のための条件が揃えば取り払われるべきものであった。このような原住民認識と原住民エリートの集団認識はすれ違い続けてきたと思われるが、1970年代になってそのことがはっきりしたと思われる。そしてさらにその10年後に原住民族運動が開始されたのである。

第二部の内容をまとめるならば、まず戦後における地方化の進展によって、原住民社会の政治的地位は、全体として低い位置に固定化されるようになった。こうして原住民社会としての自律性は戦前から統治者によって奪われ続けることによって、喪失状況に立ち至ったと考えられる。これは社会の単純化としての地方化が招いた主な帰結と言えるだろう。また、戦後の地方化政策も農業の単純化と文化の単純化を含んでおり、これが原住民文化の生産・再生産に打撃を与え続け、その崩壊に至らせたと思われる。経済的内部植民地主義状況の前提となる資本主義経済体系下への組み込みが、戦前に引き続いて地方化政策の中で推進されてきたことも明らかである。

このように、戦前・戦後において原住民に対して行われてきた地方化は、それを規定する単純化の帰結として原住民社会にとっての複合的危機状況を招いたと考えられる。そしてこの複合的危機状況によって原住民族運動が起こり、その展開の中で地方化政策が批判され、統治者にとって取り下げられるに至って、地方化の破綻が明らかになった。すなわち、地方化政策はその単純化の帰結(原住民社会としての自律性の喪失、原住民文化の生産・再生産の安定性崩壊、経済的内部植民地状況という、主に三つの要素から構成される原住民社会にとっての複合的危機状況)によって政策全体の目標の達成の失敗がもたらされたのである。そして筆者は、この台湾の事例は、スコットの言う高度近代主義にもとづく極端な単純化の事例と同様に、近代主義にもとづく単純化の問題を示すものである、と考える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、戦前の「大日本帝国」と戦後の中国国民党政権の台湾先住民族統治をめぐる連続と非連続の問題を、歴史学的な文献史料博捜・精読による知見と文化人類学的フィールドワークによる知見とを組み合わせる手法によって論究した力作である。

論文は、二部構成とされ序章と終章を含め全8章である。論文本論は、A4版304頁(400字詰原稿用紙換算約824枚、脚注を除く)で、注は脚注として付されている。また、本文中の関連部分には、図6点(地図など)、表16点(統計、関連事項一覧表など)が挿入されている。巻末には、参考文献目録(全16頁)が付されている。

序章「単純化、地方化、そして台湾原住民社会」では、本論文の課題、分析視角、先行研究の検討、方法と史資料、そして著者が調査したフィールドについて述べられている。近年の台湾では、1970~80年代にかけて明白となってきていた先住民族社会の複合的危機状況(経済的内部植民地主義状況、文化の生産・再生産の安定性の崩壊、先住民族社会の自律性の喪失)を背景に、先住民族自身がそこからの脱却を目指す「台湾原住民族運動」が展開され、国家はその先住民族政策の大幅見直しを余儀なくされた。著者は、(1)台湾原住民族運動の背景となったこの複合的危機状況は近代国家の先住民族地域統治の累積的帰結であり、その施策の中核には先住民族地域を国家の一元的行政体系の末端に組み込んでいく「地方としての組み込み過程」(地方化と略称)が存在し、この地方化過程は戦前・戦後の統治国家の交代にもかかわらず強く連続した、そして、(2)この地方化は、J・スコットが近代国家の近代主義による社会への働きかけのあり方を把握する概念として提起する国家による単純化(state simplification、以下単純化)の一形態であるとし、上記複合的危機状況の醸成、台湾原住民族運動の興起、そして先住民族政策の大幅見直しという経緯は、統治国家の交代を越えて連綿として続けられた地方化の挫折を意味し、スコットの言う単純化の失敗を意味する、との視角を提起する。この視角に照らすと、台湾先住民族統治史研究の分野においては、戦前と戦後それぞれの時期について一定の蓄積はあるものの戦前と戦後を通貫する視座でその連続と非連続とを明らかにしようとした研究は乏しいことが指摘される。最後に文献史料の賦存状況と著者のフィールド、即ち台湾南部屏東県三地門郷と霧台郷(居住先住民族はルカイ族とパイワン族)についての紹介が行われている。

第一部「地方化を目指す「理蕃」統治:起動から形式的完成手前まで」では、「大日本帝国」の台湾統治政策においては、統治の終末まで先住民族地域(「蕃地」)に対しては平地漢族居住地とは異なる特別統治体制(「理蕃」体制)が採られていたにもかかわらず、統治担当者の政策目標から見ても政策の内実から見ても、上記地方化の過程が起動されていたことが示される。「理蕃」政策はやがて「蕃地」を消滅させるための過渡期の政策として展開されたのであった。

第一章「原住民の伝統的社会構造と国家による『蕃地』実効支配権奪取」では、地方化開始前の先住民族地域においては、今日「部落」と称されるようになったまとまりが自律的な政治・社会単位であったが、日本国家による地方化の起動は、こうした自律性を持つ諸部落に対する実効支配の確立が必須の前提であったとして、これまでの台湾近代史研究ではあまり顧みられることがなかった著者がフィールドとする地域の先住民族に対する征服戦争である、いわゆる「ブダイ事件」の経緯を実証している。また、著者がフィールドとするルカイ族とパイワン族の部落における首長を頂点とする社会階層制についての解説も行われている。

第二章「実効支配確立後の『理蕃』統治と地方としての組み込み過程」では、実効支配確立後の「蕃地」において形成されていった警察による「理蕃」統治とその政策展開が跡づけられる。そこで実施された「国語」(日本語)普及の児童教育、青年団・家長会組織を通じた社会教育、警察官による「頭目」選定などによる部落政治秩序への介入、より低地への部落移住政策などは、地方化の観点からすれば、かつて自律的社会単位であった部落を国家から可視的なユニットとしての「村」へと転換していく政策であった。

第三章「稲作普及による農業の単純化と地方化および文化の単純化」では、第二章を受けて地方化の経済・文化施策と言える米作普及政策を検討している。多くの場合部落移住政策と結びついたこの政策は、焼畑農耕から定地農耕への転換を狙ったもので、「蕃地」外との交易促進の意義は小さかったものの部落に食糧増産をもたらしたのであったが、その一方で、部落で支配的だったアワの生産とアワに結びついた祭祀などの宗教・文化とを抑圧し、部落の移住や「生活改善」運動などとも相まって、部落の社会・文化の再生産構造の破壊をもたらした。これらは経済・文化の側面における単純化の意義を有した。

第二部「地方化を進める『山地』行政:形式的完成から実質化へ」では、戦後の中国国民党統治下において、先住民の政治処遇については表面的には戦前とは非連続といえる飛躍を見せながらも、先住民族地域の特別行政体制(「蕃地」から「山地」へ)とそれに相応する人口分類(「蕃人」「高砂族」から「山地同胞」)の大枠が引き継がれて、地方化は形式面での進展からさらに実質的完成(過渡的特別優遇諸措置の廃止)を展望するところまで推進されたが、その一方で上記の複合的危機状況を生み出し、地方化の挫折、つまりは単純化の失敗を帰結したことを論じている。

第四章「『理蕃』統治と『山地』行政の連続性」では、上記の統治体制の連続と共通性が具体的に論証されるとともに、台湾全体でのいわゆる「地方自治」制の実施の際に、先住民の政治的処遇の面において、地理的分布と人口構成としては「蕃地」を引き継いで全台湾で30個設置された山地郷の郷長を「山地同胞」に限るという一見民族自治的側面を加味したかに見る優遇措置が執られたことが、その制度の確定過程の詳細とともに示され、また著者がフィールドとする三地門郷などにおける郷長選挙の実際が紹介されている。

第五章「『山地』行政とその施策の基本的性格」では、その「山地」行政体制の内実と理念が検討される。上記のように一見戦前からの非連続を示すかに見える、山地郷を要とする中国国民党政府の山地政策は、「国父」孫文の民族主義と国家構想とに端を発し中華民国憲法に結晶するその国民国家形成理念の下で、「山地」全域において安定的な国民形成を進攻させるための過渡的な措置として位置づけられていたことを明らかにしている。

第六章「『山地』行政体制の組織と役割―地方としての組み込み過程の展開と方法」では、著者が新たに発掘した台湾省政府「山地行政検討会」の暦年会議記録などとフィールドワークの知見を組み合わせる手法で、「山地」行政体制における山地郷の位置づけと山地郷行政の運営の実際が明らかにされている。山地郷制度には一見民族自治的性格(民選の郷長は先住民に限る)を持ってはいるが、「山地」行政体制においては台湾省民政庁を頂点とする地方自治行政体制の末端に固く位置づけられており、ほとんどは省から下りてくる政策を組織を挙げて執行するのみの存在であった。民選の先住民郷長といえど自主性を発揮できる余地は極めて小さかった。そんな中、1974年民政庁は10年後を目処に特別行政の諸措置を完全撤廃する目標を公表したが、かかる地方化の進展の中でも先住民社会の複合的危機状況は深まっており、民政庁が目処としたその「10年後」の1984年には先住民族運動団体として台湾原住民権利促進会が発足した。こうして運動が一定の成果を挙げる中で地方化方針は放棄を余儀なくされた。これは戦前より連続した国家による単純化の失敗であった。

終章「結論と展望 完成しない地方化・完徹しない単純化:新たな闘い」では、以上の議論が要約されるとともに、スコットがあげる単純化の機制としての徴兵に関して本論文では扱えなかったことが指摘されるなど今後の研究に向けた反省と展望が語られている。

以上が本論文の概要である。本論文の成果としては次の点が挙げられる。

第一に、台湾近現代史研究において戦前の日本植民地統治期と戦後の中華民国統治期の連続・非連続のバランスの解明の必要が叫ばれて久しいが、本論文は、先住民族統治史という分野に限ったものではあるが、それを一貫した視角で論じきり、この分野での連続・非連続の問題に一定の見通しをつけたことである。著者は序論での先行研究批判の実践に成功している。今後の研究に与える影響も小さくはないものと考えられる。

第二に、上記の一貫した視角である。著者はJ・スコットの国家による単純化の概念を援用して、地方化という著者に事例に適合的な操作・分析概念を導きだし、それを用いた一貫した視角で長期にわたる先住民族統治政策の展開を分析しきった。このことにより、戦前から戦後にわたる国家統治における行政的一元化とそれに連関し派生する諸政策の単純化作用の強い連続性の存在を浮き彫りにすることに成功している。後に示すように、著者のフォーカスの当て方や概念操作は問題なしとしないが、しかし、著者のこうした視角の運用とそれに基づく知見は、狭く台湾研究のみならず東アジア研究における国家-社会関係研究にも貢献するものとなると考えられる。

第三に、文献史料の博捜と精読とフィールドワークの知見を組み合わせるという手法から導かれた台湾近現代史史実解明上の成果である。戦前、戦後で特筆すべきものを一つずつ挙げる。

(1)戦前に関して:著者は、日本統治初期にいわゆる「南蕃」と称されたパイワン族、ルカイ族居住地域を地方化の展開を実証すべきフィールドとした。その為には、地方化起動の前提となる日本国家のこの地域での実効支配確立の経緯を見る必要があった。従来の研究では、日本国家の先住民族地域支配の確立は、佐久間左馬太総督期の「蕃地討伐五カ年事業」によって達成されたものとされている。しかし、この「事業」はいわゆる「北蕃」(タイヤル族)を対象としたものであり、「南蕃」地域における「討伐」についてはほとんど言及されないのが常であった。しかし、著者は本論文で「ブダイ事件」と文献上に記される「討伐」、すなわち、先住民部落からすれば進入してきた日本国家との戦争、の詳細を初めて明らかにして、この欠落を埋めた。

(2)戦後に関して:中国国民党政権の先住民族統治に関して、その政策の大まかな変遷の跡付け作業は先行研究においてそれなりに行われてきているが、政策決定過程や「山地」行政の要となる山地郷の運営の実態に目が配られることは稀であった。第六章の論述に最も明白に示されているように、著者は新発掘の資料とフィールドワークによって得たインフォマントのデータとを組みあわせて、資料保存が劣悪で研究しにくいこの問題領域についても検討のメスを入れることに成功している。

ただし、こうした本論文にも問題点が無いわけではない。審査委員会においては、次の点が指摘された。

第一に、本論文では台湾の先住民族とそれに対する戦前・戦後国家の政策に強烈なフォーカスが当てられている。著者がこのようなフォーカスを堅持しぶれていないことがその成果に結びついていると言えるが、しかし、その一面、著者のこの強烈なフォーカスは、著者の指摘する先住民族に対する単純化、地方化の様態や程度が、戦前・戦後の台湾の国家の統治政策全般において、どのような比重を持ちどのような性格を持つのかなどの問題に対する目配りを著しく弱めている。例えば、著者は単純化・地方化により先住民部落の自律性が破壊されたとするが、日本国家は、平地漢族社会に対しても土地調査、林野調査、戸口調査、旧慣調査などでそれを可視化を進め、「国語」教育の推進、延長施行される「内地法」の漸進的増加などの施策で、単純化をも図っていったといえるのであり、先住民地域に行われた単純化、可視化といったことの意義は、少なくともこれらとの対比の上で評価されるべきものであろう。

第二に、本論文では、地方化とそれと連関する経済・文化面での単純化措置が先住民族社会の複合的危機状況をもたらし、総体としての単純化の失敗がもたらされたとされるが、行論中に指摘される単純化とこれらの危機的状況をもたらす先住民社会・文化再生産機能の破壊とが、やや一面的ないし直線的に結びつけられすぎる嫌いがある。例えば、日本統治期に行われた先住民族の「種族」分類を、戦後の国民党政権が「山地同胞」というくくりの下位分類として引き継いでいることは、単純化の議論だけでは必ずしも説明できない。また、例えば、日本統治の文化面での諸施策が先住民族の文化を破壊したとされるが、「生活改善運動」にしても「迷信打破」を言い、キリスト教などの宗教布教を禁ずるのみであり、実際に先住民族のいわゆる「迷信」が「打破された」のは、1950年代以降長老教会を中心とするキリスト教の信者が山地に急速に増大して以降のことであった。これも国家による単純化ということだけでは説明が困難であろう。

しかしながら、本審査委員会は、上記の欠点は本論文の成果や長所を大きく損なうものではなく、本論文がこの分野での研究を大きく前進させるものであるとの認識で一致した。よって、本審査委員会は、本論文の査読および口述試験の結果により本論文提出者が博士(学術)の学位を授与されるにふさわしいものと認定するものである。

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