学位論文要旨



No 126461
著者(漢字) 今井,貴子
著者(英字)
著者(カナ) イマイ,タカコ
標題(和) 制度再編期における政党の政治選択 : イギリス労働党の現代化と政策変容に関する考察(1994-1997年)
標題(洋)
報告番号 126461
報告番号 甲26461
学位授与日 2010.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1024号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 教授 遠藤,貢
 東京大学 教授 平島,健司
 東京大学 准教授 内山,融
 東京外国語大学 准教授 若松,邦弘
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、制度再編期における政党のポジショニング(政策選好の推移)の変化が、なぜ、どのように、そしていかなる内容においてなされたのかについて、外部環境が変動するなかでの政党の政治選択に着目し、政権交代をつうじて政党がもたらし得る革新の可能性と限界について考察することにある。分析の対象となるのは、1994年7月から1997年5月までのブレア(Tony Blair)党首の率いた野党時代の労働党である。

ブレア労働党は、1994年から総選挙が実施された1997年にかけて、きわめて特徴的なポジショニングの変化を示した。政党の提出した選挙綱領(マニフェスト)分析をもとに、左右一次元軸上の政策選好の推移を分析した研究では、労働党は、1990年代初頭の時点では、第三党の自由民主党よりも「左」に位置していた。ところが、1997年総選挙の時には、自由民主党を越えて中道ラインをわずかに「右」にまたがる位置にまで急速に移動し、「右」に位置していた保守党との政策距離を縮めた。本論文は、のちにブレア流の「第三の道」として知られるようになった労働党のポジショニングに着目し、それが既存の研究が強調したような選挙要因あるいは制度要因による二大政党の政策的収斂への外生的な圧力の結果なのか、それとも労働党による自律的な政治選択の結果なのかを検証した。

行論にあたり、本論文では次の三つの分析枠組みを用いた。第一に、制度要因(経済政策のパラダイム転換と戦後福祉国家の再編)、第二に、選挙要因(有権者の利益配置と政党間競争)、第三に、党内要因(政策決定構造と党首脳部の政策志向)である。

第一の制度要因では、1980年代から90年代にかけてみられた経済政策をめぐるアイディアのパラダイム転換と戦後福祉国家再編への圧力の影響を分析した。とりわけ、ケインズ主義的経済運営からいわゆるマネタリズムへの政策基調の転換に起因する、健全財政をはじめとした新たな「ルール」が、野党の政策形成過程にいかなる作用をもたらしたのかを検証した。分析にさいしては、野党にあったブレア労働党が政権奪還に向けた政策パッケージを策定した1990年代半ばという時期が、ケインズ-ベヴァリッジ型福祉国家の経路依存性と、戦後福祉国家という制度を再編する圧力とが同時に観察された過渡期であったことに注意を払った。本論文はこの制度上の過渡期を、多様な政策アイディアが拮抗する「開放期」と捉えたうえで、この制度開放期に野党労働党が直面した制約と選択について検証した。

第二の選挙要因については、政党間競争と有権者配置にかんして、たとえば中位投票者定理を応用した「追い上げの政治」論などが示すように、対抗政党は勝利政党の形成した選好空間に適合するべく、ポジショニングを受動的に変化させるといった政党間の収斂仮説の妥当性を検討した。制度要因と選挙要因にかんする本論文の分析の焦点は、新たに顕在化した制約下において、政策形成上の自律的な裁量の余地にたいするアクターの認識の在り方が、政党のポジショニングにどのような影響をもたらすのかという点におかれた。

第三の党内要因については、野党労働党の政策形成構造と党首脳部の志向が、党のポジショニングにどのように作用するのかを検証した。とくに、中央集権的な政策形成システムを生み出した党の組織改革と党の体質の変化の結果、党内のどのレベルのアクターの政策志向がポジショニングの決定に影響を与えたのかを分析した。

これらの分析にさいし、筆者が使用した資料は主に次のとおりである。第一に、議会労働党および院外組織の資料である。具体的には、マニフェスト、各種政策パンフレット、ブレアをはじめとした党首脳部の私信や演説原稿、党大会議事録、影の内閣の議事録、全国執行委員会議事録、ニュース・レターなどである。これらの資料は、主にLabour History Archive and Study Centre、およびキノック(Neil Kinnock)元党首の個人ペーパーを所蔵するChurchill Archives Centreにおいて収集した。なお、ブレアが党首に就任した1994年7月21日以降の影の内閣の議事録は、本論文執筆時点では非公開扱いとなっていた。次に、分析対象期間に労働党の政策決定にかかわった関係者へのインタヴューで得られた証言を用いた。インタヴューの主な対象者は、党首脳部(キノック、C.スミス[Chris Smith]元影の社会保障大臣、フィールド[Frank Field])元福祉改革担当閣外大臣など)、労働組合関係者、党首脳部のアドバイザー、シンクタンク関係者などである。第三に、刊行されている主要関係者の日記および伝記、第四に、当該期間の議会議事録(庶民院・貴族院)、第五に、当該期間の主要新聞5紙および雑誌をそれぞれ参照した。

これらの資料を用いた分析で本論文が明らかにしたのは以下のとおりである。

まず、労働党は、ポジショニングの決定にかんして、多岐にわたる有意の選択肢を有していたことである。その一つの証左となるのが、バックベンチャーや院外組織ばかりでなく、党首脳部のなかでさえも、志向性を異にする多様な政策案が提示されていたことである。それらの政策案には、大別して、保守党政権下の政策とは明確な区別化をはかった社会民主主義的な傾向をもつ革新的なものと、保守党政権下の政策の継承性を示したものとがあった。本論文が問うたのは、複数の選択肢のなかで決定されたポジショニングが、なぜ、どのように、そして何について、なされたのかであった。

第一に、「なぜ」、つまりポジショニングを決定した要因についてであるが、本論文が実証したのは、それぞれのアクターによる選挙要因と制度要因の認識の在り方が、ポジショニングを左右したことである。周知のように、1992年総選挙での敗退を受けて、労働党は、ミドル・イングランドと呼ばれる新しい中間層と、金融界や産業界からの支持を確実にすることを目指し、これが議会労働党における了解事項となっていった。だが、了解事項の共有が、党をしてある特定の政策パッケージに帰結すると結論づけることは早急であろう。

ここで本論文が明らかにしたのは、たとえ同じ社会グループの支持動員を目指していたとしても、そこから導きだされた政策構想は一様ではないということである。具体的には、党首脳部からは、中間層や経営者団体の利益を反映した政策とともに、明確に底辺層に利する政策が併せて提示されていた。これに対して、党首室と選挙対策本部は、むしろ前者の利益を表出することを最優先とし、中間層や経営者団体に不人気だと判断した政策群を慎重に排除した政策パッケージを提示することを試みた。こうして1997年総選挙前に党首室が導き出したのが、とりわけ税制と社会福祉の領域にかんする「変化なき政策」、つまり保守党政権下の政策から大幅な変更を行わないという基本方針であった。

次に、制度要因についても、経済政策をめぐる「ルール」をアクターがいかに認識したのかによって政策構想に違いが生じたことを明らかにした。たとえば、経済政策と社会福祉政策で影響力を行使した影の財務大臣ブラウン(Gordon Brown)は、「ルール」を遵守することで市場の信頼を確保しているかぎりは、雇用や社会福祉政策の策定に裁量を発揮し得ると考えていた。この認識があったからこそ、ブラウンは累進課税による所得再分配などをつうじた社会的公正の実現が可能であると考え、この方針にもとづいた税制案を総選挙の数カ月前まで頑強に主張し続けたのだった。このブラウンの政策案を退けたのが、制約から導かれる裁量にかんしてブラウンとは異なる認識をもっていた党首室とその周辺であった。

第二に、「どのようにして」、つまり選択の過程であるが、党の政策形成過程では、党大会での一人一票制の導入をはじめとして、労働組合の影響力を縮小し、党内の「民主化」を促進する組織改革によって、逆説的に党首脳部への権限の集中が促された。影の内閣が政策案を作成し、それを議会党と院外組織が追認するというトップダウン型の構造が生まれたといえよう。この政策形成過程の特徴は、影の内閣ではチームとしての連携がきわめて希薄であったこと、マニフェストの内容の最終検討段階では、党首室を中心とした閉鎖的な意思決定メカニズムが生み出されていたことであった。

最後に、「何に」ついてである。本論文では福祉国家再編期における政策構想の考察にさいして、先述のアイディアの「開放期」という観点に着目した。具体的には、「福祉から就労へ welfare to work」の言葉に集約される福祉と雇用の相互関係の在り方について、六つの領域(就労支援、懲罰要件、就労の見返り、労働者保護、労働市場からの退出時の支援、雇用創出)から政策選好の推移を検討した。まずブレア体制以前の労働党では、スミス(John Smith)党首の下で「ソーシャル・ヨーロッパ」に倣った社会民主主義的な構想が提示された。ブレアとその周辺は、このスミスの構想を支持する党内の実力者の意見を退け、クリントン民主党政権を範とした、いわゆるワークフェア志向の政策パッケージへと軸足を移動した。そのなかでブレアらは、対外的な発言では「ラディカル」を強調しながらも、マニフェストでは、「変化なき政策」、つまり事実上保守党政権によって提示された政策の枠組みに目立った変更を加えないという決定を行った。

だが、とりわけ社会福祉にかんして実質的な革新性を排除したマニフェストとはうらはらに、1997年政権成立後、労働党は、公共サービスの大幅な拡充を漸進的に実行するとともに、底辺層に対して何通りもの「ひそかな再分配」を行った。それは対症療法的施策というよりも、むしろブラウンらが政権成立前に入念に準備しながらもいったん排除された政策プロジェクトを活用したものだと捉えることができる。ここでいう「ひそかな再分配」は、業績回避の政治とも呼ばれ、底辺層に利する政策が生む正の実績を、政権の業績として積極的には提示しないことを指す。本論文では、このような特殊な政治が行われた淵源は、「変化なき政策」に帰結した1997年までのポジショニングをめぐる政治選択にもとめられるとした。すなわち、「変化なき政策」という党首室とその周辺による戦略的判断は、政権成立後、このポジショニングから逸脱するような社会福祉政策の「業績」について明確な言説を付与する余地を狭めたとみることができる。

以上の考察を通じて、本論文が立証したのは、制度再編期において、イギリスの労働党が示した「第三の道」というポジショニングは、外生的な制約要因が生み出した必然的な結果であるというよりも政治選択の帰結であったということ、そして、このポジショニングをめぐる政治選択は、政権成立後の社会福祉政策の在り方を方向づける要因となったことであった。

以上

審査要旨 要旨を表示する

今井貴子氏の論文「制度再編期における政党の政治選択」は、ブレア(Tony Blair)が1994 年7 月に労働党党首に選出されてから、イギリス政治史にのこる大勝をとげた1997年5 月の総選挙にいたる期間を分析対象とした実証的な政治史・政治学研究の労作である.実証面でとくに注目すべき点は、筆者が先行研究を検討し、公刊・未公刊史料を精力的に利用しただけでなく、政治家、政治アドバイザー、運動家、さらには研究者など、労働党に関連する多くの重要人物に実際に会ってインタビューをしたことにある.

提出論文の構成および要旨は次のようになっている.まず序章において、イギリス政治がサッチャー保守党政権を経て90年代に福祉国家再編の時代を迎えたこと、これに対して一連の「福祉から就労へ」政策に典型的に示されているように、福祉国家改革のイニシアティヴをネオ・リベラルから中道左派の手に取り戻すために、ブレア労働党は政党間の左右対立軸における位置を大きく右に変えるという「ポジショニング」の変化をおこなったことが指摘されている.つぎに筆者はこのポジショニング変化を説明した先行研究を検討して、(1)制度要因(経済政策のパラダイム転換と戦後福祉国家の再編)、(2)選挙要因(有権者の利益配置と政党間競争)、(3)党内要因(政策決定構造と党首脳部の政策志向)という3 つの分析枠組みを提示する.

第1章では、ポスト・サッチャリズムの有権者がどのように変化したか、とくにブレア労働党が細心の注意を払って広報戦略を立てて総選挙で獲得することを目指した「ミドル・イングランド」(イングランドの中産階級)を分析し、彼らをおびえさせずに引きつけるため有権者に対してあえて革新性を排除した政策を提示したことが実証されている.筆者によればブレア労働党の選挙戦略は、それ以前の労働党のものと断絶しているだけでなく、さらにサッチャー保守党に単純にすりよったものでもなく、念入り、細心かつ主体的なポジションの選択であったという.

第2章では主として労働党内部の問題があつかわれている.(1)80年代以降のいわゆる党組織の近代化によって労働組合の支配力が弱まり、一方、選挙区党の個人党員の発言力が増したことによって、議会党の首脳はむしろ自律性を獲得したこと.(2)前任者スミスの急死と党内外の変化を求める声に推されて、むしろ前歴の経験に乏しく、人脈やしがらみを持たないブレアが彗星のようにあらわれて党首になったこと.(3)ブレアとその側近たちが党憲章第4条(社会主義条項)の撤廃をはじめとして、斬新なアイディアを盛り込んだ政策案を立てたこと、さらには従来の労働党では考えられない徹底した広報戦略と選挙戦略をたてたことが指摘されている.

第3章は、80年代以降の新しい国際・国内経済環境に直面して、キノック、スミス、ブレアという歴代党首に率いられた労働党がどのように対応しようとしたかという経済政策の形成過程をあつかっている.ブレア、およびその盟友として経済政策を主に担当したブラウンが、雇用創出策を軸とした需要サイドを重視した経済政策を提案したこと、さらにはブラウンが、あくまでも経済政策上の「ルール」の枠内で裁量の範囲があるのだという立場をとっていたことが指摘されている.これらの点が大きく右に振りながらも、保守党には追従しないポジショニングの設定に際して重要であったことを筆者はとくに強調している.

続く第4と第5のふたつの章が本論文の白眉であり、従来は明らかでなかった重要な政治過程が筆者によって実証的に解明されている.まず第4章では第3 章の立論を発展させながら、97年総選挙で有権者に提示された福祉国家改革プログラム、とくに改革の中核である福祉と雇用に関する政策の形成が検討されている.「福祉から就労へ」というキャッチ・フレーズで有名になったこのプログラムが、党内の論争の過程で他の様々な代替的プログラムとの競争に勝ち抜いて採用されたことを筆者は検証している.

第5章では総選挙直前の時期における選挙マニフェストを起草するさいに、党内論争や党外の反響によってブレアの選択がどのように変化したかの過程があつかわれている.ブレアは新政権の基本理念として「ステーク・ホルダー経済構想」を提示したが、保守党、産業・金融界、さらにメディアからの強い批判を受けて、発表後わずか一週間で撤回せざるを得なかったことが重要な転換点であったと、筆者は指摘している.これ以後、ブレアとその側近たちがマニフェスト起草の中心となり、内容から革新性が次第に除外されて「変化なき政策」という右のポジショニングに落ち着いたと筆者は主張する.終章ではそれまでの議論が簡潔に総括され、総選挙前の穏健性と政権獲得後の革新性との対照がブレア政権の特徴として指摘されている.

本論文は綿密な実証にもとづいて斬新な議論を提起した労作ではあるが、以下のような弱点も審査委員会において指摘された.第1に、論考の対象とする期間を政権獲得の時点までに限定したことが適切なのかという点にやや疑問が残る.筆者は97年総選挙マニフェストの完成までの政治過程を分析対象としているが、叙述の背後にはブレア第1次政権で実行された政策が見え隠れしている.何よりも政権の特徴がマニフェストの保守性とは正反対の革新的な政策の実行にあったと終章で主張するならば、少なくとも政権獲得後の数年を分析対象に加えるほうが望ましかった.

第2に、制度要因、選挙要因、党内要因として提示された3 つの分析枠組みにもやや弱点が見られる.これらの要因は筆者によって別々のものとして扱われているようだが、実際には相互に独立しているとは言い切れないであろう.ところが、3つの要因の相互連関については論文のなかで充分な議論がなされていない.何よりも残念なことは、第2章での党組織の改革、第3章における経済政策に関する議論、第4章の福祉国家プログラムがそれぞれ個別に提示されているので、本論を読んだだけでは97年にいたる労働党の全体像がややつかみにくくなっている.

第3に、第4章で展開されている福祉国家の一般論は議論がつくされていないので、やや浅薄に感じられる.より具体的には、筆者の提示した一般的な福祉国家像が(ヨーロッパ)大陸も射程に入れたものなのか、それとも、イギリスなどアングロ=アメリカ型の福祉国家だけをあつかっているのかについて問題が残されている.

本論文には以上のような弱点はあるが、これらは論文の学術的価値をいささかも損なうものではない.本論文は現在も進行しているイギリス政治の重要な問題を大胆に、勇気をもってとりあつかった現代イギリス政治史、あるいは現代の先進国政治に関する本格的かつ実証的な分析である.特筆すべきは第4・第5 章にみられるように、ブレア第1次政権の成立直前という複雑かつ微妙な時期について、主要な関係者と数多くのインタビューをおこなっている点で実証的な政治過程研究として大きな学問的貢献をしていると評価できる.以上のことから、審査委員会は本論文の提出者を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいと判断する.

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