学位論文要旨



No 126469
著者(漢字) 金,京南
著者(英字)
著者(カナ) キム,キョンナム
標題(和) 『十地経論』研究 : 六相および唯心説を中心として
標題(洋)
報告番号 126469
報告番号 甲26469
学位授与日 2010.10.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第783号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 斉藤,明
 東京大学 教授 下田,正弘
 東京大学 教授 蓑輪,顕量
 東京大学 教授 丘山,新
 鶴見大学 学長 木村,清孝
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的

本論文で取り上げる『十地経論』(Dasabhumivyakhyana,DBhV)は、『華厳経』に編入される前の「十地品」=『十地経』(DaSiabhumikasutra,DBh)に対する世親(Vasubandhu,400頃・480頃)の注釈である。『十地経論』は6世紀に菩提流支(Bodhiruci)によつて訳出され、中国では同論を所依とする地論学派が成立し、後の華厳教学の形成にも多大な影響を及ぼした。また、インドでは唯識説の教証として重視された。

『十地経』は初期大乗仏教における菩薩の修行内容を説く代表的な経典であるが、中でも後代に重視され、発展的解釈と議論が活発に行われた教理に「六相」と「唯心」がある。

まず、六相は『十地経』においては、初地菩薩の十大願の中で菩薩行のある特徴を示す表現として登場するが、その意味内容の詳細をめぐっては、未だ議論は尽きない。世親は六相を『十地経』の経文を解釈する一つの方法と理解するが、地論師たちによってそれは単なる経典解釈法に止まらず、諸法の本質を理解するための重要な方便として捉えられ、さらに華厳教学にいたっては六相円融という独自の教説が完成する。

また、「三界唯心」句として知られる唯心説は、『十地経』の第六現前地において、第六地に進んだ菩薩が観察すべき十二支縁起の様相として説かれている。この三界唯心句は『華厳経』「夜摩天宮菩薩説偈品」のいわゆる「唯心偈」とともに唯心説の典拠として知られるが、特にこの現前地の唯心文は、瑜伽行派の論書においてしばしば唯識義の教証として引用される。

このように、菩薩道の内容と関連して説かれたこれらの概念は、後代に受け継がれ、それぞれ華厳と唯識の理論の中に吸収されたのであり、ここで果たした世親の役割は大きい。そこで、本論文は六相と唯心にしぼって、それぞれの概念に対する世親の解釈を考察し、併せて、『十地経』の原意と比較することによって、『十地経論』を媒介とする発展と変容の様相を明らかにしたいと思う。

本論文の方法

上述したように、本論文では『十地経論』における六相説と唯心説を中心に扱うため、初歓喜地と第六現前地を主要な考察対象とする。そこで、『十地経論』の初歓喜地と第六現前地のシノプシスをそれぞれシノプシス1とシノプシスIIとして附する。それを参考にすると、まず、六相説で取り扱うのはシノプシス1の中の加分(3.2.2.1.3.)と勝分(8.2.1.4.)との二カ所である。前者は『十地経論』の注釈箇所に用いられたものであり、後者は『十地経』に典拠をもつ両文献共通の用例に相当する。一方また、唯心説は、シノプシスIIの中の2.2.2.に該当する。本論文の最後のテキスト篇で用いた両概念を含む箇所は、いずれもシノプシス上で太字によって表した。

本論文では先行研究を批判的に検討しながら、テキストに即して論を進める。まず、『十地経論』に関してはチベット語訳を中心とし、漢訳を参考にする。経文の引用箇所については『十地経』のサンスクリット写本、チベット語訳、および漢訳を参考にする。ここで、経文を取り扱う際は、一方の解釈を安易に他方に適用して解釈することを避けるべく、『十地経』と『十地経論』それぞれの文脈や用語などの相違点に注意を払いたい。

また、使用するサンスクリット写本は、東大写本3本(T1,T2,T3)、京大写本2本(Kl,K2)、Cambridge大学本1本(C)、NGMPPによるネパール写本3本(N1,N2,N3)、パリ国立図書館本2本(P1,P2)、そして近年松田和信氏によって出版・紹介されたネパール国立古文書館所蔵本のうちのAを合わせた12本である。

この中で、特に現存する最古の写本であるA写本について注意したい。松田和信氏によると、Rahderは校訂本の作成にあたってA写本の写真を一部入手したと述べているものの実際に用いることはなく、この写本はどの校訂本にも使われなかったとする。しかしながら、本論文において部分的ながらも対照した結果、Rahder本の読みが、他のいずれの写本とも共通しないA写本のみの読みと一致する例がしばしば見られ、Rahder本がA写本を使用していたことが推定できる。従来Rahder本については、写本の読みが正しく反映されていないなど、校訂上の問題点が指摘されてきたが、現行校訂本の見直しという意味においてもA写本との比較考察は意義のある作業と考える。

本論文の構成

本論文は、大きく序論、本論、附論、テキストおよび訳注からなる。

序論では、本論文の目的や方法等を紹介し、『十地経』および『十地経論』のテキストについて概観した後、『十地経論』に関する主な先行研究の成果および問題点を示す。

本論は、六相と唯心の二章からなる。六相説に関しては、既存の六相解釈を検討しながら、まず『十地経』本来の文脈に即して六相の原語とそれぞれの意味内容を検証する。次に、『十地経論』における六相の用例については、『十地経』の六相に対する注釈箇所と、六相をもって経文を解釈する両用例を考察する。また、特に成相と壊相の訳語の交錯に注目し、解釈の相違点や、それが後代に及ぼした影響等を考察する。唯心説に関しては、まず『十地経』における唯心文の原意および文脈上の問題点を確認し、次に『十地経論』にみる世親の唯心解釈を通して、後に唯心文が別出されるにいたった背景を探る。

次に、附論では、『十地経論』研究の一環として菩提流支の訳語について考察する。同論をはじめとして世親の多くの著作が菩提流支によって訳出されており、菩提流支訳の特徴を理解することは世親釈経論の研究においてきわめて重要な意味をもつと考えられる。この中で扱う『十地経論』の「如実修行」は、初地の第二誓願(8.2.1.2)の用例である。

最後に、本論で考察した六相と唯心の該当箇所のテキストおよび訳注を附録として載せる。まず、チベット文とその訳注を、『十地経論』、そして該当する『十地経』の順で挙げ、その後に修訂したサンスクリットテキストを挙げる。

審査要旨 要旨を表示する

インド初期大乗経典の一つに『十地経』がある。菩薩に期待された修行実践上の十の階梯と、それぞれの階梯において学ぶべき教理を詳細に示す経典として知られ、後に『華厳経』を構成する主要な一章(十地品)として編入されることにもなる。ヴァスバンドゥ(世親400-480頃)作の『十地経論』は、この『十地経』に対する重要な注釈で、中国では同論を所依として地論学派が成立し、さらに華厳教学の展開に大きな影響を与えた。とくに教理的な影響度の点で際立つのが「六相」と「唯心」の両説である。本研究は、これら両説を中心として『十地経論』の文脈を精査するとともに、依拠する『十地経』そのものに遡って考察を加え、従来の研究とは異なる複数の視点に立ってヴァスバンドゥ自身の解釈上の特色を浮き彫りにする。

サンスクリット本、チベット語訳および5種類の漢訳によって伝承される『十地経』に対して、『十地経論』にはチベット語訳と漢訳それぞれ1本が現存する。本研究は、『十地経論』についてはチベット語訳を、また同論が依拠する『十地経』に関してはサンスクリット本とチベット語訳を中心とし、漢訳との比較考察を交えながら研究を進める。

(1)の序論において論文の目的と方法を論じ、先行研究への批判的な総括を行ったのち、『十地経』および『十地経論』のシノプシスを提示したうえで、両文献における「六相」と「唯心」の位置づけを明らかにする。六相を考察する(2)章では、総・別、同・異、成・壊(菩提流支訳)の6つの特徴の意味を両文献それぞれの文脈の中で検証する。『十地経』においては、『十地経論』の著者としてのヴァスバンドゥや従来の解釈に見るような教説の特徴をさすのでなく、菩薩行の内実にあたる階梯(地)相互の関係を3つの視点から対比的に特徴づけるものであると結論づける。そのうえで、ヴァスバンドゥによる経文解釈法としての「六相」解釈が、いかなるテキスト理解と独自の文脈設定において成立したものかを明快に論じる。唯心を論じる(3)章においても、著者は同様の方法を適用し、『十地経』の文脈を押さえたうえで、ヴァスバンドゥによる解釈の特色とともに、唯識・中観両学派による解釈論争とその背景をも明らかにしている。附論の「菩提流支の訳語について」、ならびに当該箇所の校訂テキストと訳注もまた貴重な貢献である。

以上のように、本研究は「六相」と「唯心」の両説を題材として、経典の思想内容に関する後代の発展的な解釈を、経典そのものの文脈に遡って検証し、そのうえで解釈上の変容と発展の経緯を明らかにするという方法の有効性を実証している。今後の『十地経』および『十地経論』研究に新たな視点と方法を提示し論証したという点で、本論文はきわめて意義のある業績として評価することができる。一部にやや明快さを欠く論述は見られるが、本研究の画期的な意義を損なうものではない。

以上の理由により、審査委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するに値する業績であると判断する。

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