学位論文要旨



No 126470
著者(漢字) 土屋,美子
著者(英字)
著者(カナ) ツチヤ,ハルコ
標題(和) ポリツィアーノ俗語作品研究 : 15世紀における俗語の再生と革新
標題(洋)
報告番号 126470
報告番号 甲26470
学位授与日 2010.10.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第784号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長神,悟
 東京大学 教授 浦,一章
 東京大学 准教授 村松,真理子
 埼玉大学 教授 伊藤,博明
 東京音楽大学 教授 鈴木,信五
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、アンジェロ・ポリツィアーノ(1454-1494)の俗語、すなわちイタリア語で書かれた作品を取り上げ、そこに認められる言語上の特徴である多様性の分析を通して、イタリア語史の観点から、15世紀に俗語の文語としての再生と革新がどのように成し遂げられたかを考察することにある。分析対象とするのは、『ジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチ殿の騎馬試合のためのスタンツェ』(以下、『スタンツェ』と略記)、『オルフェーオ』、『リーメ』であるが、ここには次元の異なる多様性が認められる。その第1は、先行作品からの摂取にみられる多様性であり、これは彼の作詩法の基本的特徴である。その第2は動詞形態にみられる多様性である。当時のフィレンツェでは1つの動詞のある法・時制・人称の屈折語尾に複数の語形が使用される現象、つまり語形の揺れがみられたが、それは彼の俗語作品を特徴づけている。その第3は韻律にみられる多様性であるが、これは『リーメ』と『オルフェーオ』の詩行に認められる。

ポリツィアーノは『イーリアス』のラテン語への翻訳で頭角を現し、当代随一の文献学者、古典語の詩人として名声を博したが、彼の俗語作品はイタリア語史の重要な局面を開くことになる。15世紀初期にはラテン語こそが完壁さの模範と考えられており、これに対して俗語の方は、文化を伝播する言語として危機的状況に陥っていた。ボッカッチョ没後の100年間をクロ一チェは「詩のない世紀」と評しているが、再び俗語は文学語として活力を見出す。ここでその方向性を決定づけたのは、俗語擁護論者ロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492)と人文主義者ポリツィアーノとの邂逅であった。前者の言語政策を詩という形で実現するために後者が『スタンツェ』に着手した1475年に、「詩のない世紀」には終止符が打たれるのである。

第1章ではポリツィアーノが俗語で創作した背景を解明するために、俗語人文主義やロレンツォ・デ・メディチの言語観について考察し、ポリツィアーノの作品に認められる民衆語法の受容や諺からの摂取について検討した。第2章から第5章においては、ポリツィアーノの作品の詩行に顕れている次元を異にする3つの多様性の分析を通して、俗語の再生とその展望について考察を加えた。

第1章では、15世紀に俗語の置かれていた状況について論じた。ラテン語に対する概念として用いられる「俗語」に対する共通の認識は、同時代のその土地のすべての人々に「理解される」言語ということであった。この世紀の中葉に俗語の再生に尽力したアルベルティ(1404-1472)の先駆的な試みは直ちに受け入れられたわけではなかったが、1453年のコンスタンティノープル陥落がイタリア語にとって重要な歴史的契機となる。東ローマ帝国からイタリアに移り住んだギリシア人の学者たちとの緊密な接触によって、ラテン語がギリシア語を模範としていたという事実が認識され、より完成された言語を原動力として己の言語を豊かにするというローマ人の手法が取り入れられた。ロレンツォ・デ・メディチが人文主義者ポリツィアーノに俗語作品『スタンツェ』を委託した理由は、前者の言語政策にあった。ポリツィアーノの作品に見られる諺的表現の使用は「理解される」言語、つまり俗語に対する作者の積極的な姿勢を示唆するものであり、民衆語法はロレンツォ・デ・メディチを取り巻く詩人たちの問で普及していた民衆詩受容の傾向の反映といえる。

第2章では先行作品からの摂取にみられる多様性を検討した。作者は俗語を格調ある豊かな言語にするために、古典や俗語詩から縦横無尽に着想、語彙、技法などを取り入れている。ポリツィアーノは唯一の模範の模倣を拒否し、幾多の卓越した作品から摂取し消化した上で独創性のある作品を創るべきであると主張しているが、その創作理論「博識豊かな多様性」は彼の作品中で見事に実践されている。『スタンツェ』においては、彼自身のこの創作理論と、ホラティウスの「詩は絵のごときもの」に端的に表されている詩論が重層構造を成しているのが認められる。人文主義の時代に受容された詩と絵画の並行関係を強調する思想に基づき、ポリツィアーノは詩においてどれほど絵画に匹敵する生き生きした描写がなしうるかという問題に挑んでいる。

第3章と第4章では、動詞の語形に着目して定量的分析を行い、形態論的側面から作者の語形選択の意図を解明しようと努めた。条件法においては、形態素の多形性が詩行に音の響きの豊かさをもたらしていること、-ei型と-ia型と-ra型のうちで優勢であるのは-ei型であること、これらの型の問には文法上の基本的な機能における相違が認められないことが確認される。15世紀のフィレンツェで顕在化していた語形の揺れは、1)14世紀の作家が主に用い、後にピエトロ・ベンボ(1470-1547)が規範として示した伝統的な語形、2)ポリツィアーノの時代にトスカーナで普及していた1)以外の語形、この両形の問にみられる揺れである。『スタンツェ』に関して文脈に沿って分析した結果、直説法現在、直説法半過去、直説法遠過去の3人称複数では上記2)の語形の方が優勢であることが確認された。この同時代性は生きた言葉を取り入れようとした作者の意図の顕れと考えられる。彼はフィレンツェの社会変動が言語に及ぼした影響を受け止め、14世紀の文学語では聴衆・読者の言語感覚と直に向い合うことが困難であると認識し、彼らの耳に快く響く語形を取り入れている。しかし接続法現在においては、上記1)の伝統的な語形が優勢である。この法・時制に関しては、『スタンツェ』の作者は文学語としての水準を保つような語形選択を意図的に行い、フィレンツェ共和国の国家的行事を祝賀する作品に格調の高さを与えたのである。

『スタンツェ』、『オルフェーオ』、『リーメ』で用いられている接続法の分析の結果、時制によって作者の語形選択基準が異なっていることを確認することができる。接続法半過去に関しては、同時代にトスカーナで普及していた語形の方が優勢である。それに対して、接続法現在では上記1)の伝統的な語形の方が優勢である。ここでは作者は意図的に語形を選び取っている。同時代に普及していた語形は殆どの場合、日常的に頻繁に用いられるような動詞に現れ、1人称の語りや直接話法の中で認められるが、当時の話し言葉の中における状況を反映しているものと考えられる。接続法現在の語形の揺れについては、韻文作品間にレジスターの差異が認められる。『リーメ』では同時代のトスカーナで普及していた語形の現れる頻度が『スタンツェ』の場合よりも高いのみならず、より多くの動詞の中で語形の揺れが認められる。言葉は生きものであると認識していたポリツィアーノには、多様な形態こそが好都合だったのである。動詞形態にみられる多様性の分析を通して確認されたのは、作者が法・時制によって、作品によって、文脈によって、語形を意識的に使い分けたこと、漫然と同時代の語法に従ったわけではなかったこと、彼の俗語作品問にはレジスターの差異が認められることである。

第5章では韻律にみられる多様性について考察した。『リーメ』に見出される多様な韻律形式は、作者の実験的手法の証である。『オルフェーオ』の詩行を彩る多韻律には、古代ギリシアのサテユロス劇の影響が認められる。悲劇や喜劇との比較において、サテユロス劇のジャンルを特徴づける要素は舞台で歌うこととされていたが、ポリツィアーノはこの要素を取り入れている。多韻律で構成されたこのテクストにはオペラに繋がる要素が内在している。『オルフェーオ』は音楽史において「オペラ以前のオペラ」と呼ばれているが、作者は詩と音楽を融合させるという試みに挑戦して劇作法における新機軸を打ち出したのである。

ポリツィアーノの俗語作品に認められる次元の異なる多様性は、俗語の再生や革新に繋がるものであると指摘することができる。先行作品からの摂取にみられる多様性は、俗語をラテン語に匹敵する水準に高めようとした作者の言語改革への意欲を示している。作者は己の創作理論を見事に実践しており、彼の作品中には人文主義時代の実り豊かな成果と俗語詩の伝統の影響が見出される。動詞形態にみられる多様性は当時のフィレンツェの言語状況を反映すると共に、語法は変化するものと捉えていた作者の認識を示している。彼は14世紀の作家たちが主に用いた伝統的な語形だけでなく、同時代の人々の言語感覚に合う語形を取り入れている。文語としての俗語の再生は、脈々と続いてきた詩の伝統から摂取されたものに、同時代の生きた語法という新たな息吹を吹き込むことによって成し遂げられたのである。

『オルフェーオ』にみられる韻律の多様性は、俗語から新たな可能性を引き出そうとした作者の意図を窺わせるものである。この作品は、彼が言語や音楽に対して抱いていた愛着の念と古代演劇への関心の結晶である。詩と音楽の力を体現した主人公の選択も、その後の音楽史を方向づける上で決定的であった。オペラの言語として最初に用いられたのはこの俗語、すなわちイタリア語であり、今日でもその不動の地位は揺らいでいない。ポリツィアーノの『オルフェーオ』はその流れの源に位置づけられる。果敢な精神の持ち主であった作者は、先行作品からさまざまな要素を摂取しながら、既存のジャンルの枠にとらわれずに己自身を表現しようとし、その結果、この革新的な作品によってイタリア語には新たな展望が拓かれたのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、15世紀イタリアの文人アンジェロ・ポリツィアーノ(1454-1494)が俗語(イタリア語)で執筆した韻文作品『スタンツェ』、『オルフェーオ』、『リーメ』を取り上げ、作品成立の文化史的背景をも視野に入れつつ、主として言語上の特徴の分析を通して、それらの作品がイタリア語史上で果たした役割を解明しようとしたものである。

第1章「俗語再生の道程とポリツィアーノ」では、15世紀フィレンツェにおける俗語人文主義を推進し、ポリツィアーノの俗語作品執筆にも深く関わったロレンツォ・デ・メディチの言語観について考察し、前者の作品との関連について論じている。また、ポリツィアーノの作品にみられる民衆語法や諺の摂取について検討を加えている。

第2章「先行作品からの摂取にみられる多様性」では、作者が古典や先行する俗語詩から着想、語彙、技法などを自己の作品に縦横に取り入れた実態について検討しつつ、ポリツィアーノの創作理論「博識ある多様性」(docta varietas)が作品中でいかに実践されているかを例証している。

第3章「動詞形態にみられる多様性(I)―直説法・条件法―」および第4章「動詞形態にみられる多様性(II)―接続法―」では、作品に用いられた動詞の語形に着目して定量的分析を行い、形態論的側面から作者の語形選択の意図を解明しようとした。

ポリツィアーノの使用した動詞形態には、1)14世紀の三大作家らが用い、後にピエトロ・ベンボ(1470-1547)らにより規範的な形態とみなされることになる伝統的な語形、2)ポリツィアーノの時代にトスカーナで普及していた1)以外の語形、の2系列の形態がみられる。土屋氏は、こうした動詞形態について詳細な検討を加えた結果、直説法においては全般的に2)の系列の形態が優勢であること、一方、接続法においては、時制により作品により優勢な形態の系列が異なることを明らかにしている。そして、語形選択に際して作者が韻律上の要請に加え、同時代の読者にとっての理解の容易さと伝統的な詩的言語に連なることの効用をともに考慮していたことを指摘している。

第5章「韻律にみられる多様性」では、『リーメ』と『オルフェーオ』にみられる韻律について検討を加え、多様な韻律で構成された後者のテクストにはオペラに繋がる要素が内在していると指摘し、イタリア語に新たな展望が開かれたことを示唆している。

本論文は、動詞の形態を論じた第3章および第4章と、他の章とのあいだで論述の手法に一貫性が欠けていること、とくに第1章および第2章において先行研究の調査ならびにその提示方法に不足や問題がみられることなどの不備はあるが、第3章ならびに第4章で行った多様な動詞形態に関する詳細な検討は、ポリツィアーノの俗語作品の解明に新たな知見をもたらしたものと高く評価できる。よって、本論文は博士(文学)の学位を授与するのにふさわしい論文であると判断する。

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