学位論文要旨



No 126473
著者(漢字) 金井,香里
著者(英字)
著者(カナ) カナイ,カオリ
標題(和) ニューカマーの子どもに対する教師の認知と思考
標題(洋)
報告番号 126473
報告番号 甲26473
学位授与日 2010.10.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第167号
研究科 教育学研究科
専攻 学校教育高度化専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,学
 東京大学 教授 秋田,喜代美
 東京大学 教授 小玉,重夫
 東京大学 教授 恒吉,僚子
 東京大学 教授 中釡,洋子
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、ニューカマー(新来外国人)の子どもをめぐる実践過程における教師の認知と思考を、教師が体験する複雑な経験世界として詳細に描き出すことである。

公立学校で学ぶニューカマーの子どもの数が急増したことを受け、1990年代半ば以降、ニューカマーの子どもに対する教育に関する研究が蓄積されている。しかしこれまでのところ、学校で日々実践を通じて子どもと関わる教師については詳細に検討されているとは言い難い。本研究では、ニューカマーの子どもの担任を受け持つ教師に焦点を当て、教師がニューカマーの子どもを学級に受け入れ、関わり、学びを支援する中で経験する困難を探究した。

本研究全体を貫く課題は、以下の二点である。第一に、ニューカマーの子どもに対する教師の実践を、教師の内的な経験世界として詳細に描き出すことである。具体的には、ニューカマーの子どもをめぐる実践過程における教師の認知と思考を、三つの次元で考察し記述する。三つの次元とは、子どもに対して付与する表象(representation)、子どもへの対処のありようを思考する中で経験する葛藤(dilemma)、戦略(strategy)を構築し採用する過程で経験する葛藤であり、それぞれ第一部、第二部、第三部で扱っている。第二の課題は、ニューカマーの子どもをめぐる教師の実践を教師の外側から考察し、教師の内的経験と関連付けて記述することである。教師の対処は、教師の意思とは別に子どもを差別したり教室での学びから排除するよう作用する可能性がある。教師の対処が子どもの学びの経験に対して及ぼす作用を、教師がある対処を行う背景(教師の認知と思考)に関連付けながら描き出すことを試みた。

教師の経験世界に接近するにあたって本研究では、教師が教室での実践や学校内外での他者との関わりを通じてつくり出す個人的事実に着目した。具体的には、教師が、ニューカマーの子どもないし子どもに関わる事象に対して付与する表象と、ニューカマーの子どもやその親、自らの実践のありよう等をめぐってつくり出す物語(story)を扱った。教師一人ひとりの内部には専門的知識の風景(professional knowledge landscape; Clandinin & Connelly 1995,1996)があって、教師はそこに立ち現れる表象や物語を参照しながら実践を行っている。

本研究は、神奈川県内二つの都市に位置する公立小学校二校で断続的に行ってきた調査で収集した教師六人のデータないしフィールド・テクスト(field texts; Clandinin & Connelly 2000)をもとに行った。

第一部(第1章~第3章)では、教師が子どもに対して付与する表象に着目し、教師が子どもをめぐってつくり出す個人的事実(表象)と子どもが現に生きる経験世界の間の齟齬を描き出すことを試みた。第1章では教師の表象についての理論的な検討を行い、教師が子どもたちの差異に対して表象を付与し対処することによって教室で生起する事態を、ボーダー(border; McDermott & Gospodinoff 1981, Erickson 1986/1997)という概念を用いて明らかにした。教師が子どもたちの差異を認知し対処すると、そこにはボーダー(与えられる権利や課せられる義務の内容、適用される賞罰の基準等が異なることを表す境界線)が形成される。しかしその一方で教師はボーダーを調整し、ボーダーのそれぞれの側に位置する子ども相互の関係に配慮しながら、子どもたちが一定水準に到達するよう試みている。ここでは文化の可視性の度合い(Hall 1959, 1976)という観点をも考慮しつつ、教師が表象を付与すれば、教師には子どもの経験世界のある別の側面が見えにくくなり、教師は意図せずして子どもを差別したり教室での学びから排除する可能性があることを指摘した。

第2章、第3章では事例を取り上げた。第2章では、先行研究でニューカマーの子どもがある程度流暢な日本語を話すようになると教師には子どもの文化的背景に派生する差異は考慮されにくくなることが指摘されている点に着目し、こうした事態はなぜ起きているかを解明した。教師三人の事例を取り上げ、教師内部ではボーダーの置き換えや解消が起きていることを指摘した。ある教師は、子どもの日本語の運用能力を発言力という観点から考慮していた(ボーダーの置き換え)ことから、発言力が高いと認識した子どもが授業中日本語で学習する上で困難を経験していることは想像しにくくなっていた。別の教師は、子どもが、高い理解力と日本語能力の向上によって文化の差異によるボーダーを乗り越えており、困難は解消されつつあると認識していた(ボーダーの解消)。

しかしここで、教師は子どもの文化的背景に関わる知識(国籍、生育歴等)をもち合わせていながらも子どもに対処するにあたってはなぜ子どもの文化的背景を考慮しにくくなっているのか、という問いが生まれる。そこで第3章では、教師が子どもに対して付与する表象を二つの様式(国籍や生育地に関わる表象、性格や情緒といった個人レベルの表象)で着目し、子どもの国籍や生育地に関わる表象は教師が子どもの言動を意味付けるにあたってどのように作用しているかを検討した。ここでは教師二人の事例を扱った。ある教師が教室で逸脱しがちな子どもの言動を意味付けるにあたっては、子どもの国籍や生育地に関わる表象のうちでも、日本人との同質性を強調する表象(日本生まれ日本育ち)が異質性を強調する表象(両親の国籍と滞日歴)よりも優位に立ち、子どもの逸脱行為は子どもの知能と家庭の問題として認識されていた。別の教師は逆に子どもの異質性を強調する表象(国籍)を念頭に置きつつ子どもと関わっている。が、この表象によって子どもの経験している喪失、文化的アイデンティティの揺らぎは考慮されにくくなっていた。

第二部(第4章、第5章)では、教師のつくり出す物語に着目し、教師がニューカマーの子どもをめぐる実践過程で経験する葛藤と困難を描き出すことを試みた。第4章では教師のつくり出す物語に関する理論的な検討を行い、教師がニューカマーの子どもへの対処のありようを思考する中で経験する葛藤を分析するための枠組みを提示した。教師は、これまでの経験を通じて構築してきた(そして、今なお構築の過程にある)専門的知識の風景の中で実践を行っている。ここでは、そこに立ち現れる「履行すべき物語」(sacred stories)や「生きられた秘密の物語」(secret lived stories)等のさまざま物語の間の相互作用を分析することでニューカマーの子どもに対する実践をめぐって教師が経験する葛藤の一端を見出すことが可能であることを指摘した。

第5章では教師二人の事例を扱い、教師が自らの実践に異文化の受容という「履行すべき物語」を採り入れようとしたことでどのような葛藤を経験し、子どもの学びの経験にはどのような作用を及ぼしていたかを検討した。教師は、子どもの気持ちや親の思いを重視したり、学級経営を担う教師として履行すべき事項を重視することで、葛藤に折り合いをつけている。しかしこうした判断のもとでとった対処は、時に子どもの学びの経験に対して教師の意思とは異なる作用を及ぼしており、子どもが教室での学びの機会を逸するという事態も起きていた。

第三部(第6章)においても物語に着目し、教師が自らの経験する葛藤を克服しようとして戦略を構築し採用する過程で経験する困難を描き出すことを試みた。ここでは、戦略の構築と採用をめぐって教師が経験する困難を分析するための枠組みを提示した上で、教師三人の事例を検討した。ある教師は、子どもの家庭学習や日本語での表現活動への取り組みのありようを改善しようする中で戦略を採用したものの、別の葛藤を経験するに至っている。また、他の子どもとの間に良好な関係を築けずにいる子どもを配慮しさまざまな戦略を採用したものの事態に変化は見出せず、なかなか解決には至れずにいた。別の教師は、授業中個別の配慮が必要な子どもへの対応をめぐって戦略を採用したものの、自らの意図していない事態を経験し困惑していた。さらに別の教師は、子どもへの例外的な対応をめぐって戦略を編み出していたもののその採用のあり方について葛藤していた。

本研究を通じて明らかになったのは、以下三点である。第一に、教師は意図的にニューカマーの子どもに対して同化を促したり差別、排除しているのではない。子どもに対する問題表象のありようによっては、子どもを差別したり教室での学びから排除する可能性が生まれている。第二に、教師がニューカマーの子どもの文化的背景を考慮し他の子どもたちとは異なる対処をすれば、教師の意図しない事態が生起する可能性がある。教師の意図しない事態には、子どもを教室での学びから排除することも含まれる。第三に、教師は葛藤を克服しようとして戦略を編み出してもなお、葛藤や困難を経験している。

従来の研究では、日本の学校では同質化圧力が強くニューカマーの子どもは文化的背景に派生する差異を認められず排除されているという認識のもとで、子どもの文化的背景を考慮し日本の子どもたちに対するものとは異なる対処を行うことの必要性が主張されている。しかし本研究で明らかになったのは、教師にとって子どもの文化的背景を配慮するということはさまざまな葛藤の伴う終わりなき取り組みであり、従来の研究で主張されてきた認識枠組みでは説明され得ない複雑さとそれゆえの難しさを孕んでいるということである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、小学校のニューカマーの子どもに対する実践的な対応を教師の内的経験世界として描き出し、子どもに対して教師が付与する表象によるボーダー(境界線)の形成、子どもへの対処を思考する過程で教師が経験する葛藤、および、教師が実践的解決を模索する戦略を構想し実行する過程で派生する葛藤における教師の認知と思考の実態が探究されている。本論文は、この三つの課題領域に即して以下の三部で構成されている。

第一部では、教師が子どもの差異を表象する事態において教室にボーダーが形成される事態に着目し、そのボーダーによって文化的差異が不可視となり、意図せずして子どもを学びから排除する危険があることが、表象の政治学の理論によって提示される(第一章)。続いて三人の教師の事例にもとづき、子どもが流暢に日本語を話すようになると文化的背景が考慮されなくなること(ボーダーの置き換え)や、高い日本語能力によって文化的差異を克服したと認識されがちなこと(ボーダーの解消)が指摘される(第二章)。さらに二人の教師の事例にもとづき、子どもの国籍や生育地に関わる表象が考察され、日本人との同質性が強調される表象では子どもの逸脱行為や学習の困難が知能と家庭の問題として認識され、逆に子どもの異質性が強調される表象においても文化的アイデンティティの揺らぎや喪失が考慮されにくくなる事態が生じることが明らかにされている。

第二部は、ニューカマーの子どもへの対処の過程でつくりだす教師の物語が分析され、実践過程における教師の経験世界の葛藤が描出される。この考察にあたって、まず「履行すべき物語」と「生きられた秘密の物語」との相互作用の検討によって教師の葛藤を開示する方法が示され(第4章)、教師二人の事例が考察されている(第5章)。事例によれば、教師の子どもと親への配慮が、時に子どもの学びに対して意図せざる作用を及ぼし、子どもの学びの機会を逸する事態も生じていた。

第三部(第六章)は、教師が採用している葛藤の解決のため実践的な戦略を三人の事例に即して考察している。子どもの家庭学習や日本語の表現活動に解決策を求めた教師の場合も、他の子どもと良好な関係を築けない子どもへの対応を戦略として採用した教師の場合も、あるいは、教室の他の子どもとは異なる例外的対応で対処する戦略を用いた教師の場合も、教師は実践的な戦略の構築や採用において葛藤を経験し、対処の戦略自体が新たな葛藤を生成する事態が指摘されている。

本論文は、ニューカマーの子どもの教育が直面している問題を教師の側の問題として考察した最初の本格的研究であり、教師の経験世界の葛藤を描出した点において独創的な研究である。特に、教師の表象と対処が意図せずして子どもの文化的差異を不可視にし無化する危険性を指摘した点、および、教師の実践的な対処が葛藤を複雑化する事態が生じるメカニズムを解明した点で重要な成果を収めている。よって、本論文は博士(教育学)の学位の水準に達しているものと評価された。

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