学位論文要旨



No 126474
著者(漢字) 相原,孝次
著者(英字)
著者(カナ) アイハラ,タカツグ
標題(和) 視知覚と環境ゆらぎの相互作用に関する実験的研究 : ヒト脳における確率共振に内部ノイズが及ぼす影響
標題(洋) An experimental study on interaction between visual perception and environmental fluctuations : Effects of internal noise on stochastic resonance in the human brain
報告番号 126474
報告番号 甲26474
学位授与日 2010.10.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第168号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山本,義春
 東京大学 教授 多賀,巌太郎
 東京大学 准教授 野崎,大地
 東京大学 教授 南風原,朝和
 東京大学 准教授 遠藤,利彦
内容要旨 要旨を表示する

弱い音が繰り返し呈示された場合、聞こえるときもあれば聞こえないときもある。できるだけ速くボールを蹴る行為を繰り返した場合、ボールのスピードは毎回変わる。このように、条件(音圧レベル、課題の目標)をできるだけ一定に保っても、ヒトの知覚や行為には変動が存在する。変動は神経のレベルでも観察され、神経活動における変動が知覚や行為における変動を引き起こしているという報告がある。変動は脳・神経系の内外に存在するノイズ(ランダムなゆらぎ)に由来していると考られ、このようにノイジーな環境におけるヒトの脳・神経系の動作原理を理解することは重要である。

従来、ノイズは信号の検出を妨げる邪魔者と考えられてきた。ところが近年、ある種の非線形系では適度な強度のノイズが存在することによって微弱な信号を検出する能力が向上するという確率共振(stochastic resonance;SR) が起きることが、理論的に明らかにされてきた。さらに、物理・化学・生物など様々な系で、実験的にもSR現象の存在が確認されてきた。ヒトを含めた生物の脳・神経は非線形な系であり、ノイズが存在するため、ヒトの知覚においてもSR現象が注目を集めている。実際、視覚を含めた様々な感覚モダリティにおいて、ノイズ存在下で知覚機能が向上しうることが報告されている。

従来のヒト知覚におけるSR研究の多くでは、外部から人為的に加えたノイズ(外部ノイズ)の強度と知覚機能とのあいだの関係だけに注意が向けられており、脳・神経系に内在するはずのノイズ(内部ノイズ)の存在はほとんど見過ごされてきた。そこで、本研究は、内部ノイズの存在に注目し、ヒトの(視)知覚において外部ノイズによるSR効果に内部ノイズが及ぼす影響を調べることを目的とした。

1) 外部ノイズによる視知機能覚向上と内部ノイズとの関係

外部ノイズを加えると知覚機能が向上する(SRが起きる)被験者もいれば、低下するだけの(SRが起きない)被験者もいることが報告されている。このことから、被験者が外部ノイズの印加による機能向上を示すか否かは、何によって決定されるのかという疑問が生じる。この問いに対して、被験者の内部ノイズレベルが外部ノイズによる機能向上の有無を決定している(内部ノイズが小さいほど外部ノイズによるSR効果が大きい)という仮説を立て、視覚コントラスト検出課題を用いて実験的に検証した。コンピュータの右画面にグレイレベルが矩形波状に時間変化する画像(信号)を、左画面にグレイレベルがランダムに時間変化する画像(外部ノイズ)を呈示し、ステレオスコープにより各眼に分離入力した。被験者は、信号と外部ノイズが融合した画像を見て、信号を検知した場合にボタンを押す課題を行った。

内部ノイズを定量化するために、心理測定関数の「広がり」を用いた。心理測定関数は、信号強度xと信号検出確率Px の関係であり、累積ガウス関数:によって近似できる。ここで、αを「閾値」、βを「広がり」と呼ぶ。「広がり」は試行間変動の大きさを反映しているので、脳内ノイズレベルを反映すると仮定した。すると、外部ノイズが無い実験条件で得られる「広がり」が内部ノイズレベルを反映すると考えられる。実際に、外部ノイズレベルに対して「広がり」をプロットすると(図1A)、「広がり」は外部ノイズレベルの単調増加関数となることから、この仮定の妥当性が確認された。従って、外部ノイズが無い条件で得られる「広がり」を内部ノイズレベルの指標として用いることができる。外部ノイズ印加による信号検出理論の感度指標dの(外部ノイズ無し条件に対する)増加量など、外部ノイズによる知覚機能向上(SR効果)の指標を三種類定義した。いずれの指標においても、内部ノイズレベルの指標とSR効果の指標との間には有意な負の相関が存在した(図1B)。この結果は、内部ノイズが小さいほど外部ノイズ印加による機能向上が大きいことを意味しており、仮説を支持するものである。

2)を組み込んだ心理測定関数のベイジアン適応的推定:Ψ-SR法

心理測定関数はヒトの知覚能力を定量化するために広く用いられているが、SRのメカニズムによりノイズが知覚に影響を与えるにもかかわらず、従来の心理測定関数はノイズを変数に持たない。この点で、知覚能力を表現するには従来の心理測定関数では不十分だと言える。そこで、本研究では、閾値型SRの理論および実験研究に基づき、新たにSRを組み込んだ心理測定関数を提案した。ここでは、心理測定関数P(x)(式1)の「閾値」αはノイズ強度(=「広がり」β)のU字型関数として(SRの特徴)、「広がり」βは外部ノイズ強度yの単調増加関数として表現される(a,b.c,dはパラメタ):式2より、閾値αはβ=bで極小となるため、パラメタbはSRの最適ノイズ強度に相当する。また、式3より、パラメタdは外部ノイズが無いとき(y=0)のβに一致するので、パラメタdは内部ノイズ強度に相当する。

実際の心理物理実験データに対する提案関数の適合度を調べるため、1) で得られた実験データを用いてx2検定を行った。ほとんどの被験者(19名中14名)において、実験データは提案関数によく適合していた(x2<28.06,df=20,p>0.1)。従って、提案関数の妥当性が確認された。

ところで、提案関数のような二つの変数(信号と外部ノイズ)を持つ心理測定関数を、一般的な恒常法を用いた実験で推定する場合、多数の試行(千試行以上)を必要とする。そこで、より効率的に推定するために、ベイズの定理に基づく適応的な推定法であるΨ法を拡張し、提案関数に適用する手法(Ψ-SR法)を開発した。Ψ-SR法は、二段階でパラメタを推定する。前半(数百試行)ではオリジナルΨ法により、外部ノイズが無い条件での一変数心理測定関数を推定する。この段階でパラメタdが決まる。後半ではΨ法をモデルに適用することにより、残りのパラメタ(a,b,c)を推定することで、提案関数が推定できる。

モンテカルロ法によるコンピュータ・シミュレーションを行った結果、ΨSR法により約500試行で2dB以下の推定精度でパラメタの推定が可能であることが分かった(図2)。そして、Ψ-SR法を用いた実際の心理物理実験(視覚コントラスト検出課題)を行った結果、約500試行以内でパラメタの推定値が収束し、恒常法による実験結果と類似したパラメタ推定値が得られた(表1)。これらの結果から、Ψ-SR法の有効性が確認された。

外部ノイズによってSRが起きる可能性があるか否かは、パラメタb(SRの最適ノイズ強度)とd(内部ノイズ強度)の大小を比較すれば分かる。すなわち、b>d であれば、外部ノイズを加えることでノイズ強度が最適化され、SRが起こる可能性がある。Ψ-SR法による実験では、外部ノイズによってSRが起きる可能性のある被験者の割合が全被験者の約3分の1であり、約2分の1であった先行研究や恒常法実験の場合よりも低かった。Ψ-SR法実験の場合、提案関数へのフィッティングにより推定されたパラメタを使ってSR生起の可能性の有無を決定しているため、SR生起の可能性が低くなる傾向があるためと考えられた。

本研究において、外部から加えたノイズによってSRが起きるか否かは、知覚における変動(心理測定関数の「広がり」)の大きさによって決まるという実験結果が得られた。知覚の変動は脳・神経系に内在するノイズを反映していると考えられることから、本研究は、外部ノイズと内部ノイズの両者が脳・神経系におけるSRに関与することを初めて明確に示したという点で重要な意義があると考えられる。さらに、本研究で開発したΨ-SR法は、信号およびノイズの強度と知覚との関係を効率的に推定することを可能にし、さらにSRの最適ノイズ強度や内部ノイズ強度を推定可能にするため、ノイズでヒトの知覚機能を高めるというようなSRの(臨床)応用においても大きく寄与すると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

脳・神経系には乱雑な背景活動があり、環境からの乱雑な揺らぎにも曝されている。このようなノイジーな環境の中で、脳・神経系がいかにして頑健性を維持しているのかを理解することは、現実的・応用的観点からも重要である。本論文は、心理物理学的手法を用いて、この問題に関する理解を一歩進めることを試みたものである。

第1章で序文を述べた後、第2章において、この問題に接近する際の鍵となる確率共振(Stochastic Resonance; SR)現象-非線形系において微弱な信号を検出する能力が適度な強度のノイズ存在下で最大となる現象-の理論的背景、神経科学におけるSR研究の進展状況を述べている。そして、従来のヒトの知覚に関するSR研究は、人為的に与えた外部ノイズによりSRが起きるかどうかを調べるだけで、脳・神経系の乱雑な背景活動、すなわち内部ノイズがSRに及ぼす影響について体系的に調べてこなかったことを指摘している。

第3章では、内部ノイズレベルを調べるために本論文で用いられた心理測定関数について述べられている。心理物理学における支配的な理論である信号検出理論に基づき、外部ノイズをゼロに近づけた際の心理測定関数の「広がり」を内部ノイズと見なしうることを理論的に示している。

第4章では、外部ノイズを印加することにより全ての被験者でSRが起きるわけではないのは何故かという問題に関して、「内部ノイズレベルがSR効果を決定している」という仮説を提案し、視覚コントラスト検出課題を用いて実験的に仮説を検証している。ここにおいて、内部ノイズレベルが小さいほど外部ノイズ印加によるSR効果が大きいという、本論文の最も重要な結論が得られた。

第5章では、SR効果を考慮した新しい心理測定関数を提案し、実際の心理物理実験のデータに適合することを確かめている。さらに、提案関数を短時間で効率的に推定するために新たなベイジアン適応的推定法を開発した。コンピュータ・シミュレーションと実際の心理物理実験により、本法が約500試行で効率的に提案関数を推定可能であることを明らかにしている。

第6章では、SR効果が内部ノイズレベルで決定されるという本論文で明らかになった知見が、ノイズでヒトの機能を高めるというSRの(臨床)応用に新たな光を投げかける可能性を主張している。さらに、本論文で提案したベイジアン適応的推定法が、このようなSRの応用に有用であることを主張している。最後に、認知機能の基盤とされる脳領域間の活動同期現象にSRが関与している可能性等について考察を加えている。

本論文は、脳・神経系内外の不確かさを考慮したヒト視知覚の成立に関して、外部ノイズによるSR効果に内部ノイズが及ぼす影響を初めて実験的に示した点、およびSR効果を考慮した新たな心理測定関数を効率的に推定する手法を開発した点で、特に意義が認められる。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。

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