学位論文要旨



No 126476
著者(漢字) ,真介
著者(英字)
著者(カナ) カワサキ,シンスケ
標題(和) 超冷中性子用ピクセル検出器の開発と重力場中での量子状態観測
標題(洋) Development of a Pixel Detector for Ultra-Cold Neutrons and Measurement of Quantum States in the Earth Gravitational Field
報告番号 126476
報告番号 甲26476
学位授与日 2010.10.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5581号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 坪野,公夫
 東京大学 教授 徳宿,克夫
 東京大学 教授 坂本,宏
 東京大学 准教授 浜垣,秀樹
 東京大学 准教授 浜口,幸一
内容要旨 要旨を表示する

超冷中性子とは運動エネルギーが100neV程度、速度が5m/s程度の超低エネルギーの中性子である。そのドブロイ波長は数10nmと計算される。物質に超冷中性子が入射することを考えると波長が原子間距離に比べ十分に長いため、超冷中性子は物質の核ポテンシャルを空間平均した擬フェルミポテンシャルを感じることになる。一般的な物質の擬フェルミポテンシャルは数100neVであり、超冷中性子は物質表面で全反射する。このような特徴を持つ超冷中性子は物質容器内に閉じ込めることも可能である。また、地上で中性子の感じる重力場の強さはおよそ100neV/mであるため、超冷中性子は鉛直方向に数メートルしか到達することができない。

このような超冷中性子の特徴を利用して、重力場による超冷中性子の量子状態を観測する実験を行った。水平に広がる物質床の上を超冷中性子が飛行している系を考える。古典的に考えると、超冷中性子は重力を感じ放物線運動をし、床にぶつかると全反射するということを繰り返し、水平方向に進んでいく。この系では中性子は重力場と床のポテンシャルによって束縛されることになる。このようなポテンシャルについてシュレディンガー方程式を解くと解は量子化し離散的なエネルギー固有状態となる。その解であるエアリー関数は準位に応じて複数の節・腹を持つ。そのため固有関数の二乗である存在確率分布は高さ方向に濃淡を持つことになる。この濃淡の分布のスケールは(h2/2m2g)1/3であり、中性子の質量の場合は5.87μmと計算される。第3準位目までの存在確率分布を図1に表す。

この量子状態を明瞭に観測するための装置を開発した(図2)。測定器は主に超冷中性子を観測可能な量子状態に落ち着かせるための超冷中性子ガイド、超冷中性子の高さ分布を拡大するための拡大機構、超冷中性子用ピクセル検出器からなる。超冷中性子ガイドは底面に反射鏡、上面に中性子吸収・散乱体を配置した薄いガイドで、その高さは100μmである。超冷中性子ガイドに入射する時、超冷中性子は多数のエネルギー固有状態の重ね合わせとして表現されるが、この超冷中性子ガイドを通過する際、高い準位のエネルギー状態は上部の中性子吸収体・散乱体で吸収・散乱されるため、低いエネルギー準位のみが選択的に通過することになる。このとき、超冷中性子ガイド端部での超冷中性子の高さ方向の存在確率分布は濃淡の分布を持ち、量子状態の観測が可能になる。この存在確率分布を位置分解能よく観測するために高精度に制作された円筒を拡大鏡として用い、拡大機構を構築した。この機構を用いることで、超冷中性子の高さ方向の分布はおよそ20倍に拡大することができる。中性子検出器として超冷中性子用ピクセル検出器を開発した。この検出器はCCDセンサの表面に中性子コンバータを形成したものである。中性子コンバータとしては10Bを用いた。中性子は電荷を持たないため、直接観測することはできないが中性子と10Bの核反応によって生じる荷電粒子をCCDセンサでとらえることにより中性子の検出が可能になる。この超冷中性子用ピクセル検出器を新規に開発することに成功した。中性子吸収体であるGdを使ったマスクを準備し、中性子ビームを照射した際にできる影の明瞭さを解析することにより、中性子検出の位置分解能を評価した。その位置分解能は2.9±0.1μmである。これら、拡大機構と中性子用ピクセル検出器を組み合わせることにより、サブミクロンで超冷中性子の高さ分布を測定することが可能になる。

この測定装置を用い、フランス・グルノーブルにあるラウエ・ランジュバン研究所において重力場中での超冷中性子の量子状態観測実験を行った。ラウエ・ランジュバン研究所は現在世界最大の強度を持つ超冷中性子源を持つ。実験では、まず超冷中性子ガイド上面の中性子吸収・散乱体の選定を行った。吸収体にはGd金属とTi/Gd/Zr合金の2種類を用意した。Tiは中性子に対して負のポテンシャルを持つ。そのためTi/Gd/Zr合金は実部のポテンシャルが小さく、吸収率を高くすることができると考えられる。また、上面の中性子吸収体表面に粗さを持たせることにより、さらに吸収率を有効的に向上させることができる。これは古典的には、ほぼ水平に飛行している超冷中性子が粗い面で散乱される際に鉛直方向の運動量を持つようになり、吸収体にぶつかる回数が増え、吸収率が向上されるためである。われわれは異なる粗さを持つ吸収体Gd金属、Ti/Gd/Zr合金のそれぞれについて準備し、どの吸収体が有効に働くか調査した。その結果、Ti/Gd/Zr合金吸収体で粗さRa=0.4μmのものを超冷中性子ガイド上部の中性子吸収・散乱体に選定した。

拡大円筒にはタングステンカーバイド(WC)製の拡大鏡とNiめっきを施したWC製の拡大鏡を準備した。Niは中性子に対するポテンシャルが大きく、大きな反射率を持つ。しかし、表面の粗さが原因で中性子の高さ分布を明瞭に観測することはできなかった。

WC製の拡大鏡を用いて取得したデータを最尤法によって解析した。古典量子力学が予想する分布と量子力学による分布の尤度を比較した結果、測定結果は量子力学による分布のほうが信頼性が高いことが示された。

また、得られたデータを用いて未知短距離力に対する制限を加えることに成功した。重力相互作用は電磁相互作用やその他の相互作用に比べ桁違いに小さいため、10μm程度より短い距離での検証が難しく、実験データも少ない。しかし、本実験で用いている系は中性子が中性子ガイドを形成する物質の近傍に位置するので、このような近距離力の検証には大きな力を発揮する。未知短距離力の存在を予測する理論には様々なものがあるが、粒子スピンと物質の間に働く未知短距離力の存在を予測する理論がある。その理論では粒子スピンと物質の間に働くという相互作用のポテンシャルを予想している。gpgsは相互作用の強さを示すパラメータ、λは相互作用の到達距離である。このような近距離力が存在する場合、超冷中性子の高さ分布は量子力学の予想と異なる分布になるが、最尤法での解析の結果、そのような力の存在は確認されなかった。実験の結果により、この相互作用のポテンシャルについて到達距離λ=10μmのとき、相互作用の強さにgpgs<4.0×10-14 (68%C.L)という制限を加えることができた。

審査要旨 要旨を表示する

論文提出者は、フランス・グルノーブルにあるラウエ・ランジュバン研究所において、現在世界最大の強度をもった超冷中性子源を用いて重力場中での超冷中性子の量子状態観測実験を行った。超冷中性子とは運動エネルギーが100neV程度、速度が5m/s程度の超低エネルギーの中性子である。そのドブロイ波長は数10nmと十分に長いため、物質に超冷中性子が入射すると、超冷中性子は物質の核ポテンシャルを空間平均した擬フェルミポテンシャルを感じることになる。一般的な物質の擬フェルミポテンシャルは数100neVであり、超冷中性子は物質表面で全反射する。このような超冷中性子の特徴を利用して、重力場中における超冷中性子の量子状態を観測する実験が行われた。

本論文は全7章からなる。第1章ではこれまでに行われた関連実験の紹介を含む序論となっている。第2章では、超冷中性子の重力場中の運動を量子論的に取り扱っている。水平に広がる物質床の上を超冷中性子が飛行している系を考え、シュレディンガー方程式を解くと解は量子化し離散的なエネルギー固有状態となる.その解であるエアリー関数は準位に応じて複数の節・腹を持つ。そのため固有関数の二乗である存在確率分布は高さ方向に濃淡を持つことになる。第3章では、実験のセットアップが述べられ、今回開発した量子状態を明瞭に観測するための装置について説明されている。主な測定器は超冷中性子を観測可能な量子状態に落ち着かせるための超冷中性子ガイド、超冷中性子の高さ分布を拡大するための拡大機構、超冷中性子用ピクセル検出器からなる。特に拡大機構は、位置の分解能を上げて観測するためのものであり、超冷中性子の高さ方向の分布をおよそ20倍に拡大することができた。その位置分解能は2.9±O.1μmである。この測定器は超冷中性子の飛来位置を高位置分解能で記録できるだけでなく、その時間情報も記録できるというこれまでの中性子検出器にない特徴を持っている。次に第4章では、実験で得られたデ一タの解析が行われている。第5章では得られたデータをもとに、短距離における重力法則の検証が行われている。近年、ストリング理論などをもとにして短距離における重力法則の逆二乗則からの破れが示唆されている。本研究はμmレンジにおける重力の破れについて一定の限界を与えることに成功した。重力相互作用は電磁相互作用やその他の相互作用に比べ桁違いに小さいため、10μm程度より短い距離での検証が難しく、実験データも少ない。しかし、本実験で用いている系は中性子が中性子ガイドを形成する物質の近傍に位置するので、このような近距離力の検証には大きな力を発揮する。未知短距離力の存在を予測する理論には様々なものがあるが、2つのモデルについて未知短距離力の検証が行われた。1つは一般的な重力ポテンシャルのほかに次式のような湯川型のポテンシャルが存在する場合であり、〓その上限としてλ=10μmのとき1αl<2.Ox1O11、λ=5μmのとき1α1<1.5×1012(90%C.L)の制限を加えることができた。また、重力のスピン依存性も調べられ、新たな上限が得られている。第6章では、将来的に可能な装置の改善と、それに伴う結果改善の予測が述べられている。第7章は結論である。

以上のように、本論文は超冷中性子の重力場中での量子状態を観測する実験について述べたものである。観測装置においては、超冷中性子の高さ分布を拡大するための拡大機構および超冷中性子用ピクセル検出器の新規開発は高く評価できる。また、未知短距離力の存在を予測する理論に対して制限を与えたことは新しい知見である。特にこれまで実験の少なかったμmレンジで、湯川型の付加ポテンシャルおよびスピン依存力の上限について制限を与えたことは興味深い結果であり高く評価できる。これらは今後の超冷中性子および重力研究に大きく貢献する成果であるといえる。

なお本論文は共同研究として進められたが、論文提出者が主体となって開発、研究を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断される。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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