学位論文要旨



No 126482
著者(漢字) 加藤,有子
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,アリコ
標題(和) 場所を開く : ブルーノ・シュルツの絵画と小説
標題(洋)
報告番号 126482
報告番号 甲26482
学位授与日 2010.10.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1027号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 浦,雅春
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 教授 田中,純
 東京大学 教授 沼野,充義
 東京大学 名誉教授 杉橋,陽一
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、両大戦間期のポーランド語作家であり画家ブルーノ・シュルツ(1892-1942)の絵画と小説の両方を体系的に論じる初のモノグラフィである。

シュルツは1910年代後半に画家として創作活動を開始し、1920年代の画家時代を経て、1930年代に小説家として頭角を現した。小説中心に展開した従来のシュルツ研究では、シュルツの創作活動は執筆活動の10年に限定されることが多い。絵画は小説の「図解」、作者の性格を知る資料として文学研究において副次的に扱われ、小説と絵画は文学研究と美術史研究という異なる学問領域に分断されて研究されてきた。

本論文は1910年代末の初期ドローイングから1930年代の二つの短編集『肉桂色の店』(1933)と『砂時計の下のサナトリウム』(1937)まで、シュルツの創作を画家時代に遡って20年間と取ることによって、絵画制度や物語/歴史自体を絵画や小説で問う自己言及的主題をシュルツの作品に一貫するものとして浮かび上がらせ、絵画から小説までを一つの発展過程のうちに捉える。

そこから明らかになるのは、シュルツが芸術作品/現実、そしてイメージ/言葉という区分けを一貫して問い、それに代表される様々な二項対立的図式―像/文字、描く/書く、現実/虚構、オリジナル/コピーに分類不可能な作品を制作することによって、その問い自体を提示することである。本論文では、こうした特徴を成り立たせるシュルツのものの見方を一つの動的モデルとして記述するとともに、作品というメディアに高い関心を抱き、作品を一個の構造体として理知的に構築した芸術家であり理論家という新しいシュルツ像を提示する。

本論文は三章から成る。作品成立の順番に従い、第一章で絵画、第三章で小説を扱う。二つの章をつなぐ第二章では、絵画と文学というジャンルの区分を解消する重要なトポスとして、シュルツの作品に現れる「書物」像に注目し、シュルツにとっての「書物」を視覚的なものと言語的なものを包括する一つの芸術ジャンルとして読み解く。

ジャンルの異なる作品を通史的に論じるにあたり、本論文が取る方法は次の二つに要約できる。

第一に、シュルツの作品とその特徴的モチーフに見られる既存の形式や作品の受容の痕跡を分析の手掛かりとする。シュルツは絵画に関する知識、そして自然科学から文学までの幅広い読書体験の上に作品を作り上げている。その取り込みの手法の考察を通し、シュルツの作品観とその展開を明らかにしていく。

第二に、作品の内部に描かれた事象、出来事の解釈や修辞の分析ではなく、現実、作者、受容者との関わりの中でシュルツの作品を捉え直す。シュルツに関する一次資料のほとんどが第二次世界大戦中に失われた事情もあり、従来の文学研究は戦後の再刊本を一次資料に、絵画研究は主に絵画集再録の複製をもとにした主題論が中心であった。本論文では、1930年代の初版本と可能な限りの初出の雑誌、絵画の一次資料に当たり、シュルツが発表した「物」として絵画と小説本を調査することで、作品の形態や形式、受容に対するシュルツの意識を浮かび上がらせる。

第一章では、これまでほとんど論じられることのなかった1920年前後の初期ドローイングが画中画、額縁の表象、物語画の模倣、見る/見られる関係の視覚化によって、絵画を絵画と認識する制度自体を前景化する「絵画についての絵画」であることを論じた。

シュルツは画中画を肖像画の背景に取り込み、前景の人物の注釈として用いるのみならず、画中画の額縁を拡大し、自身のドローイング自体を一枚の画中画として呈示する。額縁の内部の絵に描かれた形態が、一枚の平面上のイメージに過ぎないことを画中画という伝統的なモチーフを用い、対象の具象的形態と空間の客観性を維持しながら示す。絵画平面と絵画を取り巻く環境を分かつ、作品/現実という境界が、額縁をはじめとする枠取りとそれを境界と読みとるよう訓練されたまなざし、言い換えれば絵画鑑賞の制度によって仕組まれていることを自ら示す自己言及的な絵画である。

さらに、ガラス版画集『偶像賛美の書』(1920-22作成、1924連作化)とレオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』の関連を通し、『偶像賛美の書』がマゾッホのこの小説の解釈と視覚化として生まれたことを示したうえで、世俗的な現代女性をヴィーナスとして表象することによる記号作用の停止と齟齬、それを通した神話祖型の書き換えを両作品の共通性として指摘した。マゾッホとシュルツは作品に描いた場面を現実に自ら再演し、現実と作品の境界を無化する点でも共通する。

シュルツの初期絵画は世紀末の印刷物に流布したエロティックなカリカチュアによくある男女の像を神話画の様式で描き、神話画や宗教画を頂点とする絵画の主題のヒエラルキー、そして油彩画と印刷物という媒体のヒエラルキーを一枚の絵画平面上で文字通り解消する。物語性と具象的形態ゆえに20世紀モダニズムに逆行するものとみなされていたシュルツの絵画作品は、実は伝統的絵画様式やジャンルの特徴を反復しながら絵画表象を問う点で、ラディカルに近代的な絵画であることが明らかになる。

第二章では、シュルツが作った三つの書物、すなわちガラス版画集『偶像賛美の書』と自作挿絵入りの短編集『砂時計の下のサナトリウム』、小説に描かれた大文字始まりの〈書物〉というモチーフを横断的に論じることで、シュルツが視覚的なものと言語的なものに分断されずに両者が隣接、競合、融合する「書物」という新しい芸術ジャンルを提案していることが明らかになる。

『偶像賛美の書』はガラス版画というイメージのみから成る「書」であり、「刻む」行為によって原版が得られる一種の版画でもある。かつては文字は「刻む」ものだったことを考えれば、ガラス版画の制作行為自体、文字を「書く」と像を「描く」が融合している。この作品は「書」を言語的なものとみなす聖書以来の伝統に対するアンチテーゼであるうえ、「書」をイメージと文字に分断されない「場」として取り戻す。

さらに、版画であり複製可能な『偶像賛美の書』の各セットにシュルツは番号を振り、異なる表紙をつけ、収録作品をセットごとに変えたうえ、同じ版から刷られたイメージに異なるタイトルを与えた。28枚の原版を基にする版画作品のセットの各々を唯一のものとして呈示するこの連作は、「オリジナル」が不在のままに異本が増殖する様子を表現し、オリジナル/コピーの境界の消失も示している。

シュルツが挿絵を入れた『砂時計の下のサナトリウム』の初版本の挿絵分析からは、シュルツが挿絵、短編の並びやその数など、本のあらゆる要素を計算に入れ、複層的かつ立体的な意味の伝達と生成を可能にする媒体として書物を発見し、構築したことが明らかになる。シュルツの挿絵には場面に対応しないイメージや同じ構図の反復が見られる。同じ構図ながら細部の異なる二枚を対として、記述された物語観と書物像を書物それ自体として実演して見せる。シュルツの書物は一つの構築物であり、絵画と文学に分断されない一つのジャンルとみなすことができる。

第三章では、小説と小説外のテクストを手掛かりに、シュルツの小説を支える基本的世界観として、シュルツがトーマス・マンの『ヨセフとその兄弟』から抽出した祖型の反復という物語/歴史観、そしてゲーテの形態学に通じるメタモルフォーゼと原型論に基づく世界把握を指摘した。文学のレベルでは、祖型の反復という考えは完全な独創性という概念を否定し、あらゆる作品を一つの原型から派生する巨大な連関図の中に置く。シュルツはこの作品の理念上のつながりを創造的に利用し、登場人物の名前や背景の移植によって、独立した作品同士の物語空間を融合し、接続していく。シュルツの小説に散見され、個別の作家の「影響」と指摘されていた他の作家の作品に類似するモチーフ群は、シュルツの文学的営みの必然なのである。

シュルツの小説のもう一つの大きな特徴をなす変形や変身のモチーフは、植物をメタモルフォーゼの過程として捉え、多様な形態を潜在させる原型からの派生として動物の諸形態を見るゲーテの形態学的見方に由来し、それはその世界像を得る語り手、その父ヤクブ、それを描くシュルツの世界把握のモデルでもある。初期の絵画で視覚的に「見る」ことによって対象を捉えていた男たちは、第二短編集に至って形態学的ものの見方を身につけ、対象の内部に入り込んで内部から対象を把握して語る、内と外を行き来する他者なき存在に進化する。見ることで対象を「うつす」模倣から、再現模倣によらずに対象を立ち上げる作品へ、登場人物たちは芸術家として変貌を遂げる。

シュルツの作品は芸術を主題とし、作品それ自体がその形而上的な考えを実演して見せる。それは、シュルツが作品をミクロコスモスとみなして環境から切り離すことなく、現実の「物」として捉えることに由来する。自ら生きる現実と作品の境界を融解させ、それぞれを互いの一部として捉える。だからこそ、その全体の一部であるはずの作品がその巨視的世界観を再現する時、作品は否応なく作品自体とそれを受容する者を取り込み、芸術作品という「場」に対する問いに受容者を向かわせる。シュルツの作品は対立するものとして図式化された二項の同質性、そして一つの対象にそうした対立項が複数重なることを見せ、対立の恣意性を浮かび上がらせる。どちらかを否定することによってではなく、どちらも包摂する場所=作品を開く。

様々な対立を分かつ線を広げ、線を場所に変え、変容というプロセスとして異なるものに同一の地平を見出す。絵画から小説に一貫してシュルツの作品に見つかるのは、このような想像力である。

審査要旨 要旨を表示する

加藤有子氏の博士論文『場所を開く――ブルーノ・シュルツの絵画と小説』は、ポーランド作家ブルーノ・シュルツの作品を、彼が手がけた絵画と小説の両面から統合的に読み解こうとする野心的な労作である。

加藤氏は1910年代末の初期ドローイングから1930年代の二つの短編集『肉桂色の店』(1933)と『砂時計の下のサナトリウム』(1937)を対象に、作品/現実、イメージ/言葉という区分けを一貫して問い直すシュルツ作品の自己言及的な性格を取り出し、そこから作品というメディアにきわめて自覚的であった芸術家であり理論家である新しいシュルツ像を打ち出している。

論文は注、参考文献を含めて203頁にのぼり、48点の図版を参考資料として付す。

本論は3章からなり、第一章で絵画を、第三章で小説を扱う。両者を媒介する第二章が、絵画と文学のジャンルを横断するトポスとしての「書物」の分析に充てられる。

第一章では、まず初期ドローイングが画中画、額縁の表象、物語画の模倣、見る/見られる関係の視覚化によって、絵画の機制を前景化した「絵画についての絵画」であることが論じられる。画中画や画中画の額縁の拡大によって作品と現実の境界が流動化され、絵画を見るまなざしの存在があらわになるシュルツ絵画の自己言及的性質が明らかにされる。とりわけ絵のなかに描かれた額縁への着目は、のちに展開される「書物論」、「小説祖型論」のひな形ともなり、本論の主題を導く秀逸な導入となっている。

ついで、ガラス版画集『偶像賛美の書』(1920-22作成、1924連作化)とザッヘル=マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』を扱い、『偶像賛美の書』をマゾッホの小説の視覚化として捉えた上で、世俗的な現代女性をヴィーナスの表象とすることによる記号作用の攪乱、神話祖型の現代的書き換えが両者の共通項として取り出される。同時にマゾッホとシュルツが作品に描かれた場面をみずから再演(represent)した経緯から、両者に共通する作品と現実の倒錯した表象関係が浮き彫りになる。ポルノグラフィー、あるいはアナクロニズムと揶揄されたシュルツの初期絵画が、実は伝統的絵画の解体であり、絵画的表象の根源を問うラディカルな営みであったことが解明される。

第二章では、シュルツが作った三つの「書物」、すなわちガラス版画集『偶像賛美の書』、自作挿絵入りの短編集『砂時計の下のサナトリウム』、小説のなかの〈書物〉を俎上に、シュルツがイメージとテクストに分断されない、両者を包摂する「書物」を目指していたことが考察される。

『偶像賛美の書』はガラス版画というイメージから成る「書」であり、「刻む」行為によって原版が得られる一種の版画であるが、加藤氏はこの両面性のなかにこそシュルツが求めた書物という「トポス」の回復を読み込む。複製可能な版画『偶像賛美の書』は収録作品をセットごとに変え、異なる表紙を付された可変の「書」であり、それぞれがオリジナルでありコピーでもあるが、この複層的なあり方こそシュルツの物語観・書物観を貫くものであった。

『砂時計の下のサナトリウム』の初版本の挿絵分析では、たんなる本文の説明ではないシュルツの挿絵とテクストの関係に新たな光が当てられ、ここから挿絵とテクストが相互に交響し、新たな意味が生成される場としての書物のあり方が浮かび上がる。同時にこの章では、二つの短編集の大胆な読み直しによって、シュルツの短編がユダヤの伝統であるタルムードにおける「注釈(ゲラマー)」をなぞっていることが示唆され、第三章のテーマへと接続される。

第三章では、シュルツの小説を支える基本的世界把握が、トーマス・マンの『ヨセフとその兄弟』から抽出した祖型の反復という物語/歴史観、そしてゲーテの形態学に通じるメタモルフォーゼと原型論に遡って論じられる。「祖型と反復」という概念は、第一章で取り出された「自己言及性」と呼応しながら、シュルツ作品のもう一つの特質、先行するさまざまな作家の作品と交響する新たな物語空間という次元を明らかにする。これによって、従来作家の影響関係と処理されてきた類似のモチーフも、シュルツの文学的営みの必然の結果であったことが明らかになる。

加藤氏はシュルツのもう一つの大きな特徴である変形や変身のモチーフについても、ゲーテの形態論を援用しながら、シュルツの世界把握の変化を跡づける。ゲーテにとって形態学とは距離をおいて対象を外から観察するのではなく、対象の内部に入り込み、内部から対象を把握することにほかならなかったが、シュルツの第二短編集の語り手ユーゼフも同じ道程をたどって変化する。加藤氏は画家でもあるこの語り手の変化をゲーテのいうメタモルフォーゼになぞらえながら、「見る」ことから「手による制作」への変化であると、「足」や「ハイヒール」に特化されがちなシュルツのテーマを変奏させてこの論文を締めくくる。

わが国には世界にも例のない工藤幸雄氏の全作品翻訳という仕事があるものの、シュルツの名が浸透しているとは言えず、欧米諸国では作品が高く評価され多くの研究があるとは言え、もっぱら小説の分析に集中し、画家と作家シュルツを統合的に論じる視点はなかった。本論文はそこに一貫する制作原理を読み込み、内容に偏りがちだったシュルツ理解を大胆に書きかえる。

論証の手続きは大胆かつ緻密、また初出文献に丹念にあたる行き届いた調査、広汎な資料的裏付けなど、本論文は実証研究としても高く評価される。そればかりか、本論に導入された「書物」という魅力的な視点をはじめ、蝶番のように絵画論と小説論を媒介する「書物論」を中央に配する巧みな構成、明快で説得力のある文章、いずれを取っても出色の論文となっている。

また西洋絵画史への細かな目配りや、「祖型と反復」という概念を手がかりに、シュルツ作品をゲーテからマゾッホ、トーマス・マン、クービンなど幅広い文学的コンテキストに位置づける遠大な視座は、国際的に見ても遜色ないレベルにこの論文を押し上げている。

審査委員からは、理知的に整理されている分シュルツの豊かさを取り逃がしているきらいがある、論旨が明快であるだけに個々の分析にやや不満が残る、あるいは作品のなかでの父・子の分析や、ユダヤ思想に照らしたシュルツ作品の時間や歴史にたいする考え方への踏み込みが希薄であるといった問題点が指摘されたが、これらの指摘は本論文への高い評価に基づくコメントであり、むしろ今後の加藤氏の研究の広がりと可能性を示唆するものだと言える。

以上により、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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