学位論文要旨



No 126494
著者(漢字) 金,菊
著者(英字)
著者(カナ) キム,クッキー
標題(和) 第2言語音声習得における知覚と生成の関係 : 成人韓国語話者の日本語習得に見られる外国人訛りを中心に
標題(洋)
報告番号 126494
報告番号 甲26494
学位授与日 2010.11.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1030号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生越,直樹
 東京大学 教授 近藤,安月子
 東京大学 教授 鈴木,英夫
 名古屋外国語大学 教授 松野,和彦
 目白大学 教授 岡,秀夫
内容要旨 要旨を表示する

要旨

青少年期を過ぎてから第2言語(L2)学習を始める場合、僅かな例外を除き、一般には、目標言語の母語話者(NS)のような発音の習得は困難であるとされている。成人学習者のL2発話に観察される、NSとは異なる音声上の諸特徴は「外国人訛り(FA)」と呼ばれ、NSの発音規準から「逸脱した」音声として扱われる。

FAが起こる原因については、未だ解明には至らず、研究者によって様々な解釈が行われている。脳機能の変化、成熟に伴う認知機能の衰退、先行経験(母語)による影響、NS音声のインプットの問題、スピーチメカニズムの低下または損失、動機の欠如、態度、適性の問題等など、多岐に渡る。

L2学習者にとってFAが重要かつ問題になる理由の1つは、NSに限りなく近い言語能力を持つとされながらも、L2音声に反復的に表れるFAは、非母語話者(NNS)の発話を「不完全」なものであるという印象を与えてしまうからである。NSの聞き手が、NNSの発話に対し、ときに偏見を抱いたり、ステレオタイプ的な態度を示したり、さらには差別的行動を取るなどの事例は多数報告されている。一方、L2学習者は、L2経験の増加に伴い、言語使用(performance)が上達するのに対し、常に言語能力(competence)との間で「ギャップ」を感じる。これは、L2使用国での社会適応やアイデンティティの問題にも何らかの影響を与え得るのではないだろうか。

L2音声習得をめぐる最近の研究動向に鑑み、母語は強力な生得的メカニズムによって獲得され、L1音声の確立の度合いが、後続のL2音声習得のレベルに影響を与えるという見解が主流である。そして、成人学習者の場合、既に完成されたL1音声カテゴリーを用いてL2を発音するために、学習初期には常にL1からの転移が起こる。さらに、L1とは音響的に異なるL2音声に対しても、L1音声カテゴリーの中から実現しようとする。外国語の音声に初めて接するときや、その発音を模倣する際、聴覚的にはL1に存在しない「異質の音」を体験しつつも、L1の調音方式に頼ってしまうことはよく経験することである。しかし、L2学習の進行に伴い、学習者の音声空間は再構築され、L1とL2の音声の違いに対する認識は促進され、L2音声をL1カテゴリーに同化させる程度も次第に減少していく。やがて、L2音声体系に対する認識が改善されることで、L1から分離されたL2音声カテゴリーが出現するとされる。

上記の考え方は、主にFlege(1989, 1991a, 1995)によって提唱された「音声学習モデル」として知られている。Flegeは、L1に類似する(しかし音韻的には区分される)L2音声は、L1に存在しないL2音声の習得よりも困難になると予想した。また、学習開始年齢が増すにつれて目標言語の母語話者のような音声カテゴリーを作る能力が劣るとしても、L2使用環境での学習経験を積むことによって、この能力は改善できると主張する。さらに、L2経験の効果は、経験の豊富な学習者と、非経験者の、L1とL2音声の違いに対する知覚能力を比較することで測定できると述べている。

以上の理論的背景をもとに、本稿は、成人学習者のL2音声能力を検証する目的で、L2経験がL2音声の知覚と生成にどのような変化をもたらすのかを中心に考察を行った。そもそも一定の年齢を過ぎてからL2音声学習が行われる場合、母語とは異なるL2音声の知覚と生成能力の獲得は、目標言語の母語話者同様に可能になるのか。それとも、一方の能力は可能になるが、他方は遅れる、など、習得プロセスや順序において差異が見られるのであろうか。

従来の研究では、分節音と超分節音のいずれを対象とするかによって、L2音声の知覚と生成の関係について、相反する結論が出されることがあった。そのため、本稿は、日本語(L2)の音節単位であるひらがな音と、文章の、2つの発話における知覚と生成、および知覚と生成の関係の検証を試みた。

実験は、実験I(ひらがな音)と実験II(L2文章)に分けて実施した。以下で、実験Iおよび実験IIを概観する。

実験Iの「ひらがな音の知覚と生成」では、ひらがな音の聞き分け能力と生成能力をテストした。聞き分け能力の検証は、「ひらがな音の聞き分けテスト」を行い、目標言語の使用国で長期の滞在経験を持つ被験者グループ(JSL)とL1使用環境でのみL2学習を行った被験者グループ(JFL)の間でL2音声の聞き分け能力に違いがあるかどうかを調べた。一方、生成能力については、「ひらがな音の発話テスト」を行った。上記のJFLとJSLの被験者の他に、比較集団として母語話者と非母語話者グループを加えた。「聞き分けテスト」で用いられたひらがな音の一部を実験材料とし、被験者が「1人で発音したとき」と、「母語話者を真似て発音したとき」の2種類の発話データを設けた。発話データに対する判断は、平均年齢が20代前半の40人の日本語母語話者が行った。聞き手は、被験者グループと比較集団の発話データをランダムに聞いた後、話し手が「日本語母語話者(NS)である」か、「非母語話者(NNS)である」か、を判定する。同時に、発音されたひらがな音の書き取りも行う。

以上の実験Iの結果、以下の知見を得た。

(1)成人L2学習者にとって、L1に存在しない新しいL2音声の習得も極めて困難である。

(2)長期の滞在経験によって、ある程度聞き分け(知覚)能力は変化していく。

(3)しかしながら、新しい音の生成は、化石化や個人差などのL2経験以外の要因が関わる可能性が高く、聞き分け可能な音が、必ず生成も可能であるとは言えない。

実験IIの「L2文章の知覚と生成」では、会話体の文章を「1人で発音したとき」と「母語話者を真似て発音したとき」の2種類の発話データを設け、日本語母語話者の聞き手による訛りの程度判断結果をもとに分析を行った。成人学習者の「L2使用環境での滞在経験の有無とL1使用量の多寡」によって、L2文章発話の知覚と生成に差異を生むかどうか、が実験の主たる目的であった。このため、被験者は、「L2経験」が明確に異なる2集団を選定した。そして、被験者とは別に、母語話者と非母語話者からなる比較集団を設け、話し手の発話音声の特質が1つの言語特性に偏らないようにするなど、音声データの提示順番についても細心の注意を払っている。また、「L2経験」要因のほかに、L1方言のアクセント型の違いによって、「母方言の転移の効果」が表れるのかを確かめた。さらに、被験者の「性別」と外国人訛り(FA)の程度の関係についても検証を行った。

[1]被験者グループ(JFL、JSL)と比較集団(NS)の3集団間で、訛りの程度に統計上の有意差が見られるかどうかを調べた。統計の分析は、(1)被験者グループが「1人で発音したとき(A)」のすべての発話文を総合した場合、(2)「1人で発音したとき(A)」の発話文ごと、(3)被験者グループが「母語話者を真似て発音したとき(R)」のすべての発話文を総合した場合、(4)「母語話者を真似て発音したとき(R)」の発話文ごとに分けて、JFL-JSL-NS間の訛りの程度を比較した。検定の結果、上記の4つの場合すべてにおいて、3集団間で統計上の有意差が得られた。したがって、成人学習者が「1人で発音したとき」と、「母語話者を真似て発音したとき」の、L2文章の発話は、母語話者の発話とは異なるものとして区分されることが分かった。換言すれば、これは、成人学習者のL2経験は、NSのような発音能力を得るに至っていないことを意味する。

[2]成人学習者グループJFLとJSL間で、L2文章の知覚と生成の結果に、L2経験の効果が表れるのかどうかを調べた。(1)JFLとJSLのそれぞれにおいて、「1人で発音したとき(A)」と「母語話者を真似て発音したとき(R)」のFAの程度を比較した結果、JFL、JSLともに、「1人で発音したとき(A)」と「母語話者を真似て発音したとき(R)」のFAの程度に、統計上の有意差が確認された。つまり、L2経験の多寡を問わず、成人学習者の発話模倣タスクの結果、FAの程度は有意に低下する。(2)被験者が「1人で発音したとき(A)」と「母語話者を真似て発音したとき(R)」の4つの発話文を総合してFAの程度を比較した。その結果、AとRの双方でJFL-JSL間に統計上の有意差が認められた。これにより、L2経験の増加に伴い、L2文章の知覚、生成能力ともに向上していくと考えられる。(3)発話文ごとにJFL、JSLが「1人で発音したとき(A)」と「母語話者を真似て発音したとき(R)」のFAの程度を比較した。その結果、発話模倣の効果は、JSLにおいてより顕著に観察され、L2経験の効果は、L2文章の知覚、生成の双方に影響を与えると考えられる。

[3]「L2経験」要因のほか、学習者の母方言と性別は、成人学習者のL2文章の知覚と生成結果に差異を生むかどうかを検証した。その結果、日本語の東京方言と類似する高低アクセント型を持つ韓国語の慶尚道話者と、無アクセント型のソウル話者の間でFAの程度の差異は見られなかった。そして、女性話者と男性話者のFAの程度においても、両者間で統計上の有意差はないことが明らかになった。

以下に、実験IIの結果を総括する。

(1)成人学習者のL2文章発話は、母語話者の音声とは区分され、異なるものである。

(2)L2経験の効果は、L2文章の知覚と生成の双方に影響を与える。

(3)学習者の母方言、および性別は、FAの程度に統計上の有意差をもたらす要因ではない。

審査要旨 要旨を表示する

金菊〓氏の博士論文「第2言語音声習得における知覚と生成の関係 ―成人韓国語話者の日本語習得に見られる外国人訛りを中心に―」の審査結果について報告する。

本論文は,成人学習者の第2言語(L2)音声能力について,L2学習経験がL2音声の知覚と生成にどのような変化をもたらすのかを解明しようとしたものである。具体的には,成人韓国語話者のL2日本語音声習得を取り上げ,日本語音声習得における知覚と生成の関係をいくつかの実験を行うことによって明らかにしようとしている。従来の研究では,分節音と超分節音のいずれを対象とするかによって,L2音声の知覚と生成の関係について,相反する結論が出されたりしている。そのため,本論文では日本語(L2)の音節単位であるひらがな音に関する知覚と生成の実験,さらに日本語文章の知覚と生成に関する実験を行い,2つのレベルにおける知覚と生成の関係の検証を試みている。

本論文は5章からなる。第1章ではまず,成人学習者のL2習得に見られる音声上の特徴を「外国人訛り」と総称し,その定義および原因,研究の方法論などに関する先行研究を検討している。

続く第2章では,成人のL2音声習得をめぐる様々な先行研究についてその理論的背景を概観した。その際,まず「言語外要因」として「習得開始年齢」の問題を取り上げ,いわゆるL2習得における「年齢効果」について,子供と大人の音声学習をめぐる主な仮説やモデルについてまとめている。続いて「言語内要因」として,音声の知覚と生成それぞれのプロセスについて触れたのち,L2音声の知覚と生成の関係について先行研究の見解をまとめた。さらに,本稿の実験対象である韓国語と日本語の音声特徴をまとめたうえで,成人韓国語話者のL2日本語音声習得に関する先行研究を概観している。

第3章では,成人韓国語L1話者を被験者とし,ひらがな音を材料とした実験Iの結果を分析し,L2音声の知覚と生成の関係を検証した。実験Iでは「ひらがな音の聞き分けテスト」と「ひらがな音の発話テスト」を行った。「ひらがな音の聞き分けテスト」では,目標言語の使用国で長期の滞在経験を持つ被験者グループ(JSL)とL1使用環境でのみL2学習を行った被験者グループ(JFL)の間でL2音声の聞き分け能力に違いがあるかどうかを調べた。続く「ひらがな音の発話テスト」では,聞き分けテストで用いられたひらがな音の一部を発話材料(音声データ)とし,被験者が「1人で発音したとき」と,「母語話者を真似て発音したとき」において,L2音声の生成能力に違いがあるかどうかを調べた。

第4章では,同じく成人韓国語L1話者JSLとJFLの2グループを被験者とし,L2文章を材料とした実験IIを行った結果から,L2音声の知覚と生成の関係を検証した。実験IIでは,会話体の文章を「1人で発音したとき」と「母語話者を真似て発音したとき」の2種類の発話データを設け,ネイティブスピーカー(NS)の聞き手による「外国人訛り」の程度判断を行い,その結果をもとに分析を行った。

2つの実験の結果をまとめると,以下のことが明らかになった。(1)成人学習者にはL2音声の特徴を感知して模倣できる能力が備わっていると考えられる。(2)L2経験の多寡にかかわらず、成人L2学習者にとって,L1に存在しない新しいL2音の習得は極めて困難である。(3)L2経験に伴い,新しいL2音の聞き分け能力はある程度改善していくと考えられるが,生成については,L2経験以外の学習者要因が関わる可能性が高い。このため,(4)聞き分け可能な音は、必ずしも生成が可能であるとは言えない。さらに,(5)目標言語において音声的に対立する音を区分して生成できた場合でも,L1では異音としてのみ扱われない場合,必ずしもその音に対する聞き分け能力があるとは言い難い。なお,(6)L2経験の効果は,ひらがな音でよりもL2文章発話において顕著であると考えられる。ただし,(7)成人学習者のL2音声は,母語話者の発話とは明白に区分され異なる。

最後の第5章では,2つの実験から得られた考察の結果をまとめ,結論としている。

本論文のもっとも大きな特徴は,JSLとJFLというL2経験の異なる2つのグループに対して実験を行った点,さらに,L2音声の習得を音節単位と文章レベルに分けて分析を行った点にあり,これら多角的な実験と分析によって,成人学習者のL2音の知覚と生成の関係をより深く明らかにすることができている。その結果,音声学習能力そのものは一生を通じて損なわれないというFlege(1993)の音声学習モデル(SLM)の見解と一致する部分はあるものの,新しいL2音声の知覚は学習初期には困難であるが,L2経験を積むことによって成人学習者は新しいL2音声に相応しいカテゴリーを形成し,結果的に知覚・生成ともに改善されていくというSLMの見解には,留保が必要であることを指摘している。

このように,従来にない新たな視点で考察分析を行った点において,本論文は第2言語教育,日本語教育の分野で高く評価される論文であると考える。なお,審査において,知覚と生成の状況は明らかにしているが,習得のメカニズムまでは明らかにできていないこと,語レベルでの分析が行われていないこと, L2経験で滞在年数のみが重要視され,他の社会的要因や学習者の個性についての分析が不足していることなど,今後検討すべき課題も指摘されたが,それらが本論文の価値を損ねるほどのものではないことが確認された。

したがって,本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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