学位論文要旨



No 126495
著者(漢字) 大澤,肇
著者(英字)
著者(カナ) オオサワ,ハジメ
標題(和) 近代中国における学校教育の政治社会史 : 党国体制下、江南地域の初中等教育を中心に(1928~1958年)
標題(洋)
報告番号 126495
報告番号 甲26495
学位授与日 2010.11.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1031号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 教授 黒住,眞
 東京大学 准教授 川島,真
 東京大学 教授 園田,茂人
 明治大学 教授 高田,幸男
内容要旨 要旨を表示する

本論における筆者の問題意識は、近代中国において学校教育の果たした役割を明らかにすることにある。そのためには単純に政治教育の実態を明らかにするだけではなく、学校教育の社会的位置についても考察に入れなくてはいけないため、本論では解明すべき具体的な問題として以下の二点を設定する。第一に、近代中国における政治教育、すなわち学校教育の政治的機能の実態を、文献史学のアプローチを利用して明らかにする。(2)学校教育の社会的位置、すなわち学校教育が社会のなかで実際にどのように機能していたのかを、教育社会学の理論を応用して明らかにする。

研究は初中等教育を対象とし、地理的には、近代中国の特徴が最もよく見られる江南地域を選ぶ。時期的には、従来の時代区分によらず、蒋介石南京国民政府(1928~1937年)、汪兆銘南京国民政府(1940~1945年)、中華人民共和国政府初期(1949~1958年)を一貫して党国体制として捉え、1949年前後の連続性や中長期的なスパンという視座から分析していく。

第1章「蒋介石南京国民政府の政治教育―1928~1937年」では、蒋介石南京国民政府の政治教育が、何よりも政策の理念上必要とされていたことを明らかにした。すなわち、孫文の三民主義に依拠して国家建設を進める以上、国民政府と国民党にとって、民衆への三民主義教育は必須の事業であった。そのために、訓政体制下では、教育行政を担当する機関としては、政府教育部の他に、党部も政治教育に介入し、教科書の検定や調査を行っていたのである。1930年代に入ると、教育行政における党部の影響力は低下しつつあったが、三民主義に依拠した政治教育は継続された。こうした政治教育は省・県レベルでも実施されていたが、県レベルでは学校教育の普及自体が進まなかった。その理由は私塾の存在と、進学に多大なコストがかかる経済的要因にあった。

第2章「蒋介石南京国民政府時期における学校教育の社会的機能とその問題―1930年代中等学生の「進路問題」を中心に」では、蒋介石南京国民政府時期の江蘇省中等教育機関所属の学生の実態と進路等を分析することで、社会のなかで学校教育が果たしていた役割を明らかにした。すなわち当該時期の中等教育機関は、大学進学の準備段階という性格が強かった。また中等学生の多くが都市の比較的富裕な商工業階層出身であり、学生の多数が大学進学あるいは都市のホワイトカラー的職業への就職を志望したため、結果として蒋介石南京国民政府時期の中等教育は階層の再生産と、農村からの人材流出を促したのである。一方で、蒋介石南京国民政府時期には、都市でのホワイトカラー的職業に就くもう一つの手段として、正規の学校教育を進学するルートばかりでなく、私塾あるいは前期初等教育を経て徒弟となり、そこから職員を目指すルートもあった。後者は都市のホワイトカラー的職業との文化的な親和性が低いとはいえ、学校教育に多額の投資をする必要が無いというメリットがあった。

第3章「汪兆銘南京国民政府の政治教育と教員層―1938~1945年」では、汪兆銘南京国民政府が、日本からの自立、正当性の調達、そして政府の基盤の1つを教員層に求めた結果として、教育事業の振興と政治教育に力を入れていたことを明らかにした。また地域社会統治のために教員層を動員・活用したこと、その過程において各種の近代的価値観が地域社会へ入っていたことを明らかにした。しかし汪兆銘南京国民政府による学校教育振興には現実性やナショナリズムなどの面で限界があったことは否定できず、また政治教育についても限界があったと言わざるをえない。

第4章「近代江南の小学教員層―1928~1949年」では、多くの中等教育修了者の進路でありかつ初等教育を担った小学教員層を分析した。当時の初等教員層の実態を、主として統計データと社会調査の分析等によって以下の点を明らかにした。第一に、小学教員層の頻繁な転職とその都市志向という実態。第二に、公立小学教員層は、上海のみならず江南においても、科挙受験生等を中核とした清末民初の教員層とは、明らかな年齢的・文化的断絶が存在したこと。第三に、中等学校などで習得した文化や教養体系をそのまま農村地域社会に持ちこみ、農村社会にさまざまな近代性や都市文化をもたらす役割を果たした、という三点である。

第5章「中華人民共和国成立前後における学校教育の再建と政治教育―1945~1953年」では1945年から1953年の上海および上海近郊農村における学校教育の実態を明らかにし、その役割を政治・社会的機能双方から検討した。戦後国民政府は江南地域にも国民学校制度を導入して国民学校という学校単位と政治単位を合致させることで、地域社会の把握を目指したことを実証した。さらに中華人民共和国成立直後より、中華人民共和国政府は、政権奪取の正当性を宣伝するために、政治科を新設して、革命の正当性を訴える教育を行った。同時に土地改革等に教員や学生たちを動員した。これはブルジョア階級出身が多かった当時の教員や学生たちの「教育」という側面もあったが、一方では彼らに土地分配に関する行政事務を行わせるという側面も存在した。これは当時の農村において、文字が読め、事務ができるのは小中学校の教員や学生しか存在しなかったというのが原因であった。こうした人材不足、民衆のリテラシーの不足という農村の実態に直面した中国政府は農村における学校教育の拡充を急いだが、それゆえに共産党イデオロギーとは親和性を持たないブルジョア階級出身の教員を逆に増加させることになった。とはいえ、当時の政治教育には、共産党イデオロギーの他にも、1920年代の公民教育運動以来称揚されてきたナショナリズムや近代的価値観―時間や規則を守ること、科学的な角度から衛生や健康に注意すること―などといった要素も存在した。

第6章「中華人民共和国初期における学校教育と社会統合―1953~1958年」では、まず中華人民共和国成立初期における急激な学校教育の拡大現象にどのような原因やメカニズムが働いていたのかを探った。そして中国の学校教育は社会主義化の流れのなかで、その選抜・配分(社会移動)という学校教育の社会的機能を持つゆえに、民衆の欲望を一定程度叶えつつ国家建設を進めるという「ソフト」な社会統合を行うという政治的機能をも果たしたことを指摘した。

終章では序章で設定した問題に対して、以下のように結論づける。

近代中国における学校教育の政治的機能については、第一に政治教育の実態を明らかにした。1928年以降の中国は、党国体制という党が国家・国民を代表し得るというイデオロギーのもとにあった。この党国体制下での学校教育の特徴は、独立した政治教育科目を含む政治教育の実施であり、各時期の政府における政治教育には共通性が見られた。第一に内容として、執政党のイデオロギーを国家の公定イデオロギーとして宣伝するという意味での連続性である。第二に「党義」、「三民主義」、「政治」という政治教育学科ばかりでなく、隣接科目、すなわち語文、歴史、地理、公民科などにも関係の深い内容が掲載されていた様式である。このように各時期を通して、学校教育は、政府側からは、政治的なイデオロギーの宣伝の場として用いられていたのである。

第二に、党国体制下における学校教育の政治的機能として、各時期の政府が、教育事業を地域社会把握の拠点としようとしていたことを明らかにした。

しかし、政治教育に対する社会の反応について考察をしてみると、イデオロギー教化や政治宣伝が必ずしもうまくいったわけではなく、その効果は限定的なものにとどまったと言える。

近代中国における学校教育の社会的機能については、第一に、「政治教育と絡み合った社会化」があったことを明らかにした。前述したように、政治教育は執政党のイデオロギーや政治宣伝が中心であったとはいえ、政治教育のなかにはそれ以外の要素を見出すことができる。それは科挙時代の中国においては、決して普遍的な存在ではなかった近代的な価値観―衛生・清潔・健康を保つこと、規律・法・時間を守ること、公共性を意識する―などである。その多くは1920年代の公民教育運動、あるいはそれ以前の時期からその存在を見出すことができるように、党国体制とは関係の無いものである。しかし本論が研究対象とした党国体制下では、上述したような近代的な価値観が、執政党のイデオロギーとして、あるいは執政党のイデオロギーと絡み合う形で、上から伝播されようとしたのである。このような「政治教育と絡み合った社会化」こそ、党国体制下における学校教育の特色である。こうした教育のなかで伝達される近代的な価値観は、また都市部の企業とも親和性が高いものであった。

第二に、学校教育の社会的機能としての「選抜・配分機能」については、科挙では官吏生活が目標であったのに対し、近代学校教育では、その目標が都市部におけるホワイトカラー的な生活や職業に変化したことを明らかにした。さらに1950年代の中華人民共和国初期においては、社会の流動性が低くなっていき、1930年代には複数存在した都市への移動ルート(例えば私塾で学び、徒弟となってホワイトカラー的な職員になっていくようなライフコース)が、進学一本のみになってしまった。結果、進学圧力をより高めることになったといえる。

こうした学校教育の目的は進学であるという学校観が拡大・浸透していったのが、近代中国における学校教育の特色の一つである。このような学校教育が普及した原因の一端は、政府による、地域社会の掌握と政治教育の推進―すなわち特定のイデオロギーを宣伝することによる政府の正当性の調達、支持層の形成―であった。各時期の政府は学校教育を普及させ、そのなかで政治教育を推進するために、多額の経費と人材を投入したのである。

しかし学生たちの多くはむしろ、自己の利益―都市生活への憧れ―を最大化することを目的として学校教育を利用した。政治教育を目的とした学校教育の普及は、農村部の地域社会に、1930年代の都市中間層に共有されていた、近代学校への進学がより良い生活を得る手段であるというイメージを普及させるとともに、実際に進学を可能にする手段を整えることになったのである。

審査要旨 要旨を表示する

大澤肇氏の学位請求論文「近代中国における学校教育の政治社会史──党国体制下、江南地域の初中等教育を中心に(1928~1958)」は,1920年代から1950年代の中国において,学校教育が近代的な国民統合に果たした役割を政治的・社会的側面から実証的に解明することを目指したものである。著者はこの課題にアプローチする際に,1928年に成立した南京国民政府から1949年に成立した中華人民共和国政府に至るまで,異なる政権に共通する制度的特徴として党国体制(party-state system)に着目し,党化教育──政治教育が人々の国民意識や衛生・規律観念など近代的価値観に及ぼした影響を個別具体的に考察する。

論文は,序章,本論6章,終章からなり,巻末に参考文献一覧を収める。本文はA4版で全221頁あり,字数は注や図表を含めて約26万字(原稿用紙400字詰めに換算して約650枚)の分量になる。

まず,本論文の内容を紹介する。

序章で筆者は,中国の近代化のなかで教育の果たした役割を明らかにするには,政治教育の実態とともに,学校教育の政治的機能と社会的機能の相互関連を考察する必要があるという。また,清末に導入された近代的学校教育の展開をふまえつつ,江南という特定地域の通時的変化をたどるために,蒋介石南京国民政府(1928-1937年),汪兆銘南京国民政府(1940-1945年),中華人民共和国初期(1949-1958年)という複数の政権を貫く歴史的連続性を重視する視座を提示する。

第1章「蒋介石南京国民政府の政治教育──1928-1937年」では,孫文の三民主義を国是とした国民政府が,国家建設のために党化教育(政治教育)を重視し推進した経緯がたどられる。とくに1931年の満洲事件勃発以後は,「国難」に対処する上でも,三民主義に依拠した政治教育は継続されたが,教育行政における党の役割は必ずしも完全なものではなく,むしろ影響力は限定されていたという。その理由として著者が挙げるのは中央における分派抗争であり,また地方(県)レベルでは,修学・進学にかかる経済的コストの面で,学校教育の普及そのものに限界があったとされる。

第2章「蒋介石南京国民政府における学校教育の社会的機能とその問題──1930年代中等学生の『進路問題』」では,江蘇省の中等学校学生の進路や就業の実態が分析される。著者は学生数・学校数の統計資料などを用いながら,中等学校学生の多くが都市の商工業階層の出身であり,多数が大学進学や都市のホワイトカラー的職業を志望したため,農村からの人材流出を促したことを指摘する。また,これとは別の立身出世の階梯があり,私塾での教育を経て「徒弟」から都市に就業する一群の階層も存在していたという。

第1,2章が蒋介石政権の学校教育を論じるのに対して,第3章「汪兆銘南京国民政府の政治教育と教員層──1938年~1945年」はそれと激しく対立したいわゆる傀儡政権下の教育を論じる章である。統治の正統性を確保する上で,教員層を支持基盤にせざるを得なかったこの親日政権は,従来「奴隷化教育」を推進し,中国ナショナリズムとは敵対関係にあると位置づけられてきた。しかし,著者は汪政権の政治教育の内容には中国ナショナリズムへの強い志向が見られ,そこに日本への抵抗・対抗の姿勢を見出すことすら可能だと述べる。

第4章「近代江南の小学教員層―1928年~1949年」は,統計データと社会調査をもとに,小学教員層の頻繁な転職と都市志向の実態をあぶり出し,さらに,かれらが清末民初の科挙受験者層とはっきりした文化的世代的断絶があったこと,中等学校などで修得した都市文化や衛生観念・時間規律を農村にもたらす役割を果たしたこと,などを指摘する。序章でも提起されるように,著者は都市から農村への近代性(modernity)の伝播に,学校教育が果たした社会的機能を見出しているわけである。

第5章「中華人民共和国成立前後における学校教育の再建と政治教育──1945年~1953年」では,学校教育の実態分析を通して,農村社会に近代的教育が浸透するとともに,イデオロギーによる基層社会の把握が進行したことが解明される。とはいえ,このプロセスは直線的に展開したわけではなく,教員の絶対的不足や民衆の識字能力の低さゆえに,政治教育の効果には限界があったとされる。

最後の第6章「中華人民共和国における学校教育と社会統合──1953年~1958年」は,社会主義化の流れの中で学校教育が急速に拡大・普及したことを指摘するとともに,学歴による社会上昇など,民衆の欲望と国家による教育の政治的・社会的統合機能の関係をめぐって,国家と民衆が織りなす相互作用のメカニズムを分析する。

以上の各章での考察をふまえて,終章で提示される本論文の結論は以下のようなものである。

第一に,1920年代から1950年代まで,性格の異なる三つの政権は,執政党のイデオロギーを「党義」「三民主義」「政治」や各教科科目を通して学生に浸透させようとする共通の政策をとっていた。言いかえれば,学校が政治的宣伝の場として機能した点で,国民党政権と共産党政権の間には連続する側面があった。

第二に,「党国体制」を選択した各政権にとって,学校教育は基層社会を把握し,政治的統合を強めるための重要な手段であった。その効果は種種の制度的条件により限定的であったとはいえ,規律意識や衛生観念の広がりに見られるとおり,都市の近代性は学校教育を通じて民衆の間にしだいに浸透・定着していった。

第三に,科挙時代の「昇官発財」に代わり,1920年代以降の中国の学校教育は都市のホワイトカラーに人材を供給する主要なルートとなった。この傾向は,中華人民共和国成立以後も続き,そのため私塾を通じた都市への移動などのルートが排除され,建国初期には進学熱が異様に高まる現象を引き起こした。

以上のような構成と内容をそなえる本論文に対して,審査委員はおもに以下の三点で高い評価を与えた。

まず,これまで中国近現代教育史の研究が制度や政策の分析に偏っていたのに対して,本論文は学校教育を受容する側の視点を提示し,民衆が教育に期待したものと政府のそれとのずれを解明したことである。

次に,異なる三種の政権を「党国体制」という概念装置で俯瞰し,複雑に変転する歴史の底流に一定の連続性を見いだしたことである。近年,1949年前後の中国を歴史的連続性から再考する一群の研究が現れつつあるが,本論文はこれを実証的に解明した個別研究の一つとして高く評価できる。

第三に,教育史にとっての地域という問題を提起し,江南地域の教育の実態と国家の教育政策や政治運動との関連を分析したことである。とくに,県レベルで進められた学校教育に関する資料を多数発掘し,30年に及ぶ「下」からの歴史の流れを描き出したことは,今後の他地域との比較研究に一つの信頼できる事例を提供したものと言える。

ただ,本論文に若干の欠点や不足がないわけではない。審査委員からは,文中頻出する「民衆」の概念が曖昧であり,「欲望」のとらえ方も一面的にすぎるのはないかとの疑問が呈された。また,なぜ初等教育ではなく中等教育を取り上げたのかについても,十分に説明がなされていないとの指摘がなされた。さらに,「近代性」の把握の仕方についても,「伝統」との複雑な関係にもっと目を向けるべきとの意見も出された。

とはいえ,以上述べたような短所は,本論文の学術的な価値を損なうものではない。

以上,総括するに,本論文の達成が中国地域研究,中国近現代教育史研究に大きな貢献をもたらすことは疑いない。したがって,本審査委員会は一致して博士(学術)の学位を授与するのにふさわしい論文と認定する。

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