学位論文要旨



No 126497
著者(漢字) 西川,悠
著者(英字)
著者(カナ) ニシカワ,ハルカ
標題(和) マイワシ資源量変動に対する海洋環境要因
標題(洋) Studies on the environmental impacts on long-term variation in abundance of Japanese sardine (Sardinops melanostictus)
報告番号 126497
報告番号 甲26497
学位授与日 2010.11.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5586号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 講師 岡,英太郎
 東京大学 教授 植松,光夫
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 准教授 中村,尚
 東京大学 准教授 小松,幸生
 東京大学 教授 安田,一郎
内容要旨 要旨を表示する

1研究の背景と目的

日本近海から北西太平洋にかけて分布するマイワシ(Sardinops melanostictus)資源量は数十年スケールで変動を繰り返してきた(図1).ピークであった1988 年には500 万トン近く漁獲されたが,その後急減し2007 年の漁獲量は10 万トン以下となった.こうしたマイワシ漁獲量の大規模変動は水産業に大きな影響を与えるため,資源量変動メカニズムの理解と予測が求められている.マイワシ資源量は1歳から約7歳までの総量で決まるが,産卵数に対する1 歳時での生残率が経年的に大きく変動するために,大きな資源量変動が生じる (Watanabe et al., 1995).黒潮続流から再循環域での冬季表面水温SST が低い年(Noto and Yasuda, 1999)及び黒潮続流域の冬季混合層深度が深い年(Nishikawa and Yasuda, 2008)に,マイワシの1歳までの生残が良いという相関関係がこれまで報告されてきた.一方,相関のある海域・時期に,マイワシが分布するのか確認されておらず,見かけの相関である可能性もあった.マイワシ卵仔魚は黒潮に乗って輸送分散され,分布が時空間的に大きく変化する上,黒潮流路の変動も大きいため,生息場における環境要因を特定することが難しい.これらのことから,産卵から仔魚期にかけて,どのような環境要因がマイワシの生残に影響するのか未だに明らかではない.本研究は,外力として時々刻々変化する風や熱の観測データにより駆動し,海洋表層の経年変動の特徴を再現している高解像度海洋循環モデルOFES(Masumoto et al.,2004)の経年変動実験出力データを用い,マイワシ卵仔魚の輸送経路に沿った海洋環境変動を精査し,何が原因で,どのようなことと連動して1歳時の生残に影響するのかについて推定することを研究の目的とした.

2黒潮流軸座標系での相関解析を用いた生残に関与する海域,環境因子の推定

これまでマイワシと海洋環境の関係に注目した研究は多くなされてきたが,それらの研究には問題点がある.黒潮の最強流部で定義される黒潮流軸は、亜熱帯水と亜寒帯の影響を強く受けた海水の境界であるため,黒潮流軸を隔てわずか数十km離れた南北で,環境が大きく異なる.また黒潮流軸は様々な時間スケールで大きく変動するために,黒潮流軸の南北で変化が無い場合でも,流軸位置の変動により固定座標では変動が現れる.既往研究で用いられてきた環境データの解像度は,1度程度と粗く,かつ緯度経度固定座標のため,現れた変動が黒潮流軸位置の変動のために生じたのか,環境そのものが変動したのか,見分けることが難しかった.

本研究では,マイワシの1 歳までの生残率の指標として,1 歳魚の尾数を産卵親魚総重量で割り自然対数を取ったln(RPS)(以下生残率と呼ぶ)を用い,高解像度海洋大循環モデルOFES の混合層深度及びSST データとの間で相関係数を求め,生残率変動に影響する環境要因について再検討した.相関解析を行うにあたり,南北方向の座標を黒潮流軸緯度(各経度での流速最大緯度)からの相対緯度とする流軸座標を使用した.流軸座標系を用いることにより,時空間的に大きく変動し,流軸の南北で大きく環境が異なる黒潮の構造に対応した環境要因を特定することが可能となる.

解析の結果,過去の研究で見過ごされてきた,冬季142°E 以西日本南岸域の黒潮流軸周辺での混合層が深い(浅い)年に生残が良い(悪い)という関係を見出した(図2).また黒潮域から黒潮続流域(142°E 以東)にかけての冬季・春季SST が低い(高い)年に生残が良い(悪い)という関係も見出された.特に1988 年から1994 年での冬季混合層の浅化,冬季・春季SST の上昇がマイワシの生残率を急落させ,マイワシ資源崩壊の原因となったと考えられた.また,冬季に相関があった海域は,マイワシの冬季産卵場に近く,マイワシ卵仔魚の主要な分布域であった可能性が高い.

3卵仔魚輸送・分布

マイワシ卵仔魚の日本南岸海域における分布は,長年続けられてきた産卵調査によって明らかにされている.一方,卵仔魚の輸送過程及び日本東方黒潮続流域での分布については知見は少なく,観測データのみから,本研究でマイワシ生残との関係が指摘された海域に実際に卵仔魚が分布したか検証することは困難であった.

そこでOFES モデルの流速場とマイワシ産卵場観測データを基に粒子追跡実験を行い,マイワシ卵仔魚の輸送・分布について調べた.

その結果,1)混合層深度およびSSTとマイワシ生残の間に相関が見られた冬季142°E 以西日本南岸域の黒潮流軸周辺(流軸±1度)には各年の全産卵量のうち平均して約6割が分布すること(図3),また,2)春季SSTとマイワシ生残の間に有意な負相関が見られた142°E 以東黒潮続流域の流軸周辺(流軸±1度)には,1)の海域を通過した卵仔魚のうち約6割が分布すること(図3)が明らかとなった.すなわち,本研究で相関が見い出された冬季日本南岸黒潮流軸付近や春季黒潮続流流軸付近はマイワシ卵仔魚の主輸送経路にあたり,そこでの相関関係は見かけの相関ではなく,実際に海洋環境変動がマイワシの卵仔魚に影響を与えた可能性が高いと判断された.

4卵仔魚輸送経路上における餌環境変動

黒潮・続流域流軸付近で見られた水温とマイワシの生残率との間の相関関係は,仔魚の成長速度が水温に依存する(Takasuka et al., 2007)ために生じた関係だと考えられた.一方,冬季混合層深度とマイワシの生残率の関係は餌環境を介している可能性がある.

そこで,OFESをベースとした低次生態系モデル(Sasai et al., 2006)出力データ(2001-2007)を用いて,混合層深度とクロロフィル密度の関係を解析した.

その結果,日本南岸黒潮流軸付近の冬季混合層が深い年に、より高濃度の栄養塩が供給され,その水塊が黒潮に沿って流され黒潮続流域に到達する春季に,生物生産が強化されクロロフィル密度が高くなるという関係を見出した(図4).冬季混合層深度が深いと春季植物プランクトン密度が高くなるという関係は,観測データによっても確認された.

5仔魚輸送経路上における冬季混合層深度、冬季表面水温変動機構

このようにマイワシ生残に対して影響を与える可能性がある黒潮域(流軸±1度、130-150°E)の冬季混合層深度及びSST の経年変動要因を明らかにするために,OFES 出力にバルク混合層モデルを適用して,黒潮流軸付近を輸送される水塊を想定して輸送経路に沿った変動要因分析を行った.

その結果,黒潮流速の変動が,冷却時間の変動を通して,混合層深度及びSST 変動を引き起こすことが明らかとなった.すなわち,九州南方130°Eにあった水塊が黒潮に輸送され150°Eに到達する間の時間は,黒潮流速が速いほど短く冬季に冷却されにくくなるため,混合層は浅く,水温は高くなる.特に1980 年代末から1990 年代始めにかけて黒潮流速が速かったこと(図5)が混合層浅化,水温上昇の主要因であり,副次的に,冷却の弱化が混合層をさらに浅化させ,九州以西での水温上昇が130-150°E での水温上昇を強めたことが明らかとなった.

6まとめ

本研究により明らかになった,マイワシの生残と海洋環境との関係は,以下のようにまとめることができる(図6).

黒潮の流速が遅い(速い)と冬季にマイワシの産卵場を発した水塊が輸送される過程で長時間(短時間)冷却を受け,水塊の温度は低下しやすく(しにくい).また混合層が深くなる(ならない)ため,下層から栄養塩濃度の高い水を取り込みやすい(取り込みにくい).春になり,黒潮続流域に達した,卵仔魚を乗せた水塊中では例年よりも強い(弱い)プランクトンブルームが起こり,マイワシ稚仔魚に対する餌環境が良く(悪く)なる.マイワシ仔魚の成長速度は水温と餌量に依存し,成長速度が速いほど補食されやすい時期が短くなるので生残率が高くなる.この仮説は,餌が豊富なほど成長が良く,水温については比較的低い方がマイワシの成長が良いという既往研究の知見と整合的である.

これまでのマイワシの資源量(生残率)変動と海洋物理環境に関する研究では,卵仔魚の分布を考慮せず,また生残率の変動に至る過程を説明せずに相関関係の提示にとどまっていた.本研究では,高解像度モデルデータ,粒子追跡,生態系モデルデータ,観測データを使用することによって,環境変動から生残率変動に至る過程を一貫して説明し,より説得力のある仮説を提示することができた.特にマイワシ卵仔魚が世界有数の強流である黒潮に乗って輸送分散されることに注目し,輸送経路に沿った解析を行った点が独創的である.

今後はこの仮説を実証・発展させ,マイワシ変動機構の解明と予測に貢献したいと考えている.

図1.過去100年の日本におけるマイワシ漁獲量推移(水産白書より)

図2.2月の混合層深度と生残率の相関分布流軸座標系で相関係数を求め,緯度経度座標系に戻した図黒線は平均黒潮流軸を表す赤(青)は90%有意な正(負)相関,黄(水)は正(負)相関

図3.上:2/15時点での卵仔魚密度分布,下:4/15時点での卵仔魚密度分布.いずれも1960-2004年の平均.黒線は黒潮流軸位置を示す

図4.主輸送経路において卵仔魚が経験する冬季混合層深度(横軸)と春季植物プランクトン密度(縦軸)の関係.両者の間には有意な正の相関関係(相関係数:0.86)があり,冬季混合層が深い年は春季プランクトン密度が高くなる

図5.黒は冬季混合層深度,赤は黒潮流速を示す.流速が速いときに混合層が浅い傾向がある

図6.本研究から提示されるマイワシの生残率変動の仮説を模式的に示した

審査要旨 要旨を表示する

日本周辺海域でのマイワシの年間漁獲量は、1万トンから500万トンの間で変動を繰り返してきた。このマイワシの大変動は社会的影響が大きく、変動機構の解明と予測が求められてきたが、多くは謎に包まれている。これまで黒潮続流の南側海域の冬季水温とマイワシの生き残りとの間に負の相関が存在することが知られ、この海域の変動を通じてマイワシの資源変動が生じると信じられてきた。一方これら過去の研究では、その南北で水温・餌環境が大きく異なる黒潮流軸付近の環境変動は、黒潮流軸の大きな時空間変動に隠され明らかではなく、マイワシの変動との関連も調べられていなかった。

論文は6章から成り立っている。第1章では、マイワシの生態及び環境の関係についての過去の研究が総括され、その問題点が浮き彫りにされる。2章では、高解像度海洋モデルデータを解析することにより、日本南岸から本州東方にかけての黒潮流軸付近の冬季水温・混合層深度の経年変動がマイワシの生き残りに関係することが明らかにされる。粒子追跡実験により黒潮流軸付近がマイワシ卵稚仔の主要輸送経路であり(3章)、生態系モデルを用いた解析によって、黒潮流軸の北側の餌環境の変動がマイワシの生き残りと関連することが指摘される(4章)。さらに、黒潮流軸付近の水温・混合層深度の変動が黒潮流速の変動と気象条件によりもたらされていることを明らかにし(5章)、黒潮・黒潮続流域の変動とマイワシ卵稚仔の輸送環境と初めて直接的に結びつけた仮説を提唱した(6章)。

本研究では、観測された日平均海面フラックスを与えた高解像度海洋モデルの経年変動出力に、黒潮流軸に相対的な「黒潮流軸座標系」を適用することにより、過去の研究で見過ごされていた日本南岸から東方海域にかけての黒潮流軸付近の冬季水温・混合層深度の経年変動がマイワシの生き残りに関係することを発見した。観測された産卵場位置を与え、産卵場と黒潮流軸との相対距離を一定にした卵稚仔輸送数値実験を行い、マイワシ卵稚仔の主要輸送経路が黒潮・黒潮続流流軸周辺であることを指摘した。マイワシ卵仔魚が、産卵期である冬季の日本南岸黒潮流軸付近の水塊に乗り、春季に日本東方黒潮続流域流軸付近に輸送されることを通じて、まさに卵仔魚が輸送される水塊の水温・混合層深度の経年変化がマイワシの生き残りと関連することが示された。高解像度生態系モデル結果の解析から、黒潮流軸のやや北側の海域の冬季混合層が深い年に、下層から栄養塩を取り込むことにより、その水塊が到達する黒潮続流北側で春季にプランクトン生産がより活発になることを示唆した。観測からも同様の関係が見出され、黒潮流軸北側海域の冬季の混合層深度変化に起因する春季の餌環境の変化が、マイワシ仔稚魚の生き残りに関係している可能性を初めて示した。さらに、これまで流れが速く解析がなされてこなかった黒潮流軸付近の水温・混合層深度の変化について、バルク混合層モデルを適用することによって、変動要因の解析を行った。黒潮流速の加速と気象条件によって変化する海面冷却の弱化が、マイワシ資源崩壊を引き起こした1988-1994の水温上昇と混合層浅化をもたらしたことを示した。

本研究は、海洋生態系としても産業・社会的にも大きな影響のあるマイワシの資源変動について新しい知見をもたらし、気象・海洋変動から海洋生態系・魚の変動を結びつけた研究であり、海洋物理学と海洋生物学の学際的な研究として高く評価できる。さらに水産海洋学と海洋物理学のそれぞれの研究成果としても高く評価できる。以上から、学位論文として十分な成果であると判断する。

本論文における成果は、指導教員である安田 一郎氏を始めとする共著論文として近々投稿予定であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。従って、審査員一同論文提出者に博士(理学)の学位を授与できると認める。

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