学位論文要旨



No 126504
著者(漢字) 新藤,浩伸
著者(英字)
著者(カナ) シンドウ,ヒロノブ
標題(和) 大正期~占領期における公会堂の設立経緯、事業内容および機能に関する研究
標題(洋)
報告番号 126504
報告番号 甲26504
学位授与日 2010.12.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第170号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 根本,彰
 東京大学 教授 牧野,篤
 東京大学 教授 影浦,峡
 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 教授 大桃,敏行
内容要旨 要旨を表示する

近年、公立文化会館は機能的にも制度的にも転換期を迎えているが、公立文化会館が歴史的にいかにして形成され、どのような機能を果たしてきたかという観点からの研究は、これまで十分ではなかった。

本研究は、戦後公立文化会館と呼ばれる以前、大正期から昭和初期を中心に日本の各地方都市で整備された大規模集会・娯楽施設としての「公会堂」、特に日比谷公会堂を対象に、(1)戦前期における公会堂の設立経緯(「多目的ホール」の形成過程)、(2)事業内容(公会堂で育まれてきた「文化」の内実)、(3)果たした機能(公会堂の"公"の内実と戦後社会における位置づけ)という三つの課題を設定した。

日比谷公会堂を特に対象とした理由は、財界人の寄附による建設という当時一般的であった設立経緯の典型性、東京という都市の代表であると同時に日本を代表する公会堂であるという代表性、また開館以来の催事資料を保存していることにある。

時代対象は、公会堂が急増する大正期から、戦後教育制度が整備され、主たる検討対象である日比谷公会堂の占領軍による接収も解除される占領期、昭和24年頃までとした。主たる一次資料は、全国各地の公会堂から提供を受けた設立経緯や運営内容に関する資料である。また日比谷公会堂については、公会堂所蔵の催事のプログラム、チラシを用いた。さらに、新聞および雑誌の報道などから、公会堂での催事がどう広報され、受容されたかという点を考察した。

序章で上述の研究課題を示したのち、第1章では、先行研究の分析を通して本研究の方法論を導き出した。公会堂は、教育学研究、アーツマネジメント研究、建築学研究、他の施設研究(公民館、図書館、博物館・美術館等)に関する先行研究においては、歴史的および教育学的観点からの研究が十分ではなかった。ここでは、先行研究の検討をふまえ、以下の枠組を提示した。

第一に、(1)主催者の多様性、(2)貸し施設、(3)多目的施設、という公会堂特有の性格を踏まえ、設立経緯や個別の催事を検討しながら、公会堂においていかなる学習・文化活動が行なわれたか、という施設の内実に注目する。その際、単なる通史を記述するのではなく、公会堂という場を通して見えてくる政治史・文化史、そしてその中で公会堂はいかなる機能を有したか、という問題史的な記述を行う。

第二に、国家と国民、政策と実践といった二者関係ではなく、多様な催事の主催者となった企業や団体を加えた三者関係を基軸とする。さらに、それらを対立関係ではなく、関係者間の「増幅関係」としてとらえ、催事の提供主体(催事の主催者)と享受主体(来場者)が共につくり上げていった「文化」の内実全体に注目する。

第三に、公会堂を、新聞やラジオ、映画などと並んで近代国家、近代都市における「メディア」としてとらえる。施設の中で開かれた様々な催事、およびそこで意図された一連のもくろみを一つの実践とみなし、その機能の内実を、当日配布されたプログラムや、催事を報道した当時の新聞・雑誌などから探っていく。また、公会堂そのものがメディアとしての意味を持ったことにも注目し、考察を行う。

第2章では、大正期から昭和初期にかけ各地方都市で建設が進んだ公会堂の設立経緯および事業内容の分析を行った。

明治期において公会堂は、(1)議事堂・演説会場、(2)倶楽部、(3)物産陳列所という文脈で、一部の政治的・経済的特権階級に限定される形で建設されていた。

大正期以降、公会堂は急増する。設立の背景には、(1)近代都市を象徴する市民の集会場への要望、(2)政治家・経済人の地域貢献、教化のための施設、(3)皇室関連行事の記念事業、という三つの要素が互いに重なり合う形で存在していた。また、社会教育のための施設というよりも、都市計画全体の文脈の中で構想されており、社会教育機能は期待されていたものの、当時の文部行政においては公会堂の建設は積極的ではなかった。

第3章では、前章で述べた公会堂整備に関する全国的な概況を踏まえ、日比谷公会堂の構想から開設までの設立経緯を、明治期からの東京市の構想、日比谷公園の位置づけ、そして後藤新平の教育思想と実践との文脈と関係付けて考察した。後藤はしばしば日比谷公会堂の構想者として位置づけられるが、それ以前から東京市において公会堂構想は存在しており、その延長上に後藤と安田の功績を位置づける必要性がある。

第4章では、日比谷公会堂開館から占領期の接収が解除される昭和24年までを対象に、運営形態(管理体制、予算、職員、予算、条例)および使用状況の概況について述べた。

日比谷公会堂の運営形態は、開館前には教育行政と公園行政で管轄の争いがあったものの、公園行政の中で行われることとなった。公園課職員は、課長の井下清以下、公園行政独立経営の観念が強く、公会堂使用条例は使用者の便益のためにしばしば改正が行われた。

次に、管理所長の回想、日比谷公会堂自身による利用の記録、そして実施プロセスのわかる催事に注目し、多目的施設としての多様な使用状況に関する分析を行った。

さらに、日比谷公会堂に残る一次資料をもとに、以下の四期に区分し、各時代において特に時局との関連性の高い催事の内容を検討した。(1)昭和4年10月~昭和6年9月(開館から満州事変勃発まで)、(2)昭和6年9月~昭和12年7月(満州事変勃発から日中戦争勃発まで、(3)昭和12年7月~昭和20年8月(日中戦争勃発から終戦まで)、(4)昭和20年8月~昭和24年(接収解除まで)

第5章では、前章からの分析の継続として、多様な催事を時系列ではなく機能別に分類し、公会堂が果たした機能について考察した。

日比谷公会堂を運営した東京市の公園行政は社会教育行政との関連が強く、公園課長の井下清は、公会堂を含めた公園全体を民衆教育の場として位置づけていた。

さらに、催事の中には以下の四つの機能が相互に交じり合いながら現れていた。第一に、政治的討議を行う場(集会場)としての機能である。公会堂は昭和初期までは無産政党の集会などにも用いられ、新聞社もそれを弾圧する政府への批判に協力姿勢を見せたが、無産政党弾圧後は国際連盟脱退や反英市民大会、選挙粛正運動、国民精神総動員運動など、対外問題およびそれに伴う国民精神の動員に関する催事が増加していった。

第二に、文化的な催事を行う場(劇場)としての機能である。娯楽の会は、日比谷公会堂における催事の中でも最多数を占めるが、特に数の多かったクラシック音楽演奏会と、当時日比谷公会堂で多く新作発表され、さらに数多くの催事で歌われた歌謡曲の二点に注目した。日比谷公会堂では、同時代に発達したレコード産業を背景に、音楽の「聴衆」が形成され、現代音楽よりも古典音楽が好まれ、新聞やラジオとのタイアップ事業により時局関連の歌が数多く発表されていった。

第三に、国民的な儀礼を行う場(儀礼空間)としての機能である。皇室関連行事、各種記念日、「国民儀礼」(国歌斉唱、宮城遥拝、黙祷等で構成される一連の儀式)などが繰り返されることを指摘し、同じ振る舞いを共有する空間が形成されていた。

第四に、メディアとしての機能である。ここでいう「メディア」とは、(1)公会堂それ自体が有する都市における象徴的な意味、(2)公会堂で行われる催事を通して、直接その場に居合わせない人にも情報をもたらす、(3)公会堂の催事が「満場の聴衆」「獅子吼する登壇者」といった定型的表現で報道されることで、事実そのものよりも伝えられる情報に独自の意味が付与される、という三つの意味で用いた。

第6章では、前章で指摘した公会堂の施設理念、そして公会堂の中で形成されてきた文化がはらんでいた矛盾に関する考察を行った。そして、当初立てた問いに立ち戻り、(1)日比谷公会堂をはじめとする公会堂で育まれた文化のありかたがいかなる矛盾をはらんでいたか、(2)公会堂の果たした機能は何だったのか(公会堂はいかなる意味で「公」会堂であったか)、(3)公会堂は戦後教育制度の中でどう制度化されたか(されなかったか)、という問題を検討した。

公会堂という施設は、特に「集会場」と「劇場」という二つのアイデンティティの間で、提供される内容と来場者の受容の間にしばしばずれも生じていた。そうしたいわば啓蒙主義的な意図と、大衆社会においてそれが機能しないというずれは、すでに公会堂設立当初から現れていた。

また、公民館制度、教育基本法、社会教育法成立過程において、教育行政とは別体系の文化行政は構想こそあったものの実現せず、公会堂は「単なる営造物」としての位置づけを与えられるにとどまった。

公会堂の果たしてきた「公」の内実に注目すると、(1)「日比谷」「公園」「公会堂」それぞれが、近代国家において公共的な意味(政治的な討議の空間/国民的な儀礼の空間/文芸的知識を共有する劇場空間/政治的・文化的知を媒体するメディア空間)を有していた。(2)メディア主導で特定の思想を普及させていく、という戦前期の手法は、すでに当時から矛盾が現れていたが、戦後においても踏襲されたその方法は、すでに機能しえなかった。(3)舞台が存在することで文化的催事は政治的に演出され、政治的催事は文化的に演出され人々に提示された。(4)戦後行政主導で建設された行政主導の「公立文化」会館とは異なり、公会堂では官民挙げての「公共文化」が形成されていた。しかし、戦後教育法体系の中で制度化することはなく、また「憲法音頭」の失敗にもみられるように、戦後社会において有効に機能しえなかった部分も存在した。

今後の課題として、(1)近代建築保存および活用の現代的動向の検討、(2)海外の多目的ホールとの比較の視座の獲得、(3)公共ホールのもつ公共性のさらなる検討、(4)近代国家におけるメディアと教育、などの論点が残された。

審査要旨 要旨を表示する

公会堂は現在の用語でいえば文化会館や公民館の前身にあたる多目的ホールであり,大正期から昭和前期にかけて各地に設置された。本研究は,本格的な歴史研究の対象とされてこなかった公会堂について,設置の経緯,事業内容,そして果たした機能という3つの課題の検討を通して,その文化的,社会教育的機能を明らかにすることを目的にしている。

序章で問題意識を述べたあと,第 1 章では教育学,アートマネジメント,建築学,公共施設研究など多様な分野の研究に学びながら,公会堂で行われた学習/文化活動の内実を, 設置者,催事の主催者,来場者の相互関係においてとらえる視点や広い意味でのメディアととらえる視点をあわせて採用することを宣言する。

第2章では,各地の公会堂設置の経緯とそこで実施された事業内容を分析し,そこに政 治家や産業資本家による上からの啓蒙と皇室行事との連携,そして近代都市において市民 が表明する集会場への要望という複合的な背景があったこと,そしてそれらは社会教育行政よりは都市計画のなかで構想されていたことを明らかにした。第3章では,代表的な公会堂として日比谷公会堂の設立経緯を取り上げ,市長後藤新平のリーダーシップのもとに 東京市の都市計画の一環として計画が進められたことを述べている。第4章は,日比谷公 会堂に保管されていたプログラム等の一次資料に基づき,その運営体制とそこで実施された時局講演からクラシック音楽演奏,各種記念式典等々の多種の催事を,昭和初期から敗 戦後の占領軍による接収解除になった昭和24年までの4期に分けて詳細に検討した。

第5章は,これを受けて社会教育的あるいは民衆教育的な機能を行なう場とされた同施 設であるが,第一に政治的討議を行なう集会場としての機能,第二に文化的な催事を行なう劇場としての機能,第三に国民的な儀礼を行なう儀礼空間としての機能,そして第四にマスメディアの報道によって増幅されることで発揮されるメディアとしての機能の4つが 相互に輻輳し合うことで作用した結果であると分析している。第6章ではこうした公会堂のもつ複合性がいかなる意味で「公」たりえたのかについて述べ,それが戦後の教育文化 の制度設計のなかで限定的にしか継承されなかったことを述べてまとめとした。

本研究は,日比谷公会堂が保管していた豊富な一次資料を駆使して催事の具体的な内容 の分析を行なうことにより公会堂の機能を明らかにした初めての歴史研究である。分析の 枠組みとして社会教育や民衆教育,文化活動を施設設置者,催事主催者,来場者の相互関 係にとどまらず,都市空間やメディア空間のもつ作用との関係にまで踏み込んで研究を行なったことで,これまでの社会教育施設論に拡がりと深みをもたらしたと認められる。以上の点で,博士(教育学)を授与するにふさわしいと判断した。

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