学位論文要旨



No 126508
著者(漢字) 合山,林太郎
著者(英字)
著者(カナ) ゴウヤマ,リンタロウ
標題(和) 幕末・明治期の漢文学の研究
標題(洋)
報告番号 126508
報告番号 甲26508
学位授与日 2010.12.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第790号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 教授 安藤,宏
 東京大学 教授 ロバート,キャンベル
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、幕末期から明治三十年代までの漢文学の沿革・動向を明らかにし、それが、近世以降の漢文学史や幕末・明治の文学史の中で、どう位置づけられるのかについて考察したものである。

幕末・明治期には、多数の職業的漢詩人が活躍し、漢詩は、主要な詩歌の一つとして親しまれた。こうした漢詩の世界は、時代の流れとは無関係な文雅の世界として存在したのではない。漢詩壇は、清代の詩の積極的摂取などによって、江戸後期のそれとは異なる詩風を切り拓いた。漢詩という形式についても、西洋からの知識の流入や、明治期の文化・社会構造の変化の中で、議論が起こり、変革が試みられている。本論では、多岐にわたる漢詩文の動きの中でも、こうした当代と密接な関わりを持つものに焦点を当てて考察した。

第一部では、明治期の東京詩壇の中心にいた、森春濤とその子槐南、及びその一派について、詩の表現の特質やその詩歌史の中での位置づけ、中国詩の受容の具体相を明らかにした。

第一章では、春濤・槐南が、大沼枕山とその一派の詠物詩に言及していること、とくに槐南が、枕山一派の詠物への過度の関心を批判していることを指摘し、進取と反俗といった、現実社会への姿勢の相違という点で言及されることの多い両派の懸隔は、詩をめぐる感性の違いとしても理解できることを述べた。

第二章では、春濤の遊仙詩の制作および神仙詩関係の表現の多用について論じた。春濤が、知識を多く要する神仙世界の表象を、積極的に自身の詩に取り入れたことは、彼が表現に腐心する型の詩人であったことを物語っている。同じ幕末期の詩人河野鉄兜や菊池渓琴も、時事に触れる、あるいは、亡児を悼むなどの内容を持つ、変化に富んだ遊仙詩を作っている。春濤の詩風形成には、彼らとのつながりも無視できないであろう。

第三章では、春濤一派が盛んに制作した艶体詩について、佳人薄命の表象を用いていること、「情禅」や「美人禅」など、仏教的な言葉によって女性や男女関係を表していることなどの特徴を確認した。また、こうした艶体詩の表象が、明治十年代の青年層に好まれただけではなく、女性を神秘的、幻想的に描くという点で、後代の明治文学にも影響を与えていることを指摘した。

第四章では、森槐南と国分青〓という明治十年代に台頭した新世代の漢詩人について、擬古的な表現や悲憤慷慨調を重視するなど、共通する要素が見いだし得ることを確認した。彼らはともに江戸後期の詩風に反発している。前代とは異なる詩の方向性を明瞭に打ち出したという点で、彼らの活動は、他の詩歌における革新の動きと共通性を持っている。ただ、槐南、青〓の新詩風の追求は、漢詩の伝統の枠内にとどまるものであり、明治の新たな言語環境に対応したものではなく、同じ明治中期に起こった俳句や和歌の革新とは同質とは言えない。

第五章では、明治十年代における槐南の中国詩の学習の様相を、槐南蔵書への自筆書入れなど具体的な資料の分析を通して、再現した。槐南はこの時期、清初の詩人の詩集を多く閲読している。その関心は、明末史を題材とした作品や、詩における諷刺の機能に注がれており、艶体詩の制作に没頭していた少年期と比較すると、政治性、社会性が増したと言い得る。ただ、彼は同時に、詩人は表現の巧拙によって評価されるべきであるとも考えており、倫理性の点からのみ批評されることに反対している。

なお、槐南は、清・王漁洋の『漁洋山人精華録訓纂』への書入れにおいて、漁洋の詩中に先行作品との詩句の類似を複数見つけ、漁洋に踏襲癖があると難じている。父春濤が信奉していた漁洋に批判意識を持つようになったことは、槐南の詩学の水準の向上を物語っている。

第二部では、漢詩壇から離れ、より広い範囲において、すなわち、当時、漢詩漢文の主要な愛好者であった儒学者や学生なども対象として、漢文学と時代との関わりを考察した。

第一章では、幕末期に制作された「論」の形式による漢文の歴史人物批評、すなわち史論に表れた言説の特徴を明らかにした。この時期の史論には、義の重視など、儒学的価値観により歴史人物を批評するものが多く見られる一方で、斎藤竹堂の作品のように、歴史を題材に才略の必要性を説くものも存在する。とくに、大槻磐渓をはじめ、多くの儒学徒によって、大事に際して性急に命を捨てず、慎重であることの重要性が、楠木正成や正行への批判という形で語られており、この時期の漢文が、合理性や戦略性を重視する思潮を醸成していたことが判るのである。

第二章では、明治初期の代表的な文人結社旧雨社について、阪谷朗廬の「旧雨社記」を手がかりに、社での風流文事が、官僚としての世俗的営為と近接するものであったこと、また、漢学の伝統の固守だけではなく、新来の西洋の知識への関心といった性質も社の中に存在したことを指摘した。明治初年の多様な価値観の葛藤を表し得る柔軟性を、朗廬の漢文は持っていたと言える。

第三章では、若年期における森〓外の、近世日本人の漢詩文集への書入れから、明治十年代における青年層の近世漢文学の受容のあり方を探った。〓外は、漢詩文作品から、学問の大切さや刻苦精励の重要性などの人生訓や教訓を読み取り、また、それを、歴史知識や語彙を獲得するための知識源と見なしており、当時の若者が学習の一部として漢詩文を読解する様が見て取れる。

第四章では、明治十年代から二十年代にかけて起こった、漢詩改良論と称される、漢詩を時代に対応した形に改めようという動きを追った。長詩形を豊富に持つことから、西洋の詩歌を翻訳・移入するための手段としても期待された漢詩は、しだいに、俗語化が容易ではない、日本に起源を持つ文芸ではなく国民文学とは言えない、などの批判を受けるようになり、変革の可能性のある詩歌形式とはみなされなくなる。ただ、こうした過程で行われた議論からは、訓読という漢詩の制作・享受の方法が持つ限界や、詩歌の近代化とナショナリズムの関連性など、多様な問題が浮かび上がる。

第五章では、明治二十年代以降、新聞雑誌に掲載された時事批評漢詩の消長を論じた。国分青〓「評林」、野口寧斎「韻語陽秋」に代表される時事批評漢詩は、政治的事件から社会風俗、当代の小説まで様々な明治の事象を扱っており、明治という時代と向きあう中で生まれた新たな漢詩のかたちであった。明治二十年代の新聞雑誌には、類似の時事批評漢詩欄が多く生まれ、高い人気を誇ったが、連載のための多作に起因する作品の質の低下や、明治期の複雑な事象を漢詩で詠うことの難しさなど、新たな問題を抱えることとなる。

第六章では、『しがらみ草紙』に掲載された「詩月旦」という小説批評漢詩欄の詳細を論じ、森〓外周辺にまで時事批評漢詩の流行が波及していたことを指摘した。

第三部では、明治中期の漢詩人野口寧斎の漢詩、時事批評漢詩、小説批評、狂詩にわたる多様な文芸活動と、寧斎を起点に広がるネットワークを明らかにした。

第一章では、寧斎の前半生について、漢詩人としての足跡と、小説批評家としての活動という二方面から論じた。

漢詩人としての寧斎は、明治初期の文人官僚であった父松陽が森春濤の詩会の主要人物であったことが大きく影響している。父と春濤との交流により、寧斎は槐南に指導を受けるようになり、明治中期以降の詩壇の中心人物へと成長する。寧斎の詩には、明治期の英雄的人物を顕彰する叙事詩など、社会性、倫理性を色濃く帯びたものが多い。

小説批評家としての寧斎は、巌谷小波とのつながりによって生まれている。小波が寧斎を硯友社同人に引き合わせ、批評家として文壇に登場する契機を作った。寧斎は、『小説神髄』の主張を強く意識し、芸術として小説を考えることの重要性をしばしば説いている。しかし、その芸術小説の実質的な理解は、小説の効用として諷刺や勧善懲悪などを積極的に認める、倫理色の強いものであった。寧斎の『舞姫』評には、こうした寧斎の小説観が投影されており、草創期の近代小説理解のあり方を示すという意味で、一定の評価がなされるべきである。

第二章では、寧斎の後半生について詳述した。寧斎は、日清・日露の両戦争において、国威発揚のための漢詩を制作し、乃木希典をはじめ、軍人の間で支持を得た。また、巌谷小波、岸上質軒らと時事批評漢詩や狂詩を媒介としたネットワークを築いた。社会において積極的に自身の貢献できる場所を見つけようとする漢詩人の姿を、寧斎に見ることができる。

幕末・明治期の漢文学は、様々な次元で同じ時期の他ジャンルの文芸に影響を与えている。また、漢詩人を起点に、小説家や出版関係者、軍人をも含んだ交友関係が生まれている。漢文学は、幕末・明治期の文学の動向とそれが持つ多様な問題を鮮明に映し出す存在として評価し得るのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、幕末・明治の漢文学変革期における漢詩文・漢詩人の動向を、その様々な試みを紹介しつつ詳細に描き出すとともに、漢文学が時代と切り結びながら文学史上で果たした役割について、多方面から考察し明らかにしたものである。

本論文の構成は、冒頭の「イントロダクション」に続き、第一部「幕末・明治期における漢詩の展開と達成」には、「詠物詩から見た幕末漢詩壇―大沼枕山と森春濤―」「幕末・明治期の神仙詩―森春濤の詩風の位置づけをめぐって―」等五篇(五章)の論考を、第二部「幕末・明治期の文学・社会と漢詩文」には、「漢文による歴史人物批評―幕末期における「論」について―」「明治初期漢詩結社考―旧雨社をめぐって―」等六篇の論考を、第三部「野口寧斎考」には、「野口寧斎の前半生―明治期における漢詩と小説―」「野口寧斎の後半生―明治期漢詩人の詩業と交友圏―」の二篇の論考をそれぞれ収め、末尾に「結語」を添える。

第一部では、幕末・明治の変革期の漢詩壇を代表する森春濤・槐南父子一派の作品を詳細に検討し、彼らの遊仙詩・艶体詩への傾斜、擬古表現や悲憤慷慨調の重視、あるいは詠物詩に対する批判的態度等を指摘し、その詩風の特質を、様々な方向から初めて明らかにする。

第二部では、視野を漢詩壇から文壇・一般社会へとさらに広げ、旧雨社を例にとった漢詩結社の西洋への関心、明治十年代から二十年代にかけて漢詩を新時代にふさわしい形式に改革しようとした漢詩改良論の消長、国分青〓や野口寧斎らの時事批評漢詩・森〓外らの小説批評漢詩等に見られる漢詩の新しい可能性への模索を具体的に紹介して、この時期の漢詩が、同時代の社会や、他ジャンルの文芸と密接に関わっていたことを明らかにする。

第三部では、明治という新時代の漢詩人の一典型として野口寧斎をとりあげ、豊富な資料に基づいて、彼の生涯を交友を中心にきめ細かく描き、また、通常の漢詩の他に、時事批評漢詩、小説批評(また小説批評漢詩)、狂詩など、彼が試みた様々な文業の意味を、時代の文脈に即して明らかにする。

従来、幕末・明治期の漢詩文研究は、時流に抗して反俗の姿勢を貫いた大沼沈山、時流に乗り新政府に近いところにいた森春濤(とその後継者の槐南)という対立の構図のもとに、漢詩壇の各派の勢力の消長を、時代の政治状況・社会状況と関わらせて論ずるものがほとんどであり、作品そのものに深く踏み込んだ研究はわずかであった。本論文は、明治期の漢詩文を考察する上でもっとも重要な存在である春濤と槐南の作品を、膨大な原資料を精査しながら精細に読み解き、その詩風を初めて明確に描き出すとともに、新しい表現、多様な表現を盛んに試みたことを明らかにした点に、きわめて大きな意義がある。また、明治期の漢詩人たちが、漢詩文を時代に即応した内容や形式へと変えようとした様々な試みが、諸資料に裏付けられて、具体的な形で明らかにされたことは、画期的な成果といってよい。漢詩改良の種々の議論や、「評林」「韻語陽秋」「詩月旦」等の時事批評・小説批評漢詩についての的確な紹介も、今後の研究にとってきわめて有益である。今後はさらに、本論文で論じ残した本田種竹、中野逍遙等を含め、全円的な明治漢詩研究にまで広げていくことが望まれるが、幕末・明治期の漢文学の特質を、作品表現と社会的な意義という、微視的・巨視的の両視点から明らかにしたことは、高く評価できる。よって、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断した。

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