学位論文要旨



No 126512
著者(漢字) 神田,豊隆
著者(英字)
著者(カナ) カンダ,ユタカ
標題(和) 冷戦の変容と日本外交の国際秩序観 : 池田・佐藤政権の対中外交と「日米中」提携の系譜 1960-1972
標題(洋)
報告番号 126512
報告番号 甲26512
学位授与日 2010.12.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1033号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 田中,明彦
 東京大学 准教授 川島,真
 東京大学 教授 古城,佳子
 東京大学 名誉教授 石井,明
内容要旨 要旨を表示する

「多極化」や「デタント」といった1960年代の冷戦構造の変容に対し、日本外交はどのように対応したのか。そこには、いかなる国際秩序観が存在していたのか。本論文は、この時期の日本の外交指導を担った池田勇人・佐藤栄作政権が、アジア冷戦の中心的存在であった中国に対して展開した外交に焦点を当てることによって、この問いに答えようとするものである。その際本論文は、官庁よりも政治家の役割を重視した上で、彼らの国際秩序観における多様性に着目し、その類型化を行う。

本論文は先行研究に対し、次の二つの文脈において、その問題点を修正する狙いを持っている。第一に、1960年代を対象とする日本外交史研究においては、いわゆる「吉田路線」の定着や、経済成長を背景とする外交の変容といった重要なテーマに関する実証研究が進んできた一方で、この時期における冷戦の構造変容への対応が直接の主題とされることはなかった。第二に、戦後日本の狭義の対中政策に関する先行研究においても、対中政策の背景にある国際政治構造への対応を、日本外交に内在的な視点から本格的に検討するという課題は置き去りにされていた。ここでは、外交文書の公開以前には、国際環境の重要性を客観的要因として強調する研究が政治学者らによって行われていた。だが文書公開により実証研究が可能になって以後は、国際環境の重要性を内在的に検討する課題よりも、いわゆる「二つの中国」問題に関心が集中してしまっていた。

なお本論文は、未公刊・公刊外交文書、二次的文献として、日本、アメリカ、イギリス、台湾、フランス、ドイツ、オーストラリア、中国、国連といった多数国・国際機関の史料に依拠し、多角的・立体的な分析を行うものである。

本論文の構成は、次の通りである。導入部である「課題と視角」に続き、本論文の基本的な分析枠組を序章で詳述する。その後、第一章から第三章と終章において、池田・佐藤政権の対中外交と、日中国交正常化を行った田中角栄政権の外交に関する時系列的な歴史叙述を行う。最後に「総括と展望」において、本論文の議論を纏めるとともに、それが後の日本外交にどのように継承されていったのかについて、若干の考察を行う。

序章では、やや結論的に、この時期の日本外交に内在した二つの国際秩序観の系譜――「日米中」提携と「日米中ソ」協調――について、その内容と担い手についての詳細な説明がなされる。「日米中」提携を追求したのは、吉田茂、池田、佐藤、田中といった「保守本流」とともに、アジア主義的心情の強い松村謙三であった。彼らは例外なく、中ソが決して一枚岩ではないという強い確信を持っていた。その上で、中国を日米の側に引き込み、ソ連を排除した「日米中」の提携を形成するという長期的構想を有していた。

他方、「日米中ソ」協調を模索したのは、岸信介、椎名悦三郎、福田赳夫、石橋湛山、三木武夫などの「反吉田」勢力とともに、高坂正堯、永井陽之助といった論壇における現実主義者であった。彼らは、吉田らとは対照的に、中ソの一体性を信じる傾向があり、その対立が顕在化した後にも、しばしば中ソ再接近の可能性を論じた。また60年代における米ソ・デタントの進行を積極的に評価し、そこに日本と中国も加わることで、最終的に「日米中ソ」の協調を実現するとの展望を持っていた。

第一章は、「日米中」提携を積極的に模索した池田政権の対中外交を対象とする。池田政権はまず1961年の国連中国代表権問題に際して、「二つの中国」論に基づく中国の加盟を模索した。それは、軍縮やアジアの諸問題に関して形成されつつあった国際的枠組に、中国を編入しようとする問題意識とも結び付いていた。

1962年に入ると、中ソ間の亀裂が徐々に顕在化したが、外務省内の多くはその対立に慎重な見方を採った。しかし、吉田とともにこれを「日米中」提携へ向けた好機を捉えた池田は、松村などと協力して日中LT貿易を成立させ、また中国問題をめぐって欧州諸国の説得に乗り出した。だが62年秋のキューバ危機と中印紛争の後、アメリカが中ソ間で「ソ連寄り」の姿勢を明確にしたことは、必然的に中国問題をめぐる日米摩擦に繋がった。池田はアメリカの牽制にも臆せず、63年8月には中国に対するビニロン・プラント輸出を決行したが、同時期に米英ソで調印された部分的核実験禁止条約に象徴されるように、この頃米ソ・デタントと中国の孤立化という国際環境の構図は決定的となった。

こうして「日米中」提携の追求が困難となる中、1964年1月の仏中国交樹立の際には対中承認の決行も視野に入ったものの、池田政権の外交は末期には積極性を失っていった。アメリカがベトナムへの直接軍事介入に歩みを進め、米中対立が激化しつつあった状況で、池田政権は中国との貿易事務所の相互設置や記者交換などを通じた「日米中」提携の模索を続ける一方、韓国、台湾、ソ連との関係強化により中国の孤立化にも与することになっていった。

第二章は、米ソ・デタントに進んで適応し、中国の孤立化を念頭に置いた「日米ソ」連合ともいうべき協力関係に与した佐藤政権前期の対中外交を対象とする。元来佐藤は兄の岸とは異なり、吉田や池田の「日米中」提携という目標を共有していた。だが米中対立の国際環境の下、佐藤が池田に比べて対米配慮を重視したこともあり、政権発足が近づくにつれ、中国問題よりも沖縄返還を優先課題とするようになっていった。

政権発足後、佐藤政権は「日米ソ」連合とともに「日豪印」「日韓台」の協力関係を強化し、いわば「中国包囲網」への参加とも見做しうる外交を展開していった。この背景には、「日米中ソ」協調を長期的目標とした椎名や三木が外相を務め、彼らが対ソ関係を重視したこともあった。またこの頃永井も、「日米ソ」連合に類する主張を展開していた。ただこの時期も佐藤は、対中接触を通じた日中関係改善や、松村訪中などを通じた「米中の『架け橋』」の試みに関与し、「日米中」提携への関心を維持していた。佐藤はその後、中国における文革やベトナム情勢の収束が視野に入るにつれ、徐々に「日米ソ」連合からの脱却や、中国の孤立化の是正に関心を示すようになっていった。

第三章は、米中対立が緩和に向かう中で、「日米ソ」連合から再び「日米中」提携を模索していった佐藤政権後期の対中外交を扱う。1969年3月に中国とソ連が国境で軍事衝突に至ると、日本では「米中ソ」の「三極」として国際関係を捉える見方が広まった。その上で岸や三木は中ソ再接近の可能性を検討し、他方外務省内の多くは中国外交の転換可能性は低いと見ていたが、佐藤は中ソ再接近よりも米中接近の可能性が高いと考えていた。そこで佐藤は「日米ソ」連合から「日米中」提携への転換に向けて動き出したが、佐藤を苦悩させたのは、米中関係が改善の兆しを見せる一方で、この頃日中・日米関係が悪化し、佐藤政権が疎外されたことであった。

1971年7月のニクソン訪中発表によって米中接近が明らかになると、佐藤は「日米中」提携の模索を加速した。同年の国連総会では対米配慮により台湾の議席を擁護したものの、中国の加盟が決まったことを契機に、佐藤は日中国交正常化の推進を決意した。他方ニクソン訪ソ発表やソ連を重視した福田外相の存在を背景に、佐藤政権は対ソ関係への配慮も見せた一方、佐藤は「日米中」提携を着実に推進し、末期の対中政策はかなりの程度田中政権と連続することになった。

終章は、田中政権による日中国交正常化と、その「日米中」提携の模索を検討する。一般に「内政家」としての印象が強い田中であるが、「外交家」としては池田や佐藤と同様、「日米中」提携を模索する吉田的な個性を有していた。この頃も依然対中・対ソ関係のバランスを重視していたアメリカや、日中の接近を警戒するソ連の懸念をよそに、田中は日中国交正常化に踏み切り、ソ連とは距離を置いた「日米中」提携を積極的に追求していった。

以上の叙述を踏まえ、最後の「総括と展望」では、「日米中」提携と「日米中ソ」協調の差異を生み出した要因を探るべく、両者のより根本的な背景に関する考察を行った。両者の違いは、アジアの国際秩序を構成する原理として、グローバルで普遍的な秩序原理と同様のものを想定するのか、あるいはそうではない個別の秩序原理の可能性を信じるのかという点にあった。「冷戦」というグローバルな国際政治の潮流から一定の距離を置こうとした吉田、池田、佐藤、田中と、欧米とは一線を画す「アジアの連帯」に関心を注いだ松村の国際秩序観が重なり合ったのは、その意味で決して偶然ではなかった。

他方、岸、椎名、福田、石橋、三木は、アジアにおいても根を張っていた「冷戦」という存在に対して極めて敏感であり、アジアの安定の前提としての米ソ・デタントを重視した。高坂や永井といった論壇の現実主義者が彼らと共通する議論を展開したのは、一つにはその知的背景が、冷戦の主たる当事国であった欧米の国際政治学と結び付いていたこともあったかもしれないが、彼らも同様に、アジアにおける冷戦の存在を軽視しなかったからでもあった。

二つの系譜はその後も、日本外交において重要な意味を持った。但し70年代末においては、「日米中」提携が優勢となっていった。米ソ関係がデタントから新冷戦へと向かう中、「日米中」提携をめぐる吉田の対中政策論は、元来「日米中ソ」協調を志向した福田の政権に深く浸透し、「反ソ」を示唆する「反覇権」条項を含んだ日中平和友好条約の締結に至った。

審査要旨 要旨を表示する

提出論文は、1960年代の冷戦構造の変容に対して、当時の日本外交指導者がどのような国際秩序観をもとに対応したのかという問題を、池田勇人・佐藤栄作政権の対中外交に焦点をあてながら、解き明かそうとした研究である。提出論文の構成及び要旨は、以下の通りである。

「課題と視角」では、従来の日本外交史研究において、「多極化」や「デタント」と呼ばれる1960年代の冷戦構造の変容への対応を正面から扱ったものが少ないことが指摘され、それに対して、池田・佐藤政権の外交の背景にあった国際秩序観を探ることが本論文の第一の課題とされる。また、近年公開された日本外交文書による最近の研究が、ともすれば依拠する文書の性格から、官邸よりも外務省を中心とした分析に偏りがちなのに対して、本論文は、政治家のリーダーシップに寧ろ焦点をあてることが、第二の課題とされる。

「序章 二つの系譜――「日米中」提携と「日米中ソ」協調」では、この時期における外交指導者の国際秩序観の二つの系譜を抽出し、その内容と担い手について説明がなされている。吉田茂、池田、佐藤、田中角栄といった「保守本流」の政治家や、アジア主義的心情の強い松村謙三は、中ソは一枚岩ではないとの確信を持っており、中国を日米の側に引き込み、ソ連を排除するという国際秩序観を有していた。これに対して、岸信介、椎名悦三郎、福田赳夫、石橋湛山、三木武夫などの「反吉田」勢力や、永井陽之助、高坂正尭といった現実主義的国際政治学者達は、米ソの平和共存の影響を重視し、そこに日中両国が加わる形での「日中米ソ」協調路線を模索していた。また総じて彼らには、中ソは一体であると見なす傾向が、吉田等に比べて強かったのである。

このような二つの系譜を念頭においたうえで、「第一章 「日米中」提携の模索と挫折―池田政権の対中外交 1960-1964」は、池田による「日米中」提携の試みを分析している。池田はまず、「二つの中国論」に基づいて中国の国連加盟を模索し、中国を国際的枠組みのなかに編入しようとした。1962年以降中ソ対立が顕在化すると、池田はこれを「日米中」提携の好機と捉え、日中LT貿易の実現や中国問題をめぐる日欧協調を推進した。しかし、このような池田の試みは、キューバ危機と中印紛争後にソ連との接近を図ったアメリカによって阻まれ、政権末期の池田外交は積極性を失っていった。ベトナム戦争が本格化していくなかでも、池田は日中貿易事務所の相互設置等による「日米中」提携の可能性を捨てはしなかったが、米ソのデタントと中国の孤立化という流れには抗しきれなかった。

「第二章 「日米ソ」連合と中国の孤立化――佐藤政権前期の対中外交 1964-1968」は、佐藤政権前半の対外政策を分析している。佐藤は池田と同じく、系譜的には吉田の引いた「日米中」提携路線のなかにあったが、佐藤は池田よりも対米協調を重視する傾向があった。このため政権が近づくにつれて、佐藤は中国問題よりも沖縄返還を最優先課題とする方向に向かうことになった。佐藤政権は発足後、米ソのデタントに進んで適応し、「日豪印」や「日韓台」の協力関係を強化することで、中国の孤立化をもたらす政策をとった。このような路線は、「日米中ソ」協調を長期的課題とする椎名や三木の主張を佐藤が一定程度汲んだことを意味していた。だが元来、「日米中」提携の関心が強い佐藤は、文化大革命やベトナム情勢の収束が明らかになるにつれて、本来の関心に立ち戻る動きを見せ始めた。

「第三章 再び「日米中」提携の模索――佐藤政権後期の対中外交 1969-1972」は、佐藤政権後期の対中外交を扱っている。1969年3月の中ソ国境紛争以降、佐藤は「日米ソ」連合から「日米中」提携路線へと舵を切ろうとした。佐藤の試みは、日中接近よりも米中接近が先行することによってその効果は十分には表れなかったものの、政権末期の佐藤の対中政策は、事実上次の田中政権と連続するものであった。

「終章 日中国交正常化と「日米中」提携」は、田中政権による日中国交正常化を論じている。田中は国内政治にのみ関心があった政治家として描かれる傾向があるが、外政家としての田中は、実は吉田路線の継承者という側面が強かった。このため田中は、ソ連の警戒心を意に介さず、日中接近を進めることになった。

最後に、「総括と展望」において、著者はこれまでの分析を踏まえたうえで、いかなる要因によって本論文の冒頭で提示した「日米中」提携と「日米中ソ」協調の二つの系譜の分岐点が形成されるかを論じ、「日米中」提携がアジアに内在する秩序原理を重視するのに対して、「日米中ソ」協調が、グローバルな冷戦構造の函数としてアジアを捉えようとする志向性を持っていた点に、その秩序観の差異の原因を見出している。

以上が提出論文の要旨であるが、本論文は次のような点で評価することができる。第一に、本論文は、池田・佐藤政権の対中外交を、単なる日中二国間関係史としてではなく、冷戦構造の変容に対する対応として、マクロな構図から解き明かした点に特色がある。1960年代の国際政治学は「デタント」や「多極化」を中心的な対象としていたが、このような冷戦構造の変容を日本の外交指導者がどのように受け止めたのか、という主題は、必ずしも日本外交史研究では正面から論じられてはこなかった。これに対して、本論文は、日本の外交指導者の国際秩序観を抽出することで、1960年代における国際政治の構造的変容と外交指導者の行動との連関を描き出すことに相当程度成功している。また指導者の国際秩序観を抽出する際に、単に回想録等に依拠するのではなく、各国の文書館史料において記された政治指導者の言動から再構成している点に、分析の厚みがあるといえる。

第二に、本論文では、様々な政治指導者の国際秩序観を、「日米中」提携と「日米中ソ」協調という二つの系譜に類型化し、そのことにより従来の分析枠組であった、「対米協調」対「自主外交」、もしくは、「吉田路線」対「反吉田路線」という構図に、修正を迫る見解を随所で提示している点が、長所として認められる。本論文では、従来は同一の類型として捉えられていた指導者が別の系譜として理解しえることが示唆されたり、あるいは、これまでは別の文脈で扱われていた人物が実は同一の国際秩序観を有していたことに気づかされることが、少なくない。この時期の代表的な現実主義的国際政治学者高坂正堯の国際秩序観が、高坂自身が称揚した吉田茂の対極に置かれている点等は、その好例であろう。このように本論文は、先行研究が前提としてきた系譜的理解を覆す創見を示している。

第三に、本論文は、日本外交史研究に政治指導という変数を再投入した点に、特色がある。外交文書の公開がなされる以前の日本外交史は、「吉田派」対「反吉田派」という保守政党内部の対立構図に「対米協調」対「自主外交」という外交路線の対立構図を重ねて理解する見解が主流であった。これに対して、新たに公開された日本外交文書に基づく研究では、各政権を貫く日本外交の持続的関心を描き出し、官邸よりも外務省を中心的主体として日本外交を理解する傾向が強まった。本論文はこうした近年の傾向に明示的に異議を唱え、当該期の日本外交が政治家主導で方向性が定められたことを論証している。その意味で、本論文は、政治指導という古典的視角を再活性化する研究として位置付けることもできよう。

だが、提出論文にはいくつかの弱点と思われる個所も存在する。第一に、「日米中」提携と「日米中ソ」協調という二つの国際秩序観を分ける要因が、必ずしも十分に理論的には提示されていない点が挙げられる。著者が「総括と展望」において、この分岐点を、アジアに内在する秩序原理を重視する秩序観と、グローバルな冷戦構造の規定性を重視する秩序観との対立に見出している点は肯けるが、この視角は必ずしも本論では十分に展開しきれてはいない印象は残るように思われる。また二つの国際秩序の系譜を論ずる際に用いられる、「提携」と「協調」という用語の含意の違いも、より明示的に論じたほうが説得力は増すように思われる。

また、やや望蜀の感はあるが、本論文が指摘する「日米中」提携と「日米中ソ」協調という日本外交指導者の対立構図を、同時代に相手国である中国や、関係国である米ソの政策決定者はどのように、あるいはどの程度まで認識していたのか、という問題も残るように思われる。その点がより詳細に論じられたならば、本論文の分析枠組みが持つ同時代的含意は一層深まったであろう。

しかしながら、これらの点は本論文の学術的価値をいささかも損なうものではない。総じて、本論文は、各国文書館の未公刊史料を渉猟して1960年代の日本外交を論じた緻密かつ重厚な研究であり、学界に対して多大な貢献をしたものと認めることができる。以上の点から審査委員会は、本論文の提出者は、博士(学術)の学位を授与されるのにふさわしいと判断する。

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