学位論文要旨



No 126513
著者(漢字) 増田,貴子
著者(英字)
著者(カナ) マスダ,タカコ
標題(和) 栄養塩環境変動に対する海洋性植物プランクトンの増殖応答に関する研究
標題(洋)
報告番号 126513
報告番号 甲26513
学位授与日 2010.12.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3618号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 教授 福代,康夫
 東京大学 准教授 ニーラム,ラマイア
 東京海洋大学 教授 神田,穣太
 長崎大学 教授 武田,重信
内容要旨 要旨を表示する

海洋の植物プランクトン群集は環境変動に応じてその構成を時空間的に様々に変化させ、新たな環境に適応する。これは、主として環境変動に対する増殖応答が種によって異なることに起因する。このような変化をもたらす要因として栄養塩は極めて重要である。一般に、海洋植物プランクトンの増殖は、窒素あるいはリンの制限を受けており、特に窒素の供給は物質循環の起点である一次生産の制限要因となる。海洋の真光層において生物が利用可能な窒素は、陸域からの河川や大気を通した供給、下層からの供給、真光層内での再生、窒素固定などによってもたらされる。本研究は、海洋の約6割を占める亜熱帯貧栄養塩海域を対象に、真光層への窒素の供給様式が、植物プランクトンの群集構造を決めるメカニズムを明らかにすることを目的として、現在知見の乏しい以下の3過程を取り上げて解析を行った。

はじめに、下層から真光層下部へのマイクロモルレベルの硝酸塩の供給に対する植物プランクトン群集の増殖応答に取り組んだ。本研究では定法の瓶培養によらず現場の天然群集の経時的な追跡から解析したが、これは真光層下部の群集について初めての試みである。次に真光層内でのナノモルレベルでの窒素の供給に対するピコ・ナノプランクトンサイズの植物プランクトンの増殖応答について解析した。第三に、再生栄養塩の連続的な供給下における窒素固定生物の増殖応答を解析した。

亜表層植物プランクトン群集の増殖特性

成層海域では真光層下部に亜表層クロロフィル極大が形成され、その群集は下層から供給される硝酸塩に依存すると考えられてきたが、直接的証拠を欠き、議論が閉塞していた。これは亜表層植物プランクトンの増殖速度の推定が、測定法上の問題を避けられないことによる。すなわち、従来、植物プランクトン群集の増殖速度の推定に用いられてきた瓶培養法では、壁効果と総称される容器に閉じこめることに起因する生物活性の低下や、栄養塩の再生や捕食が現場と異なる問題を免れられなかった。そこで、本研究では、新規の試みとして、ラグランジュ観測により現場群集の増殖速度を求めた。この方法は前述の問題を解決するが、同一水塊をどのように追跡するかが鍵であり、技術的に困難であるために海洋観測では前例が無かった。これを相模湾に設置された人工湧昇装置「拓海」から20 m層に放流された放流水をウラニンで標識し、追跡することで克服した。

ラグランジュ観測は、2006年7月末から8月上旬にかけて「拓海」周辺海域にて行った。「拓海」は通年連続運転され、205m層から海水を汲み上げ、20m層の海水密度になるように2倍量の5m層水と混合した後、硝酸塩濃度約6 uMの密度流として栄養塩躍層付近の20m層に放流する。放流水と周囲水塊との連行の影響を、ウラニン濃度の経時的な減少をもとに取り除くことにより、クリプト藻類(u=1.11 d-1)およびSynechococcus spp.(u=0.95 d-1)が高い増殖活性をもつことを明らかにした。この層には硝酸塩がマイクロモルレベルで存在したが、従来、マイクロモルレベルで硝酸塩が供給される環境では珪藻類が優先的に増殖するとされてきた。しかし、本研究では珪藻類は顕著な増殖を示さず、これは珪藻類の増殖が光律速受けていたとして説明された。以上から、真光層下部ではピコ・ナノプランクトンサイズの植物プランクトンが下層から供給される硝酸塩をトラップする機能を果たす可能性が示唆された。

貧栄養環境における植物プランクトン群集の増殖応答

亜熱帯外洋域は通年にわたり成層が発達し表層の栄養塩が枯渇している。このような貧栄養海域では生物量は著しく小さく、群集組成の変動が乏しいことから極相状態にあると考えられてきた。しかし近年、分析技術の進歩により栄養塩濃度がナノモルレベルで時空間的に大きく変動すること、植物プランクトンの現存量とその組成が多様であることが明らかにされ、従来の定常系を仮定した概念が大きく修正されつつある。しかし、従来の研究はマイクロモルレベルの栄養塩濃度変動に対する応答に集中しており、ナノモルレベルの栄養塩濃度変動に対する植物プランクトン群集の増殖特性についての知見は殆どない。本研究では、亜熱帯貧栄養海域の表層群集を用いた栄養塩添加培養実験から、植物プランクトン各グループの窒素濃度変動に対する増殖応答を解析した。

ナノモルレベルの栄養塩添加実験をフィリピン海で2006年9月および2007年9月に計3回、グアム沖定点(12°N 135°E)で2008年6月に5回行った。微量金属の混入を避けるため、実験にはクリーンテクニックを用い、表層5~10mからテフロンポンプを用いて採取した表層水の1 um以下の画分に、硝酸塩、アンモニウム塩、尿素を終濃度100nmol N L-1となるように付加し、3日間培養して、Prochlorococcus、Synechococcus、真核植物プランクトン、ナノシアノバクテリアの増殖速度を細胞数の経時変化から求めた。ここでナノプランクトンサイズの単細胞性シアノバクテリアをナノシアノバクテリアとする。対照区として無添加区およびリン酸塩添加区(10nM)を設けた。いずれの培養実験においても硝酸塩、アンモニウム塩濃度は定法では検出限界以下とされる濃度範囲であった。

いずれの実験においても共通して以下の傾向が認められた。すなわち、Prochlorococcus、Synechococcusおよび真核植物プランクトンの増殖は窒素添加区で無添加区に比べて収量が有意に高かったが、ナノシアノバクテリアでは全ての実験区で有意差が認められず、前三者が窒素制限を受けていたのに対してナノシアノバクテリアは受けてないことを認めた。収量および増殖速度は窒素化合物の種類によって異なり、Prochlorococcusおよび真核植物プランクトンはアンモニウム塩および尿素の利用により増殖がより促進され、両者は誘導期の有無の違いを示した。他方、Synechococcusは硝酸塩の利用により増殖がより促進された。このことから、窒素化合物の種類により、植物プランクトングループが選択的に増殖応答することが示された。また、Prochlorococcusの増殖応答は実験開始時の無機態窒素濃度が影響することを見いだし、植物プランクトンの増殖応答が、付加される窒素化合物の種類と、現場の栄養塩濃度に依存することをナノモルレベルの濃度域で初めて明らかにした。さらに、付加した窒素がどの植物プランクトングループに取りこまれたのかを推定するために、細胞密度と生物体積、C/N比から各植物プランクトングループに含まれる窒素量を試算した結果、無添加区および窒素添加区ともにナノシアノバクテリアの窒素含量が顕著に高いことを見いだした。

窒素制限が窒素固定性ナノシアノバクテリアに与える影響

天然群集を用いた栄養塩添加実験では窒素供給に対するナノシアノバクテリアの増殖応答が他のグループと大きく異なった。このグループには窒素固定者が含まれることが近年明らかにされていることを考え合わせると、本研究で調査した海域のナノシアノバクテリアの多くが窒素固定者であることが示唆された。これまで海産の窒素固定者の栄養塩取り込みに関する知見は群体形成性のTrichodesmiumに集中しており、ナノシアノバクテリアの栄養塩取り込み能に関する知見はほとんど得られていない。そこで本研究では、フィリピン海から単離したCrocosphaeraクローン株を用いてアンモニウム塩制限をかけた連続培養系を確立し、窒素制限がナノシアノバクテリアの増殖に与える影響を解析した。その結果、供試株がナノモルレベルまでアンモニウム塩を利用できることが明らかとなり、非窒素固定生物と還元型の窒素をめぐる競争相手となることが示された。また、細胞あたりの窒素固定活性はアンモニウム塩の供給の有無によらず、ほぼ一定であることが明らかとなり、速い増殖のためには、窒素固定よりもむしろアンモニウム塩の利用能が重要であることが示唆された。しかし、グアム沖定点における栄養添加実験の結果と考え合わせて、アンモニア取り込み能は非窒素固定性のピコ・ナノ植物プランクトンよりは低いと結論した。

以上、本研究は、亜熱帯貧栄養塩海域において、もっとも知見の乏しかった上記3点について新たな知見、すなわち、(1)真光層下部では珪藻類以外のピコ・ナノプランクトンサイズの植物プランクトンが活発に増殖すること、(2)真光層内では窒素化合物の種類や誘導期を分けることにより各植物プランクトンがニッチを分けていること、(3)窒素固定能を有するナノシアノバクテリアはアンモニウム塩の利用を優先すること、を得た。また、Synechococcusが利用効率の低い硝酸塩の利用で増殖がより促進されたこと、ナノシアノバクテリアの単離培養株ではアンモニウム塩を利用して速やかに増殖するが、天然では付加された窒素により増殖が促進されなかったことから、真光層内における植物プランクトン間の栄養塩をめぐる競争が示された。以上から、亜熱帯貧栄養塩海域における植物プランクトン群集動態解析にはそれらの競争関係が重要であることが明らかとなった。さらに、今後の課題として、真光層内における捕食の影響について議論した。微小動物プランクトンによる捕食は再生栄養塩の供給に直接リンクするからであり、再生栄養塩の供給過程の解明の必要性を指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

海洋の植物プランクトン群集は環境変動に応じてその構造を時空間的に様々に変化させ、新たな環境に適応する。これは、環境変動に対する増殖応答が種によって異なることに起因する。栄養塩、特に窒素の供給は、もっとも顕著な増殖応答をもたらす要因である。本論文は、海洋の6割を占める広大な亜熱帯海域を対象に、真光層への窒素の供給様式が、植物プランクトンの群集構造を決めるメカニズムを明らかにすることを目的として、現在、知見の乏しい(1)下層から真光層への供給、(2)真光層内での再生窒素、(3)窒素固定、を取り上げて以下の解析を行った。

成層海域では真光層下部に亜表層クロロフィル極大が形成され、その群集は下層から供給される硝酸塩に依存すると考えられてきたが直接的証拠を欠いていた。ここで鍵となるのは、亜表層の植物プランクトン群集の増殖速度であるが、測定法上の問題から議論が閉塞していた。そこで、本研究では、新規の試みとして、ラグランジュ観測により現場群集の増殖速度を求めた。この方法は、従来の測定法がもつ難点はないものの同一水塊をどのように追跡するかが鍵となり、海洋観測では前例が無く技術的に難しかった。これを、相模湾に設置された人工湧昇装置「拓海」から20m層に放流された放流水をウラニンで標識し、追跡することで克服した。放流水と周辺水との希釈や混合をウラニン濃度の減少をもとに取り除くことにより、クリプト藻類および単細胞性シアノバクテリアが高い増殖活性をもつことを明らかにした。この層ではマイクロモルレベルの硝酸塩が存在し、そのような高濃度域では珪藻類が優占するとされてきたが、本研究により、光律速を受ける珪藻類ではなく、より小型の藻類が、下層からの硝酸塩をトラップする植物プランクトンとして機能していることを明らかにした。

亜熱帯外洋域は通年にわたり成層が発達し表層の栄養塩が枯渇し、貧栄養海域特有の極相状態にあると考えられている。本論文は、この極相群集にナノモルレベルの窒素が供給された場合の植物プランクトン各グループの増殖応答の違いを解析した。なお、マイクロレベルの栄養塩環境変動がこれまでの研究であったため、新規性が高いといえる。フィリピン海およびグアム沖において、微量金属の混入を避けたクリーンテクニックを用いて、表層群集に、硝酸塩、アンモニウム、尿素の添加実験を計8回行った。いずれの実験においても共通して、(1)Prochlorococcus、Synechococcus、および真核植物プランクトンの増殖は窒素制限を受けたがナノシアノバクテリア、すなわちなのプランクトンサイズの単細胞性シアノバクテリアは窒素制限を受けないこと、(2)Prochlorococcusと真核植物プランクトンは再生された窒素に、Synechococcusは硝酸塩を利用して増殖がより促進され、窒素化合物の種類によってグループが選択的に増殖応答することを明らかにした。さらに、各グループの増殖応答は、実験開始時の無機態窒素濃度が影響することを見いだし、植物プランクトンの増殖応答が、付加される窒素化合物の種類と現場の栄養塩濃度に依存することをナノモルレベルの栄養添加で初めて明らかにした。

この天然群集を用いた実験では窒素供給に対するナノシアノバクテリアの増殖応答が他のグループと大きく異なったが、その原因を解明するために必要な生理学的知見はほとんど無いことから、フィリピン海から単離したCrocosphaeraクローン株を用いた実験的解析を、本論文の第三の内容として行った。この株についてアンモニア制限をかけた連続培養系を確立し、ナノシアノバクテリアの増殖生理を調べた。その結果、供試株がナノモルレベルまでアンモニウムを利用できることから、ナノシアノバクテリアが非窒素固定生物と還元型の窒素をめぐる競争相手となること、細胞あたりの窒素固定活性はアンモニウム供給の有無によらずほぼ一定であること、早い増殖のためには、窒素固定よりも細胞外からのアンモニウム利用能が重要であることが明らかになった。

以上、本研究は、亜熱帯貧栄養海域における植物プランクトン群集動態理解の鍵であった、1)亜表層植物プランクトンが下層からの硝酸塩供給のトラップとして機能しているのか、それがどのようなグループなのか、2)ナノモルレベルの窒素供給変動に対して群集はどのように応答するのか、3)単細胞性窒素固定性シアノバクテリアは細胞外窒素を利用するのか、を明らかにした。2)、3)については類例研究がほとんど無く、新知見として極めて重要である。このように本研究は亜熱帯海域の一次生産機構を解明する上で新たな展開を与え、学術上も応用上も極めて貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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