学位論文要旨



No 126524
著者(漢字) 金山,準
著者(英字)
著者(カナ) カネヤマ,ジュン
標題(和) ジョルジュ・ソレルの思想とソレル主義の展開
標題(洋)
報告番号 126524
報告番号 甲26524
学位授与日 2011.01.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1034号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,政稔
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 准教授 鹿毛,利枝子
 専修大学 教授 深澤,民司
 東京外国語大学 名誉教授 上村,忠男
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、フランスの思想家ジョルジュ・ソレル(Georges Sorel 1847-1922)の社会思想について、後代への影響をも含めて検討することを目的とする。第一部では初期から主著『暴力論』(1908年)にいたる彼の思想形成を扱い、第二部では彼の思想の受容について、いくつかの重要な事例にかぎって考察する。具体的には、ドイツのロベルト・ミヘルス、イタリアのアントニオ・グラムシ、フランスのジョルジュ・ヴァロワである。

政治的な振幅の大きさや、関わった人的・知的文脈の多様さに起因するソレルの思想史上の位置づけ難さは、彼に関する研究のほぼすべてにおいて言及されている。彼の思想それ自体は根本的に非政治的な性質のものだったと思われるが、それにもかかわらずソレルの思想は、多様な政治的文脈に応じてさまざまなかたちで発展を遂げることになる。

序章にて彼のやや複雑な経歴とこれまでの研究史を検討したのち、本論第一部の第一章では、「新旧形而上学」(1894年)を中心とするソレルの初期の科学論をもとに彼の社会思想全般を貫くコスモロジー・存在論の骨格を描出する。「人工的自然」と「自然的自然」という対比は彼にとって根本的な構図であったと思われる。「人工的自然」とは端的には自然のエネルギーを利用する技術・「機械」の領域であり、人間の営為は基本的にこの圏内に限定される。ここに明らかに見られるとおり、彼にとって科学の基本モデルは機械工学であった。

第二章では、クローチェ・ラブリオーラらイタリアの哲学者とソレルの間でかわされたマルクス主義をめぐる論争を概観し、イタリア語版のみの出版となった『マルクス主義批評論集』(1903年)におけるソレルの社会科学方法論を検討する。ここでの彼の議論には、マルクス主義の「正統派」的な歴史決定論や大政党の「綱領」に対する批判と、「モラル」や「制度」への関心、「実践的提言」ないし「社会詩」としてのマルクス主義、「還元」という方法論などのテーマが現れている。基本的に本書での議論は方法論的次元に限定されているものの、その内容は同時期の彼のサンディカリズムへの傾倒を示すものであるし、また後の『暴力論』で展開される「神話」や「分断」などの議論の萌芽ともなっている。

第三章では、彼のフランス・サンディカリズム論について検討する。彼は1898年の論文「労働組合の社会主義的将来」等にてサンディカリズムへの加担を明確に表明する。これは『暴力論』のプロトタイプともされる論文である。そこでは、サンディカリズムの英雄的指導者フェルナン・ペルーティエらの影響下に、労働者の自律とその条件としての「モラル」、未来社会の萌芽としての労働組合、新たな「法」の創出を目指す闘争などのテーマが論じられている。これらはサンディカリズムの運動を思想的に代弁する内容ということもできるが、他方で、ソレルの元来のテーマである産業主義・生産力主義は、フランス・サンディカリズムと彼の思想との乖離をも示している。

おおむね1903年頃までのソレルは政治や民主主義、あるいは政党に対して必ずしも否定的ではなかった。ただし、ドレフュス事件へのコミットとその後の「挫折」を通じて、彼は政治と民主主義に対してほぼ完全に否定的態度を取る。またこの「挫折」は、彼の機械工学的世界観に元来孕まれていたと思われる反人間主義的モチーフを前景化させる。その結果、同じくサンディカリズムを扱いながらも、1908年の『暴力論』ではその論調は大いに変化している。

第四章ではソレルの主著とされる『暴力論』について検討する。そこで述べられる「神話」や「暴力」のモチーフは一見して非合理主義的にも見えるが、ここで重要な点は、それらが資本主義を破壊するのではなく、むしろそれを高度に促進すると論じられることである。『暴力論』第七章で論じられるように、「暴力」を行使する戦士の「モラル」と高度な生産力を実現する労働者の「モラル」は同一である。

また本書においては、「パスカル的」と称される、反人間主義の前景化が重要な意味をもつ。一般に『暴力論』は、「強制力」に対抗し、「モラル」や意志にもとづく「暴力」を謳った書物とされている。表面的にはそのように見える彼の議論は、実際にはそのような意志に対する被縛性や、「強制力」による拘束性の契機を高度に強調し、むしろ機械工学的な決定論にかぎりなく近づいている。そのような決定論的世界観を彼は『暴力論』序章でパスカルやハルトマンを援用しつつ、「習俗の形而上学」としての「ペシミズム」と称している。

第二部ではソレルの影響について、代表的な論者を三人挙げて検討する。ここでソレルの影響は、彼が発展させた個々の具体的モチーフ(「神話」、「暴力」、労働者の自律、「モラル」、資本主義、など)に加え、彼の反人間主義的世界観それ自体という、二つの次元において問題となる。

第一章では、ドイツの社会主義者にして、『政党の社会学』(1911年)によって20世紀の政治科学の嚆矢的存在ともなったロベルト・ミヘルスを扱う。ここでは、彼の「民主主義」概念が、その内容の不明確さと、実践性・倫理性を喚起するその性質のゆえにソレルの「神話」にきわめて近い性質をもっていること、また彼の主意主義的な態度と「寡頭制の鉄則」という決定論的結論との結合が、ソレル的「ペシミズム」に相同のものであることを論じる。

第二章で、イタリアのマルクス主義者アントニオ・グラムシを扱う。彼の青年期の活動である工場評議会運動がサンディカリズム的な「自主管理」の志向に近いことはしばしば論じられてきた。実際に、労働者の自律やその条件としての「モラル」への着目など、両者の共通点は数多く確認できるが、ソレルの影響はそれにはとどまらない。後年の『獄中ノート』における「ヘゲモニー」概念は、グラムシ自身が明示するとおり、「モラル」や文化への関心という点において、ソレルの「神話」から深い影響を受けている。ただしその一方で、「神話」は脱組織的・「個人主義的」行動を志向するが、「ヘゲモニー」は組織化・規律化の徹底を志向する点で両者の思想は対照的である。

第三章ではジョルジュ・ヴァロワを検討する。彼はアクシオン・フランセーズに属する王党派であったが、やがて袂を分かち「フェソー」を1925年に設立する。彼はフランス・ファシズム初期の代表的存在とされる。ただし、資本主義の合理的組織化と競争の徹底への志向や、権威への情動的同一化や暴力性の契機の希薄さなどの点で、ファシズム周辺の他の思想家とはかなり異なる性質を持つ。「頽廃」への強迫観念、悲観的人間観、それに対して、資本主義のもつダイナミズム・技術と産業の「進歩」の希求などに、ソレルからの深い影響を見て取ることができる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、19世紀末から20世紀初期にかけてのフランスの思想家、ジョルジュ・ソレルを中心として、ソレルの知的影響をさまざまに受けたロベルト・ミヘルス、アントニオ・グラムシ、ジョルジュ・ヴァロワの3人の思想家を含めたソレル主義の展開について研究した論文である。ソレル自身はその『暴力論』によって有名であるが、彼の評価はいまだに十分定まっておらず、その位置付けや全体像は不明な点が多い。たとえば、アナルコ・サンディカリズムの理論家、ファシズムの先駆者、ベルクソン的な「生の哲学」の思想家など、当時の政治思想の極右から極左までを横断して、きわめて多様な相貌を帯び、またその影響はフランスを超えてとくにイタリアに広く及んでいる。本論文は、この解釈困難なソレルについて、機械工学的な決定論とペシミズムの思想家として全体像を明らかにするとともに、その影響関係を考察することによって、時代のなかにソレルとソレル主義とを位置付け直そうとするきわめて意欲的な試みである。

本論文は序章に引き続き、大きく二つの部分から構成される。第一部は「ソレルの思想」と題され、ソレルの初期から『暴力論』に至る思想の変容が検討される。第二部は「ソレル主義の展開」と題されて、ミヘルス、グラムシ、ヴァロワの3人の思想が、ソレルの影響関係という視点から検討される。

まず第一部では、『暴力論』に至るまでのソレルの思考の形成過程が精緻にたどられる。そのなかには、ラブリオーラやクローチェなどイタリアに特徴的なマルクス主義解釈に影響を受けて、ソレルが実証科学としてではなくイメージを想起させる「社会詩」としてマルクス主義を受容したことや、また高度に倫理的契機を重視するフランスの革命的サンディカリズム(ペルーティエなど)との近接的な関係が紹介される。ソレルの初期思想においてはデュルケームに影響を受けた「有機的な」社会観にもとづき、労働者が政治権力に依存せず「モラル」の陶冶を通じた自律を達成することが目指されていた。ソレルはドレフュス事件に関して、当初は民主主義と社会主義の結合(ドレフュス派社会主義)に期待をかけていたが、のちに幻滅し、政治路線から手を切ったことも示される。

以上のような初期思想の立場と『暴力論』の立場の対比が明確に説かれているのが、本論文の成果のひとつである。1905年に雑誌に掲載され、1908年に書物として出版されたこのソレルの主著は、「ユートピア」と「神話」とを対置し、知識人によって前もって構想が与えられる「ユートピア」を否定して、直感的に獲得されるイメージにもとづく「神話」を称揚する。この「神話」は労働者の本能的で力動的な感情、そして暴力の発現であるゼネストにおいて作用する。もっとも「暴力violence」といっても、国家の暴力やテロリズムとははっきり区別され、そのような「強制力force」に対立する崇高な行為として位置付けられる。こうして『暴力論』のソレルにあっては、かつての制度や組織への問いが後退し、ゼネストと暴力の契機が前面に出ていることが指摘される。かつての社会学的な「連帯」論は『暴力論』では繰り返し批判されており、社会の組織化とは対照的な、個人主義的で無規律、しかもマッシヴな闘争が要請される。またしばしばソレルへのベルクソンの影響が指摘されるが、本論文によればその影響は限定的であり、ソレルを特徴づけているのは「生」の思想や生物学的自然観ではなく、機械的・工学的発想である。

同時に本論文によれば、このような機械工学的発想は『暴力論』で始めて登場したものではなく、ソレル最初期の「新旧形而上学」と題された論文のなかで、ソレルは自然と人工との二元論のあいだに「人工的自然(人工的環境)」という概念を設定し、これを科学的認識の対象に据えた。これは機械工学の世界であり、人間が自然のエネルギーを利用するための手段の全体であって、ソレルはここに人間の自由を見出したとされる。本論文によれば、このような機械工学的な科学観は、有機的ないし生物学的な自然観の意識的な拒否のもとに主張され、ソレルにおいて終生決定的な重要性を有する。

本論文が提示するソレル解釈としてつぎに画期的な事柄は、『暴力論』において対置された「暴力」と「強制力」の二元性が、実は二元論として維持されず変容しているという指摘である。この点にはソレルの独特の進歩観および資本主義についての見方が関連している。『進歩の幻想』という著書もあるソレルは、通常進歩の批判者と考えられているが、本論文によれば、ソレルは進歩を全否定したのではない。彼は歴史法則主義的な進歩観を否定するが、機械化と生産力の発展にもとづく不可避的な趨勢としての進歩は、人間の「堕落」に抗うためにむしろ不可欠として要請される。ここには彼の特徴的な資本主義観が結びついている。本論文によれば、ソレルは資本主義の創造性を、産業の無規制的状態と表裏一体であるような冒険や闘争を見出している。彼においては資本主義と社会主義とは対立的にとらえられておらず、資本主義が惰性に堕ちずその闘争的性格を維持するために、むしろ階級闘争は必要だとされる。ソレルによれば人間の自由や崇高さは、こうした「人工的自然」の過酷な強制力を免れていることによるのではなく、逆にそれによって突き動かされるなかに見出されるのであり、「暴力」と「強制力」の二元論は強制力を優位として統合されている。そこにソレルの能動的ニヒリズムへの接近が認められると結論される。

第2部では、ミヘルス、グラムシ、ヴァロワの3人の思想家について、ソレル主義の展開という視点から考察がなされる。この3人は国籍がそれぞれ異なり、またサンディカリスト、マルクス主義者、ファシストというように政治的立場も著しく異なっているが、本論文によれば、これらの思想家はソレル主義のそれぞれ異なった側面の継承・発展という点で共通点と相違点の両方を備えているとして比較検討される。

まず『政党の社会学』における「寡頭制の鉄則」で著名なミヘルスは、従来、一方では社会民主主義政党に幻滅し直接民主主義を夢想するロマン主義者として把握され、しかし他方では冷徹な「科学的政治学」を創始者として捉えられるという両側面を有してきた。本論文はソレル主義を軸に、この両側面を統一的に理解することを試みている。ミヘルスは現代民主主義の官僚主義やエリート支配を強く拒否するが、あるべき民主主義の像に関しては著しく内容が空疎であり、本論文によればミヘルスにとっての民主主義は、ソレルの「神話」に類似した位置を占めるものである。したがって変えようのない「鉄則」に支配され、冷徹な科学的分析の対象となる現代民主主義は、そこからの脱出不可能性によって、逆に否定への情熱を高めるものとされる。このようなペシミスティックな自由観において、ミヘルスはソレルと共通した面を有すると解釈される。

つぎにイタリアの著名なマルクス主義者グラムシは、若いころから工場評議会運動に積極的に関与し、この点においてサンディカリズムへの接近が指摘されてきた。それは階級闘争の、とりわけ生産の場における文化やモラルの要素の重視であり、自律した工場評議会はそれ自体が「プロレタリア国家のモデル」とされた。ここにはグラムシ自身がソレルにしばしば言及してきたように、ソレルとの共通性が認められる。一方、グラムシの組織に対する評価はミヘルスの場合とは対照的であり、組織には労働者を規律化することでそのモラルが進歩することへの期待が託される。後年の『獄中ノート』において、マキャヴェリの『君主論』がソレル的な意味での「神話」として、人民の意識を組織化する媒介として解釈されるなど、ソレルに再び言及されるが、しかし同時にソレルの自然発生性への依存が批判され、政党による指導性が強調されるなど、ソレルからの距離もまた生じていたのである。

最後に論じられるヴァロワは、フランス・ファシズムの思想家のひとりであるが、右翼団体アクシオン・フランセーズの復古的性格に反発してこれと決別し、独自の団体フェソーを設立して産業の合理的組織化を試みるなど、位置付けの難しい人物である。ヴァロワはソレルとの親交もあり、ソレル的サンディカリズムおよびナショナリズムの左右の思想の結合によるフランス・ファシズムの形成という、ステルネルのファシズム論に適合する人物としても取り上げられてきた。本論文はこうした先行解釈を踏まえつつ、ヴァロワに特徴的な、有機体的・自然的共同体思想の拒否、労働という試練の強調、「エネルギー」の組織者としての指導者の必要性、決定論と生へのペシミズムといった諸要素に、ソレル主義の発展の要素を見出している。ヴァロワはソレル同様、闘争のなかに産業の活力を認め、旧い自由競争に代わって、企業家、技術者、生産者、商業者などがそれぞれ集団的規律のもとに団結し、「相互強制」の関係で対峙する独特な経済の再組織化構想を提示した。これらの思想は必ずしもファシズムと親和的と言えない面を含んでおり、ヴァロワが一時接近したファシズムに失望するのも、こうしたソレル主義的な特徴によるものであると解釈される。

本論文は、思想史的位置付けの困難なソレルについて、通説的な「ユートピア」と「神話」、「強制力」と「暴力」という二項対立によっても十分に説明できないような諸側面を取り上げ、ソレルに一貫する機械工学的思考の徹底および生のペシミズムという視点から、整合的に解釈しようとする試みであり、ここに先行研究に対する独創性が明らかに認められる。本論文では、ソレル主義とされる思想家を含め、この特異な思考様式が、資本主義対社会主義、左と右、人工と自然といった対立構図を無効化し、あらたな枠組みを構成していった過程が、きわめて動的にたどられており、ファシズム論やアナルコ・サンディカリズム研究、マルクス主義、テクノロジーの思想、モダニズム、現代資本主義論など思想史研究の広汎な諸領域を横断して、それらを再解釈する可能性を与える画期的な貢献であると評価することができる。しかもこのソレル主義的契機は現代に伝えられることが少ない失われた思想系譜であり、その影響の及び地域もフランス・イタリア・ドイツ等広汎に及んでいて、研究の困難性が高いにもかかわらず、多言語を駆使して原典を緻密に検討したことも高い評価に値する。

もちろん本論文にもいくらかの欠点が見出せないわけではない。たとえば、「ソレル主義」として括られる3人の思想家について、何をもって「ソレル的」とするかはそれぞれ異なっており、とくにミヘルスについては、彼自身のソレルへの明示的な言及が欠けている点で他の2人とは性格が異なる。また、第1部からのつながりでいえば、本論文で独創的に特徴づけられたソレル思想の側面は、ヴァロワには最もあてはまるがグラムシについてはかならずしもそうではないなど、「ソレル主義」の規定にいくらかの揺らぎが見える。

しかし、このような欠点も、ソレルのようにきわめて複雑な思想家を扱うさいには不可避であるという面もあり、本論文の価値を損なうものではない。以上の理由から、当審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいと認めるものである。

UTokyo Repositoryリンク