学位論文要旨



No 126538
著者(漢字) 小林,正泰
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,マサヒロ
標題(和) 「復興小学校」の教育学的研究 : 大正・昭和初期の学校・建築と地域社会
標題(洋)
報告番号 126538
報告番号 甲26538
学位授与日 2011.02.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第171号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 教授 金森,修
 東京大学 教授 小玉,重夫
 東京大学 教授 牧野,篤
 東京大学 准教授 勝野,正章
内容要旨 要旨を表示する

近年、子どもの学習環境に対する関心が高まりつつあり、オープンスクールや校庭芝生化など、教室環境や学校建築に関する新たな試みが広がっている。そして、オープンスクール論の中でしばしば批判の対象となったのが、戦後大量に建造された、「画一的」で「閉じた」鉄筋コンクリート(以下RCと略記)校舎であった。このRC校舎の起源は大正期に遡り、その原型は、関東大震災後に大量に建設された「復興小学校」により形成されたと考えられる。木造が主流の学校建築が、関東大震災を契機としてRC校舎へと転換していったと言えるだろう。そこで、批判対象としてのRC校舎がいかなる問題を抱えているのか、あるいは、その批判がそもそも妥当なのかという点について検証するには、まず大正・昭和初期における学校建築の構造転換の実態を正確に把握する必要がある。

以上のような研究課題にもとづいて、本研究では校舎RC化の画期となった復興小学校を取り上げた。その際、学校建築と、教育実践および地域社会との関係に着目しながら分析を行った。また、教育や建築のあり方は、その時代の社会状況と多くの面で深い関連性を持つ。したがって、復興小学校を大正・昭和初期という大きな社会変動に位置づけることも、分析上の重要な切り口として設定した。

その結果、社会変動期における多様な社会的要求が学校建築に反映していたこと、新教育思想が社会的な広がりをみせ、復興小学校にも多大な影響を及ぼしたことが明らかになった。また、復興小学校の性格として析出された、学校建築の教育的機能や、地域の中心としての小学校という性格は、「学校施設の教育的側面・機能の切り捨て」、あるいは「学校施設と地域民衆の疎遠な関係」等と表現される、日本学校建築史の通説を相対化するものでもある。

本研究の概略を以上のように整理した上で、各章の要点をまとめると以下の通りになる。

第1章では、震災前の教育の実態や学校建築の状況を把握するという基礎作業を行い、それらが当時の社会情勢と様々な形で関連していたことを述べた。当時の都市教育は、人口急増、環境悪化、都市災害の頻発、大衆社会化といった様々な課題を抱えていた。学校建築との関係では、児童増加・二部教授の大量発生が、学校の増設および収容力増大をうながし、高層化が可能なRC校舎の需要を高めた。また、都市環境の悪化や都市災害もまた、RC校舎への転換を促した。さらに、児童の教育環境への着目は、学校建築の衛生設備や校地緑化の動きにもつながった。また、都市の環境悪化を招いた要因は、戦間期における重化学工業化という経済環境であった。そうした経済環境に対応する設備として、理科・手工教室が重視されるようになった。大衆社会化や男子普通選挙との関係では、教育政策として社会教育の必要性が高まり、地域社会における社会教育の中心施設として小学校が位置づけられた。そして、学校建築に対するこれらの社会的諸要求が、復興小学校にも反映されることになった。

第2章では、関東大震災による被災状況を整理した上で、復興校舎の建設が完成するまでの過程を概観した。震災による被害は火災が主因であったため、ほとんどが木造であった小学校の校舎は、市内196校中117校が焼失することとなった。そして、帝都復興計画の策定が進む中、市立小学校の建設事業は、罹災小学校を全校RC化する、東京市が統一設計を行うなどの方針が定められた。

第3章では、復興小学校の全体像を、東京市学校建設課が定めた設計規格の分析と全117校のデータ分析を対照させて明らかにした。その分析を通じて、学校建築の教育的機能、および、地域の中心としての小学校という2点の性格が析出された。これらの性格は、RCによる耐震耐火構造および近代的諸設備(電気・ガス・暖房・水洗便所等)という観点から注目されてきた復興小学校の、新たな側面を示している。復興小学校の教育的機能を列挙すると、地域住民への啓蒙的効果をも意図した近代的諸設備や理科・手工教室、都市環境の悪化に配慮した衛生設備や校地緑化、新教育的教育実践に配慮した教室・廊下構造、地域の中心的教育施設としての講堂・小公園などである。

こうした復興小学校の性格をデータ分析と照合した結果、校地面積などの制約条件によって、学校建設課が理想とする全てのプランが実現したわけではないが、学校建築の教育的機能化、および地域の中心としての小学校という基本方針は実現していた、ということが確認された。

第4章から第6章では、第3章で指摘した復興小学校の2つの性格に着目しつつ、個別事例を検証した。そして、学校建築の設計・計画に現場教員が積極的に関与したこと、また、地域社会が学校建設事業を支えるとともに、地域住民自身が学校建築の利用者であった実態が明らかにされた。

第4章の錦華小学校の事例では、学校建設課の設計プランに準拠した校舎構造を備えていたことが確認された。また、学校設計のプロセスでは、学校側への意見聴取期間が設けられており、学校建築に対する教員側の関与が推察された。また、錦華小復興校舎に見られる新教育的要素は、新校舎を「凡てに、大に児童の発動的研究学習設備を営むには好都合」と評価する校長の学校建築観の影響があったと考えられる。

地域社会との関係としては、復興後援会の事業が重要であった。その事業内容は、町内会を介した地域からの募金によって、不足する設備・備品を購入するというものであった。教育実践を支える地域社会のあり方は、震災前より徐々に組織されていた児童保護者会等の地域諸団体とのつながりが、その基盤としてあったがゆえに実現したものである。

練屏小学校の復興事業を対象とした第5章および第6章では、地域社会との関係を述べた第5章と、学校建築と教育実践の関係を述べた第6章に分けて分析を行った。

練屏小学校は、地域の学校として育ってきた歴史があり、その歴史的背景が、学校復興に尽力する地域社会という形で現れた。その具体的な活動は、校地拡張運動と記念事業後援会として行われた。校地拡張運動では、児童保護会々長を中心として区画整理事業に介入し、また会長自ら校地購入も画策した。記念事業後援会の活動は、錦華小の復興後援会と同様に地域からの募金を実施し、その資金で不足する復興校舎の設備や備品を購入した。

地域社会と学校の関係は、地域社会が一方的に学校を支えたわけではなかった。震災前より、練屏小を中心とした保護者会、校友会、青年団等の諸団体が組織化され、それらの地域団体に学校施設が開放された。そして、これら諸団体の利用にも適合する建築が求められたのであり、地域社会と学校の関係は双方向的なものであった。

練屏小における学校建築の教育的機能という点で注目すべきは、教員による学校建築への積極的な関与である。校長らが自ら設計図を作成する一方で、教員全員の分担作業によって学校建築研究を組織し、校舎の設計変更につなげた。学校側の要求項目には、理科・手工準備室の学校博物館化、児童中心主義の観点による教壇廃止といった、新教育的学校建築への志向が読み取れた。また、学校設備・備品についても研究体制を整え、多目的スペースとしての気象観測室が設置された。

練屏小復興校舎の教育的機能化の背景を、同校の教育方針や教科教授方針に見ると、そこには、新教育的学校建築を求める教育観が見出せた。その一方で、多数の学校管理規程による学校環境の管理・統制化、あるいは教育方針や教科教授方針に内在する忠君愛国思想をも読み取ることができた。練屏小の新教育的学校建築は、保守的管理的な教育方針によって、様々な利用上の制約も存在したのではないかと推測された。

第7章では、復興小学校の背景にある、当時の教育思想や学校建築論の概観をおこなった。第1節では、復興小学校の設計業務を取り仕切った東京市の技師、古茂田甲午郎の教育観を中心に分析し、第2節では、RC校舎を批判・相対化する視点を提供した大正新学校における学校建築論を分析した。古茂田は、自身を東京市に招いた佐野利器建築局長やアメリカの新教育、とくにゲーリーシステムからの影響を強く受けていた。佐野からは、「総てが教育的に機能」する学校建築という方針とともに、「地域公共の中心建築物」という学校建築観を受け継いだ。ゲーリーシステムからは、児童数増大に対応する学校建築のあり方を学ぶと同時に、ジョン・デューイの影響を受けた新教育的教育観や、学校を社会に開放するという思想に触れることになった。

しかし、私立新学校の教員は、学校建築の自然環境と家庭的環境を重視しており、そうした環境条件を欠くRC校舎に対しては批判的であった。一方、師範学校附属小学校の教員、木下竹次は、「学習生活学校」というキーワードをもとに、独自の学校建築論を展開した。木下の学校建築観は現在のオープンスクール論にも匹敵するものであり、また、公立小学校の制約を踏まえた上での教育学的な学校建築論であった。しかし古茂田も、小学校建築を「家庭の延長」、「子供の王国」と表現しているように、復興小学校の学校建築にも、新学校と同種の教育観が内在されていた。

本研究を通じて明らかになったのは、行政と教育関係者、あるいは建築学と教育学との間で対立的な局面が生じつつも、新教育や学校開放に適合的な学校建築を目指すという方向性において、両者は基本的に一致していたということであった。このように、復興小学校は、多様な社会的文脈に位置付けられ、様々な意味合いが込められている。復興小学校における木造からRCへの転換は、建築技術の転換以上の意義を内包しているのである。

審査要旨 要旨を表示する

戦前の学校建築は、閉鎖的・画一的で教育的配慮に乏しかったとされ、学校を「開く」ことを目指すような改革理念の対極に位置づけられてきた。しかし、そうした学校建築史の通説は、学校とその建築についての教育学的な検討に裏打ちされたものとは言いがたい。本論文は、関東大震災後に東京市で117校が建設され、その後の学校建築の原型となった「復興小学校」を対象として、復興小学校建設の背後にあった多様な社会的・教育的要求を分析し、建築というモノに具現された教育的な意図と機能を実証的に解明した研究である。

序章で先行研究を検討し本研究の課題設定を行った後、第1章では、震災前東京市における学校建築をめぐる状況の概観から、都市問題の深刻化や大衆社会化状況を背景に学校建築にも様々な改革要求が寄せられていたことが示される。第2章では震災による小学校の被害状況と学校復興計画の立案過程が描かれる。被災した小学校の復興は、東京市が建設費を負担し、市の標準プランにもとづいて全校RC造で行われることになった。第3章では、標準プランを主導した建築局の目論見が学務局や校長会との対立を通して析出される。建築局が目指していたのは、教育的に機能する合理的な学校建築であり、地域の中心としての開かれた学校であった。

復興小学校全体の俯瞰から抽出されたこの2つの性格を具体例で検証するために、第4章では錦華小学校が、第5、6章では練屏小学校が取り上げられる。両小学校とも、復興過程では地域住民の支援が重要な役割を演じた。支援は地域諸団体による学校利用への期待とも結びついており、実際両校において講堂は地域開放を前提にした設計となっていた。また、教室の配置や設備・備品については、綿密な調査研究にもとづいて教師たち自身が詳細な要求を提出し、その一部は実現した。学校建築には、細部にわたって教育的な意図と機能が込められていたのであり、しかもそこには新教育的な活動重視の教育観が色濃く反映していた。第7章では、復興小学校建設の実務を支えた古茂田甲午郎の学校建築観と、画一的なRC校舎を批判した木下竹次らの議論とを比較し、対立を孕みつつも両者がともに新教育的な理念を共有していたことを示している。終章で本論文の成果と残された課題をオープンスクール論など現代の学校建築論と対比しつつ論じて本論文は閉じられる。

以上のように、本論文は、限定された対象に即してではあるが、一次史料を駆使して学校建築史の通説を相対化することに成功している。教育学的観点に立った建築分析は方法論的にも注目すべき成果であり、さらに建築という視点から学校と地域社会の関係を描き直す可能性をも開いている。このように本論文は今後の教育学研究に重要な貢献をなすことが期待される。以上により、本論文は、博士(教育学)の学位論文としての水準を十分に満たしているものと評価された。

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