学位論文要旨



No 126556
著者(漢字) 細萱,恵子
著者(英字)
著者(カナ) ホソガヤ,ケイコ
標題(和) 地球環境問題における森林の公益性と私権に関する考察
標題(洋)
報告番号 126556
報告番号 甲26556
学位授与日 2011.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3623号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 安藤,直人
 東京大学 教授 太田,正光
 東京大学 教授 永田,信
 東京大学 准教授 稲山,正弘
 東京大学 准教授 井上,雅文
内容要旨 要旨を表示する

森林の役割をめぐる社会情勢の変化は、地球環境問題を契機として、林産物(木材)生産の場としての役割のほかに、水源酒養、土砂災害の防止、またいわゆる二酸化炭素吸収源としての森林の公益的機能へと重心が移っている。

本論において、森林の持つ公益的機能と、林産物生産の場としての森林の経済的機能の間に拡がっている認識的、制度的ギャップについて目を向け、森林・林業の再生のため、ひとつには国産材の需要の喚起を図ること、もうひとつは森林の環境機能を内部経済化することための制度的確立が重要であることを述べた。この意味でコスタリカで始められ、ラテンアメリカの多くの国で採用されている環境便益の支払い制度がひとつの解決方向を示唆することができるのではないかと考える。

国産材の需要の喚起として、特に樹種別森林資源の割合ではスギが全体の44%を占め、スギを在来工法のみではなく、集成材を含め、多角的に活用しなければならないと考える。その意味で、枠組壁工法における2X4材としてスギ材が活用できないかを検討した。供給者サイド、需要者サイド、流通サイドからの市場調査により、スギ2X4材の品質、安定供給性、価格の3つが重要な要素であることが分かった。技術的検証において、SPF材と遜色ない強度を持つことが分かった。スギ2X4材の事業経済性を検討したところ、潜在需要の安定供給性については十分可能な体制が整いつつある状況である。また最後の価格については、フィンガージョイント材と併せて製造することで歩留まりを高め、競争力のある価格を提示できることが分かった。加えて、輸入材の持つ流通や為替などのデメリットを解決することのできるオペレーションメリット、国産材を用いるという環境視点から見たセールスメリット、スギ材の持つ材料特性からくる加工上のメリットなどがスギの優位性である。これらの考察から、国産材の需要の喚起についてはそのメリットを積極的に打ち出す戦略的マーケテイングが必要になると考える。

次に森林の持つ環境機能を内部化する制度を見てみる。従来森林から算出される木材など林産物の生産、流通、消費という経済財という市場・価値を中心に据え、林業を振興することで自ずから森林資源管理が図れるというスタンスが崩れ、森林の多様な機能もしくは公益的機能が前面に押し出されてきて15年になろうとしている。しかし、理念的にはともかく、現実的にはあくまで森林所有者の自発的な森林の適切な管理が基本に置かれているため、間伐されない森林、伐採しても造林を行わないなどの管理放棄が森林資源の劣化を招いている現状である。

森林の環境機能や社会・文化機能などの公益的機能は市場メカニズムには反映されない外部経済を内部化する政策的手法として森林環境税が導入された。導入に先立つ2003年内閣府による「森林と生活に関する世論調査」によると、森林の公益的機能を高めるため、森林整備の費用負担はどうあるべきかという質問に対して森林所有者が負担すべきであると答えたものが7.2%であるのに引き換え、税金を投入すべきと回答したものが9割近くを占めている。この世論に後押しされるように2003年高知県の森林環境税を皮切りに2009年4月までに30の都道府県において森林環境税が創設されている。本税の主な使途はハード事業として荒廃した私有林(一部には公有林も含む)の間伐、広葉林の植栽、混交林化、造林、ソフト事業として森林環境教育、市民参加のボランティア支援などである。県民税に付加する形で個人、法人からあまねく徴収する課税形式であり、普通税を目的税化する仕組みとして森林環境保全基金を設立して目的税として機能させている。

もうひとつの森林の環境機蘭を内部化する制度として、排出量取引、カーボンオフセットなどの森林カーボンクレジットビジネスなどの市場的手法がある。これらは京都議定書で定められた地球温暖化対策のうち、市場メカニズムに重ねて経済的インセンティブを付与し、各自の経済的合理性に沿った行動を誘導することで地球温暖化の緩和作用を目指すものである。

これら二つの森林の持つ環境機能の内部化スキームはその依って立っ制度論拠は実は正反対のものである。キーとなる概念は環境利用権の取り扱いである。森林環境税は森林の持つ水源酒養機能、土砂災害防止機能、大気の浄化機能、レクリエーション機能などは何人もそれを占有することはできない公共財であるから、税金によってその機能の克進、維持、保護を図るという論理である。

一方、排出量取引、オフセットクレジットにおいては環境利用権は大気の利用権である。二酸化炭素を大気中に排出する権利を政府から割り当てられるものであり、この割り当てられた排出権は財産権として取り扱われるというのが政府の判断である。この権利に価格が付与されるために、森林の持つ大気の浄化作用は炭素クレジットという貨幣価値に変えられて、地盤の所有者である森林所有者の私的財として認められ、譲渡、売買の対象となることになる。

このアンビバレントな森林の扱いは現在、排出権がキャップ・アンド・トレードで割り当てられることが決定されていないので、表面化していないが、この制度が動き出すことになると、同じ森林があるときは公共財として、ある時は私的財として機能することになり、この制度論拠の不整合が問題になるだろうと思う。

コロンビアにおいては、更新可能な自然資源に関する国家法において、憲法8条に定めるように、更新可能な自然資源を大気、水、土壌、地下資源、植物相、動物相、景観と定め、更新可能な自然資源が提供する環境便益は国民全体のものであると規定している。つまり、大気、水、土壌、地下資源、植物相、動物相、景観などが適切な状態で、私達の生活の質を高めてくれるのが環境便益であり、これは公共財であり、誰の私権の及ぶものではない。環境便益の支払いはその環境便益に対して支払っているわけではなく、ある行為をすること、あるいはしないことによって、環境便益が生じる、その行為に対して支払うわけである。したがって単に所有地をもっている、森林を持っているというだけで支払うわけではない。また、環境便益の支払いによって、いかなる状況においても環境便益に対する国家の支配権を失うことはない、つまり、すべての私権を超える社会権として規定されている。

公共財としての森林と私的財としての森林の持つアンビバレントな性格と認識的、制度的ギャップは国民の健全な環境を享受する環境権が日本の憲法の中で規定されていないことをあぶりだす。.公共財としての森林の位置づけと経済財としての私的所有についての論理的整合性がはかられるのはどのような条件の下であろうか。森林環境税の制度論拠からすれば、森林の公益的機能、つまり環境財としての価値は住民が享受している、という受益者負担の原則に拠っている。森林環境税がその税収の7割から9割を私有林の森林経営費用として用いられているとすれば、森林所有者の私的所有権が一定の条件の下で制限される必要性があると考える。現在森林法において規定されているのは、保安林の私権の制限、林地開発許可制度による一定のフィルタリングであり、私有林の森林施業に対する勧告が主なものである。森林環境税に関しては、協定という形で5年間もしくは10年から20年間の伐採の禁止である。日本の私的所有権は非常に強いもので、林地開発許可制度については基本的に「著しく悪化させる」ことがなければ許可されるというものであり、保安林、施業の勧告についても罰則は軽く、抑止力としては難しいと言える。

排出量取引やオフセットクレジットシステムにおける環境利用権の私的財産権としての制限については、やはり個人もしくは私的企業の動産類似の財産権として守られることが予想される。この環境利用権の行使の制限については国民の環境権の確立が重要であると考える。日本においては環境基本法の中で、国民が環境権を持っていることを明示していない。自然環境保全法においては「自然環境の保全は自然環境が人間の健康で文化的な生活に欠くことのできないものであることに鑑み、広く国民がその恵沢を享受するとともに、将来の国民に自然環境を継承することができるように適性に行われなければならない」としているが、権利に関しては規定されず、「国民は…国および地方公共団体が実施する自然環境の保全に関する施策に協力しなければならない」と単に協力者の立場を示されているに過ぎない。森林法においても同様であり、森林保全に積極的に参加することを義務としているが、その森林の生み出す環境便益に対する権利は明示されていない。

コスタリカ・コロンビアにおける環境便益の支払いに見るように、まず、国民が森林の持つ環境便益を享受する権利を明示され、あらゆる私的経済活動の上位に位置することを明示されて初めて、森林が経済財としての機能とともに公共財としての環境便益を受益するものとして徴税し、その便益の支払いに対して一定の私権の制限を行われることが重要だと考える。森林環境税と排出量取引のおける環境利用権をめぐる制度論拠の不整合は環境権とそれに付随する私的経済活動の制限によって解決することができるだろう。

審査要旨 要旨を表示する

1997年京都議定書の採択によって、地球温暖化対策における森林の持つ環境機能が注目されている。森林は、林産物(木材)生産の場としての役割のほかに、いわゆる二酸化炭素吸収源、貯留庫としての環境安定装置であり、森林の公益的機能へと重心が移っている。

本論文では、森林の公益性について、林産物生産の経済財としての役割のほかに、環境財としての役割に注目し、コロンビアとコスタリカにおいて行った調査研究をもとに、森林の持つ環境への大きな役割に対する環境便益への支払いとそれに伴う諸問題、私権の制限についての法的規定について検討することを目的としている。さらに、日本の森林環境税、排出量取引における公益性と私権の間に存在する制度的ギャップに目を向け、公共財としての森林の位置づけと私権の行使を区別できる環境享受に対する権利の明確化の必要性を検討した。

第1章では、地球温暖化と森林について地球温暖化問題に対する森林をめぐるこれまでの取り組みを概観し、森林・林業再生に向け、「いかに木を育てるか」と「いかに木を使うか」の二つの問題について考察した。第2章では国産材の新たな需要の喚起と題して、拡大造林されたスギ材の蓄積量が増加に伴い、従来からの在来工法柱角材だけに目を向けるのではなく、合板を含め様々な形態での国産材の需要を喚起する必要があることを指摘し、スギ中目材を枠組壁工法におけるスタッドとして用いることが可能であるかを、供給者サイドおよび建築サイドからの調査によって明らかにした。さらに、スギスタッドを用いた耐力壁の水平加力試験によって、その技術的可能性を明らかにした。第3章では森林の公益性について 森林の持つ経済財としての機能と環境財としての機能を切り分け、森林再生における森林の公益性の位置づけを考察した。第4章の森林の公益性の内部経済化では、森林の環境財としての価値評価を内部経済化する仕組みとして存在している排出量取引、カーボンオフセット、および森林環境税による基金等の諸問題を考察した。第5章、第6章では、コスタリカとコロンビアを調査対象とし、環境便益の支払いについて考察し、コスタリカで最初に始まった環境便益の支払いが現在気候変動枠組み条約の中で、REDD(森林減少および劣化からの温室効果ガス削減)に有効な仕組みとして注目されていることを示した。環境便益の支払いは植林や森林保全に対する経済的インセンティブとして機能しており、コスタリカでは環境保全に対する森林所有者への私権の制限に対する補償であると捉えられている。コロンビアにおいては森林によってもたらされる空気、水、土砂災害の防御などの環境機能は国民すべてが享受するべき権利として明記されていることを示した。森林所有者に支払われる環境便益の支払いは前述の環境機能を持つ森林を管理している管理業務に対するものとして捉えられている。第7章では森林は公共財か私的財かについて考察を行い、森林環境税とカーボンクレジットにおける相反する制度理論は森林の経済財としての価値は私的所有の対象であっても、環境財としての価値は公共財であるという切り分けがなされていないことから起因していると考察した.

第8章では森林の公益性と私権、市民の環境権について、我が国の法的・制度的枠組みを取り上げ、環境権について考察し、税金による私有林の整備の正当性や私権の行使における市民の関与を検討した。

以上本論文は、地球環境問題、とりわけ京都議定書における二酸化炭素排出量削減の国際的約束に対して、国民全体が享受すべき森林の生み出す環境便益について考察したもので、調査研究による国際的な視点、我が国のスギ資源に対する実験研究による利用方法の拡大提案、それらをめぐる現状制度に関する諸問題、および、公共財としての森林の位置づけと私権の行使等に関する論述等、得られた知見は有用性が高いことを示しており、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク