学位論文要旨



No 126559
著者(漢字) 植月,美希
著者(英字)
著者(カナ) ウエツキ,ミキ
標題(和) 実験者ペース読文法による日本語文処理の時間特性の検討
標題(洋)
報告番号 126559
報告番号 甲26559
学位授与日 2011.03.03
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第799号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 教授 横沢,一彦
 東京大学 教授 伊藤,たかね
 名古屋大学 教授 玉岡,賀津雄
内容要旨 要旨を表示する

これまでの文処理研究では,どのような情報を利用し,どのような処理規則に従って処理が進められるのかといった,文処理の方略に関する問題が重視されてきた。一方,文の実時間処理の側面への関心は低く,文処理がどのような時間特性を持ち,それが文構造によって異なるのかという点は,重要な研究課題であるにもかかわらず,ほとんど検討されてこなかった。特に,文構造と文処理の時間特性を関連させ,組織的に検討した研究は見当たらない。文処理研究では時間特性の検討に適切な実験手法が用いられてこなかったことも,こうした時間特性に関する研究が進展してこなかった一因と考えられる。

視覚認知研究の分野では高速逐次視覚提示と呼ばれる手法が広く用いられ,処理の時間特性が検討されている。この手法は文処理研究の分野では実験者ペース読文法と呼ばれるもので,処理の限界を測定できると共に(Potter, 1984),処理速度と正確さのトレードオフを避けることができる。しかし,文処理研究において,この実験手法の使用例は比較的少なく,また,文処理の時間特性を詳細に検討した研究はない。そこで本研究では,実験者ペース読文法という手法を取り上げ,この手法が文処理の時間特性を検討する手段として有効であるかを検討するとともに,この手法によって文の構造や処理負荷が文処理の時間特性に及ぼす影響を検討した。

本研究では刺激文として,これまでの文処理研究で広く使用されてきた,ガーデンパス文,中央埋め込み文を一例として取り上げた。ガーデンパス文とは,文解釈の途中で再解析が必要となる文である。このような文の理解には,通常の文(非ガーデンパス文)に比べて長い時間が必要であることが知られており,このことはガーデンパス現象と呼ばれている。これまで,この現象を手がかりとして統語再解析処理の時間的処理負荷が検討され,英語では安定したガーデンパス現象が得られている。しかし,日本語ではその強度が弱く,実証データの裏付けはないものの,比較的やさしいガーデンパス文では主観的な処理困難が生じないことが指摘されている(cf. Mazuka & Itoh, 1995; Mazuka, Itoh, & Kondo, 1997)。なお,本研究では,(1),(2)に示したタイプのガーデンパス文,非ガーデンパス文を使用した。

(1) ガーデンパス文:春代が食器を洗った春美にお礼を渡した

(2) 非ガーデンパス文:春代が食器を洗った事情に春美が笑った

第1章では本研究の背景と目的を述べた。従来の文処理研究では眼球運動測定法や自己ペース読文法が用いられることが多いが,これらの手法では文処理の時間的限界や幅広い時間特性を検討することは困難であることを指摘した。また,実験者ペース読文法による研究を概観し,どのような知見が既に得られているのかを整理した。

第2章では,実験者ペース読文法が従来の実験手法では捉えられない文処理の詳細な時間特性を明らかにできるかを検討した。実験1,2では500 ms/phraseまでの速い提示速度領域で,ガーデンパス文と非ガーデンパス文の時間特性を検討すると共に,文処理負荷の定量化を行った。得られた文理解パフォーマンスのデータに,処理速度と反応に関する関数(Carrasco & McElree, 2001)を当てはめた結果,実験参加者の実験手続きの習熟度に関わりなく,ガーデンパス文は非ガーデンパス文と比べて処理速度が遅いことが明らかになった。

この結果は,実験者ペース読文法の有効性を示していると思われる。しかし,本実験で用いた刺激が従来のものよりも処理負荷が高い為にこのような結果が得られた可能性もある。そこで,この後者の可能性について,従来の文処理研究でしばしば用いられる実験手法である質問紙法,自己ペース読文法を使用して検討した。その結果,これらの従来の実験手法を用いた場合には,ガーデンパス文は非ガーデンパス文に比べ何らかの処理の困難さが存在するという結果は認められなかった(実験3,実験4)。これらの手法ではスピードと正確さのトレードオフが生じてしまい,比較的簡単な日本語ガーデンパス文の処理負荷を捉えることが困難であると考えられる。この結果は,比較的簡単な日本語ガーデンパス文処理では主観的には処理困難を感じないという,Mazuka & Itoh (1995),Mazuka, Itoh, & Kondo (1997) の指摘を実証するものといえる。

第3章では,実験者ペース読文法を用い,幅広い提示速度における文処理の時間特性を検討した。実験5で非熟練者の実験参加者を用いたところ,ガーデンパス文では3000 ms/phraseという遅い速度においても正答率は90%に達せず,減衰の影響が現れていた可能性があった。そこで文理解のパフォーマンスには処理と減衰の時間関数が関わっており,これらの関数の緩急の度合いによって文理解パフォーマンスが変化するというモデルを立て,その妥当性を実験6で検討した。第2章の結果から,熟練した実験参加者では,処理関数が早く立ち上がると考えられる。このモデルに従えば,このような実験参加者群では遅い提示速度領域ではパフォーマンスが悪化するはずである。実際に検討を行ったところ,3000 ms/phraseの遅い提示速度領域で有意にパフォーマンスの低下が認められ,減衰の影響をパフォーマンスの低下として確認することができた。ただし,文タイプによる低下の度合いについては有意な差は見られず,これは予測と一見矛盾する。これを説明するためには,文タイプによって減衰関数の緩急が異なることを仮定する必要がある。この仮定が妥当であるとすると,減衰関数は文構造処理に特有な減衰を反映しているはずである。この仮定の妥当性を検討するために,実験7,8において,減衰関数が文節内容や文節順序といった記憶の減衰を反映しているのかを検討した結果そうした記憶の減衰は認められなかった。従って,減衰関数は文構造処理に特有な減衰を反映している可能性が高いものと考えられる。

さらに,このような減衰の緩急に関わる要因として,人名の文節位置,再解析,中央埋め込み節構造,文処理全体の負荷の効果が考えられる。実験9では,人名位置の効果を、刺激文中の人名位置をガーデンパス文と揃えた非ガーデンパス文(非ガーデンパス文2;例は以下の (3))を用いて検討した結果,人名位置が遅い提示速度領域における文理解パフォーマンスの低下の主たる要因とはなり得ないことが示された。

(3) 非ガーデンパス文2:春代が直した戸棚を春美が書斎で使った

実験10では,中央埋め込み節構造処理が減衰関数の急峻さの要因となっている可能性を検討するため,再解析のない中央埋め込み文を刺激として使用した(例と,その想定される処理を (4)に,ガーデンパス文とその処理を (5)に示した)。その結果,中央埋め込み節構造も減衰の緩急に対する主たる要因とはなりえないことが示された。

(4) 再解析のない中央埋め込み文:春代は春美が洗った食器を戸棚に並べた

(中央埋め込み節)

離れた文節の接続処理

(5) ガーデンパス文:春代が食器を洗った春美にお礼を渡した

(中央埋め込み節)

再解析 離れた文節の接続処理

以上の結果は,再解析を必要とする文構造であるかどうか,あるいは全体的な文処理負荷の大きさが減衰の度合いに大きな影響を及ぼすことを示している。すなわち,予測を裏付ける結果が得られたといえる。

以上の結果を踏まえると,文理解パフォーマンスの時間関数には,文構造やその処理負荷が影響していると考えられる。処理の時間関数について,第2章の結果は,構造の複雑なガーデンパス文はより単純な非ガーデンパス文に比べ処理速度が遅いことを示している。第3章の結果は,遅い提示速度領域におけるパフォーマンスの低下を想定することが妥当であることを示している。この低下は,文構造処理に特有な減衰を反映していると考えられる。本論文で提案した,文理解パフォーマンスの時間関数が処理と減衰の時間関数の積で実現されるというモデルでは,広い提示速度範囲,文タイプの違い等によるパフォーマンスの変化を一貫して説明することができる。

第4章では総合考察として,第2章から第3章の結果をまとめ,今後の課題や展望についても論じた。本研究では統語構造に着目する文処理研究では使用例は少ないものの提示速度を幅広く操作可能である実験者ペース読文法を使用し,文処理の時間特性やその時間的限界を明らかにすることができ,この手法が文処理研究に有効であることを示した。また,時間が文処理に影響を及ぼすことを考慮した文処理研究の重要性を示すことができた。ただし,本研究では限られた文タイプと提示速度を使用しており,今後,再解析処理,中央埋め込み節といった統語構造処理を切り出してその時間特性を検討することや,上述の文処理の時間関数のモデルについての詳細な検討などが必要であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、日本語文処理の時間的側面に関して、主として実験者ペース読文法を用いて検討したものであり、全4章から構成されている。

第1章では、これまでの文処理の時間的な側面に関する言語心理学的な研究の流れを概観し、その心理学的な意義を論じると共に、これまで主として用いられてきた自己ペース読文法の問題点を指摘し、より有効な手法として、視覚認知の心理学的実験で頻繁に用いられている高速逐次提示法を援用した新しいタイプの実験者ペース読文法を提案している。第2章では、実験者ペース読文法を用い、通常の文と、文処理の途中で統語的な再解析が要求されるガーデンパス文の処理の時間的な側面を、文節あたり500ミリ秒以下の速い提示速度に焦点を当てて分析した。その結果、これまで否定的に見られてきた、日本語ガーデンパス文の処理負荷の増大を明示的に示すことに成功した。一方、同一の文刺激について従来の質問紙法や自己ペース読文法を用いた場合には、通常文に比べてガーデンパス文の処理負荷が増大することを検出できなかった。実験者ペース読文法を用いることによって、データに関数を当てはめ、処理速度の指標や提示時間の延長による正答率向上の漸近レベルを推定することが可能になったことは、今回用いた実験者ペース読文法の有効性を示すものである。第3章では、より遅い提示速度を含む文処理の検討を行った結果、ガーデンパス文では文節あたり3秒という低速の提示でも正答率が90%に達しなかったことから、文処理の進行と共に、内部に保持された情報が減衰する過程を考える必要が生じた。こうした結果を受け、実験参加者のうち熟達者と非熟達者の結果を詳しく比較し、文理解の成績は、処理の進行に関わる過程と内部の減衰に関わる過程の両特性を反映しているというモデルを提案した。さらに、その減衰がどういう内容の減衰を反映しているのかを検討するために、3つの実験を実施し、ここで想定されている減衰が文節の記憶のような単純な記憶ではなく、文の統語処理に関わる情報の減衰であろうと結論した。第4章では、以上の結果を受け、本論文で提案している実験者ペース読文法の手法が言語処理の時間的な側面を解析する手法として有効であることを述べ、また今回の結果から明らかになった文処理の時間的な側面に関する知見に関して論じると共に、文タイプの違いによる時間的側面の差異をさらに詳しく検討するための今後の研究方針を提案している。

本論文は実験者ペース読文法というこれまであまり用いられていなかった手法を視覚認知の心理学的実験で用いられていた解析法と組み合わせることによって、文処理の時間的側面の研究に新しい可能性を示したものと言える。また、日本語においてもガーデンパス文の処理が増大することを明示的に示した点も評価できる。さらに、文処理の時間的側面を、進行と減衰の二つの側面に分けて記述する新しいモデルを提案している。モデルの詳細については未だ検討不足な点もあるが、この点は今後の研究に期待したい。全体として、本研究の言語心理学一般への貢献は多大なものであり、本審査委員会は、本論文が博士(心理学)の学位を授与するのにふさわしいものであるとの結論に達した。

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