学位論文要旨



No 126563
著者(漢字) 八尾,史
著者(英字)
著者(カナ) ヤオ,フミ
標題(和) 『根本説一切有部律』「薬事」の研究 : 経典「引用」を中心に
標題(洋)
報告番号 126563
報告番号 甲26563
学位授与日 2011.03.03
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第803号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下田,正弘
 東京大学 教授 斎藤,明
 東京大学 教授 永ノ尾,信悟
 花園大学 教授 佐々木,閑
 マックマスター大学 准教授 シェーン,クラーク
内容要旨 要旨を表示する

第一部:『根本説一切有部律』「薬事」とその経典引用

根本説一切有部Mulasarvastivadin(以下「根本有部」)はインド仏教においてもっとも有力な教団(部派)のひとつであったとみられる。しかしその教理を伝える経典の集成「経蔵」は完全な形では現存しない。一方、この部派の出家者の生活規則を集成した聖典「律蔵」には数多くの経典が「引用」されていることが知られている。したがって、失われた「経蔵」の内容を解明するためには「律蔵」が質量ともにそなえた不可缺の資料となる。

しかしこの律蔵『根本説一切有部律』Mulasarvastivada-vinaya(以下『根本有部律』)は、きわめて厖大な文献であるために全体を通しての研究が難しく、経典引用の問題もいまだ整理されていない。全体としてどれだけの経典が存在するのかもあきらかにされていないのが現状である。また、この文献における経典の「引用」のありかたには問題があり、経典とみられる文章を個別に律自体の文脈に照らして検証し、それらがどの程度経典の本文として扱われうるかという点を極力明確にする必要がある。

本研究では『根本有部律』の一章であり経典引用の多いことで知られる「薬事」Bhais.ajya-vastuを対象とし、その経典引用の実態を解明するとともに、「薬事」の錯綜した構造を整理し、全体の訳注という形で総合的な理解を示す。

根本有部の経蔵は相応・長・中・増一の四阿含からなり、そのうちある程度まとまって現存するものは相応阿含の漢訳と長阿含のサンスクリット写本のみである。一方、『根本有部律』はサンスクリット写本、漢訳、チベット語訳の三種が現存し、そのうちもっとも完備したものがチベット語訳である。

『根本有部律』が律規定のほかに経典や説話類を大量に含むことは他部派の「律蔵」に類を見ない特徴である。これらの経典や説話類は早くからその存在が知られており、それ自体主要な研究対象として、また他文献への比較資料として扱われてきた。特に「律」の側からの研究として、漢訳をもとに経典引用のリストを示した平川彰、また経典や説話類が本来律の中で成立し、経蔵にとりこまれたという假説を述べたグレゴリー・ショペンGregory Schopen の研究がある。

「薬事」は冒頭と末尾の律規定およびその因縁譚を列挙する部分と、中盤の長い説話部分からなり、説話部分は仏の遊行という大まかな筋の中に大小さまざまの挿話が組み込まれている。挿話群の中には律規定に直接間接にかかわるもの、まったくかかわらないものの両者があって、それらの中に経典相当の文章も含まれている。しかし経典であるということはかならずしも明示されず、また「引用」の形態は一定ではないため、何をもって「経典引用」とみなすかという基準を設ける必要がある。『根本有部律』内の実例をもとに、「経典」であることの確実性を五段階に区分し、その第一から第四を本研究では扱うこととする。「薬事」サンスクリット、チベット語訳、漢訳三本の全体にわたって、A:「経典」とみとめられる箇所、B:その現存する平行経典、C:その「経典」が律の文脈において占めている位置や記述内容の重大な問題点、および平行経典との異同など、D:関連する先行研究の一覧を提示する。

調査の結果、「経典」相当の記述は重複を含めて40 箇所を数え、分量にしてデルゲ版約四百葉からなる「薬事」全体の約三分の一を占めることがあきらかになった。サンスクリット、チベット語訳、漢訳三本のそれぞれで「引用」の様相はしばしばことなり、特に、一本は経典名に言及せず全文を出すのに対し一本は経典名を挙げて経典の本文自体は省略するといった形が多くみられる。全文を出す例はチベット語訳に圧倒的に多いが、チベット語訳が省略して漢訳が全文の例もあり、比較的近似する漢訳とサンスクリットの間にもしばしば大きな相違がみられる。

「薬事」における経典のありかたには通常の「引用」という概念には適しない特徴がある。まず、全文を出しながら経典名に引用する箇所は「薬事」には皆無であり、経典名が挙げられるのは単に本文の省略を補うための参照先を指示するためにすぎない。出典をあきらかにして引用文を提示するという発想はそこにはみられない。また、通常「引用」では引用元の文章をそのまま手を加えずにひきうつし、引用文の範囲も明確にされるのに対し、「薬事」の中の「経典」はそのような扱いをうけていない。経典本来の内容に増広、改変を加えた上で「薬事」の文脈にとりこまれたとみられる例が少なくなく、「薬事」の文脈に合わせて経典内容の主題が変更されている場合さえある。さらに経典の文章と「薬事」独自の文章との境界はしばしば曖昧である。経典はその出自を問題とすることなく、「薬事」という長い物語を構成するための可塑的な素材として集められているのであり、その点で、経典に同定されない他の説話と区別しえない。それらを「引用」とよびうるのは、ある文章が別の文章からとりこんだものという最低限の意味においてである。

ショペンは『根本有部律』「臥具事」を題材に、律規定を解説するものとして説話・経典が成立したという可能性を提示している。しかしこれに対して「薬事」中の「経典」のあるものは異なった様相を示す。それらの大部分は律規定にまったく関係をもたず、また律規定に関係する場合であってもそれは経典内容のごく一部についてであって、経典自体が律規定の説明のために成立したとは考えられない。それらの経典は、律規定とは無縁のところから移入されたものと考える方が無理がない。その一方、経典全体の中では不自然に置かれている挿話部分が律規定との関係で成立したと考えられる例も存在する。したがって律蔵と経蔵の関係については、いづれが先かを問うことはきわめて困難であり、より複雑な相互関係が想定されてよいと考えられる。

第二部:チベット語訳「薬事」訳注

訳注は唯一「薬事」全体が現存するチベット語訳にもとづき、サンスクリット語写本、漢訳との異同を適宜提示する。サンスクリット語写本『根本有部律』の各章や平行資料を利用しつつ、チベット語訳のもととなったサンスクリット語原典を極力想定した翻訳とする。チベット語訳はデルゲ版、トクパレス写本の二本、サンスクリット語写本はおもに影印版を使用する。

訳注に附随して、二つの問題を整理する。第一は「律」中に置かれた目次であるウッダーナuddana の問題点であり、ウッダーナと本文との齟齬、また複数あるウッダーナの間の階層関係などが挙げられる。第二はチベット語訳のトクパレス写本に関する問題である。「薬事」後半においてトクパレス写本はデルゲ版とその他五本の写本、版本との間に四点の構造的な相違があることがあきらかになった。これは筆写の過程で生じた過誤ではなく意図的に書き換えられたものとみられる例を含んでいる。

附録として、論文末尾に「薬事」サンスクリット写本、漢訳、チベット語訳三本の対照表を提示する。

審査要旨 要旨を表示する

経・律・論の三蔵という範疇におさめられる、現存するインド仏教の教典群は、異なる部派に属する、部分的に残存した典籍の集成であるため、これら教典の歴史的編纂過程を解明するには、厖大な教典群全体に対して精緻な文献学的考察を施すことが必要となる。しかるに従来の研究は、限られた著名な経と論とに繰り返し関心を向ける一方で、律蔵に属する多くの教典の考察を等閑に付してきた。その結果、学界に蓄積された知識には偏りが生じ、教典全体の編纂過程について、いまだ解明の準備が十分には整えられていない。この現状を打開すべく、八尾史氏は、五、六世紀のインドで勢力を有した根本説一切有部(以下、根本有部)所有の律蔵の解明を志し、その第一段階として、チベット訳『根本説一切有部律・薬事』(以下、薬事)を和訳、その全容を明かすという、初の快挙を成し遂げた。

本論文は薬事に「引用」された経典の精緻な調査にもとづいて薬事の構造を明かす第I部と、その考察の基礎となる訳注研究の第II部とから成る。未踏査の律蔵の教典を解明する場合、第一に律蔵のなかから適切な研究対象を選び出し、第二にその対象に内在する諸要素を分析、抽出し、最後にそれら諸要素と外部の教典との関係を明かす、という手順を踏むことが必要となる。第I部はこの過程を理想的なかたちで実現している。薬事には経蔵に共通する厖大な分量の記述が存在する。これに加えて近年、根本有部の経蔵に属すると目される教典のサンスクリット写本が次々に発見され、研究が急速に進展しつつある。薬事の解明は根本有部の教典編纂過程の解明に、現在考えうる最も有効な研究対象である。八尾氏は、匿名のまま薬事に埋もれた経蔵の記述をくまなく調査、抽出し、その「引用」の様相が通常のテキスト引用の概念とはおよそ異なる事実を指摘、五類型に分類しつつ、それら教典の薬事に占める位置と編纂事情とを照らし出した。この結果を薬事外部の文献にあたうかぎり広範かつ綿密に照合し、「律蔵」薬事をもとに、消失した「経蔵」の30を超える教典を獲得、それらを現存する教典群全体のなかに位置づけることに成功した。

チベット語訳にもとづき、対応する漢訳、サンスクリット語写本を字句単位で照合しながら関連記述を教典群から回収、先行研究をさまざまに修正しつつ果された600頁におよぶ訳注研究の第II部は、現在、最新にして最高の成果である。それは課程博士論文の水準を遙かに超えた内実を備え、今後、経、律、双方の研究分野において、末永く参照されつづけるにちがいない。本審査委員会は、格別の評価をもって、本論文に対し、博士学位(甲)を授与するに価するものと判断する。

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