学位論文要旨



No 126569
著者(漢字) ,百合香
著者(英字)
著者(カナ) ヤマザキ,ユリカ
標題(和) セイヨウミツバチの働き蜂におけるエクダイステロイド合成に関する研究
標題(洋) Study on ecdysteroid biosynthesis in worker honeybee(Apis mellifera L.)
報告番号 126569
報告番号 甲26569
学位授与日 2011.03.04
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5596号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 教授 岡,良隆
 東京大学 教授 片岡,宏誌
 東京大学 准教授 吉田,学
 東京大学 准教授 朴,民根
内容要旨 要旨を表示する

社会性昆虫であるセイヨウミツバチ(ApismelliferaL,)の雌は生殖カーストである女王蜂と労働カーストである働き蜂の2つのカーストに分化する。生殖行動を行うのは女王蜂だけであり、働き蜂は不妊化されており子孫を残さない。さらに、働き蜂は羽化後の加齢に応じて分業し、コロニー維持のための様々な役割を担う。具体的には、若い時は育児蜂として巣の中で女王蜂や幼虫の世話を行うが、年をとると採餌蜂として巣の外で花粉や花の蜜を採集する(齢差分業)。ミツバチは哺乳類に比べて小さな脳しかもたないが、こうした高度で生得的な社会性行動を示すため、動物の社会性行動の分子・神経的基盤を調べる上で良いモデル生物となると考えられる.

ミツバチの脳では、他の昆虫に比べてキノコ体(高次中枢)が発達している。キノコ体は学習、記憶、感覚の受容やその情報の統合に重要な役割を果たす。また、齢差分業や採餌経験によって構造に可塑性がみられる。私は修士課程においては、働き蜂が示す多彩な社会性行動の分子基盤を明らかにするため、ミツバチの脳においてカースト間で働き蜂選択的に発現する遺伝子を検索した。その結果、働き蜂、特に採餌蜂選択的な発現をする遺伝子として、HormoneReceptor38(HR38)を同定し、この遺伝子がキノコ体を構成する神経細胞の1種である小型ケニヨン細胞で選択的に発現することを明らかにした。HR38はエクダイソン受容体(EcR)と良く似た核内受容体であり、エクダイステロイド情報伝達系のモード転換のキーとなる因子である。さらに、これまで当研究室では、EcR,USP,E74,Broad-Complex,E76といった複数のエクダイステロイド情報伝達系関連遺伝子がキノコ体で発現していることが報告されており、これらの知見から、ミツバチ脳では、キノコ体におけるエクダイステロイド情報伝達系が、働き蜂の齢差分業において重要な役割を果たす可能性が示唆されていた。

しかしながら、ミツバチの働き蜂におけるエクダイステロイドに関しては、ほとんど研究がなされていない。一般に、昆虫のエクダイステロイドの合成器官としては、前胸腺(幼虫、蛹)と卵巣(成虫の雌)が知られているが、成虫である働き蜂は前胸腺をもたず、卵巣も退縮して不妊化されているため、その合成場所は不明である。私は、ミツバチの働き蜂の何れかの組織でエクダイステロイドが合成・分泌され、それが脳内でエクダイステロイド情報伝達系を動かすことで、働き蜂の行動を制御する可能性を考えた。

本研究ではまず、エクダイステロイドの合成器官の候補を調べるため、エクダイステロイド合成酵素をコードする遺伝子群がどの器官で発現するかを調べた。昆虫ではエクダイステロイドは、植物のステロイドを前駆物質とし、前胸腺や卵巣のようなエクダイステロイド合成器官においてPhantom(幽霊),Disembodied(霊魂)といった一連のHalloween水酸化酵素群の働きによって、エクダイソンへと変換される。エクダイソンはさらに表皮、脂肪体、腸、卵巣などの末梢器官に運ばれ、そこでShade(陰)によって活性化型の20-tドロキシエクダイソン(20E)に変換される。私は、phantomとdisembodiedの発現場所を調べる事でエクダイソンの合成器官を、またshadeの発現場所を調べることでエクダイソンを20Eに活性化する器官を明らかにできるのではないかと考えた。

その結果、phantom,disembodied,shadeどの遺伝子についてもほとんど全ての組織においてその発現が見られた(図1)。特に、phantom,disembodiedは働き蜂の脳で高い発現が見られた。その発現量は、phantomにおいては、産卵を行う女王蜂の卵巣における発現量と同程度であった。よって、働き蜂では、脳がエクダイステロイド合成の主要器官である可能性が示唆された。また、shadeに関しては、育児蜂では脳、卵巣、脂肪体で、採餌蜂では脳と脂肪体で高い発現が検出された。このことは、これらの組織でエクダイソンが利用されることを示唆している。卵巣におけるshadeの発現量をさまざまな役割をもつミツバチ間で比較すると、女王蜂と産卵可能な働き蜂(コロニーから女王蜂が消失するという特殊な条件下で、産卵することが可能になった働き蜂)で発現量が高く、不妊化された蜂(育児蜂と採餌蜂)では発現量は低かった。このことは、エクダイステロイドが卵巣で利用され、卵巣機能に関わるという過去の知見と矛盾しない。

次に、エクダイステロイドの合成器官、利用器官の候補となった組織において、実際にエクダイステロイドが合成されているかを明らかにするため、各組織の培養上清について、エクダイソンや20Eに反応する抗体を用いたラジオイムノアッセイを行った(表D。その結果、脂肪体と脳に加えて、下咽頭腺の培養上清にも、培養依存にエクダイステロイドの分泌が検出された。さらに分泌されたエクダイステロイドが培養中に新たに合成されたものか調べるために、培養前と培養後の、組織中と培養液中のエクダイステロイド量を比較した結果、脂肪体と下咽頭腺の両者において、エクダイステロイド量は培養前より培養後で多かった(図2)。このことから、下咽頭腺と脂肪体では、エクダイステロイドは新規にこれらの器官で合成され、分泌されたものと考えられる。ただし、利用した抗20E抗血清はエクダイソンよりも20Eに3倍反応性が高いため、これらの結果が、エクダイステロイドの分泌ではなくて、エクダイソンから20Eの変換を見ている可能性は残る。しかしながら何れの場合でも、これらの器官ではエクダイステロイドの新規合成か、エクダイソンから20Eへの転換が起きていると考えられる。また組織から分泌され、RIA法で検出されたエクダイステロイドをHPLCで分画し、標品との溶出時間を比べた結果、脂肪体からは主にエクダイソンと20Eが分泌されることが判明した(図3)。

以上のように、エクダイステロイド合成酵素であるphantomとdisembodiedの遺伝子発現は脳で高く、脳がエクダイステロイドの主要な合成器官と推察される。また、一般に昆虫では体液中のエクダイソンは、それが利用される末梢組織で20Eに転換される。エクダイソンを20Eへ転換する酵素遺伝子であるshadeは、脳と卵巣、脂肪体で発現量が高いことから、脳で合成されたエクダイソンは体液中に分泌され、これら3つの組織で活性化されると考えられる,一方、組織培養の実験では、脳と脂肪体に加えて下咽頭腺で、抗20E抗血清にイムノリアクティブな物質が分泌されることが分かった。下咽頭腺では、20Eへの転換酵素であるShadeの遺伝子発現がほとんど見られなかったことから、下咽頭腺から分泌されるエクダイステロイドはエクダイソンではないかと推察される。また、下咽頭腺では合成酵素の遺伝子発現がそれほど高くなかったにも関わらず、エクダイステロイドの分泌が見られたことについては、下咽頭腺が外分泌器官であり、体液中から大量のリポタンパク質を取り込むことから、前駆体となるステロイドの量が大量に貯蔵されていたのではないかと考えている。また、今回、卵巣での分泌エクダイソン量が少なかった事に関しては、働き蜂の卵巣は退縮しており、他の組織に比べて組織の容積が小さかったことが原因ではないかと考えている。

他の昆虫では、エクダイステロイドは、脂肪体では卵黄タンパクの合成、卵巣では卵形成に関わることが知られており、ミツバチの脂肪体や卵巣においても同様の機能を担う可能性が考えられる。一方、ミツバチの働き蜂では、脳でエクダイソンが合成、活性化され、その受容体であるEcRやHR38の遺伝子も脳で発現することから、ちょうど哺乳類におけるニューロステロイドのように、脳で合成、活性化されたエクダイステロイドは脳のエクダイステロイト精報伝達系を直接、活性化させ、齢差分業などの働き蜂の社会性行動の発現制御に関わる可能性が考えられる。昆虫において、脳でエクダイステロイドが合成され、働く可能性を示したのは今回が初めてである。また、これまで外分泌腺と考えられていた下咽頭腺がホルモン分泌に関わる可能性も示唆された。本研究は、ミツバチの脳でエクダイステロイドが合成・分泌され、働き蜂の齢差分業を制御する可能性を示唆した点で、ミツバチの、さらには動物一般の社会性行動の制御機構の理解に寄与するものではないかと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

社会性昆虫であるセイヨウミツバチでは、雌が女王蜂(生殖カースト)と働き蜂(労働カースト)に分化する。さらに働き蜂は羽化後の加齢に伴い、ローヤルゼリーを分泌して幼虫に与える育児から、巣外で餌を採集する採餌へと齢差分業する。ミツバチは哺乳類に比べて脳が小さいにも関わらず高度な社会性行動を示すため、動物の社会性行動を規定する神経基盤を解析する上で格好の研究対象である。ミツバチ脳では他の昆虫に比べ、キノコ体(高次中枢)が発達しており、その構造が齢差分業に伴い変化することから、キノコ体が齢差分業の制御に重要な役割を果たすと考えられてきた。論文提出者は修士課程において、働き蜂脳ではエクダイソン受容体と構造が類似した核内受容体HR-38の遺伝子が、育児蜂より採餌蜂のキノコ体で強く発現することを示した。ミツバチの脳では、他にも多くのエクダイソン関連遺伝子がキノコ体選択的に発現することから、キノコ体のエクダイソン情報伝達系が社会性行動制御に関わると考えられていた。しかしながら、昆虫のエクダイステロイドは幼虫と蛹で働く脱皮ホルモンであり、変態期には合成器官(前胸腺)は崩壊する。また成虫雌ではエクダイソンは卵巣で合成され卵形成に働く。一方、ミツバチの働き蜂には前胸腺は存在せず、不妊カーストであり、卵巣も未発達である。従って、働き蜂のどの器官でエクダイステロイドが合成されるのかは不明であった。論文提出者は、博士課程においてこの疑問に答えるべく研究を実施している。

本論文は2章立てで構成されている。第一章では、働き蜂でのエクダイステロイド合成器官の候補を同定するため、エクダイステロイド合成酵素遺伝子群が働き蜂のどの器官で発現するか調べた。エクダイソンはコレステロールを前駆体としてNeverland、CYP307、Nm-g/Sro、CYP306A1、CYP302A1という一連の水酸化酵素の働きで合成される。その後、エクダイソンは体液中に分泌され、末梢器官でCYP314A1の働きにより活性化型の20-ヒドロキシエクダイソン(20E)に変換され、利用される。エクダイソンを合成する女王蜂の卵巣を対照として働き蜂の各器官における遺伝子発現を調べた結果、エクダイソン合成の初期段階に関わる2つの遺伝子(neverlandとnm-g/sro)は、女王蜂と同様、働き蜂でも卵巣で強く発現していたが、後期段階に関わる2つの遺伝子(Nm-g/SroとCYP306A1)は卵巣での発現は弱く、脳で強く発現していた。一方、CZP314Alは脳と卵巣、脂肪体で強く発現した。以上の結果は、働き蜂ではエクダイソン合成の初期段階は主に卵巣、後半段階は主に脳で行われること、その後、エクダイソンは脳や卵巣、脂肪体で20Eに転換、利用されることを示唆している。

第二章では、働き蜂の各器官を培養し、培地中に分泌されたエクダイステロイドを抗20E抗体を用いたラジオイムノアッセイ(RIA)法により定量することで、エクダイステロイド合成器官を同定している。その結果、脳と脂肪体からはエクダイステロイドが分泌されたが、卵巣ではほとんど検出されなかった。働き蜂の卵巣は退縮しているため、エクダイステロイド合成への寄与は少ないと考えられる。一方、エクダイステロイド合成酵素遺伝子の発現が高くなかった下咽頭腺からもエクダイステロイドの分泌が検出された。下咽頭腺はローヤルゼリー合成のため体液から大量の卵黄タンパク質を取り込み、エクダイステロイド合成前駆体を多く含むことが原因と推察された。さらに、脂肪体の培養上清をHPLC-RIAに供することにより、脂肪体からは主にエクダイソンと20E力粉泌されることが判明した。働き蜂では卵黄タンパク質は下咽頭腺に取り込まれ、ローヤルゼリータンパク質合成に利用されるので、20Eは脂肪体では卵黄タンパク質合成に働くと推察される。一方、脳で合成されたエクダイソンは脳自身で20Eに転換され、エクダイソン情報伝達系の活性化に働く可能性が考えられた。

以上の知見はミツバチでは脳でエクダイステロイドが合成されることを示唆している。哺乳類や鳥類では脳で性ステロイドホルモン(ニューロステロイド)が合成されるが、今回の結果は昆虫にもニューロステロイドが存在する可能性を初めて示唆する点で、比較内分泌学や行動生理学的観点から意義深い。特に働き蜂の齢差分業の獲得と付随して、エクダイステロイド合成の一部分が卵巣から脳に移行したと推察される点でユニークである。

なお、本論文の研究は木内信(農業生物資源研究所)、竹内秀明、久保健雄(東京大学)との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験を計画し、遂行したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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