学位論文要旨



No 126572
著者(漢字) 菊池,由葵子
著者(英字)
著者(カナ) キクチ,ユキコ
標題(和) 自閉症児・定型発達児における顔からの注意の解放に関する研究
標題(洋) Disengagement from faces in children with and without autism spectrum disorder.
報告番号 126572
報告番号 甲26572
学位授与日 2011.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1041号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷川,寿一
 東京大学 教授 丹野,義彦
 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 准教授 村上,郁也
 東京大学 教授 開,一夫
内容要旨 要旨を表示する

顔は最も見慣れた視覚刺激の一つであるとともに、最も重要な意味をもつ社会刺激である(Bruce, 1988)。生まれて間もない新生児においても、顔状の刺激を選好し(e.g. Farroni et al., 2005; Johnson et al., 1991)、顔は注意を引きつける存在であることが知られている(e.g. Langton et al., 2008; Ro et al., 2001)。さらに、顔は注意を保持し、モノにくらべて顔からの注意の解放は遅いことも示されている(Bindemann et al., 2005)。このように、定型発達者では、顔を選好し選択的に学習する基盤が備わっていると考えられる。一方、自閉症児は対人コミュニケーションの困難を主徴とし(American Psychiatry Association, 1994)、顔や視線の処理が困難であることが報告されている(e.g. Itier & Batty, 2009; Nation & Penny, 2008)。また、定型発達児のように、他者の顔に特異的に注意を向けるバイアスを持たないこと(e.g. Kikuchi et al., 2009; Osterling & Dawson, 2002)、さらに、近年、自閉症幼児は定型発達幼児にくらべると、顔からの注意の解放が早いことが報告された(Chawarska et al., 2010)。これまで、自閉症児・定型発達児を対象として、脳機能計測も含めて顔からの注意の解放を検討した研究はまだない。また、顔が注意を保持することは、顔に対するさまざまな処理の熟達化に貢献すると考えられる。そこで、顔からの注意の解放は遅いという効果を自閉症児においても引き出すことができるのか検討する必要があった。そこで、本研究では、学齢期の自閉症児・定型発達児を対象として、顔からの注意の解放について、眼電位(EOG)・脳波(EEG)の計測により認知神経科学的に検討した。とくに、顔に対する注視パターンに着目し、実験2では目の領域、実験3では口の領域への注視を統制した実験を行った。

実験1

実験1では、注視パターンの統制は行わず、顔を自由に見る条件で、顔からの注意の解放について定量的に測定した。定型発達児では、モノより顔からの注意の解放が遅いこと、自閉症児では、顔とモノからの注意の解放に差はないことが予測された。

方法 自閉症児15名(平均12.8歳)、推定IQおよび暦年齢で統制した定型発達児15名(平均11.8歳)を対象として、gap/overlap課題を行った。gap条件では、画面中央に顔またはモノ刺激(中心刺激)が呈示され、200msのブランクの後、画面の右か左に周辺刺激が呈示された。overlap条件では、中心刺激は呈示されたまま周辺刺激が呈示された。参加者には、中心刺激を見た後、周辺刺激が呈示されたら目を動かすよう教示し、課題中の眼電位と脳波を計測した。周辺刺激が呈示されてからサッケードするまでの反応時間(saccadic reaction time: SRT)と注意の解放時に中心-頭頂部で振幅が大きくなるスパイク電位(Spike potential: SP)を指標とした。

結果 SRT(図1):群(自閉症/定型発達)×中心刺激(顔/モノ)×注意の解き放ち(gap/overlap)の3要因分散分析の結果、2次の交互作用が有意だった(F(1, 28)=5.45, p<.05)。overlap条件の顔条件で定型発達群は自閉症群よりSRTが長かった(F(1, 112)=4.12, p<.05)が、モノ条件で両群に差はなかった(F(1, 112)=.001 p>.9)。定型発達群では、モノより顔条件でSRTが長かった(F(1, 56)=17.2, p<.01)が、自閉症群では両条件に差はなかった(F(1, 56)=.30, p>.5)。gap条件では、群間差も群内差も見られなかった(all F<.632, p>.4)。

SP(図2):分散分析(群×中心刺激×電極)の結果、群×中心刺激は有意ではなかった(F(1, 28)=1.90, p>.1)。しかし、理論上重要なので予備的に下位検定を行った結果、顔条件で定型発達群は自閉症群よりSPが大きかった(F(1, 56)=6.29, p<.05)が、モノ条件で両群に差はなかった(F(1, 56)=1.55, p>.2)。また、定型発達群では、モノより顔条件においてSPが大きかった(F(1, 28)=6.69, p<.05)が、自閉症群では両条件に差はなかった(F(1, 28)=.406, p>.5)。

考察 定型発達児では、モノより顔刺激においてSRTは長く、SPの振幅も大きい傾向が見られ、モノにくらべて顔からの注意の解放は遅かった。一方、自閉症児では、顔とモノ刺激に対するSRTやSPの振幅に違いはなく、定型発達児で見られた顔に対する特異的な注意の解放の遅延は見られないことが示唆された。しかし、自閉症者は定型発達者とくらべて、顔を見る際、目の領域への注視量が少ないことが報告されている(e.g. Klin et al., 2002; Pelphrey et al., 2002)ため、次に注視パターンを統制した実験2を行った。

実験2

自閉症児が顔刺激の目の領域を注視するよう、実験的な操作および教示を行った。実験1で、自閉症児において顔からの注意の解放の遅延が見られなかったことが、顔の目の領域への注視が弱いことに起因するのであれば、実験2では、自閉症児・定型発達児ともに、顔に対するSRTは長く、SPの振幅も大きいことが予測された。

方法 自閉症児14名(平均12.9歳)、推定IQおよび暦年齢で統制した定型発達児14名(平均12.4歳)を対象として、ブロックデザインのgap/overlap課題を行った。目の領域を注視してもらうため、顔刺激には両目の間に注視点(+)を、モノ刺激には目の領域に相当するバーと注視点(+)を加えた。また、catch trialとして、右か左に視線が動いたり、バーが矢印になったりした時には、必ずその方向に周辺刺激を呈示した。参加者には、画面中央の注視点と目あるいはバーをよく見て、周辺刺激が呈示されたら目を動かしてターゲットにのみ反応するよう教示した。catch trialでは、視線や矢印の方向をすぐ見るように教示した。

結果 SRT(図3):分散分析(群×中心刺激×注意の解き放ち)の結果、中心刺激×注意の解き放ちの交互作用が有意であった(F(1, 26)=12.5, p<.01)。overlap条件ではモノより顔に対するSRTは長かった(F(1, 52)=14.4, p<.01)が、gap条件では顔とモノのSRTに有意な差はなかった(F(1, 52)=.167, p>.6)。群の主効果が有意傾向であり(F(1, 26)=4.08, p=.05)、全体的に自閉症群のほうが定型発達群よりSRTは短かったが、群との交互作用はいずれも有意ではなかった(F(1, 26)<1.78, p>.1)。

SP(図4):分散分析(群×中心刺激×電極)の結果、群×中心刺激が有意傾向であった(F(1, 26)=3.72, p=.06)。顔条件で定型発達群は自閉症群よりSPの振幅が大きかった(F(1, 52)=4.01, p=.05)が、モノ条件で両群に有意な差はなかった(F(1, 52)=.02, p>.8)。また、定型発達群では、モノより顔条件においてSPの振幅が大きかった(F(1, 26)=4.41, p<.05)が、自閉症群では両条件に有意な差はなかった(F(1, 26)=.396, p>.5)。

考察 目の領域への注視により、顔に対する注意の解放の遅延に、自閉症児と定型発達児で違いは見られなかった。しかし、SPの振幅については、依然として群間差が見られ、自閉症児の行動データと脳機能データの間に乖離の可能性が考えられた。また、実験2では中心刺激への注視点の挿入などにより、全体的に中心刺激への注意は高まった。そこで、顔の中でもとくに目の領域を注視することにより、顔からの注意の解放が遅くなったことを明らかにするため、統制実験として口の領域を注視する実験3を行った。

実験3

目の領域への注視が顔からの注意の解放の遅延に影響するのであれば、口の領域を注視する実験3では、自閉症児・定型発達児とも顔とモノからの注意の解放の間に差は見られないことが予測された。

方法 自閉症児12名(平均13.5歳)、推定IQおよび暦年齢で統制した定型発達児12名(平均13.1歳)を対象として、gap/overlap課題を行った。顔刺激には口の中央に注視点(+)を加え、catch trialでは、右か左に口がずれた。口の領域をよく見るよう教示した以外の手順は、実験2と同様であった。

結果 SRT(図5):分散分析(群×中心刺激×注意の解き放ち)の結果、注意の解き放ちの主効果(F(1, 22)=52.2, p<.01)以外、有意ではなかった(all F(1, 22)<2.32, p>.1)。

SP(図6):分散分析(群×中心刺激×電極)の結果、電極の主効果(F(8, 176)=11.0, p<.01)と中心刺激×電極(F(8, 176)=2.47, p<.05)以外、有意でなかった(all F(1, 22)<1.33, p>.2)。

考察 口の領域への注視では、顔からの注意の解放は遅いという効果は見られなかった。よって、目の領域への注視が、顔からの注意の解放の遅延に寄与していることが示唆された。

総合考察

定型発達児では、顔を自由に見る実験1および目の領域を注視する実験2において、モノより顔からの注意の解放は遅いことが、行動データ・脳機能データから明らかになった。一方、口の領域を注視する実験3では、顔からの注意の解放に特異的な遅延は見られず、目の領域を注視することが顔からの注意の解放の遅延に密接に関わっていることが示された。自閉症児では、顔を自由に見る実験1において、定型発達児とは異なり、顔とモノからの注意の解放は変わらなかった。しかし、実験2で目の領域を注視すると、顔からの注意の解放は遅いという効果に、自閉症児と定型発達児の間で違いは見られなかった。この結果は、自閉症児において、目の領域への注視を促すことにより、顔を選択的に学習する機会を高め、顔をより深く処理し、顔に対して熟達化していく可能性を示唆している。また、目の領域の注視という簡単な操作や教示で、自閉症児と定型発達児が同様のパフォーマンスを示すことを明らかにした点において、本研究は療育上においても意義深い結果だと言える。一方、実験2で、SPの振幅については依然として群間差が見られた。この点については、自閉症児において何らかの代替方略により、顔からの注意の解放は遅いという効果が行動上では現れた可能性や、サッケードを制御している皮質下(上丘)とSPが現れる皮質上の機能の乖離という可能性が示唆された。今後はfMRIなどを用いて、自閉症者における顔からの注意の解放に関する神経基盤を、目の領域への注視と関連させて、発達的変遷を含めて解明する必要があると考えられる。

図1 実験1のSRT

図2 実験1のSP

図3 実験2のSRT

図4 実験2のSP

図5 実験3のSRT

図6 実験3のSP

審査要旨 要旨を表示する

本論文のテーマは、題目にあるように「顔からの注意の解放」に関するものである。顔は人間にとって最も身近で見慣れた視覚刺激であると同時に、様々な情報を伝達する重要な社会刺激でもある。人間の発達の上では、生後間もない新生児でさえも、他のどのような刺激よりも顔刺激を選好することが知られている。また、顔は注意を引きつけるだけでなく、向けられた注意を保持するため、他の刺激と比べて「顔からの注意の解放」が遅れることが多く報告されてきた。

ところが、対人交渉とコミュニケーションに障害を抱える自閉症児では、顔や視線の情報処理に困難を抱えることが報告されている。具体的には、自閉症児では、他者の顔に特異的に注意を向けるバイアスを持たないことや、定型発達幼児にくらべて顔からの注意の解放が早いことが報告されている。

しかし、自閉症児を対象として、脳機能計測をも含めて顔からの注意の解放を検討した先行研究はこれまでになされてこなかった。また、自閉症児に、どうしたら顔への注意を持続させることができるかという、療育的検討もほとんど行われてこなかった。そこで本研究では、9~17歳の学齢期の自閉症児と定型発達児を対象とし、顔からの注意の解放について、眼電位(EOG)・脳波(EEG)の計測により認知神経科学的な検討を行い、また、顔に対する注視パターンに着目し、目の領域と口の領域への注視を統制した3つの実験を行なった。

実験1では、先行研究と同様に、注視パターンは統制せずに、顔を自由に見る条件で、顔からの注意の解放をEOGとEEGを用いて計測した。これらの認知神経科学的計測を用いても、行動計測による先行報告と同様に、定型発達児ではモノより顔からの注意の解放が遅いこと、他方、自閉症児では顔とモノからの注意の解放に差はないことが予測された。実験参加者は、自閉症児15名、推定IQおよび暦年齢で統制した定型発達児15名であり、実験課題としてはgap/overlap課題を用いた。gap条件では、画面中央にまず中心刺激(顔またはモノ刺激)を呈示し、200msのブランクの後、画面の右か左に周辺刺激を呈示した。overlap条件では、ブランクをおかずに、中心刺激を呈示したまま周辺刺激を合わせて呈示した。実験参加者には、中心刺激を見た後、周辺刺激が呈示されたらそちらに目を動かすよう教示し、課題中の眼電位と脳波を計測した。周辺刺激が呈示されてからサッケード(視野内の視覚対象に視線を注視させるために行う素早い眼球運動)するまでの反応時間と、注意の解放時に中心-頭頂部で振幅が大きくなるスパイク電位を指標とした。その結果、gap条件では、群間差も群内差も見られなかったが、overlap条件では予測通りに、定型発達児では、モノより顔刺激においてサッケード反応時間が長く、スパイク電位の振幅も大きい傾向が見られ、モノにくらべて顔からの注意の解放が遅いことが示された。また、自閉症児では、顔とモノ刺激に対するサッケード反応時間やスパイク電位の振幅に有意差はなかった。すなわち、生理指標を用いた場合でも、自閉症児では、定型発達児で見られる顔に対する特異的な注意の解放の遅延は見られないことが再確認された。

自閉症者は定型発達者と比べて、目の領域への注視量が少ないことが報告されている。そこで、実験2では、顔刺激の目の領域を注視するように実験的な操作および教示を行った。この操作と教示により、自閉症児も定型発達児と同様に、顔に対する注意の解放の遅れが生じることが予測された。自閉症児14名、推定IQおよび暦年齢で統制した定型発達児14名を対象として、ブロックデザインのgap/overlap課題を行った。目の領域を注視してもらうため、顔刺激には両目の間に注視点(+)を、モノ刺激には目の領域に相当するバーと注視点(+)を描き加えた。また、catch trialとして、視線が右か左に動く場合、あるいはバーが矢印に変化した場合には、必ずその方向に周辺刺激を呈示した。参加者には、画面中央の注視点と、目あるいはバーをよく見て、周辺刺激が呈示されたら目を動かしてターゲットを見るように教示した。またcatch trialの場合には、視線や矢印の方向をすぐ見るように教示した。これらの操作と教示の結果、目の領域への注視により、顔に対する注意の解放の遅延に、自閉症児と定型発達児で違いは見られなかった。しかし、スパイク電位の振幅については、依然として群間差が見られ、自閉症児の行動データと脳機能データの間の乖離が示唆された。

実験3では、こんどは目ではなく、口の領域を注視するよう、実験2と同様な実験的な操作を行った。実験参加者は、自閉症児12名と、推定IQおよび暦年齢で統制した定型発達児12名であった。その結果、自閉症児・定型発達児とも顔からの注意の解放が遅れるという現象は見られなかった。実験2と実験3の結果を合わせると、口ではなく目の領域への注視が、顔からの注意の解放の遅延に寄与していることが示された。

3つの実験結果から、自閉症児において、目の領域への注視を促すことによって、顔を選択的に学習する機会を高め、顔をより深く処理し、顔に対して熟達化していく可能性を示すことができた。目の領域に対する注視という比較的簡単な操作や教示だけで、自閉症児が定型発達児と同様のパフォーマンスを示すことを明らかにした点において、療育上においても意義深い結果だと言えよう。

なお、実験2では、行動データと脳波データのかい離が見られ、今後の脳科学的な検討課題として残されたが、全体としてみると、先行研究と比べて、より精緻な実験統制と認知脳科学的な測定を行い、新たな発見ができたことは評価でき、療育面での応用も期待できる意義深い研究と言える。本研究は、国際専門誌であるJournal of Autism and Developmental Disorders誌 (IF=3.06) で査読を受け、すでに公刊されている。論文提出者は、博士課程の3年間、毎年、国際自閉症研究学会に参加・発表し、海外の専門家との議論を積んでいる。

審査会では、一連の実験については非常に高く評価された。ただし、博士論文としては、投稿論文とは違って、研究の背景の説明や研究の意義、さらに総合考察について加筆が必要であるとの意見が出された。その後、2週間の期間で、必要十分な加筆修正がなされ、各審査員による再審査を受けた結果、学位論文として相応しいとの判定が下された。よって、本審査委員会は博士(学術)を授与するに相応しいものと認定する。

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