学位論文要旨



No 126573
著者(漢字) 小豆川,勝見
著者(英字)
著者(カナ) ショウズガワ,カツミ
標題(和) 遠洋性及び沿岸域海洋堆積物中の化学組成に基づく古海洋環境動態評価
標題(洋) Reconstruction of Paleo-environment based on chemical compositions of pelagic and coastal sediments
報告番号 126573
報告番号 甲26573
学位授与日 2011.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1042号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松尾,基之
 東京大学 教授 佐野,有司
 東京大学 教授 磯崎,行雄
 東京大学 准教授 佐藤,守俊
 東京大学 准教授 齋藤,晴雄
内容要旨 要旨を表示する

第1章では本論文の緒言として、堆積物を用いて海洋環境の評価を行う際に、遠洋性、沿岸域の2つの対象があることを挙げた。それぞれについて、元素分析および化学状態分析のアプローチをとることによって、その場あるいは堆積当時における海洋環境を明らかにする意義について述べるとともに、本論文の目的について述べた。

第2章ではこれまでに十分な地球化学的な指標が存在しなかった遠洋性の陸源性砕屑物の供給源推定を、海洋堆積物の元素定量値から抽出する手法の確立を目的としている。特にこれまで採取が困難であった後期更新世から現世にかけて堆積した堆積物は、陸域で大きな気候変動が生じた最終氷期を含めた年代に堆積していることから、この堆積物を高精度で解析することによって近年の海洋環境評価に重要な知見を与えることが期待できる。本章では学術研究船 白鳳丸の研究航海(KH04-05航海)で採取された南太平洋および南極海の複数の遠洋性海洋堆積物を研究対象として分析に供している。試料は西経170度に沿って南北数千kmにわたる各サンプリング地点で採取され、そのうち4コアを主な分析対象としている。試料はコア長30cm程度の極めて短い堆積物であるが、これはピストンコアラを用いた採取方法とは異なり、攪乱の生じていない海底面の最表層のみを採取することができるマルチプルコアラを用いているためである。これらの試料を堆積方向に細断し、機器中性子放射化分析(INAA)法および即発ガンマ線分析(PGA)法を適用することで29-35元素の元素濃度を誤差10%以内で得た。得られた定量値に測定誤差を荷重したデータセットを多次元ベクトルとみなし、独自の改良を加えた主成分分析(PCA)法を適用した結果、固有ベクトル中から大陸性および島弧のダストと推定される固有ベクトルパターンを抽出することに成功した。酸性岩および塩基性岩の供給率を示す堆積物中のK/Ti比およびEu anomalyも同様の傾向を示したことから、先述の供給源推定結果を支持しており、本手法が有効であることが確認された。興味深い濃度変動を示す堆積物コア(SX18コア)については、過剰230Th年代決定法を適用し氷期-間氷期に対応する年代別の供給源を推定したが、これまでのところ明瞭な変動を確認するには至っていない。しかし、コア全体に対して大陸-島弧起源砕屑物の寄与率を算出することが可能になったことから、既存の手法が適用できる大陸沿岸部以外の海域、すなわち遠洋性海洋堆積物に対して、数万年間の供給源推定が可能になった。この手法はこれまでにないアプローチであり、堆積年代、採取場所を問わない古海洋環境復元方法を提唱したことになる。

第3章では現在ほとんど明らかにされていない後期更新世以降の南極海の堆積環境を推定するためRoss海およびScotia海より採取された堆積物について、INAA法およびPGA法を用いた多元素分析と同時に、堆積物に含まれる鉄の化学種分別を57Fe Mossbauer分光法を用いて行った。鉄は堆積環境に応じてその化学種が変動する元素の一つであり、本研究で対象とした南極海については周辺海域で採取された堆積物の分析結果から、鉄元素が対象として最も有効であると推定した。分析の結果、Ross海およびScotia海の両堆積物ともに堆積年代別の主要元素濃度群に気候変動と関連する大きな濃度変動はなかった。これは氷期には堆積物採取地点が海氷で覆われていたことが明らかにされていることから、極めて合理的な結果である。その一方で、鉄化学種分別ではScotia海堆積物には57Fe Mossbauer分光法で得られたスペクトル中に四極分裂値が極めて大きいダブレットピークを有する鉄化学種が存在した。この特異な化学種に対して、測定温度、超常磁性効果など詳細な検討を行った結果、この化学種が初生的な海緑石(Glauconite)中に含まれるIII価鉄に由来するものと推定された。この化学種は堆積物表層に生じており、また堆積年代が増加するとともにその存在量が減少する特徴がある。14C年代測定法によればScotia海堆積物表層の堆積年代はリザーバ効果を考慮して5.0kyr.程度であり、一般的に結晶性海緑石のようなフィロ珪酸塩の生成に十分な時間ではない。その一方でRoss海堆積物については同様の鉱物は堆積物コア全体で存在しない。これらのことから、57Fe Mossbauer分光法を用いた鉄化学種分別法によってScotia海堆積物は初生的な海緑石を局所的に生成させる還元的環境下にあったことが明らかになった。

第4章では2章と同一試料を用いて、堆積物中に含まれるMn続成作用を堆積方向に評価した。併せて生物遺骸を主成分とするCaCO3について、aragoniteからcalciteへと結晶構造が変化する過程をX線吸収微細構造(XAFS)法で確認した。XAFS法によってSX18コアに含まれるMnは全てIV価であり、過剰230Th年代決定法による堆積年代から、陸域では氷期-間氷期といった劇的な環境変化があったにも関わらず、海底面直上の海水中に溶存酸素が常に存在する環境にあったことが明らかになった。さらに詳細な検討を行うため、広域X線吸収微細構造(EXAFS)スペクトルおよび非経験的多重散乱計算コード(FEFF)を用いたMn結晶構造の推定を行ったところ、表層でβ-MnO2の正方系を有しているのに対して、その直下からコアボトムまでRamsdelliteの斜方系の結晶系に変化していることが明らかになった。Mnノジュールやクラストも斜方系の結晶系であることから、本章で確認された結晶系の変化がノジュールやクラストへの続成作用の起点であることが初めて示唆された。同様にCaCO3については、XAFS法によりそのスペクトル間の比較を行ったところ、約2万年の間にaragoniteがcalciteへと結晶構造を変化させる相転移を発生させていたことが明らかになった。これまでに浅海では相転移速度が報告されていたが、炭酸塩補償深度を超える遠洋性の深海で、この相転移速度を明らかにしたことは本章が初めての報告になる。

第5章は人為的負荷が高く、堆積速度が大きい沿岸域を研究対象とした。1960年代から世界中の沿岸域で報告されている「死の海」(dead zone)の原因となる貧酸素水塊の経年的な挙動を明らかにするために、非常に強い貧酸素水塊が発生することで知られる東京湾幕張沖に存在する浚渫窪地内の水域で、過去30年間に発生した貧酸素水塊の弱体化の証拠を、浚渫窪地内堆積物に残る非晶質hematiteの存在から明らかにした。これまでに夏期の東京湾では1976年から溶存酸素量が極めて少ない貧酸素水塊が連続的に観測されている。本章では3章と同様の観点から、貧酸素水塊の影響を堆積物中の鉄が記録しているものととらえ、貧酸素水塊直下にある堆積物を調査船上から鉛直方向に採取し、57Fe Mossbauer分光法、過剰210Pb年代決定法などを用いて堆積物の分画毎の分析を行った。その結果、浚渫窪地および平場(非浚渫)すべての層において、粘土鉱物(Fe3+ clay)および珪酸塩(Fe2+ silicate)の鉄化学種を観測した。しかし、浚渫窪地の試料中1980年、1987年、2008年(それぞれ±1.8年の堆積期間)に堆積した層についてはhematiteと同定できる特徴的なスペクトルを観測したが、それ以外の層では検出されない興味深い結果が得られた。採取地点の堆積環境下で最適化した鉄に対するpH-Ehダイアグラムで堆積当時の堆積環境を検討した結果、hematiteの生成は直上の貧酸素水塊の規模が縮小している証拠であることが明らかになった。この結果は東京湾に複数ある水質観測地点がこれまで経年的に記録した海水中の溶存酸素量の記録とも調和的である。このことより堆積物中のhematiteの同定によって東京湾浚渫窪地で過去30年程度の間に発生した貧酸素水塊の動態評価が可能となった。

第6章では従来のPGA法と比較して検出感度が160-600倍感度向上したとされる新しい非破壊分析法、多重即発ガンマ線分析(MPGA)法について、現在までに明確な基準のない環境試料の測定条件の最適化を行うと同時に、得られた結果が従来の地球化学的指標と整合性が見られるか、ガンマ線検出器が時系列にログしたリストデータをソーティングして得られる2次元マトリクスを操作することで検討を行った。その結果、測定時点のセットアップにおいては分析条件として1)堆積物試料の場合には1試料あたり3600sec.(real time)の測定時間、かつ、リストデータのソーティングにはanti-coinモードを用いる、2)ダスト試料の場合には14400sec.(real time)の測定時間、かつ、ソーティングにはadd-backモードを要することが明らかになった。これらの実験条件の最適化を行ったことでPGA法またはINAA法で得られた知見に対して整合性のある結果をMPGA法によって得ることができることが可能となった。

第7章では本論文の結言として、これまでの堆積環境評価として行われてきた元素分析値から得られる指標に加え、主成分から微量成分を含んだ多元素分析値に対して主成分分析を用いる事で古海洋環境評価を行うことの有効性について示した。さらに元素分析値だけに留まらず、元素の状態をトレースすることが堆積環境の評価に非常に有効であることを示した。これらの手法は堆積物の採取場所や年代に制限があるものではないため、本論文で示した手法が従来の手法と比較して、より詳細に古海洋環境評価に用いられる可能性を示した。

審査要旨 要旨を表示する

海洋堆積物はその堆積年代に起因する様々な外的要因によって組成が異なり、また堆積環境によってそこに含まれる元素の化学状態が微妙に異なると考えられることから、海洋堆積物は古海洋環境を記録する貴重なプローブとなると考えられる。本研究は、このような観点から、遠洋性および沿岸域海洋堆積物それぞれについて、元素分析および化学状態分析のアプローチをとることによって、堆積当時の海洋環境を明らかにするための手法を確立することを目的としている。遠洋性堆積物に関しては、これまでにも新生代第三紀から第四紀にかけての中長期的な古海洋環境変動の復元を試みた研究は多く見られるが、その一方で、近年の氷期-間氷期サイクルを経験した更新世以降に堆積した海洋堆積物の採取および正確な復元は非常に困難であった。本研究では、後期更新世以降に堆積した遠洋性堆積物を不攪乱状態で採取し、主成分から微量成分までを含んだ多元素分析値に対して主成分分析を用いる事で、古海洋環境評価を行うことの有効性について示している。沿岸域海洋堆積物に関しては、特に貧酸素水塊の影響を堆積物中の鉄が記録しているものととらえ、貧酸素水塊直下にある堆積物の状態分析から、過去の貧酸素水塊の強度についての情報を得るための検討を行っている。

本論文は7章で構成されている。第1章では本論文の緒言として、上で述べたような研究背景と目的、および研究対象とする海洋堆積物について述べられている。

第2章では、南太平洋および南極海より採取された不攪乱遠洋性海洋堆積物に対して機器中性子放射化分析(INAA)法および即発ガンマ線分析(PGA)法を適用し、29-35元素の元素濃度を誤差10%以内で得ている。測定誤差を荷重した定量値を多次元ベクトルとみなし主成分分析に適用した結果、大陸性および島弧のダストと推定される固有ベクトルパターンを抽出することに成功している。これまでに十分な地球化学的な指標が存在しなかった遠洋性の陸源性砕屑物の供給源推定を、海洋堆積物の元素定量値から抽出する手法の確立を行った意義は大きい。

第3章では、現在ほとんど明らかにされていない後期更新世以降の南極海の堆積環境を推定するためRoss海およびScotia海より採取された堆積物について、堆積物に含まれる鉄の化学種分別を57Fe Mossbauer分光法を用いて行っている。その結果、Scotia海堆積物には初生的な海緑石中に含まれる3価鉄に由来する特異な化学種が存在することを明らかにしている。一方、Ross海堆積物については同様の鉱物は堆積物コア全体で存在しない。このことから、Scotia海堆積物が初生的な海緑石を局所的に生成させる還元的環境下にあったことを明らかにしている。

第4章では、2章と同一試料を用いて、堆積物中に含まれるMn続成作用を堆積方向に評価している。広域X線吸収微細構造(EXAFS)スペクトルおよび非経験的多重散乱計算コードを用いたMn結晶構造の推定より、この海域におけるMn結晶系の変化がMnノジュールやクラストへの続成作用の起点であることを初めて示している。併せて生物遺骸を主成分とするCaCO3について、aragonite型からcalcite型へと結晶構造の変化が約2万年の間に起こっていたことを明らかにしている。従来、浅海では相転移速度が報告されていたが、炭酸塩補償深度を超える遠洋性の深海で、この相転移速度を明らかにしたことは本研究が初めての報告になる。

第5章では、人為的負荷が高く、堆積速度が大きい沿岸域を研究対象としている。1960年代から世界中の沿岸域で報告されている「死の海」の原因となる貧酸素水塊の経年的な挙動を明らかにするために、強い貧酸素水塊が発生することで知られる東京湾幕張沖に存在する浚渫窪地内の水域で、過去30年間に発生した貧酸素水塊の弱体化の証拠を、浚渫窪地内堆積物に残る非晶質hematiteの存在から明らかにしている。この結果は東京湾に複数ある水質観測地点がこれまで経年的に記録した海水中の溶存酸素量の記録とも調和的である。堆積物中のhematiteの同定によって過去に発生した貧酸素水塊の動態評価をする手法は、新たな環境評価法として注目される。

第6章では、従来のPGA法と比較して検出感度が160-600倍向上したとされる新しい非破壊分析法、多重即発ガンマ線分析(MPGA)法について、現在までに明確な基準のない環境試料の測定条件の最適化の検討を行っている。本研究で提案されている最適化法による定量結果は、従来の地球化学的指標と整合性が見られ、MPGA法が環境試料に対して有望な分析法であることが示唆されている。

第7章では本論文の結言として、全体のまとめが述べられている。

以上のように、本研究は遠洋性および沿岸域海洋堆積物それぞれについて、元素分析および化学状態分析のアプローチをとることによって、堆積当時の海洋環境を明らかにするための手法を開発したものとして、大きな学術的貢献があるものと認められる。

よって、本審査委員会は本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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