学位論文要旨



No 126574
著者(漢字) 榎本,嘉範
著者(英字)
著者(カナ) エノモト,ヨシノリ
標題(和) カスプトラップ中での反水素の合成
標題(洋) Antihydrogen production in cusp trap
報告番号 126574
報告番号 甲26574
学位授与日 2011.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1043号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 松田,恭幸
 東京大学 准教授 鳥井,寿夫
 東京大学 教授 久我,隆弘
 東京大学 准教授 斎藤,晴雄
 東京大学 特任教授 山,泰規
内容要旨 要旨を表示する

反水素原子は反陽子1つと陽電子1つからなる最も単純な反物質原子である。2002年のATHENA及びATRAPによるネスティッドペニングトラップ (一様磁場と入れ子構造になった静電ポテンシャルを組み合わせた荷電粒子トラップ) 中での冷たい反水素の大量合成以来、この反水素原子の分光を通して、物質-反物質の違い (CPT対称性)を解明しようとする研究への道がひらけた。しかしながら反水素原子は電気的に中性のため、反陽子-陽電子の再結合により合成された途端に四方に飛び散ってしまい、このままでは分光実験等の精密測定には利用できない。一方で反水素原子は磁気モーメントをもつため、非一様磁場を用いれば運動を制御することができることが知られている。そこで我々は分光実験に利用可能な、反水素原子を引き出せる新たな反水素源として、カスプトラップと呼ばれるカスプ型の非一様磁場と入れ子型の静電ポテンシャルを組み合わせたトラップを開発した。

図1 (a)にカスプトラップ及びこの中で生成された反水素原子を用いた分光実験の概念図を示す。反水素原子は予めカスプトラップ中にためこまれた陽電子中へ反陽子を入射することによって合成する。出来上がった反水素原子はトラップより抜けだしてくるが、このうち陽電子のスピンが磁場と反平行で磁場の弱い方向へ行くほどエネルギー的に安定な状態 (low field seeking state, LFS)にいる原子はカスプ磁場によって中心軸上へ収束される。一方で陽電子のスピンが磁場と並行で磁場の強い方向へ行くほどエネルギー的に安定となる状態 (high field seeking state, HFS)にいる原子は反対に中心軸から遠ざかる方向へ力を受ける。したがって中心軸に沿ってスピン偏極した反水素原子が取り出されることになる。

この反水素原子はマイクロ波キャビティー、スピン状態選別用の六重極磁石を通って検出器へと導かれる。マイクロ波キャビティーにかけるマイクロ波の周波数を掃引しながら、検出器へ到達する反水素原子数を観測すると、マイクロ波の周波数と反水素原子の遷移周波数が一致すると、スピン選別用の六重極磁石により反水素原子の軌道が変更され、検出器へ到達する原子数が変わる。したがって横軸にマイクロ波の周波数、縦軸に検出器へ到達した反水素原子の数をプロットすると図1 (b) のようなグラフが得られ、ディップ位置から反水素原子の遷移周波数を知ることができる。例えば基底状態の反水素原子のエネルギー準位は磁場の関数として図1 (c) のようになっており、この手法を用いて赤の矢印で示した反水素原子の基底状態の超微細構造分裂周波数を求めることができる。我々の実験系ではこの値を10-6程度の精度で測定できると期待されている。

上記目標を達成するためには、反水素原子を効率よく生成することが不可欠である。反水素原子の生成レートは陽電子、反陽子の密度が高く温度が低いほど大きくなることが知られているため、そのような荷電粒子群をいかにカスプトラップ中に準備できるかが鍵となる。図2に本研究で用いた実験装置の模式図を示す。我々はすでにCERNの反陽子減速器 (AD) から供給されるエネルギー5.3 MeVの反陽子を減速、捕捉、冷却し最大で107 個の冷たい (sub eV) 反陽子を蓄積可能な荷電粒子トラップ (反陽子トラップ)を開発しており、ここに蓄積された反陽子をパルス状にして撃ち出すことにより、カスプトラップ中へ大量 (105-106 個) の反陽子を供給することができる。また陽電子については、放射性元素である22Naから放出される陽電子を、タングステン多結晶モデレータとバッファーガスにより減速し、荷電粒子トラップ中へためこむことができる陽電子蓄積器を開発した。この陽電子蓄積器は50秒おきに2×105 個の陽電子をパルス状にして引き出すことができる。これらの反陽子および陽電子は輸送用コイルによって作られた磁場にガイドされて、カスプトラップへと輸送される。さらにカスプトラップの周囲を囲むようにシンチレーターが設置されており、反陽子の消滅数及び消滅位置を検出することができるようになっている。

図3 (a)に反水素原子の合成及び検出に使われる多重円筒電極の断面図、(b)に軸上での磁場分布、(c)に電位分布を示す。はじめにφ2 で示された電位分布がカスプトラップ内に用意され図左側からエネルギー約100 eV の陽電子が入射される。入射に合わせて電位分布はφ1に変更され、陽電子は電極U2 付近まで進み、そこで電位障壁によって跳ね返される。跳ね返った陽電子が再び図左側へにげ出してしまう前に素早く電位分布をφ1に戻し、陽電子を電位井戸中へ捕捉する。多重円筒電極は約2 T の強い磁場中に置かれているため、捕捉された陽電子はシンクロトロン放射により自動的に冷却され、電位井戸の底へと落ち着く。この操作を40又は60回程度繰り返し4~6×106 個の陽電子をカスプトラップ中にためこむ。同時に回転電場を印加し陽電子雲を動径方向に圧縮する。この手法は一様磁場を用いた荷電粒子トラップでは "rotating wall technique"としてよく知られている手法であるが、我々は不均一磁場をもつカスプトラップにもこの手法を適用し108 e+/cm3という高密度の陽電子雲を生成することに成功した。次に電位分布をφ3に変更し反陽子の入射に備える。反陽子入射に合わせて電位分布を φ4に変更し、陽電子の時と同様に入射された反陽子が逃げ出してしまう前に、素早く電位分布をφ3に戻す。このようにして閉じこめられた反陽子は陽電子との衝突により冷却され、陽電子はシンクロトロン放射で冷却されることによって、互いの相対エネルギーは自動的に減少していき、やがて再結合して反水素原子が生成される。できた反水素のうち高励起状態でかつ図右側へ飛んできたものは、図3 (c) でFIT (field ionization trap)と示された領域にて、深い井戸を生成する強い電場によって再電離される。再電離によって陽電子を引き離された反陽子はこの電位井戸中へ捕捉される。反陽子-陽電子の混合開始から適度な時間経過した後に電位分布をφ5に変更し、FIT中に蓄積された反陽子を排出して、シンチレーターでその消滅信号を観測することにより生成および再電離された反水素原子の数を得る。

図4に電位分布をφ5に変更し、FIT内に蓄積された反陽子を排出した時のシンチレーターのカウント数を示す。横軸は時間で0は電位分布をφ5に変更した時刻を表している。図4 (a)は陽電子無しで反陽子のみをカスプトラップ中に閉じ込めたとき、図4 (b)は陽電子と反陽子の両方を閉じ込めたときの結果である。いずれの測定においても陽電子の有無以外は全く同じ操作を行ったにもかかわらず、陽電子ありの場合は電位分布の変更に同期したピークが現れ、なしの場合には現れない。また陽電子雲をRF電場にて加熱した場合、たとえ陽電子と反陽子を同時に閉じ込めても図4 (b) のようなピークは現れなかった。このことから反水素原子の合成がカスプトラップ中で行われていることが確認された。

さらに 5秒おきに電位分布をφ3 からφ5 へ変更し、5秒間にFIT内に蓄積された反陽子数を数える事によって、反水素原子の生成レートの時間発展を測定した。この測定より、3×106 個の陽電子に対し、3×105 個の反陽子を入射した場合、反水素原子の生成レートは時間と共に増加し約30秒付近で最大値を迎え、その後は減少していくことがわかった。また入射する反陽子数を増やすと (減らすと) 生成レートが最大を迎える時刻が遅くなる (早くなる)という測定結果がえられた。これは反陽子入射によって温められた陽電子が冷却に要する時間が、反陽子数の増加 (減少)に伴って長く (短く) なるためと考えられる。一方で生成レートが30秒経過以降減少する理由に関しては、反陽子-陽電子の軸方向の分離によるものであることが反陽子消滅信号の位置情報から示唆された。加えて観測された消滅信号数のFIT電場強度に対する依存性と、2次元電場分布を考慮に入れた反水素原子の再電離確率の計算より、合成された反水素の主量子数が45 から50 付近であるという結果を得た。さらに入射された反陽子の内最大で約7% が反水素原子に変換されていることを確認した。

以上のように、不均一磁場をもつカスプトラップ中での反水素原子の合成に世界で初めて成功した。この反水素ビーム源の開発によって、いよいよ反水素原子の分光実験が現実のものとなる。

図1 カスプトラップを用いた分光実験の概念図。

図2 実験装置の模式図。

図3 (a) 多重円筒電極の断面図、(b) 軸上での磁場分布、(c) 軸上での電位分布。

図4 電位分布をφ5に変更した時刻を0として前後10ミリ秒のシンチレーターのカウント数。

(a) 反陽子のみをカスプトラップ中に50秒間閉じ込めた場合、(b) 陽電子とともに反陽子を閉じ込めた場合。

審査要旨 要旨を表示する

ビックバンによる宇宙創成時には物質と反物質が等量作られたはずであるのに、現在の宇宙においては反物質はほとんど存在しない。この理由を解き明かすことは現代物理学の最重要課題の一つであり、この解明のために反物質を大量に生成し、物質と反物質との間に違いがあるか否かを調べようという努力が続けられてきた。本研究において論文提出者は、最も単純な反物質からなるシステムの一つである反水素をカスプ状磁場中において大量合成することに成功し、反水素ビームを用いた高分解能マイクロ波分光の実現に向けての展望を大きく開いた。

具体的には本論文は、第1 章Introduction、第2 章Our strategy-Cusp trap scheme、第3 章Apparatus、第4 章Confinement of antiprotons in the cusp trap、第5 章Confinementof positrons in the cusp trap、第6 章Antihydrogen production and detection、第7章Conclusion、及び、付録からなっている。本論文の学位請求は、第一に、カスプトラップ法という反物質研究に大変重要な貢献をする手法を独自に開発したこと、第二にこの手法を用いて反水素の大量生成に成功したことに基づいている。カスプトラップ法については、その基本的考え方が第2章に、これを実現するため開発した反陽子蓄積装置、陽電子蓄積装置、輸送ビームライン、カスプトラップ、検出器、及び、それらのコントロール系等の実験装置の詳細が第3章に記されている。反水素の大量合成を実現するに必要な、各種技術的開発項目、カスプトラップ中への反陽子と陽電子の輸送、及び、蓄積は、それぞれ第4章と第5章にまとめられている。第6章においては反水素の大量生成の実現のための具体的手続きとその結果が詳述されており、第7章で全体のまとめをしている。

反水素は2002年に一様磁場中での大量合成が報告され、それ以来、磁気瓶への捕捉とその中でのレーザー分光を目指した研究が活発に展開されてきた。しかし、磁気瓶は非常に強い磁場勾配をもっており、そのため遷移準位は強い摂動を受ける。つまり、磁気瓶を用いた手法はレーザー分光の分解能を原理的に制限するという大きな問題を抱えていることになる。また、現在実現できる磁気瓶(磁場差1T程度)では1K以下の極低温にある反水素しか捕捉することができず、捕捉効率も強く制限されてしまう。一方、本論文では、むしろ適切な磁場分布を持ったトラップ中で反水素を生成することで、反水素ビームを磁場のない領域へ効率的に引き出し、高分解能マイクロ波分光を実現するという、全く新しい視点から研究を展開している(第2章)。この手法においては合成される反水素の温度が極低温である必要はなく、従って、磁気瓶に捕捉する場合に比して利用可能な反水素が何桁も多くなり、大変効率的であるといえる。このような特長を持つカスプトラップであるが、実際に反水素を生成できるか、どの程度の効率が実現できるかは未知のままであった。本論文提出者は、複雑に相関を持っているカスプトラップの多数のコンポーネントを信頼性高く構築し、極高真空(有効真空度10-13Torr)を実現して反陽子の蓄積寿命を数千秒と飛躍的に延ばし、また、反水素生成に決定的役割を果たす陽電子の冷却と動径方向圧縮を実現した(第3章~第5章)。こうした多方面に亘る開発研究によって反水素合成の実現に向けての課題を一つ一つ解決していったことは評価できる。第6章では反水素の合成のために反陽子と陽電子を閉じ込めている場所から離れた場所に強い電場を作り、その電場によって再解離された反陽子を検出することで反水素が合成されていることを明確に示し、反陽子から反水素への変換効率は最大で7%にも及ぶことを明らかにした。これはカスプ状不均一磁場中での反水素の生成を世界で初めて実現したものであり、その効率の高さと相まって高く評価できる。さらに、生成された反水素の主量子数分布や反水素生成率の時間変化を測定するなど、本研究は反水素を用いた分光実験にむけて大きく展望を開くものであると評価できる。

以上のように、本研究は、反水素ビームを生成するためのカスプトラップを開発し、カスプトラップ中における反水素の大量合成を世界で初めて実現したものである。この成功は、反水素ビームによる高分解能マイクロ波分光と言うこれまでにない研究手法に道を拓くものであり、高く評価できる。本研究は10数名の共同研究者と共に進められた中規模のグループによる共同研究であるが、実験装置の立ち上げ、実験の遂行、その後のデータ解析等、学位請求論文に記載された研究内容については論文提出者が主体的に進めたものと認められる。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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