学位論文要旨



No 126575
著者(漢字) 小菅,竜介
著者(英字)
著者(カナ) コスゲ,リュウスケ
標題(和) 市場志向構築のジレンマ
標題(洋)
報告番号 126575
報告番号 甲26575
学位授与日 2011.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第290号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 企業・市場専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,伸夫
 東京大学 教授 藤本,隆宏
 東京大学 教授 阿部,誠
 東京大学 教授 粕谷,誠
 東京大学 准教授 新宅,純二郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、顧客を中心に据えて事業を行うことを強調するマーケティング・コンセプト (Drucker, 1954) が日本企業においていかに実行されるのかを定量的・定性的に解き明かそうとするものである。論文は序章に続く第I部・第II部の計6章、そして結章から構成されている。

序章では研究の背景と目的を示した。マーケティング・コンセプトに関する経営理念は一般的に見られるものの、そうした理念をどのように実行すべきかは明らかでない。一方、こうした問題にアプローチするマーケティング分野における研究は、定量分析を志向した画一的フレームワークを使用するばかりで、限定的な洞察しかもたらしていない。本論文の目的は、そうした状況を克服することにある。

第I部では、マーケティング・コンセプトの実行に関する先行研究を批判的に検討するために、文献レビューを行った上で、それにもとづいて定量的分析を行う。

第1章ではマーケティング・コンセプトの実行というテーマから派生した「顧客志向」に関する研究 (e.g., Saxe & Weitz, 1982)と「市場志向」に関する研究 (e.g., Kohli & Jaworski, 1990; Narver & Slater, 1990) のレビューを行った。前者は組織の前線における従業員の販売行動を自己評価を通じて測定する一方、後者は事業単位などの組織文化をマネジャーの評価を通じて測定する。分析単位が異なることから、両研究の間にはほとんど接点がない。しかし、構成概念の測定においては測定対象と調査対象を独立に設計可能だという点に着目すると、販売・サービス組織におけるマーケティング・コンセプトの実行をとらえる方法として、(1) 認知ベースの組織文化論 (Smircich, 1983)に依拠し、従業員の認知としての顧客志向を集計する方法と、(2) 組織風土論 (James & Jones, 1974)に依拠し、組織の市場対応に関する従業員の認知を集計する方法を考えることができる。

第2章では、同一の大手金融グループに属するリテール企業のA社とホールセール企業のB社の従業員を対象とする質問票調査にもとづいて、従業員の認知としての顧客志向を集計する方法を試みた。分析では、B社の従業員のうち、顧客接触を行っている従業員はA社の従業員と同水準の顧客志向を示す一方、顧客接触を行わない従業員は著しく顧客志向が弱いことが明らかになった。つまり、顧客志向は企業レベルの文化的要因というよりも、顧客接触という単純な状況要因に規定されることが示唆された。さらに、共分散構造分析の結果、顧客接触は顧客志向を生みだすだけでなく、顧客志向を経由して能動的な職務志向にも正の働きを及ぼすという関係が見いだされた。これは組織における顧客接触の重要性を示唆するものである。

第3章では、変革途上にあるトヨタ系自動車ディーラーK社の51店舗を分析対象として、動態的な文脈において、組織の市場対応に関する従業員の認知に注目する方法を試みた。具体的には、営業スタッフの回答を用いる方法と、先行研究で用いられているような管理者(店長・副店長)の回答を用いる方法を、客観的業績との関係において比較した。分析の結果、合成変数として求められる市場志向得点については、営業スタッフ回答と管理者回回答の相関が低いことが示された。しかも、営業スタッフ回答については、一人当たり売上高との間で有意な正の相関が見いだされたものの(事実発見1)、管理者回答については客観的業績指標との間に有意な相関は見いだされなかった。次に、管理者回答では個々の項目の個別性が強かったことから、それら計35変数の段階で重回帰分析の変数選択を行うと、特に利益達成率を効率良く説明できる回帰モデルが得られた。ただし、そのうち3変数の偏回帰係数は負であることが明らかになった(事実発見2)。

第II部では、第I部における事実発見の要因を検討するために、K社の変革に関する詳細なケース・スタディを行う。

第4章では、製版同盟や自動車流通に関する文献を参照しながら、K社で行われた変革の文脈を明らかにした。流通系列化が多くの業界で崩壊していく中で、自動車業界でもそのような動きが見られると予想された。しかし、これまでのところそうした動向は見られない。そうした事実の背景には、メーカーとディーラーは受注生産の高度化を通じて需給調整機能を向上させてきたという事情がある (塩地, 2009)。すなわち、トヨタのオーダーエントリーシステムの精緻化 (岡本, 1995)に見られるように、自動車業界では一貫して、不確実性へ対処するために、予測・計画にもとづく「投機」から実需対応・同期化にもとづく「延期」へのシフトが図られてきたのである。市場需要が縮小傾向で、しかも不確実性が増す中、メーカーとディーラーの緊密な連携はますます重要になるが、その関係の性質には変化も生じようとしている。ディーラーとしては、メーカーとの関係に依存して新車販売台数を追求する経営から、既存顧客をリピーター化していくような質重視の自立的経営を確立することが求められているのである。

第5章では、K社が2001年から2007年の質問票調査時、そして、2010年現在に至るまで推進している変革に関する記述的ケース・スタディを示した。まず、K社がどのような変化を意図し、また、そのために具体的にどのような施策を展開しようとしたのかを記述した。その上で、店舗現場における反応を中心に、時系列で変革の過程を整理した。端的に、K社が目指したのは市場環境の変化に適応し、顧客をリピーター化することで、そのために、訪問営業にもとづく押し込み型総当たり・一律対応から、店舗ベース営業にもとづく引きこみ型個別対応への転換が図られた。具体的には、営業とサービスに、チーム志向・プロセス志向を基調とする新しいプロセスが導入された。しかし、特に営業においては、変革から5年以上経った2007年の質問票調査時点においても、一部の店舗を除きプロセスの達成度は十分に向上していないことが明らかになった。その一方、2010年にかけては全社的な達成度の底上げも見られた。

第6章では、第5章の記述を前提として、K社の変革で見られた動態的な現象を検討した。まず、3つの成功店における実践の内容とその結果を整理した。そこで明らかになるのは、時間をかけてチーム志向・プロセス志向が営業スタッフの間で受容されると、プロセスの改善が駆動され、それを通じて業績も上昇するということである。これは第3章の事実発見1とも整合的であり、そのメカニズムを示唆すると考えられるため、再分析を行った。改善を組織風土として変数化し、営業スタッフ回答にもとづく市場志向の組織風土と業績の間の媒介変数として導入し、パス解析を行ったところ、確かにそのようなモデルの妥当性が示唆された。次に、全般的に達成度の向上がなかなか見られなかったのは、チーム志向・プロセス志向の認知的な受容が進まなかったことによるものととらえ、自己概念の観点から検討を行った。特に2名の営業スタッフのデータを用いたエスノグラフィックな分析から、チーム志向・プロセス志向の受容は、一匹オオカミとして独自の方法で結果を出していくことに伴う自己決定の感覚、独自性の感覚、そして自己高揚の感覚を脅かすことを示した。結局、個人主義的な営業スタイルの下で業績を上げてきたという成功体験のために拒絶反応が生じるというジレンマが見いだされるわけである。これは3つの市場志向項目と利益達成率の間に負の関係があることを示す第3章の事実発見2と整合的である。つまり、業績の維持がチーム志向・プロセス志向の完全な受容を阻害すると解釈できるのである。一方、この時、自己概念のベースが異なる世代の台頭または実践を通じて既成の自己概念と折り合いをつける者の増加を通じて、全社的にチーム志向・プロセス志向の受容が徐々に進もうとしていたことも示唆された。

結章では、論文全体の要約を行うとともに、インプリケーション、研究の限界と今後の課題を提示した。本論文の貢献は、マーケティング・コンセプトの実行における従業員の心理・認知の重要性を明らかにした点にある。組織がマーケティング・コンセプトを実行しようとした場合、従業員が新しい働き方を認知的に受容できるかがプロセス改善、そして業績向上のカギとなる。したがって、測定に関しては、マネジャーを調査対象として「変数」としての組織文化をとらえる先行研究の方法よりも、むしろ従業員の認知に焦点を当てて組織風土の側面をとらえる方法に妥当性がある。マネジャーとしては、従業員の既成の自己概念を考慮に入れて、慎重かつ長期的なコミットメントにもとづいて対応を行う必要がある。今後の課題としては、結果の一般化可能性を高めるために、横断的な調査を行うことが考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

この論文は、顧客を中心に据えて事業を行うマーケティング・コンセプトが、日本の企業でいかに実行されてきたかを定量的な分析とケース・スタディによって解き明かそうとするものである。

本論文の構成は次のようになっている。

序章研究の背景と目的

第I部 先行研究の批判的再検討

第1章顧客志向・市場志向に関する先行研究のレビュー

第2章顧客接触と顧客志向

第3章動態的な文脈における市場志向と客観的業績

第II部 市場志向のリアリティ

第4章日本の自動車ディーラーが直面する環境変化

第5章K社における変革のケース

第6章K社が直面したジレンマ

結章要約と考察

各章の内容の要約・紹介

各章の内容を要約・紹介すると次のようになる。

第I部では、マーケティング・コンセプトの測定の問題が扱われる。

第1章は、先行研究のレビューであるが、頻繁に耳にする割には、その定義や測定尺度をあいまいにして議論されることが多い顧客志向・市場志向を、定義だけではなく、測定尺度の視点からも整理したユニークな文献レビューである。マーケティング・コンセプトに関しては、顧客志向研究では、個人の販売行動として顧客志向をとらえ、個人特性をSOCOと呼ばれる測定尺度を用いて自己評価で測定する。それに対して、市場志向研究では、市場志向を事業単位の組織文化としてとらえるものが多く、MKTORあるいはMARKORと呼ばれる二つの測定尺度を用いて、事業単位の組織特性をマネジャーが評価しているものが多いことが明らかにされる。その上で、本論文では、これまで空白域だった、組織特性としてのマーケティング・コンセプトを、個人を調査対象として測定することが企てられる。より具体的には、第2章で行われるように、個人の認知的な顧客志向を集計するという方法と、第3章で行われるように、組織の市場志向に関する個人の認知・知覚を集計するという方法がとられる。

第2章は、同一の大手金融グループに属するリテールのA社とホールセールのB社の2社を対象として質問票調査を行い、分析したものである。分析の結果、A社とB社では確かに顧客志向の程度は異なるのだが、ホールセールのB社でも顧客接触のある従業員はリテールのA社とほぼ同じ傾向を示し、顧客接触のないB社の従業員とは大きな違いがあることが明らかになった。つまり、企業レベルの文化的要因というよりも、顧客接触をしているかどうかという単純な状況要因に、顧客志向が規定されることが明らかになった。さらに、共分散構造分析の結果、企業においては、顧客接触を起点として、顧客志向の組織文化が生み出されると同時に、そこを経由して能動的な職務志向にも正の働きがあることを示唆している。

第3章では、自動車ディーラーK社の51店舗を対象として、管理者(店長・副店長)と営業スタッフを対象とした市場志向の質問票調査が行われる。第1章で整理した先行研究にもとづき、調査項目として市場志向に関するMKTOR全15項目とMARKOR全20項目が含まれている。その上で、管理者回答の市場志向と、営業スタッフ回答の市場志向を比較対照しながら、市場志向と客観的業績との関連性を検討している。ところが、市場志向のMKTOR、MARKORという合成変数レベルでは、管理者回答と営業スタッフ回答の相関が低いということがわかった。しかも、営業スタッフ回答のMKTORについては、一人当たり売上高との間で有意な正の相関があった【事実発見1】が、それ以外の組合せでは、客観的業績指標との間には有意な相関は見出されなかったのである。そこで、有意な相関が見出されなかった管理者回答について、MKTOR、MARKORという合成変数ではなく、合成する前の計35変数の段階で重回帰分析の変数選択を行うと、特に利益達成率については、わずか8変数で全分散の64%を説明できる回帰モデルが得られた。ただし、そのうち3変数の偏回帰係数は負であった【事実発見2】。こうした事実発見が生まれる理由を明らかにするために、第II部では、この章で調べたような市場志向と調査時点をはさんだ期間で行われていたK社の経営改革に関する詳細な事例研究が行われる。

第II部は、K社の経営改革に関する詳細な事例研究である。

まず第4章では、K社で経営改革が行われた時代的な背景が概観される。系列化された流通が色々な業界で崩壊していく中で、K社のような自動車ディーラーの業界では系列が堅持されていること。系列化の中で、メーカー依存の販売量の追求から、質の追求への流れがあることが紹介されている。さらに、日本の国内自動車市場が縮小傾向にある中で、自動車ディーラーの戦略も、従来のような新規顧客の開拓から既存顧客のリピーター化を目指す方向へと転換しつつあることも指摘されている。

第5章は、K社が2001年から全社的に推進してきた変革のケース・スタディである。第4章で整理したような時代的な背景の中で、この変革は、従来から行われてきた、訪問販売に基づく押し込み型の総当たり・一律対応から、店舗ベース営業に基づく引き込み型の個別対応への転換を目指すものであった。

しかし、第6章で詳述されるように、営業については、なかなか変革が浸透しなかった。それは新たに導入しようとしたチーム志向型のプロセスが、長年培われてきた営業マンの自己概念を脅かすために、ネガティブな反応を引き出していたからであった。そのため、従来、個人主義的な営業スタイルで業績を上げてきた店ほど、変革が目指したチーム志向の営業スタイルに拒否反応を示すというジレンマに陥ることになった。このことは、第3章の事実発見2のような関係とも整合性がある。しかし、ひとたび営業スタッフの間にチーム志向が定着すると、それは改善活動を促し、その改善活動を通して、一人当たりの売上高が上昇していく様子も分かってきた。つまり市場志向の組織風土と業績との間に間接的な因果関係があることを示しており、そのことは第3章の事実発見1のような傾向と整合性がある。

結章は、この論文のインプリケーションと残された研究課題である。

論文の評価

この論文の貢献は、マーケティング・コンセプトを、個人を調査対象として測定し、それと客観的な業績や改善活動との関係を調べたことにある。特に、K社の事例では、単なる測定だけにとどまらず、実際に参与観察するなどして、測定された数値の裏側にある事実関係や、調査時点の前後10年程度の時間的経過や経緯を詳細に調べることで、マーケティング・コンセプトの浸透の難しさや、それが引き起こす組織的な混乱と従業員のネガティブな反応などを明らかにすることで、従来、マーケティング分野では、測定のみが取り上げられ、一方的に無視されてきた政策実行プロセスの課題や問題点を明らかにしたことであろう。本論文の分析には、経営的なインプリケーションが豊富に含まれている。

もちろん、この論文にも問題点はある。まず本論文のタイトルになっている「市場志向構築のジレンマ」が本論文全体の内容を表しているものではなく、第6章のK社の事例研究から得られた一部の知見を指しているに過ぎないことが気にかかる。それは、K社に関する詳細な事例研究がもっている多面的で豊かな内容に比べて、市場志向やパフォーマンスの測定があまりにもシンプルだということの反映でもある。もし可能であれば、質問票を設計し直して、再度K社の質問票調査を行うことで、より説得力のある説明モデルを構築できたのではないかと思われるが、調査対象となっているK社側の問題もあり、今となっては困難であろう。また、第1章でマーケティング・コンセプトの測定尺度の整理・検討を行っているのであるから、そうした測定尺度の良し悪しを検証できるように、第2章、第3章で行われている質問票調査を調査設計できたようにも思われ、その点も悔やまれる。

しかし、これらの問題点を残すとはいえ、この論文が経営学分野においては重要な貢献をなす研究成果であることは疑いない。

なお第1章は『赤門マネジメント・レビュー』(Vol.6, No.7)、第2章は『組織科学』(Vol.40, No.2)、第5章の一部は『組織科学』(Vol.42, No.4)と、それぞれレフェリー誌に掲載されている。

以上により、審査委員は全員一致で本論文を博士(経済学)の学位授与に値するものであると判断した。

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