学位論文要旨



No 126576
著者(漢字) 石川,研
著者(英字)
著者(カナ) イシカワ,ケン
標題(和) 放送メディアの経済史 : 戦時・戦後のメディア統制から民間放送へ
標題(洋)
報告番号 126576
報告番号 甲26576
学位授与日 2011.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第291号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 岡,哲二
 東京大学 教授 谷本,雅之
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 教授 中村,尚史
内容要旨 要旨を表示する

1950年代半ばに始まる高度経済成長は内需拡大が支えた。そのメカニズムの起点となったのは機械工業であり,その発展の契機となった「家電の三種神器」に代表される耐久消費財の普及はいかにして実現したのか。耐久消費財の普及では製品価格が重要な要因となる。しかし,価格以外にも説明すべき要因が残されている。特に耐久消費財に備わる使用価値がいかなるものかを理解することは,その普及を説明するうえで重要である。

テレビ受像機に対象を限定して考えると,その使用価値はコンテンツの消費(視聴)であり,他の家庭用電化製品のように実用的なものではない。にもかかわらず,高度成長期に民衆が率先してテレビ受像機を求めたのは,それに優れた使用価値を見出したからに他ならない。この使用価値を規定するのはコンテンツの制作および配給を担う放送局である。特に広告収入を事業財源とする民間放送の展開は企業の広告宣伝活動と密接な関係にあり,大量生産を支える国内消費の動向を知るのに適した研究対象である。テレビ受像機の普及は民間放送がその媒体価値を確立する歩みであった。

民間放送は現代では新聞事業とともにマス・メディアの双璧をなす存在である。その成り立ちを歴史的に明らかにするには,満州事変に始まる戦時のメディア統制にまで遡ることとなる。そこで本論の課題は,高度経済成長の内需拡大に寄与したテレビ受像機の普及を説明するうえでコンテンツの消費という使用価値の視点が重要であることを主張するため,民間放送の担い手のあり方を規定した戦時・戦後のメディア事業を検討するとともに,コンテンツ制作および配給システムが既存のメディア事業の利害を包摂しながら実現したことを明らかにすることにある。

満州事変後,日本の軍部は占領地域の電気通信施設の復旧調査に着手した。満州国建国後はその事業主体として満州電信電話株式会社(MTT)が設立され,同社が放送事業を兼営した。MTTでは放送網を整備拡充して民族構成に応じた二重放送を実施したが,国土の大半を占める農村部への放送普及策は十分に機能せず,聴取者層は都市部にとどまるという限界を示し,その事業内容は収益性を無視したものであった。MTTの放送事業では,放送広告業務が戦後の民間放送との関連で注目されるが,その業務を事業全体のなかで検討すると,独自の組織を維持できず,時局の悪化のなかで業務が形骸化したことが判明する。

戦後の民間放送が起業化で求めた職能は放送広告に止まらず,放送運営全般にわたる職能であった。その職能はアナウンサー,放送機器の操作,番組編成,番組制作,営業など多岐にわたる。スタッフには未経験者の採用とともに,彼らを指導する実務経験者が求められた。そのなかで目立った存在だったのがMTT出身者であり,彼らはそれぞれの職能を発揮する機会を求めて民間放送に参画した。民間放送ではMTT出身者を多様な職能からなる人的資源と認識した。彼らは民間放送の「下からの担い手」を代表する存在であった。しかし,戦後に継承されたMTTの経験なかに,放送広告は業務が形骸化したため,大きな比重を占めるに至らなかった。このMTTの経験から十分に継承しえなかった広告取引に関する経験を補完したのが日本電報通信社(電通)であった。戦後の民間放送の起業化のなかで電通が大きな役割を担う理由がここにある。

一方,日本内地では満州事変によってその後のメディア事業に大きな影響をもたらす電連合併が実現し,同盟通信社(同盟)が成立した。このことは民間放送の実現に至るメディア事業の展開の画期となった。同盟は事業基盤を地方紙に求め,地方紙育成策をとった。そして,政府の戦時統制に積極的に関与して,戦後の新聞事業の原型となる一県一紙体制の実現に大きな役割を果たした。こうした戦時のメディア統制のなかで,電通は電連合併によって広告専業となり,同盟との密接な関係を背景に広告代理業の整理統合を推進して事業基盤を強化した。

アジア太平洋戦争が日本の敗戦に帰したことは,同盟を自発的解散に追い込む契機となった。同盟は解散にあたって事業を継承する新通信社の設立を画策するとともに,清算事務のなかで電連合併以来の電通との関係を維持する枠組を設計し,電通の広告専業を既定方針とした。電通は政府の民間放送計画への参画を踏まえ,戦後の経営目標に民間放送の実現を掲げて経営資源を投入していった。このことは広告専業を既定方針とする資本関係の利害と整合的であった。そして電通の民間放送への関与は,その担い手のあり方を規定することとなった。

戦後変革の一環として行われた放送制度改革は民間放送を認めた。民間放送の置局方針ではその人的資本的構成が地域に密着していることが重視された。電通は自身の計画を置局方針に即して修正するとともに,新聞社を民間放送の担い手とすべく開設を支援した。電通は民間放送の地域性を戦時のメディア統制で確立した地方紙の事業基盤に期待したのである。彼らも戦後の統制解除後に本格化する中央紙との競争再開にむけて民間放送を重要な補完事業と認識した。電通が媒介となり,戦時・戦後のメディア統制で成立した新聞社が民間放送(ラジオ)の「上からの担い手」となったのである。こうして実現した民間放送はテレビ放送が始まると,ラジオ放送の経営実績に基づく兼営のメリットを主張して競願申請を制し,民放テレビの全国展開と多局化の起点となった。

日本でのテレビ放送は1953年に関東地区で始まった。その後,政府の置局政策にしたがい普及の重点地区となる7基幹地区を起点として全国でテレビ局の開設が進んだ。1957年の全国一斉免許はテレビ放送の全国展開の画期となり,現在のテレビ事業の原型がこのとき出来あがった。

テレビ放送の全国展開は,地域免許である民間放送の間に固有の取引関係を生み出した。テレビ放送のコンテンツ制作にはラジオ放送をはるかに上回る制作費と設備が必要となる。そのため,コンテンツ制作能力は関東地区のテレビ局に集中した。コンテンツ取引はコンテンツ制作を負担するキー局を起点に進展することとなった。しかし,当初,キー局でもコンテンツ制作能力が十分でなかったため,このことが放送時間を規定することとなった。テレビ事業では国内スタジオ(国内大手映画制作会社)に協力を要請し,上映済みのコンテンツの提供を受けた。しかし,急成長するテレビ放送が無視できない存在となり,国内スタジオはテレビ事業に対してコンテンツの提供を拒否するようになった。これを契機にテレビ事業はコンテンツの輸入を積極的に進めることとなった。

輸入コンテンツは初期のテレビ事業のコンテンツ制作能力を補完したばかりか,その内容が視聴者を惹きつけたことでテレビ受像機の使用価値を高める効果を果たした。この輸入コンテンツの利用を支えた制度的枠組がテレビ用外貨割当であった。テレビ用外貨割当は,テレビ事業が高いクオリティーの輸入コンテンツを低コストで使用することを可能にしたのである。このことはコンテンツ制作能力が十分でない段階からテレビ局が視聴者の要望に応えるコンテンツを提供したことを意味した。ここに価格以外の要因でテレビ受像機の普及を説明するコンテンツの意義を認めることができる。輸入コンテンツはテレビ受像機の使用価値を規定することで,その需要喚起に貢献したのである。

1960年代に入って輸入自由化の気運が高まるなかで,国内でのコンテンツ制作システムが国内スタジオを巻き込みながら整備された。そして1960年代半ばには民放テレビの主力コンテンツに国産コンテンツが占めるようになった。このことはスポンサーの国産コンテンツに対する認識の変化を反映したものであった。

一方,コンテンツ制作システムの整備に合わせて,その配給システムの構築も進んだ。民間放送ではローカル局がコンテンツ取引のコアとなるネット関係を特定キー局との間で決定し,長期相対的な連携を強めていったが,それは初期の制度的技術的要因に強く制約された。制度的枠組は置局数の地域格差を引き起こし,マイクロ回線の供給制約がコンテンツ取引の中心となるネット関係のあり方を規定した。ローカル局の多くは競合局の影響を受けながら,先発キー局との間にネット関係を締結していった。このことは後発キー局のコンテンツ取引の障害となったが,彼らは放送休止時間を開発することでネット関係の劣勢を補完し,コンテンツ取引を拡大した。

コンテンツ取引の進展は定時放送の拡大を促し,1960年代半ばに放送休止時間のない全日放送が達成された。全国放送および全日放送の実現は,映画産業や広告主などの利害を巻き込みながら整備されたコンテンツ制作システムに裏付けられたものだった。ここに民放テレビはマス・メディアとしての媒体価値を確立したことになる。このことはテレビ広告が新聞広告と並び企業の広告宣伝活動に定着したことを意味した。

こうしたコンテンツ制作および配給システムのあり方こそがテレビ受像機の使用価値を規定し,その普及を支えたのである。しかし,全日放送の達成によってコンテンツ取引のダイナミズムが失われると,コンテンツ取引に内在する利害が顕在化することとなった。1964年10月に起こったテレビ西日本がネット関係を変更した事態は,その契機が資本関係にある新聞社の利害にあったが,その結果を見ると,民放テレビがマス・メディアとしての媒体価値を確立し,制度的枠組を見直す新たな段階に達したことを示している。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「高度経済成長の内需拡大に寄与したテレビ受像機の普及を説明するうえでコンテンツの消費という使用価値の視点が重要であることを主張するため、民間放送の担い手のあり方を規定した戦時・戦後のメディア事業を検討するとともに、コンテンツ制作および配給システムが既存のメディア事業の利害を包摂しながら実現したことを明らかにすること」を課題としている。

あらかじめ構成を示すと、以下の通り。

はじめに

第1部 民間放送(ラジオ)-戦前の経験と継承-

第1章 満州国の放送事業-満州電信電話株式会社の実態と経験の継承-

第2章 戦時・戦後期のメディア統制と民間放送―電通の広告専業化を中心に―

第2部 民間放送(テレビ)-媒体価値の形成-

第3章 テレビ放送の制度基盤の整備

第4章 コンテンツ制作システムの整備

第5章 コンテンツ配給システムの形成

おわりに

まず本論文の構成に従って主要な論点とこれについての著者の貢献を明らかにし、その上で審査委員会の評価を記すこととしたい。

本論文の「はじめに」において、著者は、「『家電の三種の神器』に代表される耐久消費財の普及はいかにして実現したのか」という疑問から出発し、その際に製品価格が重要な要因となることを認めた上で、それだけでなく、「耐久消費財に備わる使用価値」が「その普及を説明するうえで重要」であるとの視点から、テレビ受像機についてみた場合には、その使用価値を決定づけるのが放送番組の内容(コンテンツ)にあるとの問題意識に沿って、上述の研究課題が設定されていることを明らかにする。そこでは、民間放送が広告収入を事業財源としていること、そのために広告主を見出しうるような良質で視聴率の高いコンテンツが求められること、従って、民間事業としての成立の基盤にはコンテンツの選択と制作が極めて重要な意義を持つと考えられている。

続く第1章「満州国の放送事業」では、満州事変後、日本の軍部による占領地域の電気通信施設の復旧調査を起点に、満州国建国後にはその事業主体として満州電信電話株式会社(MTT)が設立され、同社が放送事業を兼営したことに注目し、民族構成に応じた二重放送を実施したこと、また、広告収入が重要な事業財源と想定されていたことが指摘される。もっとも、二重放送の展開は十分ではなく、また、放送網を整備拡充したとはいえ、農村部への放送普及策は適切な放送内容が選択されなかったために十分には機能せず、聴取者層は都市部にとどまったこと、広告収入による財源確保も統制の拡大の中で形骸化したことなどの点でその事業展開には限界があった。

著者がこのような限界をもつMTTの放送事業に注目するのは、放送広告業務が戦後の民間放送との関連で注目されるだけでなく、戦後の民間放送の起業過程で必要となるさまざまな放送運営全般にわたる職能(アナウンサー、放送機器の操作、番組編成、番組制作、営業など)の経験者を生んだことにあった。

この継承関係に係わって、第2章「戦時・戦後期のメディア統制と民間放送」では、このような経験者を積極的に採用してプールし、人材として供給することになった日本電報通信社(電通)の役割に注目する。電通はまた、MTTが十分な経験を積み得なかった広告事業についてのノウハウを提供することによっても民間放送の形成に重要な役割を果たした。それだけでなく、広告専業の企業としての地位を確立していく過程にさかのぼると、戦時から戦後にかけてのメディア統制の展開のなかで作り上げられた「一県一紙体制」という戦後の新聞事業のあり方にも電通は深く関わっていたこと、そして、そこで誕生する地方ごとの新聞社が各地域での民間放送の担い手となることなどが、重視される。すなわち、広告専業企業となった電通は、政府の民間放送計画への参画を踏まえ、戦後の経営目標に民間放送の実現を掲げて経営資源を投入していったのであり、その過程で上述のようなMTT出身者を集め、各地域の放送事業計画に人材等を供給する役割を果たしたとされる。

続く、第3章「テレビ放送の制度基盤の整備」では、テレビ放送の全国的な展開の基盤となった制度的な枠組み設計がいかなる方針で進められたかが明らかにされる。それによると、民間放送の置局方針ではその人的資本的構成が地域に密着していることが重視されたこと、これに対応して、各地の新聞社が、戦後の統制解除後に本格化すると予想された中央紙との競争再開にむけて、民間放送を重要な補完事業と認識していたこと、電通が新聞社を民間放送の担い手とすべく開設を支援したことが指摘されている。こうして実現した民間放送はテレビ放送が始まると、ラジオ放送の経営実績に基づく兼営のメリットを主張して競願申請を行い、民放テレビの全国展開と多局化の起点となったという。

第4章「コンテンツ制作システムの整備」では、1953年に関東地区で始まったテレビ放送が、その後、政府の置局政策にしたがい普及の重点地区となる7基幹地区を起点として全国的なテレビ局の開設に結実したこと、その過程で地域免許である民間放送の間に固有の取引関係を生むことを通して全国的なテレビ網が形成されていくことが示される。著者がこの過程で注目しているのは、テレビ放送のコンテンツ制作には多額の制作費と設備が必要となるため、このコンテンツ制作能力が関東地区のテレビ局に集中したことである。この条件のために発生するコンテンツ取引関係が、制作能力をもつキー局と地方局との関係を規定することになった。

もっとも、制作を担うべきキー局といえどもコンテンツ制作能力は十分でなかったため、国内スタジオ(国内大手映画制作会社)に協力を要請し、上映済みのコンテンツの提供を受けた。しかし、急成長するテレビ放送が無視できない存在になるにつれ、国内スタジオはテレビ局へのコンテンツ提供を拒否するようになったため、これをきっかけにテレビ事業ではコンテンツの輸入が積極的に進められることとなった。

こうした始まった輸入コンテンツの活用は、初期のテレビ事業の制作能力不足を補完したばかりか、その内容が視聴者を惹きつけたことでテレビ受像機の使用価値を高める効果を果たした。この輸入コンテンツの利用を支えた制度的枠組がテレビ用外貨割当であり、高いクオリティーの輸入コンテンツを低コストで使用できるようにすることで、視聴者の要望に応える番組編成が実現した。ここに、テレビ受像機の普及を説明する要因の一つがあると考えられている。

第5章「コンテンツ配給システムの形成」では、こうして提供されることになった良質のコンテンツについて、その配給システムの構築過程が検討される。そこでは、マイクロ回線の供給制約などの技術的な条件もあって、地方局がコンテンツ取引のコアとなるネット関係を特定キー局との間で決定する自主性を有していたこと、そのため地方局に有利な条件下で長期相対的な連携が強められたこと、そうして作り出される連携関係に基づいて、1960年代半ばに放送休止時間のない全日放送が達成され、民放テレビがマス・メディアとしての媒体価値を確立したとされている。

本論文は、放送メディアという経済史の研究では手薄であった対象領域に踏み込んで、限られた資料を駆使しながら「戦前から戦後の経験の継承」に注目しつつ、高度成長期のテレビ事業の隆盛の要因に迫ろうとしたところに特徴がある。

口述試験によって明らかになったことであるが、放送事業に係わる企業の情報の開示が十分でないために、その企業活動の実態に迫ることは資料的な困難が伴う。そうした中で、社史や業界の資料を発掘し、これをもとに自らの関心に従って、独自の主張を展開したことは評価に値しよう。なかでも、MTTの事業内容に関する事実発見、民間放送事業の形成過程で果たした電通の役割、テレビ事業を支えるコンテンツ制作に関する国内スタジオとの関係の変化、輸入コンテンツの役割の大きさ、ネットワーク形成過程での地方局の対応の自主性などを指摘したことは、メディア事業の経済史分析という未開拓の研究分野に挑戦した本論文の貢献とみることができる。

そのような評価の反面で、本論文では十分な論証が尽くされていない論点が残っていることを指摘しなければならない。資料的な限界があることは承知した上でもなお、第一に、著者が強調する「使用価値」という視点が、テレビ受像器の普及を説明する要因の一つであることが十分に論証されたとはいいがたい。初期のコンテンツを特徴づける輸入コンテンツが良質な作品群であるが故に、視聴者の要求に応えうるものであり、それを「見たいという要求がテレビの購入の動機となった」というのであれば、この点について、もう少し立ち入った検討が必要と思われる。第二に、戦前との継承関係についても、このような視点から見たときには、番組内容の如何が普及(この場合はラジオ放送であるが)の鍵を握るというような経験の戦前から戦後への継承が探求されるべきだろう。しかし、本論文で戦前の経験として重視されるのは広告であり、その媒体としての戦後のテレビの位置については、いくつかのナショナルブランドを持つ企業の広告戦略との関係がふれられるだけである。第三に、そうした広告主からの収入が事業収入としてどのような意味を持ったのか、あるいは、地方局との連携関係の形成にどのような影響を与えたのかを論ずる必要もあるだろう。第四に事業遂行能力という意味での経験の蓄積という点では、国内の放送事業の担い手であったNHKの果たした役割にも注意を払う必要があろう。また、当初の政府による置局方針が地域性を重視した理由についても、論ずべき点は残っているように思われる。これらの諸点は、今後の著者の研究にとって明らかにすべき検討課題であろう。

しかしながら、このような問題点があるとはいえ、本論文に示された実証的な研究成果と、それらを独自な視点から再構成したことは、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を持っていることを明らかにしている。従って審査委員会は、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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