学位論文要旨



No 126580
著者(漢字) 大宮,朋子
著者(英字)
著者(カナ) オオミヤ,トモコ
標題(和) HIV感染者の病いある人生と就労における困難ならびにSense of Coherenceの高い人たちに特徴的な遭遇環境と対処経験
標題(洋)
報告番号 126580
報告番号 甲26580
学位授与日 2011.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第3576号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 島津,明人
 東京大学 教授 神馬,征峰
 東京大学 教授 岩本,愛吉
 東京大学 講師 児玉,聡
 東京大学 講師 永田,智子
内容要旨 要旨を表示する

【背景・目的】世界的にHIV感染者は減少しているが、日本では増加の一途を辿っている。日本は1980年代~1990年代前半において血友病患者の薬害感染が中心だったが、1990年代後半から男性同性間感染者がHIV感染者の大多数を占めるようになった。さらに、20代から40代という職業的キャリア発達において重要な時期に感染判明することが我が国の特徴である。

HAART導入に伴い、HIVは慢性的な経過をたどる病いへと変わり、服薬を続けることでほぼ通常の社会生活を送ることが出来るようになった。社会生活での視点として、特に成人期の重要な発達課題とされる就労が注目されている。就労は収入を得て療養生活を送り、社会関係を築くことでQOLやメンタルヘルス向上を促す。さらに、成人としての役割を果たす、自分の価値を見出すなど、人としての尊厳や存在価値にとって極めて重要な意味を持つ。海外の研究は主に長期間離職者やAIDS発症者を対象とし、就労開始や継続へのバリアは明らかにされつつあるが、慢性期にある者を対象とした研究は極めて少ない。我が国におけるHIV感染者の就労関連の調査報告は極めて少なく、また実態報告にとどまっている。また、職場における被差別経験とメンタルヘルスとの関連性といった詳細な分析はなされていない。さらに、バリアや困難を明らかにすることとともに、HIV感染者の就労生活・人生の質(Quality of Working Life :QWL)を向上させるための労働職場環境・条件を明らかにする、健康生成論的なアプローチも重要だがそのような研究はみられない。

また、HIV感染者は療養生活上の問題とともに、スティグマを貼られることに関連する高度にストレスフルな問題に対処していかなければならない。しかし職場等で生じる問題に対し、彼らがどのように対処してきたのかは殆ど明らかにされていない。アントノフスキーが提唱するSense of Coherence(以下SOC)は、ストレス対処能力と言われ、ストレッサーに対して成功的対処へと対処資源を動員する力である。SOCの強い人に特徴的な経験や対処を記述することは、健康生成論的アプローチの観点から、HIV感染者における成功的対処の姿を描くことになる。SOCの強い人と弱い人を比較し、SOCの強い人に特有の対処の在り方というものが、どのような知恵や工夫なのかを具体的に示すことは、HIV感染者への支援において極めて有用な示唆を得ることが出来ると考えられる。そこで、【研究1】では、我が国のHIV感染者の就労状況を、感染者全体の分析並びに就労者・非就労者の比較を行うことにより概観し、就労しているHIV感染者のQOLに影響を及ぼしていると考えられる労働職場環境や条件について、メンタルヘルスを指標として明らかにすることを目的とする。研究1で明らかになった点を踏まえ、【研究2】において、HIV感染者の就労をはじめとする病いある人生における困難と、それに対する対処の経験を具体的に明らかにするとともに、SOCの低い人には見られず高い人にのみ特有の対処の経験を詳細に描き出すことを目的とする。以上より、患者の支援への示唆を得ることとする。

【研究1】<対象と方法>社会福祉法人はばたき福祉事業団が実施主体となり、国内のエイズ治療ブロック拠点病院等を受診している日本人成人HIV感染者2000名を対象に行った調査研究データの二次分析を行った。配票・回収時期は2008年8月から2009年1月、1199名(回収率60%)から回答を得た。分析に用いた変数は、属性・特性、HIV感染に係る健康状態、現在の就労の有無と感染に関する離職経験、精神健康HADS、就労者には労働職場環境、self-stigma等である。対象者全体の分析を行うとともに、対象者を就労者(常勤・非常勤・自営)と非就労者(求職者、退職者、主婦/主夫、学生等)に分け群間比較を行った。連続データはt検定、クロス表の検定にはχ2検定を行った。さらに、HADSを従属変数とした重回帰分析を行い、各変数とHADSとの関連要因を検討した。分析にはSPSSver.17.0を用いた。

<結果>分析の結果、就労者より非就労者において、女性が多く、学歴が低く、世帯収入が少なく、性感染以外で感染した者が多く、CD4細胞数が少なく、AIDS発症歴・合併症・血友病のある者が多く、感染による失業を経験した者が多く、主観的健康観が悪く、精神健康が良くなかった。重回帰分析の結果、感染者全体では、精神健康HADSの悪化と関連を示したのは、世帯収入が200万円未満であること(p<0.001)、合併症があること(p=0.001)、感染判明から1年以上経過していること(1年以上p=0.025, 6年以上p=0.001)、現在就労していないこと(p<0.001)、感染による失業を経験していること(p=0.043)であり、精神健康の良好さと関連を示したのは、CD4細胞数が200~500個/μl未満(p=0.012)、500/μl以上(p=0.001)であった。就労者においては、self-stigmaと労働職環境に関する3つの変数(労働職場環境の良好さ、職場における通院・服薬困難、職場でHIV感染が知られることに対する不安)がHADSに対して強い影響力を持つ(p<0.001)ことが示された。

<小括>就労者に比べ非就労者は、身体的・社会的・心理的に厳しい状態にあり、HIV感染によって一旦就労を中断すると再就労出来ない可能性が考えられた。重回帰分析の結果、感染判明から1年以上経過していることと精神健康の悪化とに有意な関係があった。これは、HIV感染者は職業キャリアの中断や停滞が生じる可能性や合併症・新たな副作用などに対するHIV特有の長期不安がある可能性が考えられる。また、本研究では因果は特定できないが、先行研究(縦断研究)から我が国のHIV感染者においても就労していることが精神健康に良い影響を与えると解釈できる可能性が示され、就労がHIV感染者にとって重要な意味を持つことが示されたと考えられる。就労者においてself-stigmaや労働職場環境に関する要因が精神健康において重要であることが確認され、これらの点は面接調査の分析の視点として活かすこととした。

【研究2】<対象と方法>就労経験のある日本人成人のHIV感染者40名を対象に、面接調査を行った。対象者は、東京にある専門病院を外来受診中の患者を中心に、NPO法人も含めて多様性を考慮して選定した。分析はLofland&Loflandの手法を中心として行った。面接に要した時間は35分~約2時間であった。SOCは面接の後回答してもらい、中央値や先行研究から、SOCを高群・中群・低群に分け、中群をレファレンスとして高群・低群間を比較して分析を行った。

【結果・総合考察】全国調査データの分析結果、就労の有無によってHIV感染者が二分される可能性が示され、就労という社会的文脈に注目する必要性を確認できたと言える。また、就労者において、精神健康との関連からself-stigmaと労働職場環境要因に注目する重要性が定量的に示され、就労者支援へのアウトラインを提示することができたと考えられた。

面接調査の分析結果、HIV感染者は、身体・社会・自己の非常に広い領域において困難が存在し、それらは時期によって出現・増大・漸減が存在する可能性が示され、介入時期への示唆になると思われた。研究1と2において療養生活が長期に及ぶことで生じる不安uncertaintyが示された。体調が安定した時期でも患者は不安を抱えていることを支援者は理解する必要がある。

SOC低群だけが、【病名で社会から切り捨てられる】といった直接的なスティグマを語っており、スティグマ経験がSOCを深く傷つける可能性があることがHIV感染者において初めて示された。本研究における直接的なスティグマは、医療と障害枠就労の職場において経験されている。感染者にとって安心を期待できる場所でスティグマを経験することは、彼らに当惑と無力感を呼び起こすと思われる。また、職場でのスティグマは居場所を失うことを意味する。このような経験をした者のケアが急務であるのと同時に、差別偏見に対して公的機関から厳しく指導するシステム整備や社員教育の充実が求められる。

SOC高群の者は職場環境や条件に恵まれていた。彼らが遭遇した環境は、信頼する他者に恵まれるといった安心の感覚(sense of security)が得られ、さらに福利厚生に恵まれ、将来の見通しが得られるといった【仕事に関する一貫性が保持できる】ものであった。【仕事の一貫性が保持できる】ことは、SOCの下位概念のひとつである把握可能感に欠かせない職務保証を示していると思われ、仕事をしながら無理なく療養出来る職場風土、福利厚生制度や職場の理解促進が産業保健の視点から重要だと思われた。

遭遇環境に恵まれない場合には、認知的・行動的対処をいかにとっていくかが鍵となった。例えば、【感染や関連する出来事をニュートラルに捉え】、彼らは冷静なものの見方によって混沌から秩序を見出そうとし、【大切なことの境界ラインを現実とすり合わせて変化させ】、把握可能でも処理可能でもなくなったことを人生の重要領域外に持っていくという認知的対処を行っていた。また、SOC低群が例えば恋人やパートナーを得ることを最初から諦めていたのに対し、高群は【不確実かつ困難なことにめげない】といった姿勢で【とにかくやってみようと考え行動】し、その結果としてうまくいかなかったとしても、結果には自分の意思と行動が反映されていることから、彼らは自分の判断を有意味だと捉えていたと考えられる。そして遭遇環境に恵まれ、あるいは対処を行うことによって彼らは【感染してしまったものは仕方がないと腹をくくる】【自分の人生を生き抜く覚悟を持つ】という心境に至っていた。SOC低群の者が「感染させられた被害者」という意識を強く持っていたこととは対照的に、高群の者は感染を自分の責任として引き受けていた。このような具体的なものの見方、考え方が患者教育、介入や心理サポートへの示唆になる可能性があると思われる。限界として、研究1で用いた尺度のαの低さ、研究2対象者の大部分が大都市圏居住者であるということなどが挙げられることから、結果の一般化には慎重を要する。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、我が国のHIV感染者の就労と社会生活に着目し、【研究1】では、HIV感染者の全国調査データの二次分析を行い、HIV感染者全体の就労状況を把握するとともに、就労者と非就労者を比較しその違いを明らかにすることで、HIV感染者における就労の現状を概観した。また、就労しているHIV感染者のQOLに影響を及ぼしていると考えられる労働職場環境条件等について、精神健康を指標として明らかにした。【研究2】では【研究1】を踏まえて彼らの困難の詳細を明らかにするとともに、ストレス対処能力SOC(Sense of Coherence)を指標として彼らの成功的対処の姿を描くことを目的とし、以下の結果を得た。

【研究1】全国のエイズ治療ブロック拠点病院に通院する患者2000名に対する調査データの二次分析を行なった。就労者と非就労者の属性・特性の違いの有無を検討し、就労者の精神健康に関連する要因を検討した結果、就労者に比べ非就労者は、身体的・社会的・心理的に厳しい状態にあり、HIV感染によって就労が中断すると再就労できない可能性が高いことが示された。重回帰分析の結果から、感染判明から1年以上経過していることと精神健康の悪化とに有意な関係があった。これは、HIV感染者は職業キャリアの中断や停滞が生じる可能性や合併症・新たな副作用などに対するHIV特有の長期不安がある可能性を示していると考えられる。また、本研究では因果は特定できないが、先行研究(縦断研究)から我が国のHIV感染者においても就労していることが精神健康に良い影響を与えると解釈できる可能性が示された。以上より就労がHIV感染者にとって重要な意味を持つことが示されたと考えられる。最後に就労者においてself-stigmaや労働職場環境に関する要因が精神健康において重要であることが確認された。

【研究2】就労経験のある日本人成人のHIV感染者40名を対象に、面接調査を行った。回答してもらったSOCスコアから対象者を高群・中群・低群に分け、主に高群の特徴に注目した分析を行いつつ、低群間との比較も随時行った。

HIV感染者は、身体・社会・自己の領域において幅広い困難が存在し、それらは時期によって出現・増大・漸減が存在する可能性が示され、介入時期へのヒントになると思われた。SOC低群においてのみ、【病名で社会から切り捨てられる】といった直接的なスティグマが語られており、スティグマ経験がSOCを深く傷つける可能性があることが初めて示された。このような経験をした者のケアが急務であるのと同時に、差別偏見に対して公的機関から厳しく指導するシステム整備や社員教育の充実が求められる。

SOC高群の者は職場環境や条件に恵まれており、彼らが遭遇した環境は、信頼する他者に恵まれるといった安心の感覚(sense of security)が得られ、さらに福利厚生に恵まれ、将来の見通しが得られるといった【仕事に関する一貫性が保持できる】ものであった。これはSOCの下位概念のひとつである把握可能感に欠かせない職務保証を示していると思われ、仕事をしながら無理なく療養出来る職場風土、福利厚生制度や職場の理解促進が産業保健の視点から重要だと考えられた。

遭遇環境に恵まれない場合には、認知的・行動的対処をいかに取っていくかが鍵となった。例えば、【感染や関連する出来事をニュートラルに捉え】、【大切なことの境界ラインを現実とすり合わせて変化させ】、把握可能でも処理可能でもなくなったことを人生の重要領域外に持っていくという認知的対処を行っていた。これらは、従来のストレスコーピングパターンの枠組みでは捉えきれないものである考えられた。また、SOC低群が行動を起こさず最初から色々なことを諦めていたのに対し、高群は【不確実かつ困難なことにめげない】といった姿勢で【とにかくやってみようと考え行動】し、その結果としてうまくいかなかったとしても、結果には自分の意思と行動が反映されていることから、彼らは自分の判断を有意味だと捉えていたと考えられる。そして遭遇環境に恵まれ、あるいは対処を行うことによって彼らは【感染してしまったものは仕方がないと腹をくくる】【自分の人生を生き抜く覚悟を持つ】という心境に至っていた。SOC低群の者が「感染させられた被害者」という意識を強く持っていたこととは対照的に、高群の者は感染を自分の責任として引き受けていた。このような具体的なものの見方、考え方が患者教育、介入や心理サポートへの示唆になる可能性があると考えられた。

以上、本論文は、我が国のHIV感染者の就労と社会生活に着目し、全国調査データの二次分析を行うことによって就労者の精神健康に関連する要因を初めて明らかにした。また、質的研究において、SOCの高低を基準に分析を行うことにより、感染者の幅広い困難の詳細を明らかにし、直接的なスティグマ経験がSOCを脅かす可能性について初めて明らかにした。さらに、SOCの高い人たちにが遭遇している環境と対処の経験の特徴を明らかにすることで、SOCを可視化し、具体的な支援への示唆を得ることができた。以上より、本論文は学位の授与に値するものと判断される。

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