学位論文要旨



No 126583
著者(漢字) 西井,志織
著者(英字)
著者(カナ) ニシイ,シオリ
標題(和) 特許発明の保護範囲の確定と出願経過
標題(洋)
報告番号 126583
報告番号 甲26583
学位授与日 2011.03.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第249号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中田,裕康
 東京大学 教授 大渕,哲也
 東京大学 教授 浅香,吉幹
 東京大学 教授 高原,明生
 東京大学 教授 水町,勇一郎
内容要旨 要旨を表示する

本稿は全4編から成り、第一編で問題意識を示す。第二編で日本判例・学説を把握した上で、第三編において米国・ドイツ・欧州特許条約・英国・オランダの順で外国法研究を行い、第四編で論文を総括する。

特許制度を導入したいずれの国においても、特許発明の保護範囲(日本特許法で言う「技術的範囲」)をどのように確定するのか、特に、確定に際しどの範囲の資料をどの程度考慮できるのかということは、侵害訴訟における重要な問題とされてきた。保護範囲が特許請求の範囲(いわゆる「クレーム」)に基づいて定められるべきことや、この際に明細書や図面が考慮されるということ自体については日本を含め世界的な一致を見ているが、それ以外の資料に関しては、各国間で共通の実務となっているわけではない。本稿は、その中でも出願経過の位置付けに着目するものである。

特許権の発生にとって出願及び審査という段階は極めて重要な意味を持つところ、この段階において大抵、出願人と特許庁との間で、出願に係る発明が特許要件を充たしている否かを巡り書面のやりとりがなされる。このような出願審査の過程を見ることにより、出願人が自らの発明をどのように定義していたか、また、出願人や審査官がその発明と先行技術との関係をどのように考えていたかを窺い知ることができる。1つ1つの書面だけでなく、書面の前後関係も、それらを知るのに役立つ情報を提供し得る。

現在、我が国の侵害訴訟では、文言侵害成否判断のためのクレーム解釈と均等論との2段階で、被疑侵害実施態様の技術的範囲への属否が判断されているところ、出願経過を、(1)クレーム用語の意味を明確にし、時に当該用語を限定解釈するために用いること、及び、(2) 均等論の適用を、当該実施態様が審査中に保護範囲から意識的に除外された等の理由で排斥するために用いることが一般的に行われており、学説によっても支持されている。このような実務の根拠や法的構成は、認識限度論、意識的限定、禁反言や信義則など様々であったが、最近の議論は「出願経過禁反言」の法理の名の下に一本化されつつあり、時に一般法の信義則・禁反言に特許法独自の事情を加味し、客観的な保護範囲確定それ自体に関わる法理として性質付ける試みが熱心に行われている。我が国における議論は従来から、権利者が侵害訴訟において、出願過程で特許庁に対して行った主張と異なる主張を行うことは許されないという価値判断の下でなされてきた。そして、出願経過の考慮を主張することは被疑侵害者の防御にとって重要であり、この考慮が第三者の法的安定性を害することはないと考えられている。

ところが、保護範囲確定の際に出願経過に上記のような役割を与えることも、また、上記のような価値判断自体も、世界的に共有されているわけでない。日本と大まかな点で類似する米国が脚光を浴び研究対象とされてきた一方で、欧州複数国を見渡す研究は欠如している。本稿は、主要国において、保護範囲確定の局面で出願経過がどのように位置付けられているかを明らかにし、その根拠や結論を相互比較することにより、日本判例・学説で当然視されている出願経過の位置付けを問い直す視座を獲得しようとするものである。なお、本稿のテーマには関連事項が多いため、各国における(1)保護範囲確定方法一般論、(2)歴史的変遷、(3)特許庁と裁判所との関係、(4)一般法上の信義則・禁反言、(5)類似法理の存否、(6)裁判制度一般の影響、(7)審査・補正実務に、必要に応じて留意している。

第二編では、我が国の法的状況の客観的把握を目的とした記述を行った。日本の「出願経過禁反言」の法理は、当事者から出願経過が持ち出されている大抵の場合に当てはまるいわば万能な法理であるために、かえって、出願経過の利用類型に応じた議論を行うことを困難にするという側面も持っている。そこでまず、学説でも疑問視されていない出願経過の利用(明細書等から一義的な解釈が導かれる時にそれを裏付けることや、明細書等を考慮してもなおクレームの意味が不明確である時に決め手となること)がなされた裁判例を概観し、その根拠とされたことを確認した。これに対して、明細書等からクレーム文言の意味が一義的に定まるが出願経過に鑑みればこれが限定解釈されるべきであるとすることは、いかなる法的構成により許されるのか、という点には判例・学説上争いがあるため、この争いが特許権についてのどのような思想の差異を反映するものなのかを示した。最後に、均等論の局面での出願経過の用いられ方を概観した後、文言侵害と均等論の局面での「出願経過禁反言」の位置付けの異同を検討した。

第三編第一章は米国法を対象とした。19世紀後半から、出願経過はクレームの適切な解釈に光を当てるものとして役割が認められていき、その一環として「包袋(出願経過)禁反言」の法理が確立された経緯を示してから、1940年代以降、判例が、出願経過を「クレーム解釈の助け」として用いることと、出願経過禁反言とを区別すべきことを述べてきた流れを説明した。その上で、現在、クレーム解釈の局面で、出願経過がクレーム、明細書と並ぶ内部証拠とされている中で、出願経過がこれらにはない限定を付す根拠となり得るのはどのような場合かにつき判例が示してきた態度や要件等を明らかにした。このような実務の根拠として、3つの視点((1)特許権者によるコントロール、(2)特許商標庁と出願人の理解、(3)「公の記録」である出願経過の公衆通知機能)を指摘した。均等論の局面についても、近年の最高裁判決を踏まえて出願経過禁反言の法的性質論と要件・効果論を展開し、さらに、禁反言が補正に基づく場合と主張に基づく場合との異同にも検討を加えた。

ドイツ(第二章)は日米とは全く異なる法的状況にある。ドイツでは、出願経過が保護範囲確定に際して果たす役割は、時代が下りクレーム・明細書・図面の三者(いわゆる「特許書類」)重視の傾向が強まるにつれ低下するという形で変遷するところ、欧州特許条約加盟を経た現在の判例・通説は、出願経過をクレームの解釈資料とも均等論適用の判断資料ともせず、単に当業者の理解の徴憑と位置付けていることを示した。また、信義誠実の原則に関しては、当該事案があくまでも本来の信義則の要件に該当するか否かが判断されており、これは、ごく例外的な状況における、保護範囲確定とは別次元での解決と位置付けられている。現行判例・学説で議論されている出願経過の役割を、7項目((1)クレームの意味内容を限定解釈することの禁止、(2)徴憑としての意味、(3)特許書類の内容が不明確な場合における扱い、(4)均等侵害の場合の出願経過の役割、(5)特許書類に後から制限が付されている場合の解釈・保護範囲、(6)信義誠実の原則、(7)クレームの意味内容を拡張することの禁止)に細分化し、旧法下の運用と比較しながら分析した。これを受けて日本法と比較すると、特許書類の基準性、平均的当業者の視点、法的安定性、信義則等につき、基本的な考え方の相違を指摘できた。

このようなドイツや英国の判例・学説では、欧州特許条約の2000年改正(第三章)の際に、出願経過の考慮を定める条項を導入する旨の提案が否決されたことが、考慮否定の根拠の1つとされることがある。この提案の成立と否決の経緯を検討すると、――提案自体が曖昧な性格だったため予定された適用範囲は明らかでないが――、成立すれば、独英の実務に一定の変化を迫るものであったことが分かった。導入に強硬に反対したのが英国代表団であり、その理由は、特許書類が基準であるべきことや、第三者の不当な負担の懸念であった。

英国法(第四章)を見てみると、英国代表団の姿勢は、同国裁判例に見られる態度であることが分かる。ただし英国法研究に際しては、1977年法成立前まで、審査官と出願人とのやりとりが原則的に秘密とされてきたという事情に注意する必要がある。出願経過の位置付けについて、最近の貴族院判決は必ずしも明確な立場を示したと考えられていないが、下級審裁判例の研究を踏まえて、現行判例・学説の状況を、7つの視点((1)条文の文言、(2)出願経過の閲覧及び裁判所と特許庁の権限、(3)理念的理由と実務的理由、(4)保護範囲確定方法一般(目的的解釈)との関係、(5)一般法との関係、(6)陪審審理の不存在)から、日独米と比較しつつ分析した。最後に、カナダやオーストラリアの裁判例も、米国法類似の考え方の導入に不賛成であることを示した。

第五章で、補説的にオランダ法を調査した。オランダの最上級審は、平均的当業者が明細書と図面を検討した後でもなおクレームの内容に関して合理的な疑義を有するであろう場合にのみ出願経過が参照されてよいことや、出願経過は特許権者の利益になるように考慮されてもよいことを述べている。これらの判示が独英でどのように理解されているかを研究し、最後に簡単に日本法と比較した。

第四編で以上を総括した。第三編までの研究により、出願経過が問題となる場面での当事者の様々な利害状況や、各国実務間にある異同の理由が浮かび上がってきた。独英では、第三者が特許書類それ自体から保護範囲を予測しやすいような特許書類を作るという大きな制度目標があり、出願経過の扱いもそれに沿っていると言える。特にドイツでは、補正・訂正を施されたという経緯を有する特許であっても、そうでない特許と同じルールで保護範囲を確定するという姿勢が打ち出されている。このような方向性も検討する価値があると考えられるため、最後に、今後研究を進める上で特に重要な事項となる、文言侵害の成否判断のためのクレーム解釈における出願経過の位置付けと、信義則違反という評価につき若干の考察を試み、本稿を結ぶ。

審査要旨 要旨を表示する

1はじめに

我が国の特許侵害訴訟では、特許出願の経過が、クレーム解釈(文言侵害)の場面で、クレーム用語の意味を明確化したり、クレームを限定解釈するために用いられることが、広く一般的に認められている。これは、権利者が出願過程で行っていた主張と異なる主張を侵害訴訟においてすることは許されないという価値判断と、出願経過は特許の生成過程であるためクレーム解釈において考慮するのが相当であるという考え方等が相俟ってのことである。

本論文は、特にクレーム解釈(文言侵害)の場面に主たる検討対象を絞り、主要法制において出願経過がどのように位置付けられているかを明らかにし、その根拠や結論を相互比較することにより、日本の判例学説で当然視されている出願経過の位置付けを問い直す視座を獲得しようとするものである。なお、上記の場面との対照等で必要な限りで、重要な関連論点である均等論についても、適宜、付加的に検討が加えられている。

2 本論文の構成と内容

本論文は、第一編(序論――問題意識の所在)、第二編(日本の裁判例及び学説の把握)、第三編(比較法研究)、第四編(総括)の全四編から構成されている。第二編及び第三編での研究に際しては、保護範囲確定論一般や、歴史的変遷等につき、必要に応じて留意されている。

第二編は、日本の裁判例及び学説の現状を把握することを目的とする編であるが、同編全体を通じて、日本の裁判例・学説が整理に少なからず困難を伴うようなものであることが浮かび上がってくる。まず前提事項の確認や歴史的研究がされた後、第四章で、クレームの解釈資料としての出願経過の位置付けや、禁反言・信義則の適用に関して、現在の判例学説の一致点と対立点が明らかにされている。第五章で、付加的に、均等論の場面での出願経過の役割が検討されている。

第三編の比較法研究は米国から始まるが、日本での先行研究も多いため、焦点を絞った叙述を試みる(第一章)。前提事項の確認の後、第三節で、出願経過が、19世紀後半から、クレームの適切な解釈に光を当てるものとしてその役割が認められてきたことや、包袋禁反言(出願経過禁反言の当時の名称)の法理が確立された経緯が示されている。さらに、1940年代以降、判例が、出願経過をクレーム解釈の助けとして用いることと出願経過禁反言とを区別すべきことを述べ続けてきた流れが説明されている。以上の経緯を踏まえて、第四節では、出願経過が現在、クレーム解釈の「内部証拠」とされていることやその理由が示され、さらに、クレーム・明細書と出願経過との関係に即した研究がなされている。なお、付加的に、均等論の局面での役割(出願経過禁反言)に関して、補正・主張に基づく禁反言について検討が加えられている(第五節)。

第三編第二章でのドイツ法研究は、本論文の中核に位置付けられている。ドイツでは、出願経過の役割を巡る議論に古くからの蓄積があるため、そこから多様な視点を獲得することが目指されている。ドイツにおいて、出願経過の重要性が、時代が下りクレーム・明細書・図面重視の傾向が強まるにつれ低下するという変遷を辿った模様(第四節)や、欧州特許条約加盟後、判例や学説が出願経過の扱いに関する問題に1つずつ答えを出していった模様(第六節)が、時系列に沿って詳細に説明されている。なお、出願経過記録の閲覧に係る規律が、当該時代の出願経過の役割に関する議論に影響を及ぼしていたことも、指摘されている。以上を踏まえて、第七節で、現在の判例学説で議論されている出願経過の役割につき、旧法下のそれと比較しながらの入念な分析がなされている。ここでは、現在の判例通説上、出願経過がクレームの解釈資料とも、均等範囲の判断資料ともされておらず、単に、当業者が特許に係る技術的教示をどのように理解するかについての「徴憑」に過ぎないとされていることや、そのような扱いの理由が示されている。また、均等論の下での侵害が争点となった事案においてドイツの判例で肯定された、保護範囲確定とは別次元での、当該事案・当該当事者限りでの信義則違反の抗弁による解決についても、詳細が明らかにされている。以上の分析を受けて、第八節で、クレーム・明細書・図面の基準性や法的安定性、信義則等について、日本法とそもそも基本的な考え方が異なることが指摘されている。

第三編第三章では、ドイツや英国の判例学説で、欧州特許条約の改正会議(2000年)における出願経過の考慮に係る改正提案の不成立が、出願経過の考慮否定の根拠の1つとされていることから、両国の判例学説を理解する一助とする目的で、同条約の研究が行われている。ここでの研究から、この提案の不成立の一因が、英国代表団の、法的安定性に鑑みての反対意見にあったことが明らかにされている。

これを受けて、第三編第四章で英国法研究が行われている。この際、1977年法が成立するまで、出願経過記録の閲覧が原則的に禁止されていたという、英国法特有の事情にも目を配っている(第三節)。保護範囲確定方法の変遷を辿った後、2004年の貴族院判決における出願経過に関する判示内容につき、現在の解釈ルールである目的的解釈の内容との関連で理解が深められている(第四節)。その後、第五節で同貴族院判決前後の下級審裁判例が概観されている。解釈資料性を肯定する裁判例も一部存在するものの、出願経過を考慮することに消極的態度を示すものが多数であることが示されている。第六節での判例学説の分析により、裁判例が消極的態度を示す理由の中には、ドイツで主張されている理由と同種のものがあることや、また、ドイツと同じく、解釈とは関係のないものとして表示による禁反言が成立する可能性自体は肯定されているものの、あくまでも一般法理としての禁反言の要件該当性が問われるとされていることが明らかにされている。最後に、カナダとオーストラリアの裁判例についても、これらが英国法と類似の理由から、出願経過の考慮に否定的態度をとっていることが指摘されている(第七節)。

さらに、第三編第五章で、ドイツや英国の判例学説においてオランダ法がしばしば参照・引用される関係で、これらをより良く理解する一助にするべく、補説的にオランダ法が調査されている。

第四編では、本論文の総括が行われている。第二編・第三編での考察を前提に、第二章で主要国の立場の異同がまとめられており、その後、文言侵害の成否判断のためのクレーム解釈の局面での出願経過の位置付け(第三章)と、禁反言・信義則違反という評価(第四章)に関して考察がなされている。

クレーム解釈(文言侵害)と禁反言に関して、日本の判例学説では、出願経過禁反言によるクレームの限定解釈といった表現が頻繁に見受けられるなど、禁反言がクレーム解釈の枠内で考慮され、言わばクレーム解釈に禁反言が組み入れられているような状態である。これに対して、主要三法制(ドイツ、英国、米国)では両者は明確に区別されており、米国では、判例上、出願経過はクレームの解釈の場面でも「クレーム解釈の助け」として働くが、しかし「出願経過禁反言」という名の法理が適用され得るのは均等論適用排除の場面だけであるという定式が維持されている。また、保護範囲確定の問題と禁反言・信義則を別次元のものと捉えることは、ドイツや英国にも共通した態度である。なお、ドイツや英国の立場は、両者を別次元のものと捉えている点だけでなく、禁反言・信義則が適用されるべき場合をいかに考えるかという点でも、日本と大きく異なる。その差異は、出願人と審査官のみが相対する審査手続において出願人が審査官に対して行った発言等が一般的に、侵害訴訟で被告が主張する出願経過禁反言の適用の基礎になり得るか否かという点に現れる。日本ではこれが肯定されているのに対し、ドイツや英国では、あくまでも一般法上の信義則・禁反言の要件(当事者間の特別な関係や信頼)を充たすか否かが問われるため、否定的に解されている。

さらに、そもそも出願経過はクレーム解釈の資料であるかという問題についても、日本や米国ではこれが肯定されている一方で、ドイツの判例通説では否定されており、英国の立場もドイツと大きく異なるものではない。日本においては、出願経過は特許の生成過程であるからクレーム解釈において考慮するのが当然ないし相当であるという考え方は、現在の判例学説上、広く受け入れられている。出願経過記録が閲覧可能だということも、このように考える理由の1つとされてきた。米国でも、出願経過の解釈資料性は判例により肯定されており、出願経過が内部証拠に位置付けられる理由は、出願経過は特許庁と出願人が特許をどのように理解したかを示すものであることや、出願経過が特許庁における手続の公の記録であること等に求められている。このような日本や米国に対して、ドイツの判例通説では出願経過の解釈資料性が否定されているのだが、その理由の第一には、保護範囲確定の資料としてクレーム・明細書・図面のみを挙げる条文の文言(日本法と同内容)が挙げられている。ドイツでは、この3書面の基準性が強く意識されており、これに関連して、保護範囲がこの3書面それ自体から予測できるという意味での法的安定性が強調されている。他に、出願人の発言は保護範囲とは無関係であることや、出願経過を解釈資料とすることの弊害(出願経過が裁判所で考慮されることを見越した審査実務になることや、裁判の長期化、コストの増加等)も挙げられている。英国で、出願経過を考慮することに消極的態度を示す諸判決や学説が理由とするところは、おおよそ、ドイツで主張されているものと同様である。本論文では、日本とドイツの立場の相違の理由(クレーム・明細書・図面の基準性)に関連して、両国間には、後に侵害訴訟になれば保護範囲確定の基準となるはずの上記3書面を審査段階でどのように作り上げるかという姿勢に差異があることもまた、留意されるべきことが示されている。第四編を通じて、特許制度の目的や構造に照らすとドイツ法的な立場のほうが説得的であり、このような立場をとるほうが望ましいのではないかという著者の見解が、控え目ながらも示されている。

以上が本論文の要約である。

3 本論文の評価

本論文の長所として、次の諸点を挙げることができる。

第1点として、特許発明についての保護範囲の確定という特許法学における中心的課題の一つを中心に据えて、この場面における出願経過の役割という難問を正面から、関連する論点も含めて総合的に、極めて詳細かつ丁寧に論じていることがある。特許発明についての保護範囲(日本法では、特許発明の技術的範囲)の確定の論点の中には、本論文が中心的に扱う文言侵害という原則的法理以外に均等論という例外的法理もあるが、従前の我が国での研究では、均等論にのみ目が向かいがちであり、第一に検討されるべき文言侵害関係については、研究が後回しになっていた傾向もみられる。本論文は、この中心的論点である文言侵害関係を、正面から扱っている。しかも、それは、これまで解釈資料性の問題がさほど意識的に論じられてこなかったという状況の中で、文言侵害関係のためのクレーム解釈の解釈資料の観点からなされている。とりわけ、従来は出願経過禁反言の問題と截然とした区別がなされてこなかったクレーム解釈資料としての出願経過を正面から扱っている点で、大きな学術的価値を有する。

第2点として、ドイツ、英国、米国を中心とする詳細で丁寧な比較法研究を、歴史的視点も織り込みながら行っている。ドイツ、米国の特許法については、均等論等であれば、研究の蓄積は一定程度はあるといえるが、本論文の論点についての本格的研究は、初めてである。また、特に、英国については、均等論等を含めてでも、そもそも研究の蓄積は乏しかったのであり、従前、扱いにくさ等の点で敬遠されがちであった英国特許法を正面から扱ったことの意義は大きい。

第3点として、「特許発明の保護範囲の確定と出願経過」という中心的論点以外の関連論点についても、幅広く丁寧に拾って、総合的研究が展開されている。例えば、出願経過のみならずクレーム解釈資料一般、さらには、保護範囲確定論一般などを踏まえた上での論述がなされている。また、現在の法的状況の把握に努めるだけでなく、現在の状況が生成されてきた歴史的経緯についても、詳細な調査がなされている。

第4点として、上記の総合的な基礎的研究を通じて、従前の日本では、漠然と、所与のものと考えられてきた点について、これと大きく異なる主要法制の存在を示すことで、相対化の契機を提供し、大きな一石を投じた点での意義は非常に大きい。従前の我が国では、出願経過がクレームの解釈資料か否かという問題(解釈資料性の問題)と、出願経過禁反言とが、截然とは区別されておらず、それに加えて、出願経過の解釈資料性それ自体はさほど疑問視されてこなかった。これに対して、ドイツ、英国、米国では、解釈資料性の問題と禁反言(ないし信義則)の問題とは、截然と区別されている。その上で、ドイツ、英国では、一部の例外を除き、出願経過は、解釈資料それ自体とはされていない。他方、米国では、出願経過は、解釈資料それ自体とされてはいるが、これは、あくまでも、出願経過禁反言とは、明確に区別された上でのものであるという定式が、判例上維持されている。

本論文はこれらのことを明らかにした。

その反面、本論文にも短所は見られる。

第1点としては、記述が非常に緻密で詳細なために、全体の流れにやや分かりにくい面があることである。特に、各国の論文等や判例等については、なるべく原文に近い形で紹介しようとするために、分かりにくさが倍加する面も見られる。しかしながら、これは、本論文の対象とする論点が、関連論点も含めて、あまりに複雑なために、正確に記述しようとすれば、やむを得ない面が少なからず存する。また、論文等や判例等について、自説の枠組みに無理に引きつけて単純化せずに、ニュアンスを殺さないように配慮している点では、むしろ、学問的良心の現れというべき面もあると思われる。

第2点としては、前記のような貴重な視角を得つつも、日本法への実体法的示唆としては、非常に控え目であり、実体法学としては、やや物足りなさを感じる向きもあり得る点である。しかしながら、日本法では、前記の各点が少なからず当然視されてきたことから、著者が大いに魅力を感じるドイツ法的な立場を直ちに、日本に導入するということについては、実務上の混乱の可能性への対処も含めて、なお慎重な検討を要すると考えたとしても無理からぬところもある。本論文は、そのための基礎作業に徹しようという態度が窺われるものであり、直ちに、外国法研究から得られた知見に飛びつかないという謙抑的で慎重な態度の現れというべきものと解される。本論文を大きな第一歩として、次の研究において、上記の点の実体法的検討がなされることが大いに期待されるといえる。

以上のような短所は見られるものの、それらは長所を大きく損ねるものではない。本論文は、これまで十分におこなわれてこなかった基本的な本質的問題についての研究を正面から、多面的かつ非常に緻密に行っており、学界に裨益するところは大きいと考えられる。

以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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