学位論文要旨



No 126587
著者(漢字) 胡,昂
著者(英字)
著者(カナ) コ,コウ
標題(和) チベット民家の平面構成に関する研究
標題(洋)
報告番号 126587
報告番号 甲26587
学位授与日 2011.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7394号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,明
 東京大学 准教授 大月,敏雄
 東京大学 准教授 横山,ゆりか
 東京大学 准教授 今井,公太郎
 東京大学 教授 小出,治
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

チベット族の民家は、チベット族の物質生活と精神生活を反映し、チベット族の住文化を体現したもので、チベット族の社会や歴史の発展を記録するものとして「生きた化石」と呼ばれている。チベット仏教と他民族の文化という多元的な文化の影響の下に、自然環境や地域的な条件の差異などにより、独自な建築特徴を有し、豊かな多様性を呈している。民家は常に旺盛な生命力を保ちながら、絶えず発展してきた。チベット族の民家は歴史的な洗練を経ることにより、様々な建築形態を生じているが、それが現在にまで遺っていて、研究を行う価値が充分にある。

2. 研究の背景

急激な中国の都市化と観光産業の開発により、かつては閉鎖的であったチベット地域が外部社会と交流を頻繁に行うようになってきた。コンクリートなどの新しい材料が普及し、また、伝統的な技術を持つ民間の職人が減ることにより、民家の営造技術に革命が訪れている。貴重な建築文化を伝える遺産としての伝統的なチベット族の民家が衰微することは、文化保護の観点から危機的な状況といえるだろう。伝統的な民家の保護と保全は喫緊の課題になっている。

近年、チベット地域で数多くのチベット風建築が建てられていて、統一的に「チベット式建築」と呼ばれているが、そのほとんどはチベット族の建築の外観をまねたものである。外部は華やかに装飾されているが、内部空間は典型的な現代風の工業化建築である。この種の建築には、伝統的なチベット族の建築がもつ平面構成や空間の風情はすでに消えている。どのようにして伝統的なチベット族の建築の本質を抽出するか、伝統的な民家の営造技術を継承し発展させて、現代のチベット族の民家の設計に応用するかということは、研究者に突きつけられた課題である。

こうした状況に対して、これまでのチベット族の民家に対する研究が不充分であることは明らかである。既往研究はほとんどが意匠的な論述で、歴史的な変遷や地域的な特色などに関する記述は多いが、平面に関する研究は資料の整理、図面の説明という段階にとどまっている。平面構成の分類や生成則に関する研究は少なく、チベット族の民家に対する研究方法は確立されていない。

3. 研究の目的

本研究では、広大な面積を有する中国南西部のチベット自治区と四川省に居住するチベット族を対象に現地調査を行ない、居住文化の研究に資するために、チベット族の伝統的な民家のデータベースを構築している。チベットの伝統的な民家の平面構成を計画学的に解析するところに特徴があり、各地に分布するチベット族の民家を様々な基準によって分析して、建築計画学の論理に基づいて数理解析を行ない、チベット族の民家の平面構成に共通する事項を明らかにする。

この目的のもとに、これまで意匠論が中心であったチベット民家の研究に計画的な視点を導入し、グラフ理論を援用しながら分析指標の作成を目指している。空間要素である部屋の相互の隣接関係を考察し、民家の平面構成の生成則を抽出することを試みている。

4. 研究の対象

周知のようにチベット族の居住領域は極めて広く、西蔵自治区だけではなく、青海省、甘粛省、四川省と雲南省の4つの省にもチベット族の居住区があり、全部で10のチベット族自治州がある。この広い居住区は全部で約2,400,000平方キロにおよび、中国全土の4分の1を占めている。そのすべてがチベット文化の特徴を有していて、チベット文化圏といれる。

実施調査では、既往研究でよく調査されてきた西蔵自治区の外に、四川省に属するチベット族の民家も調査している。最終的にはチベット自治区、四川省、雲南省、甘粛省にある189事例のチベット族の民家を対象にして、1階建から4階建以上の建物をデータベース化している。本研究に分析する対象は、西蔵自治区、四川省、雲南省、甘粛省にある150事例のチベット族の伝統的な民家である。

5. 研究の方法

本研究は、計画学的な視点から数理的な手法を援用した民家の平面構成に関する研究である。まず150事例における各民家の空間要素の出現回数を統計的に処理し、平面の主要な空間要素を抽出して、基本的な組合せ関係と各要素の特性を考察する。次いで、民家の階数別に、部屋の数が増加するときの空間要素の変化を求めて、民家を生成する基本的な規則性を整理する。その際に、グラフ理論的な研究方法を援用しながら、階数別に空間要素の隣接関係を分析する。同時に、チベット族の職人の用語、宗教、生産方式や生活習慣などと照合しながら、チベット族の民家の形態と住文化との対応関係を明らかにして、平面構成の生成則を抽出する。

本研究において、チベット民家の平面構成の記述手法として、グラフ理論を用いる理由は、記述を厳密にするという点に加えて、分析に恣意性が入りにくくする点においても有効であることを考慮してのことである。もう一つ理由は、グラフ理論を用いた既往研究より、空間の複雑な関係性をグラフの頂点と辺に置き換えて表現することにより、空間の特性を定性的な指標として解明できることがわかっていることによる。

6. 本論の構成

本論は序、第1章から第6章、および付録で構成される。それぞれの内容は以下のとおりである。

第1章「先行研究」では、チベット民家についての文献レビューとグラフ理論の簡単な解説とそれを用いた既往研究を回顧する。ついで、滅仏運動以前のチベット族文化圏の民家を対象とする二回の現地調査について記述する。得られた資料を整理して図面化し、チベット族の民家のデータベースを作成する。また、本研究で分析する対象である150事例について述べる。

第2章「チベット族の民家の概説」では、チベット族の民家の歴史的な変遷、地域的な変遷を考察し、民家を生成する客観的な要因とその基本的な形態の変化を調べる。また、チベット族の民家の主要な類型や空間の構成要素等について系統的に述べ、チベット族の民家の歴史と現状を概説する。

第3章「チベット族の民家の基本的な空間要素の抽出」では、150事例の民家について空間要素の出現回数を統計処理し、平面の主要な空間要素を抽出し、それぞれの定義を明確にする。各要素の出現頻度や順序などを指標にして各要素の重要度を推察し、民家の階数別に部屋数が増加するときの空間要素の変化の規則性を考察する。

第4章「チベット族の民家の基本的な空間要素のコンビネーション」では、空間要素の属性に従い色彩を設定し、平面図をカラー図として表現する。要素の組合せパターンを統合し、平面の生成性を調べる。グラフ理論的な研究手法を援用し、民家の平面図をグラフで表示する。プログラムを用いて、階数別に民家の空間要素の隣接関係を分析し、そのコンビネーションの解析を行い、それを図式化することにより、チベット族の民家の典型的な空間要素の組合せの規則性を解明する。

第5章「チベット族の民家の生成則」では、チベット族の職人の用語から民家の平面形態の変遷を考察し、チベット族の民家の生成則に影響する宗教、生産方式や生活習慣などの主観的な要因と照合しながら、民家の形態と住文化との対応関係を明らかにする。階数別の平面構成の生成則をプログラムで検証することにより、チベット族の民家の平面構成の生成則を明らかにする。

第6章「結論と展望」では、本論文を総括し、得られた研究の成果と今後の研究課題をまとめている。本研究の意義は主に次の3点である。(1) 本論の研究方法は、チベット族の民家の平面構成を計画学的に記述したもので、チベット族の空間概念の本質をよく表現したものになっている。また、分析の手法としてのグラフ理論が充分に有効なものであることが確認できた。(2) 本研究により、チベット族の建築では、同じ尺度や外観でも、内部は全く異なる生成則で出来ている場合もあり、単純に外観や装飾にのみ研究の成果は現代のチベット風建築の設計の指針として不十分であると言え、チベット族の民家の保護に適用するのにも無理があると考えられる。(3) 本研究において民家の生成則をまとめることにより、新たな時代のチベット族の建築の保護と発展が期待でき、現代のチベット族の建築の設計活動を指導することが可能になる。その成果は、応用と実践の面で価値が高いものになっている。

付録としては、チベット族の民家のデータベース、プログラムリスト、民家ごとの空間要素の構成表などの図表を載せる。

審査要旨 要旨を表示する

中国に住むチベット族の人口は500万人余りであるが、その居住域はチベット自治区だけでなく、雲南、四川、青海、甘粛省などの広範な地域に及び、中国全土の1/4を占めるといわれている。チベット文化はチベット仏教(ラマ教)の影響が強く、漢民族とは全く異なる文化圏を形成している。宗教、社会、風俗、美術、工芸等に関する研究はこれまでも多いが、建築に関する研究は、宮殿や寺院、あるいは大邸宅等に関するものが若干あるにすぎず、民家を対象としたものは写真集を除いてほとんど皆無である。

本研究は、チベット族の民家を対象に、その空間的な特質を記述し、その生成原理を探るもので、建築の素材や構法、あるいは生産や生活の様態、さらには宗教心や空間概念といった側面までをも考慮しつつ分析を行ない、その空間の生成則や配列則を明らかにすることを目的にしている。建築空間に内包されているルールと実空間との対応を実証的に解明するために、これまでの実地調査と文献から得られたデータを基に、チベット族の民家のデータベースを作成している。収録されている民家は189事例であるが、その中から、商家や大邸宅といった特殊な用途のものを除いた150事例を研究対象にしている。

チベット族は、農業と牧畜を生業にするものが多いが、そうした民家では、庭あるいはテラスといった屋外あるいは半屋外の空間が生産の場として重要で、その在り方が空間全体の骨格を決定している。1階建てであるか、あるいは2階建て以上であるかということも重要で、この相違は、空間要素を平面的に連結するのか、あるいは、重層的に連結するのかという空間の構成方法に直接的に関係している。本論文では、基本的に1階建てと2階建て以上に別けて、それぞれの空間構成の特性を論じている。

本論文は、序と第1章~第6章、および付録からなる。

序では、研究の背景と目的について述べ、次いで、研究対象となる地域を明らかにしている。また、研究方法として、可能な限り数理的な手法を援用して、客観性を持たせるように留意したことを説明している。

第1章では、チベット族の民家に対する既往研究を歴史的に回顧し、続いて、分析に用いるグラフ理論を概説している。また、研究に先立ち筆者が行った実地調査の概要と、民家のデータベースの作成手法について解説している。

第2章では、チベット族の民家の歴史的な変遷と、地域的な差異を概観した上で、民家の構成要素について、その機能と特色を説明している。

第3章では、基本的な空間要素について、その選択理由と定義を述べている。次いで、庭、露台、門庁、廊、台所兼寝室、台所、寝室、貯蔵室、仏堂、客間、家畜間、草料室の12の空間要素について、出現頻度や出現順序等の基本的な統計量を求めている。

第4章では、基本的な空間要素がどのような配列則になっているのかを調べるために、空間要素の隣接関係をグラフで表現し、その序列を1階建てと2階建てに分けて分析し、1階建てでは3つの、2階建てでは7つの基本系列にまとめ、その特性について論じている。

第5章では、先ず、チベット族の民家の構成原理を、民間の職人が用いる形態的な分類方法に基づいて説明し、次いで、宗教や社会、生活習慣などと空間要素の基本的な配列との対応について言及している。また、外部の空間要素としての庭と露台、連結的空間要素としての門庁と廊、生活の空間要素としての台所兼寝室について詳しく分析し、その結果に基づいて1階建てと2階建てのそれぞれについて平面構成の生成則を求め、それらが実際に事例として存在するかをグラフの隣接関係から調べ、実例が存在するものをルールとして抽出している。このルールを詳細に分析し、1階建てと2階建てのそれぞれについて、連結する要素である門庁と廊の有無に基づく4タイプに分類して、それぞれの特性について論じている。

第6章では、章毎にまとめを行った後に論文全体のまとめとして、チベット族の民家の生成則が連結的な空間要素を媒介として整理できたことを挙げている。また、本論文の意義として、民家の空間構成を記述できたことに加えて、伝統的な建築の保全や保護にもその成果を活用できるとしている。最後に、今後の課題についてまとめている。

付録は、データベースの全資料と、分析で用いた図版や表の原図で、これに電算機のプログラムを付加している。

以上要するに、本論文は、これまで詳細な研究が行われていなかったチベット族の民家に関して、ほぼ、現在、入手可能な資料を網羅する形でデータベースを作成し、その空間構成を科学的な手続きに基づいて分析したもので、この地域の民家に関する建築計画学的な研究のさきがけとなるものである。分析の手法として、基本的な空間要素をグラフ化してその隣接関係から空間の組成を読み取る手法をとっているが、グラフ化に伴い捨象される広さや高さ等の次元が問題視されるかも知れないが、チベット族の民家の空間は、素材や構法の制約からその大きさは比較的均一で、むしろ、全体的な組成を把握する上では、次元を減らすことが有利に働いていると考えられる。

チベット族は広範な地域に分布していて、それぞれの土地の気候や風土により、その民家の外観は異なる様相を呈しているが、その空間の基本的な構成原理は同一で、極めて単純な原則の下に造られていることが本研究により明らかになっている。この事実を客観的な手続きの下に示したことは、建築計画学における新たな知見であると共に、同地域の将来的な住環境、住文化を設計する上でも貴重な資料となり得るもので、その意義は極めて大きい。

よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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