学位論文要旨



No 126593
著者(漢字) 綿谷,健治
著者(英字)
著者(カナ) ワタタニ,ケンジ
標題(和) 大脳発生におけるニューロンおよびオリゴデンドロサイト産生機構の解析
標題(洋)
報告番号 126593
報告番号 甲26593
学位授与日 2011.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7400号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 後藤,由季子
 東京大学 准教授 上田,宏
 東京大学 教授 鈴木,勉
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 教授 宮島,篤
内容要旨 要旨を表示する

1. 序論

中枢神経系は多くの種類のニューロンとそれを支持するグリア細胞(アストロサイトやオリゴデンドロサイト)から構成され、共通の前駆細胞である神経系前駆細胞に由来する。神経系前駆細胞は「未分化性を維持したまま増殖する自己複製能」と「ニューロンやグリア細胞へと分化する多分化能」を持ち合わせており、発生過程において自己複製を経て、適時にニューロンやグリア細胞へと分化することが観察されている。しかし、分化を決定する機構には未解明な点が多く、制御機構の解明は中枢神経系の発生を理解するための重要な課題である。

近年のiPS細胞研究を初めとする幹細胞研究より、幹細胞を再生医療分野へ応用する期待が高まっているが、幹細胞から特定の細胞への分化機構は十分に理解されていない。中枢神経系領域においてもアルツハイマー病、パーキンソン病といった重篤な疾患に対する根本的な治療法は確立しておらず、再生医療技術の向上は先端医療における喫緊の課題である。その上で安全かつ効率の良い医療を実現するため、神経系前駆細胞から特定の細胞への分化機構の正しい理解は必要不可欠である。

これまで細胞外因子のIGF-1, PDGFなどは神経系前駆細胞をニューロンへと、CNTF, BMP2などはアストロサイトへと、Shh, FGF-2はオリゴデンドロサイトへと分化を促進させることが報告されている。しかし、これらの細胞外因子が神経系前駆細胞の分化を誘導する際の、細胞内の分子(キナーゼや転写因子など)の挙動との因果関係には未解明な点が多い。本研究では様々な細胞外増殖因子によって活性化されることが知られているPI3K- PDK1- Akt経路に着目し、神経系前駆細胞の運命制御おける役割を解析した。

2. 大脳発生における抑制性ニューロン産生機構の解析

ニューロン分化誘導因子の一つであるIGF-1の下流ではAktやMAPKなど数多くの因子が活性化することが知られている。その中で、PDK1-Akt経路は神経系前駆細胞の生存・増殖への作用が示されてきた。一方、当研究室のこれまでの研究より胎生期の大脳において神経系前駆細胞からニューロンへの分化にpdk1遺伝子が必要である可能性が示唆された。本研究ではin vitro実験系を用いて、神経系前駆細胞からニューロンへの分化におけるPDK1-Akt経路の役割と細胞内での作用機構を解析した。

大脳由来の神経系前駆細胞を用いた初代培養系において、IGF-1を添加するとニューロン特異的タンパク質であるβIIITubulinの量の増加が観察されるが、この増加は優性抑制型Akt (Akt 3A, Akt KA)の過剰発現により部分的に抑制された。また、IGF-1非存在下においても活性型Aktの過剰発現によりβIIITubulinの量の増加が観察された。これらの結果は、IGF-1がAktの活性化を通じて神経系前駆細胞からニューロンへの分化を誘導していることを示す。さらに、ニューロンのサブタイプを検討した結果、活性型Aktによって分化誘導されるニューロンは主にGAD67を発現する抑制性ニューロンであった。続いて、抑制性ニューロンへの分化に重要な転写因子Mash1による転写への効果をレポーターを用いて測定した結果、レポーター活性は活性型Aktにより上昇することを明らかにした。そこで、翻訳阻害剤であるシクロヘキシミドを用いて、AktがMash1タンパク質の分解に及ぼす効果を検討し、活性型Akt がMash1タンパク質の安定性を高めることを見出した。

また、mash1遺伝子ノックアウトマウス由来の神経系前駆細胞では、活性型Aktによるニューロン分化が減少し、Aktによる抑制性ニューロンへの分化にMash1が必要であることを示した。GSK3はAktの主要なターゲット因子として知られているため、GSK3のAktによるリン酸化サイトをアラニンに置換した遺伝子改変マウス(GSK3αS21A; GSK3βS9A)より得た神経系前駆細胞を用いて、活性型Aktによるニューロン分化促進を検討した結果、遺伝子改変マウス由来の神経系前駆細胞は野生型と同様の効果を得た。これより、Aktによるニューロン分化はGSK3のリン酸化を介していないことを示した。

興奮性ニューロンと抑制性ニューロンの正しい割合と接続に異常があると、統合失調症、てんかんなどの脳疾患につながると考えられている。大脳基底核由来の抑制性ニューロンの一つであるGABA作動性ニューロンが変性し、大脳が萎縮する疾患がハンチントン病である。脳疾患の薬剤治療や再生医療を目指す上で、発生段階における抑制性ニューロンの産生機構を知ることは有用である。Mash1は神経系前駆細胞から抑制性ニューロンへの分化に重要な転写因子であることが知られているが、Mash1が発現する時期と領域がいかにして制御されているかは殆ど明らかにされていなかった。本研究はIGF-1がPDK1-Akt経路を介してMash1を制御することを新たに示したものであり、今後の医療における抑制性ニューロンの産生制御への新たな可能性につながることが期待できる。

3. 大脳発生におけるオリゴデンドロサイト産生機構の解析

オリゴデンドロサイトは中枢神経系においてニューロンの軸策を包むミエリン鞘を形成するグリア細胞の一種であり、中枢神経系が正常に機能する上で必須の役割を果たしている。多発性硬化症などの脱髄疾患やミエリン形成不全など多くの中枢神経疾患にオリゴデンドロサイト特異的遺伝子の発現変異が観察されており、オリゴデンドロサイト産生機構の解析は神経疾患に対する治療における課題となっている。神経系前駆細胞から産生されたオリゴデンドロサイトは、複数の段階を経て成熟し、形態を変化させていく。マウス大脳発生においては、オリゴデンドロサイト前駆細胞は胎生12日目ごろより大脳基底核側より産生が始まり、胎生中期から後期にかけて大脳新皮質側へと移動する。ノックアウトマウスを用いた解析やin vitro実験による報告よりShh, FGF-2が生体内において神経系前駆細胞からオリゴデンドロサイトへの分化を誘導することが示唆されているが、分化・成熟のどの段階に作用しているのか、細胞内でどのような分子機構が働いているかは必ずしも明らかになっていない。PDK1は多くの系でFGF-2, PDGFといった増殖因子によっても活性化されることが知られており、本研究では神経系前駆細胞からオリゴデンドロサイトへの運命転換にPDK1が果たす役割について検討した。

はじめにin vitro初代培養系を用いて、FGF-2によるオリゴデンドロサイト分化にPI3K-PDK1経路が及ぼす効果を検証した。大脳基底核より採取した神経系前駆細胞をFGF-2存在下で培養するとオリゴデンドロサイト前駆細胞マーカーのSox10の増加が観察される。そこに、PDK1の活性化に必要なPI3キナーゼに対する阻害剤LY294002を加えた場合、Sox10タンパク質の量は減少した。また、中枢神経系特異的pdk1ノックアウトマウスより採取した神経系前駆細胞をFGF-2存在下にて培養した場合においても、Sox10のタンパク質の量が野生型と比較して減少した。これよりPI3K-PDK1経路がオリゴデンドロサイト産生に寄与していることを示した。さらに、一つ一つの神経系前駆細胞の系譜をクローナルアッセイにて検討し、PI3K経路の活性化が、FGF-2によるオリゴデンドロサイトへの分化に必要であることを明らかにした。続いて、大脳基底核由来のオリゴデンドロサイト前駆細胞が増加する胎生15日目において、pdk1遺伝子ノックアウトマウスでは、野生型と比較してSox10およびPDGFRα(オリゴデンドロサイト前駆細胞マーカー)陽性細胞の数が減少した。これより、in vivoにおいてもPDK1はオリゴデンドロサイト前駆細胞の産生において必要であることを示した。

遺伝子改変マウスを用いた解析よりオリゴデンドロサイト産生に重要な因子が明らかにされているが、細胞外の分化誘導因子との関連は必ずしも示されていなかった。本研究では、FGF-2が細胞内のPDK1を介して神経系前駆細胞からオリゴデンドロサイトへの運命転換を誘導していることを新たに示した。近年、Mash1がニューロン分化だけでなくオリゴデンドロサイトへの分化を制御することが示唆されている。本研究の前半で示したPDK1-Akt経路によるMash1の制御という結果を踏まえ、オリゴデンドロサイトの分化制御においてもPDK1の下流でAktによるMash1への作用が関与している可能性を考えている。

4. 総括

神経系前駆細胞の運命は、細胞自身の発生日数や分裂回数といった内的要因と、組織や部位に応じた増殖因子や接触刺激などの外的要因が複雑に組み合わさり制御される。本研究は、神経系前駆細胞が特定の細胞への分化を果たす際に、細胞外因子が細胞内でどのように作用しているかに着目し、複雑な発生機構の一部を明らかにするものである。また、細胞外因子による幹細胞の分化制御は遺伝子を改変しない運命制御のため再生医療に向けて期待の高い手法であるが、安全な実用化に際し、制御機構の理解は不可欠である。本研究は発生過程における神経系前駆細胞の運命制御の正しい理解に寄与するとともに、医療工学分野への貢献も期待できるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

中枢神経系は多くの種類のニューロンとそれを支持するグリア細胞(アストロサイトやオリゴデンドロサイト)から構成され、これらの細胞は共通の前駆細胞である神経系前駆細胞に由来する。発生過程において神経系前駆細胞は自己複製を経て、適時にニューロンやグリア細胞へと分化することが観察されている。しかし、その分化制御機構には未解明な点が多く、神経系前駆細胞の制御機構の解明は中枢神経系の発生を理解するための重要な課題である。近年のiPS細胞研究を初めとする幹細胞研究より、幹細胞を再生医療分野へ応用する期待が高まっているが、幹細胞から特定の細胞への分化機構は十分に理解されていない。中枢神経系領域においてもアルツハイマー病、パーキンソン病、多発性硬化症といった疾患に対する根本的な治療法は確立しておらず、再生医療技術の向上は先端医療における喫緊の課題である。その上で安全かつ効率の良い医療を実現するため、神経系前駆細胞から特定の細胞への分化機構の正しい理解は必要不可欠である。これまで様々な細胞外因子が神経系前駆細胞をニューロンおよびグリア細胞への分化に関わることが報告されている。しかし、細胞外因子が神経系前駆細胞の分化を制御する際の、細胞内の分子(キナーゼや転写因子など)の挙動との因果関係には未解明な点が多い。本研究では様々な細胞外因子によって活性化されるPDK1経路に着目し、神経系前駆細胞の運命制御おける機能を解析した。

第一部では、IGF-1によるニューロン産生においてPDK1-Akt経路の役割と細胞内での作用機構について、大脳由来の神経系前駆細胞の初代培養系を用いて解析した。ニューロン産生を制御するIGF-1の下流ではAktやMAPKなど数多くの因子が活性化することが知られているが、どのような機構でニューロンを産生しているかは明らかになっていなかった。本研究では、IGF-1によって活性化したAktが神経系前駆細胞からニューロンへの分化を誘導していることを示した。さらに、活性型Aktは主にGAD67を発現する抑制性ニューロンを産生していることを見出した。また、細胞内の制御機構として、Aktは抑制性ニューロンへの分化に重要な転写因子であるMash1タンパク質の安定性を高めていることを明らかにした。これらの結果から、IGF-1はPDK1-Akt経路を介して転写因子Mash1を安定化し、抑制性ニューロンへの分化を促進していることが示唆された。

第二部では、FGF-2によるオリゴデンドロサイト産生におけるPDK1経路の役割について解析した。オリゴデンドロサイトは中枢神経系においてニューロンの軸策を包むミエリン鞘を形成するグリア細胞の一種であり、中枢神経系が正常に機能する上で必須の役割を果たしている。これまで、in vitroの実験によりFGF-2が生体内においてオリゴデンドロサイトの産生を制御することが示唆されていたが、細胞内でどのような分子機構が働いているかは必ずしも明らかになっていなかった。本研究では、大脳基底核由来のオリゴデンドロサイト前駆細胞が増加する胎生15.5日目において、pdk1遺伝子欠損によりオリゴデンドロサイト前駆細胞の数が特異的に減少することを見出した。また、in vitro初代培養系を用いて、細胞外因子FGF-2によって産生されるオリゴデンドロサイトはpdk1遺伝子欠損により減少することを明らかにした。さらに、一つ一つの神経系前駆細胞の系譜を追うクローナルアッセイにて、PDK1経路がFGF-2によるオリゴデンドロサイトへの分化に必要であることを明らかにした。

以上のように申請者は、神経系の幹細胞である神経系前駆細胞が細胞外のIGF-1、FGF-2に対し、細胞内でPDK1経路の活性化がそれぞれニューロンへの分化とオリゴデンドロサイトへの分化に必須の役割を果たしていることを明らかにした。神経系前駆細胞の運命は、細胞自身の発生日数や分裂回数といった内的要因と、組織や部位に応じた増殖因子や接触刺激などの外的要因が複雑に協調し、制御される。本研究は、神経系前駆細胞が特定の細胞への分化を果たす際に、細胞外因子が細胞内でどのように作用しているかに着目し、複雑な発生機構の一部を明らかにするものである。また、細胞外因子による幹細胞の分化制御は遺伝子を改変しない運命制御のため再生医療に向けて期待の高い手法であるが、安全な実用化に際し、制御機構の理解は不可欠である。本研究は発生過程における神経系前駆細胞の運命制御の正しい理解に寄与するとともに、神経系前駆細胞を用いた再生医療や神経疾患に対する新薬のターゲット創出に貢献できると考えられる。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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