学位論文要旨



No 126599
著者(漢字) 森,裕紀
著者(英字)
著者(カナ) モリ,ヒロキ
標題(和) ヒト胎児モデルシミュレーションに基づく触覚を通した自己組織的行動発達構成論
標題(洋) A constructivist model of behavioral development of human fetuses from the perspective of self-organization through tactile sensation.
報告番号 126599
報告番号 甲26599
学位授与日 2011.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(情報理工学)
学位記番号 博情第301号
研究科 情報理工学系研究科
専攻 知能機械情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 國吉,康夫
 東京大学 教授 多賀,厳太郎
 東京大学 教授 中村,仁彦
 東京大学 教授 廣瀬,通孝
 東京大学 教授 神崎,亮平
内容要旨 要旨を表示する

概要

生得か経験かという問いは発達科学における中心課題であるが,胎児の学習能力が明らかになるにつれてその境界線は曖昧となり,胎児からの発達理解が生後の発達理解に不可欠である.また,早産児の増加と発達障害との関係から,胎児からの発達理解は医学的見地からも求められている.本論文では,構成論的アプローチに基づき,胎児全身筋骨格を物理シミュレーション上に再現し,子宮内触覚経験に導かれた行動発達の観点から実験と解析を行う.解析は「独立四肢運動」「手と顔の接触行動」「歩行様運動」の観点から行う.それぞれの行動は生後の発達にも重要であると考えられるため,その発生メカニズムは早産児の療育にも活かされると期待される.

第1章:序論

本章では,経験か生得か超えた理解を得るための発達理論的観点と早産児の増加と発達障害の関係からの療育の重要性という医学的観点から検討し,胎児行動がヒトの行動発達の原点であり解明されるべき課題であること宣言した.

第2章:ヒト胎児発達の構成論的理解

本章では,胎児発達理解の必要性,説明されるべき胎児行動発達,胎児行動発達理解のための構成論的アプローチについてそれぞれ説明と議論を行う.まず,発達科学における胎児発達理解について述べた後,早産児の増加と発達障害の関係について文献調査に基づいて述べ,胎児発達メカニズム解明の必要性を議論する.また,解明すべき胎児行動発達としてde Vries et al. 1982が観察して見出した胎児の16種類の行動パターンの中から代表的な以下の3種類の行動を紹介した.

・独立四肢運動

・手と顔の接触行動

・胎児の子宮内での回転運動(歩行様運動)

以上を踏まえて,胎児行動発達解明のため本論文が採用する構成論的アプローチについて議論を行う.この中で,提案されるメカニズムには「相互作用」「身体性」「適応・創発・自己組織化」の3つが必要条件として備わっていなければならないことを主張し,妊娠前期の胎児行動について子宮内での触覚が導く自己組織的な行動発達シナリオを提案する.

第3章:胎児全身筋骨格・神経系シミュレーション

本章では,触覚が導く行動発達という観点から、ヒトらしい触覚分布が胎児の行動発達を導いているという仮説を構成論的アプローチにより検証するためのシミュレーションモデルを説明する.胎児モデルは、受胎後20週程度を想定し、筋198本、触覚細胞1542個を持ち、触覚のため形状も再現した胎児全身筋骨格モデルであり羊水と子宮壁の要素を持つ子宮モデルの中に存在している.

神経系モデルとして、胎児の最初期の行動である滑らかで乱雑なジェネラルムーブメントを発生させる脊髄系の神経振動子と、触覚細胞から脊髄延髄系への反射回路が修正Hebb則(Covariance則)により変化する触覚-神経系結合からなるモデルを提案し実装した.神経系モデルの基礎的検討のために行った簡易な筋骨格モデルによるシミュレーションでは、不均一な触覚分布と均一な触覚分布の違いにより行動が異なり、触覚が行動を導いているような結果となった。

胎児シミュレーションは、触覚細胞分布として(1)ヒトの二点弁別閾に従ったヒトらしい分布、(2)均一分布、(3)二点弁別閾の反転分布の3種類で行った.ヒトらしい分布では,手先や足先,顔などで触角細胞が集中し,体幹や腕,脚では薄くなっており,均一分布や斑点分布では手先や足先の代わりに腕や脚全体に触覚細胞が多くなっている.シミュレーションは各10000秒の間行われた.シミュレーション結果はde Vries et al. 1982の中でも代表的な行動である突発的な(a)独立四肢運動、(b)手と顔の接触行動、(c)子宮内の歩行様動作と原始歩行の観点から解析された。

第4章:滑らかで未分化な運動からの行動分化

独立四肢運動は,弾道的な軌道を切り出して躍度に基づいて独立四肢運動を定量的に定義し,100秒あたりの頻度で評価したところ,ヒトらしい分布のほうは回数が上昇したのに対して,その他の分布では上昇した後減少した.

これは,ヒトらしい分布では見られない腕や脚に触覚が多いために手を大きく振るよりも肘がたたまれて上腕と前腕が接触する状態を保つような刺激が大きくなっているためだと考えられる.ヒトらしい分布の場合の結果はde Vries et al. 1984の単位時間当たりの独立四肢運動の頻度の変化に対応していた.

第5章:自己接触による探索行動の発現

本章では,手と顔の接触行動について解析を行った.手と顔の接触行動はまず,手と顔の接触時間により比較され,ヒトらしい分布の場合が有意に増加することが分かった.また,手と顔の接触時間が1秒以上となる場合を手と顔の接触行動と定義し,解析したところヒトらしい分布では一貫して上昇し,他の分布は一度上昇した後に減少していた.

第6章:脚間協調運動の発現と原始歩行

本章では,子宮内での脚間協調行動と原始歩行について実験・解析を行った.子宮内経験の乏しい早産児は出生予定日を起点としたとしても満期産児と比較して歩行の開始が遅れるといわれており,子宮内での経験が歩行発達に影響を与えている可能性がある.また,出生直後からみられる原始歩行はその後の歩行発達の起点となると考えられており,原始歩行の発現メカニズムの理解は早産児の療育を考える上でも重要である.

まず,子宮内シミュレーションの結果を解析すると,時間の経過と共に次第に左右の脚が交互に蹴りだされていることが分かった.さらに,子宮外として床の上で体幹を固定して足を床に着けるような姿勢においたところ床との相互作用により左右交互の脚運動が現れた.この運動は,子宮内経験のない場合や床とのインタラクションのない場合でも検証され,それぞれで交代性の運動が現れなかった.この結果は子宮内での触覚経験が生後の歩行発達を導く可能性を示しており,早産児の療育に対して示唆を与える.

第7章:固有感覚からの反射回路の自己組織化

本章では,触覚と同様子宮内での感覚運動経験において支配的である固有感覚に基づく学習が行動に与える影響を調べた.筋紡錘の出力を全結合で運動ニューロンに接続して学習を行った結果,胎児行動が抑制された.神経結合をみると伸張反射と見られる結合が現れていることが分かった.この結果は,胎児の神経系について低レベルの反射でさえも自己組織的に形成される可能性を示している.

第8章:考察

本章では,本論文における結果を踏まえて,神経系モデルや療育に対する理論的な課題等について考察を行っている.

第9章:結論

本章では,本論文の各章をまとめ本論文の学術的な貢献を以下のように結論づけている.

・触覚に導かれた胎児行動発達の観点から発達シナリオを提案した

・構成論的アプローチについて定義し,「相互作用」「身体性」「適応・創発・自己組織化」がモデルに組み込まれるべきと主張した.

・触覚を持つ胎児モデルを開発し,発達シナリオの検討を行い,胎児行動発達を自己組織的に再現した.

・発達ケアなどへの理論的な基盤を提供した.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「ヒト胎児モデルシミュレーションに基づく触覚を通した自己組織的行動発達構成論 A constructivist model of behavioral development of human fetuses from the perspective of self-organization through tactile sensation.」と題し,妊娠初期の胎児の行動発達について,触覚に導かれた自己組織的行動発達の観点から構成論的なアプローチによりモデル化を行ったもので,全9章からなる.胎児の行動は受胎後10週前後から活発となり,12週前後で手を突発的に動かす独立四肢運動や手と顔の接触行動,歩行様運動などが現れる.しかし,このような行動がどのようなメカニズムで発生するかについてほとんど理解されていなかった.以下の章では,胎児の行動発達を理解するため,構成論的アプローチに基づき胎児全身筋骨格シミュレーションを用いて胎児行動がヒトらしい触覚分布を通した子宮内環境,身体,神経系の相互作用によるものである可能性を示した.

第1章「序論」では, 胎児発達理解の必要性を主張している.まず,理解すべき胎児行動とその意義を議論し,方法論としての構成論的アプローチについて簡潔に示している.最後に本論文の構成を述べている.

第2章「ヒト胎児発達の構成論的理解」では,理論的観点と医学的観点から胎児発達理解の重要性を主張し,理解のためのアプローチを議論している.理論的観点として,胎児行動発達理解が発達科学における生得と経験の対立を超えたヒト発達理解の原点となるとしている.医学的観点として,早産児の増加に伴う発達障害の増加を踏まえて療育に関する役割について述べている.さらに,早産児や満期産児を含めた個人差にも対応できる発達原理解明のため,発達リストの作成にとどまらない理解の方法として「相互作用」「身体性」「適応・創発・自己組織化」を重視する構成論的アプローチの必要性について議論し,本論文における胎児発達理解のための戦略を明らかにしている.最後に,本論文における主要仮説として胎児の身体構造,とりわけ触覚の分布に行動発達の基盤構造が埋め込まれた胎児行動発達シナリオについて議論している.

第3章「胎児全身筋骨格・神経系シミュレーション」では,開発した胎児筋骨格モデルと神経系モデルの詳細を説明する.胎児モデルは受胎後20週を想定した筋骨格モデルであり,触覚分布に導かれた行動発達仮説を検討するため(1)ヒトらしい二点弁別閾に従う触覚,(2)均一分布,(3)(1)の反転分布,の3種類の触覚分布を用意している.神経系モデルは,脊髄・延髄モデルと触覚入力からなり,触覚入力と運動神経の間でCovariance則により学習する.まず,神経系モデルの基本的な性質を調べるため,簡易な筋骨格モデルにより基礎実験を行い,定量的な解析により触覚が行動を導くことを示している.最後に胎児モデルによる実験を行い,触覚分布の違いにより振る舞いが異なることを定性的な観察により示している.

第4章「滑らかで未分化な運動からの行動分化」では,独立四肢運動の発達を定量的に解析している.定性的に定義された独立四肢運動を定量化することで,触覚分布間の比較によりヒトらしい分布が滑らかな行動から独立四肢運動を分化させていることを示している.

第5章「自己接触による探索行動の発現」では,手と顔の接触行動を定量的に解析している.この行動は生後の認知発達においても重要であるが,発現メカニズムは理解されていない.触覚分布の異なる実験で手と顔の接触行動を定量的に比較することで,身体構造が行動を発現させるとの提案仮説を検証している.

第6章「脚間協調運動の発現と原始歩行」では,子宮内の歩行様運動と原始歩行について定量的に解析を行っている.子宮内経験の乏しい早産児は予定日を基準としても満期産児に比べて歩行の開始が遅れる.本章では,歩行発達に影響を与えるとされる原始歩行に関して,子宮内の経験がある場合とない場合で比較し,ある場合には出生後を模した床環境中で原始歩行の様な行動が現れることを定量的に示している.

第7章「固有感覚からの反射回路の自己組織化」では,上述の結果で重要な役割を果たしている触覚と比較するため,固有感覚の影響を吟味している.筋紡錘からの出力を運動神経に入力して子宮内で学習させたところ,胎児の行動が抑制され.筋紡錘からの結合荷重から伸張反射回路が獲得されたことを示している.この結果は,妊娠初期の子宮内での行動発達の多様性は主に触覚により導かれている可能性を示した.

第8章「考察」では,本研究で残された課題について,理論的な観点と医学的な観点から論じている.

第9章「結論」では,本論文の学術的貢献が,これまで光が当てられなかった胎児行動発達メカニズムを触覚を通した自己組織化の観点から初めて捉え,理論的な枠組みを与えたことであり,早産児の療育などへの応用の道を開くものであると結論付けた.

以上これを要するに,本論文は子宮内での触覚経験が胎児行動発達を導くとの新仮説を提案し,構成論的アプローチにより妊娠初期の胎児の身体および触覚・運動関係を学習する神経系を計算機上にモデル化して実験と解析を行った結果,実際の胎児のものと客観的に対応づけ可能な振る舞いが当該モデルから創発することを示し,新たなヒト胎児行動発達原理の可能性を確立した.これにより,従来,試行錯誤的に改善されてきた早産児への療育に対しても理論的な枠組みを与え,改善の指針を与える可能性も拓いた.

以上の理由から,本論文は知能機械情報学上貢献するところ大である.よって本論文は博士(情報理工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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