No | 126601 | |
著者(漢字) | 谷部,好子 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ヤベ,ヨシコ | |
標題(和) | 歩行時の仮現運動視 | |
標題(洋) | Visual perception of apparent motion during walking | |
報告番号 | 126601 | |
報告番号 | 甲26601 | |
学位授与日 | 2011.03.16 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(教育学) | |
学位記番号 | 博教育第173号 | |
研究科 | 教育学研究科 | |
専攻 | 総合教育科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | <導入> 我々は日常、目からの入力を用いてある環境中における身体運動を調節している。従来の研究により、視覚入力がどのように運動の調節に関与するかについての知見が豊富に蓄積されてきた。一方近年、逆の情報の流れ、つまり身体運動に伴う情報がどのように視知覚の調節に関与するかが注目されている。例えば、手の運動が曖昧運動画像に対する運動方向知覚に影響することが報告されている。本研究では、複雑な環境を知覚するために、自己の移動を伴う歩行に関わる情報を用いて、脳内で視知覚を潜在的に調節する機構が存在するのではないか、と考えた。そこで、トレッドミル歩行時に仮現運動視を引き起こす曖昧運動画像を呈示することにより、身体運動が視知覚に及ぼす影響を検討した。研究1では、歩行中に地面が後方に流動して見えるのと同様に、トレッドミル歩行中に曖昧運動画像が後方に動いて見えやすくなる「トレッドミルキャプチャー(treadmill capture)」の発見を示した。研究2では、その現象における長期のトレッドミル歩行経験による影響を示した。研究3では、トレッドミルキャプチャーの生成と長期的なトレッドミル歩行経験による変化の機構を明らかにすることを試みた。以上3つの研究により、視覚情報が曖昧性を含んでいる時には我々は身体運動実行に伴う情報を用いて経験に応じた補完を行っていることを示す。 <研究1:トレッドミル歩行中の仮現運動視> トレッドミル歩行が曖昧運動画像に対する運動方向知覚にバイアスを与えるか検証した。水平の縞を上または下へ移し100msに一度再描画した時に生じる連続した運動のような見え(仮現運動)を利用した。縞のずれ(shift of grating)が縞の間隔の半分(正弦波状の縞では180度に相当)に近いほど、縞の運動方向は物理的に曖昧になる。縞のずれに応じた運動知覚の方向について心理測定関数を計測することで、知覚に生じるバイアスを知る事ができる。 [実験1] 23名の参加者を対象として足元に11種類の水平縞の仮現運動画像をランダムに反復呈示し、上下どちらに動いて見えたのか二択で回答を得た(図1)。測定には90分程度を要した。刺激画像以外からの視覚入力を排除するため実験は暗室で行った。下向き回答率(RDR)をトレッドミル歩行条件と静止したトレッドミル上での立位条件とで比較したところ歩行条件で有意に大きく、RDRが0.5になる閾値(point of subjective equality: PSE)は歩行条件で有意に小さかった。即ち、歩行条件の方が立位条件に比べてより下向きの運動が知覚されやすくなることが示された。 21名の参加者を対象とし、トレッドミル作動中に発生する視聴覚情報により知覚のバイアスが生じる可能性を調べた。この実験では歩行条件の設定は実験1と同様とし、立位条件については作動中のトレッドミルに板を橋渡しにし、参加者はその板の上に立つように変更した。立位条件に比べて歩行条件で、RDRが有意に大きくなり、PSEが有意に小さくなることが示された(図2)。このことにより、実験1で見られた知覚のバイアスがトレッドミルの動き自体によるものではなかったことが示唆された。本実験の結果から、トレッドミル歩行時には立位時に比べて下向きの仮現運動が知覚されやすいことが分かった。地面の上を歩く際には足元の視野に上から下へと光学的流動(optic flow)が生じる。トレッドミル歩行中には光学的流動が生じないが、通常では歩行と連関しているであろう地面の光学的流動の方向へ、仮現運動知覚が捕捉された(トレッドミルキャプチャー)と考えられる。 <研究2:トレッドミルキャプチャーにおけるトレッドミル歩行経験の影響> 研究1で観察されたトレッドミルキャプチャーが、通常の歩行と地面の光学的流動の運動視覚連関に基づくものであれば、通常の歩行と異なる運動視覚連関を生じるトレッドミル歩行の経験による、結果の変化が予想される。そこで研究2では研究1の実験2で得られたデータを用い長期的トレッドミル使用経験の影響を調べた。質問紙を元に、トレッドミル使用経験が3回以下の者をトレッドミル非使用者(11名)、それ以外を使用者(8名、内6名は半年以上中断中、経験総時間は8~486時間)とした。非使用者ではトレッドミルキャプチャーが見られたが、使用者ではその現象が見られなかった。このように非使用者ではトレッドミル歩行条件の方が立位条件に比べて下向きに見えやすかったが、使用者ではその傾向がないことが明らかにされた。 <研究3:トレッドミルキャプチャーにおけるトレッドミル歩行長期経験の影響とその機構> トレッドミルキャプチャーにおける視知覚の調節機構を明らかにするため、トレッドミル歩行経験の全くない者と習慣的な使用者を対象とし、身体運動の長期経験による影響を検討した。 トレッドミル非経験者におけるトレッドミルキャプチャーの生成機構をより詳しく理解することを目的とした。そこで、歩くまたは立つという運動の実行に関わる情報とトレッドミル上または地面の上にいるという文脈に関する気づき(awareness)とが、それぞれ知覚のバイアスに与える影響を調べるため、トレッドミル歩行条件(W)、トレッドミル上での立位条件(Str)、床上での立位条件(Sfl)の3条件を設定した(図3)。運動の実行に関わる情報が関与するのであれば、条件Wのみで知覚バイアスが大きいと予想される。一方、運動の実行に関わる情報に加え文脈に関する気づきも関与するのであれば、トレッドミル上の2条件(条件W、Str)で知覚バイアスが大きいと予想される。本実験の参加者はトレッドミル非経験者18名であった。3条件において研究1と同様の画像を呈示し、上下どちらに動いて見えたのか回答を得た。測定には150分程度を要した。条件Wに比べて、条件StrとSflでRDRが有意に大きく、PSEが有意に小さかった(図4)。以上よりトレッドミル歩行非経験者では歩行中にのみ下向きの運動が知覚されやすくなることが確認された。これにより、運動の実行に関わる情報が主に知覚のバイアスに寄与していることが分かった。本実験の結果は、運動実行に関わる情報が通常の歩行で経験される地面の視覚的流動の方向と連関を成し、下向きの知覚バイアスを与えるという機構を示唆するものである。 [実験2:トレッドミル歩行長期経験者] 研究2で明らかになったように、非経験者で見られたトレッドミルキャプチャーがトレッドミル経験者で見られなくなる点に関してその機構を理解することを目的とした。そこで、トレッドミル長期経験者を対象として、実験1と同様の3条件で実験を行った。測定には150分程度を要した。長期間にわたるトレッドミル使用経験によりトレッドミル歩行中の光学的流動の欠如に適応すれば、非経験者で観察された条件Wでの大きな知覚バイアスが見られないと予想される。一方、トレッドミル歩行中の後方へのベルトの動きに適応すれば、トレッドミル上にいるという文脈に関する気づきだけで知覚にバイアスが生じ、その結果、条件WとStrで大きな知覚バイアスが生じると予想される。トレッドミルを使用した運動を長期間に渡り十分に経験した後の連関について調べるため、30分以上のトレッドミルエクササイズを最低週1回、直近1年以上実行している18名を対象とした。RDR、PSEとも3条件の間に有意差はなかった(図5)。また、条件WにおけるRDRはチャンスレベルであった。これにより、運動の実行に関わる情報も文脈に関する気づきも刺激画像の知覚バイアスを生じさせないことが明らかになった。 本実験の結果は、長期間に渡るトレッドミル使用経験により、トレッドミル歩行中の後方へのベルトの動きではなく、歩行に伴う光学的流動がないような運動視覚連関に適応し、下向きの知覚バイアスが消失することを示唆する。このような運動視覚連関の適応は、短時間トレッドミル歩行を経験した際に現れるものではなく、日常的な環境での歩行とトレッドミル上での歩行とを繰り返し経験することで形成され保持されるようになるものと推察される。 <考察> 3つの研究より、環境中での自己の移動を伴う身体運動が曖昧な視刺激の知覚の調節に影響を与え、さらにそれが運動経験によって変化することを明らかにした。本研究で発見されたトレッドミルキャプチャーは、運動実行に関わる情報が拘束条件として視覚的曖昧性の解決に寄与していることを示唆する。さらに、トレッドミル歩行中に、非経験者では環境中を自己が移動しているという潜在的な仮定により視刺激の運動知覚にバイアスが生じ、一方経験者では自己が運動しているにも関わらず環境中を移動していないという潜在的な仮定によりバイアスが消失したと解釈できる。本研究で明らかになった現象は、ある環境での身体運動及びその長期的経験が、脳内の潜在的予測機構を通じて、その環境での視知覚に影響を及ぼすことを示唆するものであり、身体運動と知覚の連関に関する新しい情報を提供している。これらの知見は、視知覚における不良設定問題がどのように解決されているかを理解するための一助になると考えられる。 図1 実験方法(研究1)の方法。(A)トレッドミル歩行条件。足元に設置された画面上の視刺激を注視するよう教示した。(B)視刺激として仮現運動画像(3秒)、固視点(10秒)を呈示し、固視点呈示中に運動方向を回答させた。 図2 結果(研究1実験2)。(A)各実験条件における水平縞の移動距離(横軸)に対する下向き回答率(縦軸)。(B) 各参加者におけるPSEの条件差(条件W-条件S)。 図3 実験条件(研究3)。左より順にトレッドミル歩行条件(W)、トレッドミル上での立位条件(Str)、床上での立位条件(Sfl)。 図4 トレッドミル歩行非経験者の結果(研究3 実験1)。(A)各実験条件における水平縞の移動距離(横軸)に対する下向き回答率(縦軸)。(B)各実験条件におけるRDR (* p < .05 and *** p < .001)。誤差線はSD。(C)各実験条件におけるPSE (** p < .01 and † p=.04)。誤差線はSD。 図5 トレッドミル歩行長期経験者の結果(研究3実験2)。(A) 各実験条件における水平縞の移動距離(横軸)に対する下向き回答率(縦軸)。(B) 各実験条件におけるRDR。誤差線はSD。(C) 各実験条件におけるPSE。誤差線はSD。 | |
審査要旨 | 身体運動は、我々の視知覚に常に影響を与えていると考えられる。本論文は、歩行に関わる情報によって視知覚が潜在的に調節されているという仮説のもと、仮現運動視を引き起こす曖昧運動画像をトレッドミル歩行時に呈示する実験を考案し、身体運動が視知覚に及ぼす影響について実証的な検討を行ったものである。 第1章では、身体運動中の視知覚に関連して一般的に存在する課題を指摘し、これまでの心理物理学や生態心理学のアプローチが明らかにしてきた知見と問題点を整理した上で、運動中の視知覚を理解するための本研究の枠組みを提案している。 第2章では、トレッドミル歩行時および立位時に、上下いずれかの方向に仮現運動知覚を生じる曖昧画像を足元に呈示し、心理測定関数を計測することで、運動方向に対する知覚のバイアスを調べる研究について述べている。その結果より、トレッドミル歩行中に曖昧運動画像が後方に動いて見えやすくなることを見いだし、この現象を「トレッドミルキャプチャー(treadmill capture)」と名づけている。そして、地面の上を歩く際に足元の視野に見られる光学的流動の方向に知覚がバイアスされると議論している。 第3章では、トレッドミルキャプチャーの効果が、トレッドミル歩行経験によって変化する可能性を検討している。第2章の研究参加者のトレッドミル経験を詳しく調べる事で、使用経験に応じてトレッドミルキャプチャーの効果が小さくなることを見いだしている。 第4章では、トレッドミルキャプチャーの生成と長期的なトレッドミル歩行経験による変化の機構を明らかにするための包括的な実験について述べている。トレッドミル歩行経験の全くない者と長期(1年以上)の習慣的な使用経験者を対象とし、歩くまたは立つという運動の実行に関わる情報とトレッドミル上または地面の上にいるという文脈に関する気づきとが、それぞれ知覚のバイアスに与える影響を調べている。その結果、非経験者では、運動の実行に関わる情報が知覚のバイアスに寄与していること、長期的経験者では知覚バイアスが消失することを示している。 第5章では、2~4章の研究に基づき、歩行に関する情報が視知覚における曖昧性の解消に寄与する機構、通常の歩行とは異なるトレッドミル上での視覚運動連関の長期的な経験が視知覚に影響する機構等について考察している。 本論文は、歩行のような身体運動、および、ある環境での運動の長期的経験が、視知覚に影響を及ぼすことを示す新たな現象を提示している。歩行中の眼球や頭部の動きがこの現象に及ぼす詳細な機構や、現象の結果の解釈には、将来検討する余地が残されているものの、身体運動とその経験が知覚に及ぼす影響について新たな光を当てたという点で、特に意義が認められる。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。 | |
UTokyo Repositoryリンク |