学位論文要旨



No 126605
著者(漢字) 木村,優
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,ユウ
標題(和) 情動的実践としての教職の専門性 : 教師が授業中に経験し表出する感情の探究
標題(洋)
報告番号 126605
報告番号 甲26605
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第175号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 秋田,喜代美
 東京大学 准教授 遠藤,利彦
 東京大学 教授 田中,智志
 東京大学 准教授 能智,正博
 東京大学 教授 佐藤,学
内容要旨 要旨を表示する

本研究は,教師が授業中に経験し表出する感情が,教師自身の認知,思考過程,生徒とのコミュニケーション過程に及ぼす影響を検討し,教職の専門性における感情の布置と情動的実践の意義を明らかにすることを目的としている。第I部「本研究の問題と目的」では,教職が社会文化的に情動的実践としての性格を帯びることを示した上で研究目的を明確化し,教師の感情に関する研究動向を検討した。そして,教職の専門性を意味づけてきた即興性,創造的思考,省察,自律的な発達過程に感情経験が及ぼす影響を解明する必要を示した。さらに,教職を感情労働と定義づけた先行研究の概念的,方法論的課題から,教師の感情表出様式に見出される専門的意義と,感情表出に内在する社会的機能を実践研究により検討する必要を示した(第1章)。そこで,授業における教師の感情を「経験」と「表出」の2側面から分析することを課題とし,教師への面接,質問紙,授業観察,生徒への自由記述式調査による多角的なデータ収集で構成されるフィールドワークを方法として定めた(第2章)。

以上の課題と方法に従い,第II部「授業における感情経験」では,高校教師を対象とした面接,授業観察,質問紙調査から,教職の専門性における感情の布置を明らかにする3研究を実施した。

まず,第3章では,教師の感情経験が認知,思考過程に及ぼす影響を検討した。生徒間の学び合う関係形成を授業目標に掲げ,協働学習形式で授業を行う高校教師10名への面接調査により「感情の生起現象モデル」を生成し,感情の種類によって異なる認知,思考過程が展開することを示した。喜びや楽しさといった快感情は,教師の授業への内発的動機づけを高め,柔軟な認知と創造的思考の展開を促すことが示された。そして,授業中には,新たな実践的知識の創造と実験的実行を,授業後には,既存の実践的知識の再構成を導くことが示された。いらだちや哀しみといった不快感情は,教師の認知,思考過程に悪影響を及ぼし,実践的知識の検索,実行を阻害することが示された。しかし,強い不快感情はその生起原因となった出来事の記銘と保持を促進するため,長期的な省察過程を教師に導き,過去の実践の再評価と専門的発達,成長の認識に寄与すると示唆された。苦しみや悔しさといった自己意識感情は,不快感情と同様に教師の認知,思考過程に悪影響を及ぼすが,その生起過程で内省を必要とするため,授業中の省察とそれ自体の授業後の反省を導くことが示された。授業中には,自己意識感情が状況分析に基づく既有の実践的知識の検索と実行を,授業後には,その問題点の把握と改善に寄与していた。

次に,第4章では,第3章で明らかとなった教師の認知,思考過程に影響を及ぼす感情が,教師個々人の自律的な発達過程にも影響を及ぼすのかを検討するため,生徒間の学び合う関係形成と生徒の学習意欲喚起の面で異なる授業目標を掲げる高校教師2名に面接調査を実施した。授業の特定状況に対する教師2名の認知評価様式に着目して感情経験を比較した結果,前者は生徒間対話の成立可能性から,後者は教師-生徒間の対話成立可能性から状況を評価することが示された。また,生徒の消極的授業参加行動に対して,前者はその責任主体を自己に帰属して苦しみや困惑を経験し,後者はその責任主体を生徒に帰属していらだちや退屈を経験する傾向が示された。ただし,第3章の知見に対応して,教師2名は授業目標に一致した生徒の行為から生起する快感情,自らの授業方略の失敗から生起する自己意識感情により,実践の省察,再構成,改善を行っていたことが示された。本知見から,教師は個別の学級生徒の学習と成長に責任を負う自律性を維持し,それぞれ主観的な感情経験を手がかりに授業実践を省察し専門的発達を遂げていくと示唆された。

さらに,第5章では,第3章と第4章の知見から示された教師の快感情経験の実践的意義について,人間の幸福を追求しその心理的過程を明らかにするフロー理論を用いて検討した。そのために,高校教師10名の授業4回,計40回を対象に,フローを捉えるために開発されたESM質問紙,授業観察,教師への面接調査を実施した。そして,授業におけるフロー体験は,教師の実践への没入状態,自己統制感,注意集中,時間感覚の変容を伴い,生徒の発言や活動に即興的に応じ,生徒との学習課題の協働探究を可能にすることを示した。また,フロー体験後に高まる自己感覚から教師は実践を振り返ることが可能となり,実践を再構成すると示唆された。本知見から,教師の即興性,創造的思考,専門的発達を一層促進するのが,フローに象徴される快感情経験と示唆された。そして,教師にフロー体験を導く3条件として,生徒へのフロー体験の誘発と生徒との協働探究,授業準備と教材研究の充実,授業目標と自己の能力の明確化,が示唆された。

以上第II部から,授業における感情経験が教職の専門性を意味づけてきた即興性,創造的思考,省察的実践の展開を支え促すこと,さらに,専門職としての自律性の確立と固有の発達過程に関与することが示された。特に,快感情経験あるいはフロー体験が,教師の省察的実践を一層促進することが見出された。ただし,第II部では,教師が授業進行中に経験した感情をいかなる様式で表出するのかは明らかにされていない。加えて,教師の感情表出が生徒とのコミュニケーション過程に及ぼす影響を検討する必要も課題として残された。そこで,第III部では,教職の専門性における情動的実践の意義を明らかにする本研究目的に即し,教師の感情表出に分析の焦点を定めた。

第III部「授業における感情表出」では,中学校教師の授業実践を対象とした観察,教師への面接,生徒への自由記述調査から,教師の感情表出に内在する専門的意義と社会的機能を探究する3研究を実施した。

まず,第6章では,教師が授業中に行う自己開示を発話から捉え,生徒に対して感情を開示する可能性を検討するため,中学校教師2名を対象に授業観察と面接調査を実施し,彼らが授業中に行う発話の内容分析を行った。その結果,教師は生徒の成長や自己実現を支え,生徒が自己表現可能な開かれた関係を教室に構築する意図で,半ば戦略的に自己開示を行っていることが示された。これらの意図は,ケアリングの専門職として責任と規範に基づくことを示唆するものであった。本知見から,教師の自己開示は授業方略の1つと捉えられ,教師は授業中,自らに生起した感情を生徒に開示する可能性が示された。

続く第7章では,第6章で示された教師の自己開示に内在する意図と感情の開示可能性を受け,教師の感情表出様式に感情労働と異なる側面および専門的意義が見出されるのかを,中学校教師3名の授業観察,面接調査により検討した。その結果,教師の感情表出は,快感情の誘発と不快感情の抑制という様式だけではなく,ケアリングの文化的規範に基づく快/不快感情の開示という様式を含む多面的様相を呈することが示された。本知見から,教師は自律的に感情を管理し,生徒が示す授業参加行動に応じながら自由裁量によって快/不快感情を表出していると推察された。自律と自由裁量の点で,授業における教師の感情表出は感情労働者のそれと適合しないと示唆された。つまり,教師の感情表出は,学校の要請により他律化され,自らの経済的利益獲得を目指して行われるのではなく,専門家としての自律性と生徒の利益を保証するケアリングの文化的規範に基づく自由裁量の判断で行われると示唆された。

さらに,第8章では,第7章に続き中学校教師3名の授業観察と面接,および各学級生徒への自由記述式調査を実施し,教師の感情表出に内在する社会的機能を事例分析により検討した。その結果,教師の快感情表出には,生徒の積極的授業参加行動促進および快感情誘発機能が内在すること,教師の不快感情表出には,生徒の消極的授業参加行動中断および反省促進機能と,向社会的行動喚起機能が内在することが示された。ただし,教師の不快感情表出には同質不快感情誘発機能も内在するため,生徒の消極的授業参加行動の継続,発生を導くことも示された。また,教師の快/不快感情表出に内在する肯定的機能が,先行状況との不一致性と受け手の生徒の特性により低下することが示された。本知見から,教師の感情表出には生徒の授業参加や学習へ内発的動機づけを喚起する社会的機能が内在するが,生徒の活動状況や心理・感情状態に対する思慮深い洞察を必要とする高度で専門的な授業方略であると示唆された。

以上第III部から,授業における感情表出は,教職専門職の自律的文化とケアリングの文化的活動における自由裁量に基づく「誘発」,「抑制」,「開示」という多面的な様式で構成され,生徒の授業参加,学習意欲を喚起する社会的機能を含む専門的な授業方略であることが示された。

最後に,第IV部「情動的実践としての教職の専門性」では,以上の実践研究の知見を集約し,教師の感情経験と感情表出に関する2つの理論モデルを提出した。本研究では,教師が授業中に自らの専門性を発揮し,実践-省察-再構成の繰り返しから自律的発達を遂げて行く過程で,感情が重要な役割を果たすことを示した。また,生徒の授業参加や学習意欲を高める上で,教師の感情表出は必要不可欠な授業方略であることが示された。すなわち,教職は省察的実践家としての専門職であり,情動的実践家としての専門職であることが本研究で明らかとなった。残された理論的課題として,感情経験が導く実践の変容過程を明らかにすること,初任教師と熟練教師の感情経験,感情表出方法の特徴を示すこと,教師の感情表出に内在する集団的,文化的機能を明らかにすること等を提示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中等教育において、教師が授業中に経験し表出する感情に焦点を当てることによって、教職の専門性を情動的実践の観点から分析検討したものである。論文は4部9章から構成される。

第I部第1章では、教職専門性の研究において、教師の授業中の感情経験がこれまで検討されてきていない点を指摘し、教師の感情に関する研究動向の整理検討から、教師の感情を「経験」と「表出」の2側面に分け、検討すべき課題5点を導出している。そして第2章では、これらの課題における研究方法と論文全体のアプローチが論じられる。

第II部では、授業における教師の感情経験が検討される。第3章では、高校教師への面接調査の質的分析より感情の生起現象モデルを生成し、快感情が柔軟な認知と創造的思考の展開を促進し、不快感情が実践の再評価を通して長期的省察過程を導き教職専門性を促すことを明らかにしている。第4章では、授業目標が異なる2名の教師の、類似状況場面での認知評価様式の比較検討から両者の感情経験の相違を明らかにし、個別独自の主観的感情経験からの省察が教職専門性発達の要因となる点を示している。第5章では、授業中のフロー体験に焦点を当て、生徒へのフロー体験の誘発と協働探究、授業準備と教材研究の充実および授業目標と自己能力の明確化の3条件が教師のフロー体験を導くことを示している。

第III部では、感情表出が検討される。第6章では、中学校2名の教師の授業中の自己開示に関する発話内容分析から、教師の自己開示が授業方略の一つとして捉えられることを示し、第7章では3名の教師の自己開示に内在する教師の意図と感情表出様式を検討し、教職専門職としての自律性とケアリングの文化的規範に基づく感情規則に準じて感情を表出していることを明らかにしている。そして第8章では、教師感情表出の社会的機能としての動機づけ機能を生徒への面接調査から明らかにし、高度な専門的判断を行っている点を教師への面接調査から示している。

第IV部では、実証研究を踏まえ、教師の感情経験と表出に関する理論モデルを提示し、授業中の情動が方略として教職専門性に果たす意義と今後の課題を論じている。

本論文は、教師の専門性を感情の点から初めて取り上げ、授業中の感情経験と表出の意義を記述した点で独自性が高い学術論文であり、これからの教職研究に新たな視座を提示した論文であると高く評価された。よって本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに十分にふさわしい水準にあるものと判断された。

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