学位論文要旨



No 126606
著者(漢字) 長友,洋喜
著者(英字)
著者(カナ) ナガトモ,ヒロキ
標題(和) 声楽教育における科学的研究と実践的ディスコース : フレデリック・フスラーとコーネリウス・L・リードを中心に
標題(洋)
報告番号 126606
報告番号 甲26606
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第176号
研究科 教育学研究科
専攻 学校教育高度化専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,学
 東京大学 教授 秋田,喜代美
 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 教授 田中,智志
 東京大学 准教授 藤村,宣之
 東京芸術大学 教授 佐野,靖
内容要旨 要旨を表示する

本研究の主題は、声楽教育における科学的研究と、声楽教育実践のディスコースとがいかに関わるのかについての、フレデリック・フスラー及びコーネリウス・L・リードという二人の教育実践者の思想の事例を解釈検討することにある。本研究は、フスラーとリードの思想の記述を、声楽教育における科学と実践との関わりというメタ的な視点からの本研究の問題意識を反映する言説として捉え、それらの言説を論理的解釈によって分析した。

第一部においては、フスラーの声楽教育を事例とした考察を行った。

第一章では、フスラーが声楽教師として活動を始めた1922年以降没年の1969年までの、ドイツの社会的情勢と音楽史的事実を概観しつつ、声楽教育に関する科学と実践との対立構造に関するフスラーの認識を検討した。この検討では、フスラーが、「精密科学を誇らしげに栄えさせる」のではなく、声楽家や教師の実践における「体験」を「理解」するために科学を利用することを要求していたことを明らかにした。この要求には、科学的探究、若しくは実践的体験のいずれかへの偏向ではなく、両者を融合的に捉える必要性を指摘するフスラーの認識が反映されていた。さらに、実践的な体験を、科学の枠組みと関連付けて考える可能性をフスラーが模索していたことを読み取ることができた。

第二章では、フスラーの「歌唱能力」の定義を考察した。この考察では、歌唱音声の美しさは、全人類に共通な「解剖学的構成」を持つ発声器官の運動を経て生まれる以上、発声器官の歌唱機能を活性化させることで「歌唱能力」は十分に発揮され、その意味で「歌唱能力」は全人類が潜在的に有するものであるというフスラーの主張を確認した。この主張の特徴は、歌うことは、限られた人間だけが有する、特殊で神秘的な能力であるとする見解が批判されている点にあった。そしてこの批判の背景には、フスラーの時代において、歌う能力が神格化され、歌唱音声の美しさが空想的なものとされる状況が存在していたことが示唆されていた。歌唱音声の美しさを、発声器官の運動様式の反映であると捉えたフスラーの認識には、「歌唱能力」の指し示す意味を限定することで、声楽教育の追求対象たる「歌唱能力」を緩やかに定義せんとする意図が示されていたことを明らかにした。

第三章では、「模倣」行為についてのフスラーの思想を検討した。フスラーは、「耳の感受性」を発達させることにより、様々な声楽発声の音質の違いを聴き分ける能力を養うことの重要性を主張した。この主張においてフスラーが強調した論点は、声楽教育における「模倣」の有効性であり、その有効性を説明するために彼が提示したのは、聴覚が脳を通じて発声器官を制御するという仮説であった。この仮説を検討し、フスラーが「模倣」を、聴取された音質の情報が脳に送られ、その音質と同じ音質が発されるように脳が発声器官を制御する過程であると考え、その意味で発声器官の運動は、脳を通じて、聴覚によって間接的に制御されていると考えていたことを示した。聴取能力の瑕疵は発声器官の運動の瑕疵に繋がり、ひいては「模倣」そのものの瑕疵に繋がるというフスラーの認識を読み取ることができた。すなわち、脳を通じて発声器官を制御するところの聴覚を歌い手が発達させることが、発声器官の適切な運動を真に喚起する「模倣」に繋がるというフスラーの認識を明らかにした。

第四章では、フスラーの「発声訓練」の定義を分析した。この分析では、彼の言うところの科学的知識が、声楽教育実践者らの感覚や経験を整理し、発声訓練の混乱を防止するという意義を有していたことを明らかにした。同時に、実践的な感覚や経験を科学と関連付け、科学的基礎を与えることの可能性が示されていることを確認した。フスラーによって強調されたのは、その科学的基礎が仮説であったとしても、声楽発声の開発に有効であれば、教育実践はその仮説に基づいて行われるべきであるという点であった。たとえば「アンザッツ」は声を身体のある箇所に「当てる」という感覚で、発声器官の運動を原因としていることが推測されるが、その因果関係を科学的に実証することは困難であると述べられた。しかし「アンザッツ」の概念が声楽教育実践において有用であることが経験的に明らかである以上、「アンザッツ」という感覚の原因と推測される発声器官の運動を描写するために、解剖生理学的知識の枠組みを利用することが許されると主張されていた。こうした主張から、フスラーにおいては、実践の経験を説明するための仮説を形成するために、科学的知識が必要とされていたことを示すことができた。

第二部においては、リードの声楽教育を事例とした考察を行った。

第五章では、戦後アメリカを中心とする音楽史的概観を本研究に必要な範囲で確認しつつ、17世紀イタリアに端を発する伝統的な声楽教育の歴史に関するリードの認識を検討した。リードにおいては、古代ローマから伝統的に受け継がれ、17世紀イタリアに隆盛を迎えたオペラにおける歌手の声楽教育が、「黄金時代」として位置づけられ、一方で声楽教育の「衰退」期が18世紀以降と位置づけられていることを明らかにした。その「衰退」の要因としてリードが挙げたのは、声楽教育実践に対する科学の「進出」であった。科学への彼の批判は、声楽教育実践を効率化するために導入されたはずの科学が、結果として声楽教育実践の混乱を招くような知識を生み出したという認識に基づいていた。また、科学が、声楽教育実践者らの体験や感覚を、実証が不可能であるがゆえに否定したという認識をリードが有していたことを示すことができた。

第六章では、リードの「美しい歌唱」の概念における声の「真の美しさ」の定義と、その判断基準について検討した。ここで検討したリードの主張の特徴は、発声器官の運動過程の適正さが、声の「真の美しさ」の前提条件とされている点にあった。「真の美しさ」は、声楽歌唱の楽器たる身体を正しく使うことによって生まれるものであるというリードの認識を明らかにした。また、声楽教育実践において、声の「真の美しさ」を判断する際の「音響学的分析」の位置づけについて考察し、「音響学的分析」は、声の音質を分類整理するという意義は有するものの、声の「真の美しさ」の判断基準とはならないとリードが考えていたことを示した。すなわち「真の美しさ」とは、聴覚の熟達による実践的感覚によって判断されるものであり、科学的には定義しえないものとして位置付けられていたことを明らかにした。

第七章では、発声器官の制御方法に関するリードの主張を検討した。まず、発声器官への人為的な作用力の付与は困難であるという認識から、発声器官に何らかの作用力を働きかけることよりも、結果として発声器官の運動が生じるように仕向けることが必要であるとリードが考えていたことを確認した。その上で、発声器官の運動は、「精神的概念」と呼ばれる、脳裏に描かれた、理想的な音質のイメージを如実に反映するというリードの認識を把握し、精神が身体に及ぼす影響の大きさをリードが理論的前提として据えていることを明らかにした。さらに教師の歌唱の流儀や歌いまわし等の個人的特徴を、生徒に単に写し取らせるのではなく、声楽歌唱において理想とされる音質のイメージを脳内に形成させ、そのイメージを目指しつつ発声させることこそが、声楽教育実践において有用な模倣活動であるとリードが認識していたことを示した。

第八章では、声楽教育における「科学的知識」と「経験的知識」との関係についてのリードの主張を検討した。この検討で明らかにしたのは、リードが、発声に関する科学的分析による知識と、発声行為の状態を改善しうるがゆえに声楽教育における実用性を有する知識とを、明確に区別しているという点であった。その上で、声楽教育における実用性を有する知識としてリードが提示した「経験的知識」の概念を検討した。彼が「経験的知識」の概念において重要視したのは、その知識が科学的に実証可能かどうかという問題ではなく、その知識が発声を改善する効用を有することが経験的に確認されているかどうかという点であった。それゆえ、声楽教育実践における効果が「経験と直観」によって証明されている「経験的知識」は有用なものであると位置づけられていることを示した。さらに、「経験的知識」を積極的に利用した教育実践を行ってゆくことの必要性がリードによって示唆されていたことを推察した。

先行研究は、フスラーとリードの声楽教育に関して、科学的分析、或いは実践方法の有効性の検証を行ってきた。フスラーとリードの思想には殆ど触れられていない。しかし本研究で検討したように、フスラーとリードについては、声楽教育の根本的な問題に関する思想の記述に着目することができた。特に、それらの記述に、声楽教育における科学と実践とがいかに関わるべきであるのかというメタ的な視点からの価値判断が内包されていることは、歴史的に大きな意義を有している。教育実践における実践者らの経験をいかに体系化してゆくのか、そしてその際に科学的研究はいかなる意義を有するのかという問いは、現在の声楽教育においても、主要な関心対象の一つである。フスラーとリードの思想は、科学的研究と声楽教育実践におけるディスコースがいかに関わっているのかというこの問いを考える際の一助となりうるという点において、現在にまで引き継がれる意義を有していると言える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、声楽教育の近代化に貢献した代表的な二人の指導者、フレデリック・フスラーとコーネリウス・L・リードの発声指導における「科学的知識」と「実践的知識」の関係を、それぞれの理論と実践に即して探究している。本論は、フスラーの功績について探究した第1部(4章)とリードの功績について探究した第2部(4章)で構成されている。

第1部においては、フスラーが声楽教師として活動を開始した時期のドイツ音楽の背景を記した後、彼が「科学的研究」と「実践的体験」の融合を求め、「体験」を理解する枠組みとして「科学」を活用した経緯が提示される(第1章)。続いて、フスラーが歌唱能力の神秘主義を脱却し、「解剖学的構成」をもつ発声器官の潜在的能力の活性化を歌唱指導の中心目的とし(第2章)、「耳の感受性」を発達させ聴覚が脳によって間接的に発声器官を制御するという仮説にもとづいて、「模倣」の教育的意義を主張したこと(第3章)、さらに、発声訓練において科学的知識が指導の混乱を防止する効用を指摘するとともに、科学的基礎が仮説に過ぎなくとも発声の開発に有効であれば教育実践はその仮説によって探究すべきであるというフスラーの主張が示され、その実例として「アンザッツ」(身体の部位に声をあてる発声法)の指導法が検討されている(第4章)。

第2部においては、アメリカの音楽史の背景、およびリードが17世紀に隆盛を迎えたイタリアのオペラにおける声楽教育を「黄金時代」と認識し、近代科学が声楽指導に「衰退」をもたらしたという認識を有し(第5章)、リードが「音響学的分析」の効用について批判的に検討して、発声の「美しさ」は聴覚の熟達による実践的感覚に依拠すべきことを主張した論拠が分析されている(第6章)。続いて、リードが発声器官の制御は「精神的概念」と呼ばれる音質のイメージによって間接的に可能であると認識し、その有効な方法が「模倣」にあると提唱していたこと(第7章)、およびリードにおいては指導の有効性が科学的実証性よりも経験による確証を優位におく論理で「科学的知識」と「経験的知識」の関係が模索されていたことが、発声指導の実例の分析によって示されている(第8章)。

本論は、声楽指導の近代化における「科学的知識」と「実践的知識」との統合と相克の様態を二人の指導的な実践家の理論と実践に即して詳細かつ精緻に分析し、科学と芸術、科学と経験という対立の葛藤の中で声楽指導法が形成される歴史的過程を、実践者の探究を内在的に照射し解明する方法で描き出すことに成功している。さらに本論は、今日、学校内外に普及し一般化している声楽指導のさまざまな技術の歴史的な由来を示し、それらの指導技術の科学的知識との関連と実践的経験における根拠を示している点においても重要な知見を提供している。

よって、本論文は、博士(教育学)の学位に十分に達しているものと評価された。

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