学位論文要旨



No 126608
著者(漢字) 縣,拓充
著者(英字)
著者(カナ) アガタ,タクミツ
標題(和) 美術の「創造的教養」を育成する実践の開発とその効果の検討
標題(洋)
報告番号 126608
報告番号 甲26608
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第178号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡田,猛
 東京大学 教授 市川,伸一
 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 准教授 藤村,宣之
 埼玉大学 客員教授 小澤,基弘
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的と概要

現在は「knowledge age」と呼ばれるように,新しい知の創造に価値が置かれ,またそれが社会に多大な恩恵を与える時代である(Drucker, 1993; Florida, 2003; Bereiter & Scardamalia, 2006)。それに対応して,心理学の領域でも,創造活動の理解,あるいは支援・促進を試みた研究は増加していると言えよう。とりわけ熟達のための要件や(e,g, Ericsson & Charness, 1994; Gardner, 1993; Hayes, 1989),協同が創造的なパフォーマンスにもたらす影響(e.g., Dunbar, 1995; Okada & Simon, 1997; 植田・丹羽, 1996)に関しては,多くの知見が蓄積されている。

しかしながら,このように創造活動に関わる研究が進展を見せている一方で,創造的熟達者やそれを志した経験を有する一部の人を除いて,ほとんどの市民が創造の過程や方法に関する知識や経験を持たない現状が存在することも紛れもない事実である。フォーマルな教育は,科学の研究開発,芸術の創作を含め,社会の中で創造活動がいかになされているかということについて知る機会をほとんど提供していない。その結果,多くの創造的領域では,創造・表現を行う一部の専門家と,その活動には関与せず,専ら享受あるいは消費することを行う一般市民とが明確に乖離してしまっている(e.g., Stiegler, 2004; 高階, 1993)。また,「創造には天才的な閃きが不可欠」「一部の才能を持った人にしかできない」といったイメージを指す「創造性神話」に代表されるような事実は異なるステレオタイプを,多くの市民が形成してしまっていることもしばしば報告されている(Sawyer, 2006; Weisberg, 1986)。

本論文では,まず第1章において,このように多くの市民が創造活動について知ったり関わったりすることのない現状を概観した上で,社会の中に「創造的教養人」が多く存在することの意義について論じた。「創造的教養人」とは,「創造的教養」を備えた市民のことを指し,それは1) 創造活動の過程や方法についての理解,及び,2) 日常生活の中で何らかの創造活動と親しむ態度や志向,習慣,という2つの側面から定義される(縣・岡田, 2010)。このような創造的教養人の増加によって,創造を取り巻く様々な活動が活性化され,その創発の中でより多くの,またよりユニークな創造的産物が生み出されるようになると推測されるだろう。

そして第2章から第5章において,美術を題材に「創造的教養」を育成するための実践的・理論的知見を得ることを目的とした4つの実証的研究を行った。その際は,実践研究と質問紙調査とを組み合わせた「マルチ・メソッド」による研究アプローチ(Klahr & Simon, 1999; 岡田・横地・石橋, 2004)を採用した。このような研究のサイクルを回していくことによって,美術の創造的教養に関わる現状の問題を生態学的妥当性の高いかたちで抽出するとともに,それを改善するための有効な知見を得ることが可能になると考えられたためである。

研究1,2:「創作プロセスに触れること」の教育的効果

まず研究1,2では,「創造活動に触れること」をコンセプトに据えた実践が持つ教育的効果の探索的な検討を行った。研究1(第2章)では,総合大学の教養教育において,「アーティストとの協働の中で,真正な美術の創作プロセスに触れること」をコンセプトに据えた授業をデザインし,実践した。授業は大学1年生11名を対象に行われ,実践終了後約1年半経過した時点でのインタビューによってその教育的効果を検討した。その結果,参加した学生は本実践を通じて創造や表現に関する認識を改め,さらに表現をすることへの動機づけを高めていたことが示唆された。さらに,実践の記憶は学生それぞれの記憶に強く残り,生き方の探索にも生かされる重要な体験として位置づいていた。このような成果は,創造的領域の熟達者になることを目指すわけではない大学生に対しても,教養として何らかの創造活動に触れる機会を提供する意義を提起するものであると考えられる。

続いて研究2(第3章)では,より広い市民を対象に介入を行うために,ミュージアムの中で「アーティストと市民のコラボレーション作品の展示」「作品創作プロセスに関する情報の展示」という2つの実験的な試みを行った。13ペア26名の大学生・社会人を対象に,各展示の鑑賞前後に実施した質問紙調査の分析に加え,ICレコーダーによって録音した会話から,鑑賞のプロセスを検討した。分析の結果,コラボレーション作品の展示は,被験者に近い立場である「ワークショップに参加した学生」の視点からの鑑賞を促していたこと,そして,アーティストのパーソナリティや社会性に関するステレオタイプを緩和する可能性を持っていることが示された。他方で創作プロセスに関する情報の展示は,「アーティストの視点」から作品を眺め,解釈することを促し,また特にアーティストの活動と自分の何らかの人生経験とを結びつけるような会話の生成を促した。さらに回帰分析の結果から,そのような会話は,美術創作に対する創造性神話の緩和や,アーティストに対する親近感につながっている可能性が示唆された。

これら2つの知見は,いずれも「創作プロセスに触れること」が市民にもたらす教育的効果を明らかにしたという意味で意義深いと考えられる。どちらの研究でも共通して,創作プロセスに触れることには,創造活動に対するステレオタイプを緩和し,さらにアーティスト,あるいは創造活動それ自体に対して親近感を形成させる効果があることが明らかになったと言えよう。

研究3:創造活動に対するステレオライプが及ぼす影響

研究1,2の結果から得られた示唆を踏まえ,研究3(第4章)では,「創造性神話に代表されるステレオタイプは,人々を創造から遠ざける認知的な制約として機能している」という仮説の検証を目的に,質問紙調査を実施した。対象となったのは,首都圏の大学・専門学校に通う306名の学生である。調査の中では,美術に対するイメージや,表現・鑑賞に対する動機づけ等について尋ね,構造方程式モデリングを用いてそれらの変数間にある構造的な関係性を検討した。

最終的に採用されたモデルをFigure 1に示す。分析の結果,仮説は概ね支持された。まず,「創造を行うには才能が必要」「卓越した技術や閃きの才が不可欠」といった創造活動に対するステレオタイプを強く持つ学生ほど,表現に対する効力感が低かったり,美術に対してネガティヴなイメージを形成していることが認められた。さらに,表現に対する低い効力感やアートに対するネガティヴなイメージはどちらも,表現・鑑賞に対する低いレベルの動機づけを予測した。このような知見から,創造性神話に代表される創造活動に対する誤った認識は,表現や鑑賞を行う上での一つの阻害要因として機能しうることが実証的に示されたと言えよう。加えて,表現のみならず,鑑賞への動機づけを持たせる上でも,「創造活動に対するステレオタイプ」,あるいは「表現に対する効力感」に介入するというアプローチは有効である可能性が示唆された。

研究4:表現への動機づけを促す美術展示及びワークショップ

研究4(第5章)では,研究3の結果を受け,創作や表現へのステレオタイプを緩和する,そして,表現に対する効力感を高めるというアプローチから,より意識的に「美術の表現を促すこと」を試みる実践をデザインした。具体的には,2名のアーティストの創作プロセスに焦点を当ててキュレーションやデザインを行った美術展示,及び,アーティストが日常的に行なっている活動をhands-onで体験させるワークショップを行い,それぞれがもともとの表現への動機づけのレベルが異なる学生にどのように影響するかを,計4度の質問紙調査によって検討した。

分析の結果,創作プロセスを見せる展示は,美術に対する認識を変える上では有効なものであったが,表現を促すという効果は限定的であった。特に,もともと表現に対して強い抵抗感を有していた学生に対しては,創作活動に対するイメージを変えることが必ずしも表現への動機づけにはつながらなかった。

しかしそれに加え,特別な技術や閃きを要さずとも可能なワークショップを体験させ,美術表現に関する成功経験や,アーティストによる「真正性」が付与されたフィードバックを直接的に与えることで,美術に対して苦手意識を持っていた学生も,創作や表現を身近にあるものとして位置づけるに至った。これらのことから,創造的教養の中でも特に表現と親しむ態度や習慣を形成させる上では,もともと持つ表現に対する動機づけのレベルやその理由に応じて,創作活動に対する認識を変えることのみならず,「hands-onによって実際に真正な表現を体験させ,効力感を高める」という介入が必要となる場合があることが明らかになったと言える。

Figure 1 創造活動に対するイメージから表現・鑑賞への動機づけへの影響

審査要旨 要旨を表示する

現代社会においては、市民の多くが創造活動の過程や方法に関する知識を持たず、また創造活動に携わることもしないという現状がある。本論文は、その現状を改善するためには社会の中に「創造的教養」を持った市民がたくさん存在することが必要であると考え、美術館や大学での実践を企画し、その教育効果を実証的に検討している。「創造的教養」とは、1) 創造活動の過程や方法についての理解、及び、2) 日常生活の中で何らかの創造活動と親しむ態度や志向、習慣、という2つの側面から定義される。本論文では、美術領域での「創造的教養」を育成するために、以下の4つの実証研究を行っている。

研究1(第2章)では、大学の教養教育において、「美術家との協働の中で、真正な創作過程に触れること」をコンセプトに据えた授業を企画し、実践している。授業実践終了後のインタビューの結果、参加した学生は実践を通じて初めて真正の創造活動というものを知り、創造の過程に関する認識を改めていたことが示唆された。

続いて研究2(第3章)では、美術館の中で「作品創作過程に関する情報」を展示する試みを行い、質問紙調査と会話分析に基づき展示の効果を検討している。その結果、創作過程に関する情報の展示が、「美術家の視点」からの鑑賞、とりわけ「美術家の活動と自分の人生経験とを結びつけるような会話」の生成を促し、そのような会話が美術創作に対する創造性神話の緩和や、美術家に対する親近感につながっていることを示している。

研究3(第4章)では、研究1、2の結果から導出された「創造性神話に代表されるステレオタイプが、人々を創造から遠ざける認知的な制約として機能している」という仮説の検証を目的とした質問紙調査を実施している。構造方程式モデリングによる分析の結果、仮説は概ね支持され、「創造を行うには天才的閃きが不可欠」などといった創造活動に対するステレオタイプは、表現に対する低い効力感や美術に対するネガティヴなイメージを予測し、それらを介して表現・鑑賞への動機づけを低下させていることが明らかになった。

研究4(第5章)では、作品創作過程に焦点を当てた美術展示と、実際に表現活動を体験させるワークショップの2つの実践を行い、それぞれが参加者の表現への動機づけにどう影響するかを検討している。その結果、創作過程を見せる展示は、美術に対する認識を変える上では有効なものであったが、表現への動機づけを高めるという効果は限定的だった。しかし展示の鑑賞に加え表現活動も実際に体験させると、表現に強い抵抗感を抱いていた参加者の動機づけも高めることが明らかになった。

本論文は、「創造的教養」という新しい概念を提唱し、その育成のための教育実践を企画実証し、実証的な効果測定を行った初めての論文であり、極めて独創性の高い論文であると評価される。よって、本論文は博士(教育学)の学位を授与するにふさわしい水準にあるものと判断された。

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