学位論文要旨



No 126609
著者(漢字) 池田,雅則
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,マサノリ
標題(和) 私塾の近代 : 地域指導者層の私塾長善館が果たした役割の変化過程
標題(洋)
報告番号 126609
報告番号 甲26609
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第179号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今井,康雅
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 小玉,重夫
 東京大学 教授 牧野,篤
 東京大学 教授 橋本,鉱市
 学習院大学 客員教授 斉藤,利彦
内容要旨 要旨を表示する

「学制」発布後、小学校尋常科程度の教育を修めた人々にとっては、現代とは大きく異なる学習歴形成の世界が広がっていた。19-20世紀転換期にかけて、中学校を頂点とする序列的・複線的な中等教育制度が整備され機能していく。だがそれまでは、ノンフォーマルな各種学校、私塾や結社の教育もまた盛んであった。これらの教育機関は、なぜ人々に支えられ隆盛したのか。そこでは、どのような教育がなされ、人々は何を学んだのか。

本研究のねらいは、近代日本における私塾が果たした役割とその変化について、「学習歴」の社会的評価と「カリキュラム」に着目しながら、問うことである。

本研究では、ノンフォーマルな教育機関とフォーマルな教育機関との比較を念頭におきながら私塾の役割を捉えていく。「ノンフォーマル」な教育とは、近代学校教育の枠組の外で特定の集団に対して一定の様式の学習を用意する、非組織的、非体系的で習俗的な「インフォーマル」な教育とは異なる、組織化され体系化された教育を指す。対して、「フォーマル」な教育とは、オフィシャルな権力の枠内で高度に体系化・組織化・維持された学校教育を指す。私塾はノンフォーマルな教育機関の典型である。

本研究に取り組む動機は2つある。ひとつは教育史上の問いに発する。序列的・複線的な中等教育制度が確立するまでは、ノンフォーマルな教育機関が大きな比重を占めていたことが知られるが、その役割が十分明らかになっていないことである。もうひとつは、現代の教育をめぐる慣行や価値観について歴史的視点から反省的に捉えなおしたいという意識に発する。現在では、近代学校の価値が相対化されフォーマルな教育を絶対視するような慣行は一部転換を迎えつつあるが、全ての年少者の人生設計と価値観にフォーマルな学校制度は大きな影響を与えつづけている。

本研究では、近代私塾の役割を問う観点として私塾における「学習歴」の社会的評価とその「カリキュラム」に着目した。「学習歴」の観点は、フォーマルな教育機関と比較において私塾の役割と地位を位置づけるために用いる。「カリキュラム」の観点は、私塾が年少者を集め、社会に評価されるために不可欠な要素だとみられるために用いる。

私塾は、「カリキュラム」、学習者の特質、どれをとっても独自性が強い教育機関である。それゆえ、私塾を対象として本研究が関心を持つ論点について検討していく際には、個別事例を対象とした研究が不可欠である。本研究では、中心的な対象を新潟県農村の地域指導者層に支えられた私塾である長善館に定めた。一方で、統計資料などを用いて個別事例だけからは把握できない全国的な私塾の動向についても検討した。

本研究は、3つの部と12の章で構成されている。

まず第1部(第1章から第3章)では、本研究の課題と方法論を示すとともに、全国的な視野における私塾の動向について検討した。

第1章では、教育学および教育史にわたる先行研究の批判的検討と本研究の方法論について考察した。先行研究の課題は次のことがあげられた。第一に、教育学・教育史研究において当然視されてきた、ノンフォーマルな教育をフォーマルな教育に従属させる序列的な教育施設観の問い直しである。第二に、教育運動の成果を軸に時期区分を設定する歴史観とは異なる時期区分の提示である。第三に、地域指導者層に関わる歴史研究の成果の活用である。方法論としては、これまで十分に活用されなかった日記や作詩文という教育実態に即した史料や府県レベルの統計書類を使用すべきこと、大量に史料が残る個別事例に検討を絞ることで一貫した論述を心がけるべきことを提示した。

第2章では、本研究が注目するフォーマルな中等教育から独自に相対的な地位を保ちえた、私塾のカリキュラムの全国的な動向について、私塾を多く含む各種学校の統計資料から把握した。ここから、1890年代半ばから世紀転換期にかけての時期が、私塾にとっての重要な転換期であったことが示された。この時期に、ノンフォーマルな教育機関のカリキュラムの自律性・独自性が失われていったことが示された。

第3章では、長善館を含む新潟県越後平野周辺という地域に範囲を絞って、第2章と同様に私塾を含むノンフォーマルな教育機関の動向について把握した。そして、この範囲でも全国的動向と同様な動向が読み取れることを確認した。また、いくつかの教育機関を取り上げ、それらのカリキュラムと子弟の学習歴を具体的に検討した。そしてフォーマルな教育機関に対して、ノンフォーマルな教育機関が1890年代半ばまでは独自な発展を遂げようとしていたことを示した。

第2部と第3部では、長善館のカリキュラムとその学習歴の社会的評価の変化過程について検討した。本論にあたる部分となる。長善館は、天保期から明治末期まで長期にわたり継続した全国有数の私塾であり、本研究の方法論に適う大量の史料が残されている。

第2部では、長善館が漢学塾として設立されて以来担った性格と役割について検討した。長善館が長い時間をかけて、フォーマルな近代学校に回収できない独自な文化を築き上げてきたことを示した。

第4章では、門下生の特徴とその裾野の拡がりを検討しながら、80年余りにわたって塾を支えていた地域的基盤について明らかにした。長善館が地主層や僧侶などの地域指導者層の人脈を基盤としていたことを明らかにした。

第5章では、近代に入り変化を見せていく長善館の前提となった、維新期までのカリキュラムと門下生の学習歴形成の特徴について、塾の設立にまでさかのぼって検討した。塾のカリキュラムが館主の指導する儒学と塾生たちの自主的な学習によって構成されていたこと、塾生たちが自らの関心にしたがい多様な地域に遊学していったことを明らかにした。

第6章では、維新期、そして「学制」を迎えた長善館がみせたカリキュラムの変化、および「学制」に対する塾と地域の反応について検討した。館主が2代目に代替わりするとカリキュラムが時流に乗った歴史書・国典を包含した和漢学に変容したこと、地域指導者層において小学校教育への要求と漢学教育への要求が並存していたことを明らかにした。

第7章では、開塾以来明治前期に至るまでの人々を惹きつけた長善館のカリキュラムである、人脈づくりにつながる漢詩文教育の実践と役割について検討した。

第3部では、一進一退しながら徐々に形成されていった「学制」以降のフォーマルな学校体系を横に睨みながら、長善館が独力で模索した「近代教育」について検討した。ここから1890年代半ばまでのノンフォーマルな教育機関が、独自のカリキュラムと学習歴形成を構想しえたことを具体的に描き出した。

第8章では、長善館が漢学塾ながら遊学促進の役割を担い、学習歴形成において都市の近代学校と積極的なつながりを保っていたことについて明らかにした。長善館は、近世以来の人脈を活用して遊学の成功を支援し、漢詩文教育を通して塾生の遊学への意識を鼓舞していた。

第9章では、明治前期の長善館から東京に遊学した門下生がたどった学習歴について検討した。遊学者たちが自らの課題意識にしたがって、ノンフォーマルな教育機関を多様な形で活用していたことを明らかにするとともに、学校間接続の不安定さが遊学者にもたらす不利益についても明らかにした。

第10章では、1880年代半ばから1890年代半ばにかけて長善館が取り組んだ教則改定について検討した。長善館は、フォーマルな中等教育の「代替」「代位」、初等教育の「補充」「補完」という範囲に収まらない、独自なカリキュラムの展開をみせていたことを明らかにした。

第11章では、世紀転換期を迎えた長善館の変化と塾閉鎖後の館主と地域指導者層の動向について検討した。末期の長善館では、フォーマルな学校と並ぶような中等教育の役割が後退していったが、指導者層としての態度育成などの地域指導者層育成の役割は維持されつづけたことが明らかにした。

そして第12章では、本研究全体の総括をするとともに、今後の研究の展望について示した。本研究で明らかになったことは、次のとおりである。第一に、1890年代半ばまでの中等教育において、私塾を含むノンフォーマルな教育機関が、学習歴の社会的評価とカリキュラムの面においてフォーマルな学校に対し相対的に独自な地位を維持していたことを明らかにした。第二に、近代学校への遊学を奨励した私塾は、フォーマルな学習歴の定着に掉さす役割も果たしていたことを明らかにした。第三に、私塾にはフォーマルな学校に対して独自なカリキュラムの内容と水準を有する近代教育を模索する系譜があったことを明らかにした。第四に、私塾は地域に根差した教育文化が反映された独自な役割を長く維持しつづけたことを明らかにした。

また本研究の成果に基づいて今後取り組むべき課題について、いくつか提示した。第一に、地域指導者層の内面形成と私塾のカリキュラムとの関連性についてより深めた検討を進めることである。第二に、地域・階層間の比較を行うことで、全国的な動向では十分汲み取れないそれぞれの特色を明確に示すことである。第三に、世紀転換期以降に隆盛した女子教育や実業教育にかかわるノンフォーマルな教育機関を対象として、そのカリキュラムと学習歴形成の社会的評価について検討を進めることである。第四に、歴史的来歴の異なる他国・他地域におけるノンフォーマルな教育機関の発展と比較検討することで、今後より高まっていくことが想定できるノンフォーマルな教育機会に対する関心を着実な知識に基づいた理解に導いていくことである。

審査要旨 要旨を表示する

近代日本教育史は、「学制」で構想されたフォーマルな学校体系の漸次的実現として描かれるのが通例である。しかし現実には、独自のカリキュラムを持つ私塾が明治期になっても存続し、そこでの学習歴は一定の社会的評価を受けていた。本論文が主な対象とする越後粟生津村の漢学塾長善館はそうした私塾の一つであった。本論文は、近代私塾が果たした独自の役割に注目しその実態を解明することで、教育における近代の重層性を浮き彫りにした研究である。

本論文は3部12章から成る。第1部では、第1章で先行研究を検討し本研究の課題設定を行った後、第2章では統計資料を用いて明治期私塾の全国的な動向を、第3章では越後平野における私塾の状況を、フォーマルな学校との関連をも視野に入れつつ明らかにし、長善館の置かれた歴史的・地域的文脈を再構成している。第2部以下では長善館に焦点を絞って分析がなされる。第4章では、入門者のデータから長善館を支えたのが農村の地域指導者層であったことが明らかにされる。第5章では初代館主鈴木文台(1796-1870)時代の、第6章では二代目湯軒(1836-1896)時代の長善館の動向が描かれる。重点の移動はあったもののカリキュラムの枠組みは明治期に入っても漢学であり、その背後には漢学的教養への地域指導者層の期待があった。第7章では、漢詩文をやりとりするような「つきあいの文化」(辻本雅史)が地域指導者層に共有され、そうした教養は遊学においても有利に働いたことを明らかにしている。第3部では次第に浸透していくフォーマルな学校体系への長善館の対応が描かれる。第8章が対象とする1880年前後になると、高等教育機関への入学を果たそうとする門人たちの遊学を長善館は人脈面でもカリキュラム面でも積極的に支援していく。第9章では、そうした遊学者の一典型として、湯軒の次男鹿之介(1861-1887)の学習歴が活写される。その後長善館は、夭折した鹿之介に代って三男時之介(1868-1919)が三代目館主となり、漢学の他に英学や数学を取り入れて独自の中等教育カリキュラムを模索するが(第10章)、1890年代半ば以降になるとその地位は師範学校の予備門的水準に低下し、1912年の閉館に至る。ただし長善館は、漢学的教養を基盤とした地域指導者養成という役割を最後まで持ち続けた(第11章)。第12章で本研究の成果と残された課題を提示して本論文は閉じられる。

以上のように、本論文は、膨大な一次史料の解読によって、三代にわたる漢学塾のカリキュラムと、門人たちの学習歴の具体相を明らかにすることに成功している。フォーマルな学校体系とは一線を画した近代私塾の実態は、フォーマルな学校体系へのその順応の局面を含めて、近代日本教育史への新たな視点を提示するものであり、今後の教育学研究に重要な寄与をなすことが期待できる。以上により、本論文は博士(教育学)の学位論文としての水準を十分に満たしているものと評価された。

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