学位論文要旨



No 126613
著者(漢字) 山本,一生
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,イッセイ
標題(和) 戦前期山東省青島における近代学校形成に関する研究
標題(洋)
報告番号 126613
報告番号 甲26613
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第183号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 教授 小玉,重夫
 東京大学 教授 橋本,鉱市
 東京大学 教授 牧野,篤
内容要旨 要旨を表示する

本研究のねらいは東アジアにおいて教育を通じた近代化の過程について、「連続/断絶」を軸にその具体的な様相を検証することである。研究対象として、1900年代から20年代にかけての山東省の青島を取り上げることとする。なぜならドイツという外国人による統治権力によって膠州湾租借地として形成され、日本の占領を経てその行政権を北京政府が接収した都市の一つだからである。そのため「連続/断絶」の具体相を学校教育を通して検証することに適していると考えられる。一方で20世紀初頭はドイツ・日本という列国の教育制度の展開だけでなく、清末民初にかけて近代教育政策が具体的に進められた時期でもある。

膠州湾租借地の行政権が北京政府へ還附されるまでの時期は、ドイツと日本の占領期間が合わせて25年という短期間であったのも関わらず、山東省青島地区に住む人たちの生活に大きな断絶を生み出した。この断絶はその後の近代青島社会の形成に大きな痕跡を残し、青島社会の特色を生み出すこととなった。本研究では教育の近代化の形成という視点から、多様な統治権力が交錯した地域における変化の特色を見る。その変化の特色の指標として、学校教員を取り上げる。

本研究で教員に注目する理由は、教員の思想や文化ではなく、教員人事を通して学校間を移動する点に注目し、学校間関係の指標にするためである。青島には各時代ごとにドイツ、日本そして現地の教員が様々なネットワークを通じて集まった。そうしたネットワークが多様な学校間のつながり(リンク)となり、青島の学校を通して社会を形成する。このネットワークは学校間において「採用・在職・転職」という異動パターンをリンクとするネットワークである。こうしたリンクの集合体を、本研究では「教員ネットワーク」と呼ぶことにする。この教員ネットワークとリンクの形成過程を分析することで、青島を含む東アジアの諸地域、すなわち日本や朝鮮、満洲などといった帝国日本全体の教員ネットワーク構造と、一方で中国大陸における教育の近代化に伴う教員ネットワークの構造を解明できよう。この構造を検証することは単に過去の物語として描くだけでなく、今日の東アジア地域社会のリンクと教員ネットワークを知る上でも重要な一つの例となるだろう。

本研究で第一部と第二部の検討を経て検討した結果を以下にまとめたい。本論では「現地人教育」と「日本人教育」という二つの学校体系を軸に、政治的断絶と学校制度の継承を論じることから本研究を始めた。

そして「連続/断絶」を軸に分析を進め、山東還附に伴う教員ネットワークの再編を検討してきた。その結果、教員ネットワークの構造は統治権力の変更に伴い大きく変容したが、同時に多くの連続性を確認した。例えば第一部で見たように、公立現地人学校を統一的に規定する法令は「青島守備軍公学堂規則」から「膠澳商埠各校暫行改良辨法」へと継承された。また修業年限に着目すると、5年制は蒙養学堂から公学堂、公立初級両級小学校へと踏襲され続けた。しかし単純に踏襲されるだけでなく、第四章で見たように公学堂から初級両級小学校へと継承される際、修業年限が壬戌学制へと適応させられつつ修業年限5年制も残存していた。すなわちそれぞれの統治権力が持ち込んだ教育の近代化がいわばまだら模様を描いていたと言えよう。このことから、膠澳商埠督辨公署を通じて北京政府の教育の近代化へ回収しようとする力学が働いていたことが見える。さらに学校系統の形成過程に注目すると、ドイツ統治時代では官吏を養成する高等教育に重点を置き、国民形成としての初等教育には力点を置かなかったが、日本統治時代になるとむしろ初等教育の充実を図ろうとし、北京政府時代でも基本的にこの路線を踏襲した。一方で日本統治時代には軍が関与した私学が設立され、北京政府時代では地域エリートによる私学が勃興し、中等高等教育の体系化を進めていった。特に北京政府時代では初等教育は膠澳商埠督辨公署の設立となり、中等高等教育を私学が担うという役割分担が見られた。ここには学校間接続を完成させようとする地域エリートの強い意志が垣間見える。また「現地人教育」と「日本人教育」のそれぞれの学校体系は日本統治時代に「兼務」教員によって接点を持った時期があったが、結局はドイツ統治時代から北京政府時代に至るまで教員ネットワークは別個に形成され、この二つの学校体系は交わることなく平行して存在し続けた。

以上のように、本研究では「連続/断絶」を軸に、青島という一都市において、膠州領総督府(ドイツ)青島守備軍(日本)膠澳商埠督辨公署(北京政府)と連なる多様な統治権力が持ち込んだ教育の近代化が折り重なっていき、重層化する姿を描いた。すなわち、近代国家の出先機関が持ち込んだ「近代」は単純に「連続/断絶」のどちらかの極に寄るのではなく、その双方の極の間で摩擦を生じつつもどう受容するか、一都市が模索する過程を示したのである。いわば膠州湾という地図上に、統治権力ごとにそれぞれの近代化という色を塗り重ねた結果、それぞれの色が重なり合って複雑な色彩を帯びることとなったのである。つまり一都市に複数の「近代」が同時並行的に存在するという重層構造を解明したのである。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、東アジアの近代化の一側面としての「近代学校」形成の過程を、「連続/断絶」を軸とする具体的な様相に即して描き出すことをねらいとしている。通説によれば、東アジアの近代は外来の圧力の産物であって、社会の近代化は学校教育によって促進され、近代社会を建設するためにこそ、学校教育の普及が目指されるものとされてきた。従来はこの過程を、ナショナルヒストリー(一国史)として扱い、近代学校の普及は、政策的な視点から位置づけられるに過ぎなかった。そうした記述に欠落するのは、近代を受容しかつ教育を受ける当事者である「民衆」および学校教育をその現場で支えたアクター(とくに現地の有力者層と学校の教員)の動きである。本論文は、東アジアの近代教育史をもっぱら統治権力の変動の枠内で描いてきた先行研究の不備を衝き、「青島」という一都市を定点観測することでもって、東アジアの近代化とそれを担った主体の多面性を描き出し、ナショナルヒストリーに回収されない新たな歴史像を描こうとしている。

本論文は、序章および終章に挟まれた七つの章および参考文献一覧から構成されており、本論は「現地人教育を中心とする青島の近代学校」と題された第一部(第一章~第四章)と「「在外指定学校」としての日本人学校を中心に」と題された第二部(第五章~第七章)に分かれている。序章では、問題の所在を指摘し、先行研究のレヴューと史料についての予備的考察がなされる。第一章では、ドイツ統治下の膠州湾租借地における現地人学校(蒙養学堂およびミッションスクール)が、第二章では、日本統治時代の軍政期膠州湾租借地における現地人学校(公学堂)が、第三章では、日本統治時代の民政期における現地人学校(公学堂および青島商科大学構想)が、第四章では、北京政府期の膠澳商埠における現地人学校(膠澳商埠公立小学校および青島大学構想)が扱われ、「ドイツ→日本→北京政府」という統治権力の「連携プレー」が行われる中で、新興商人層は一貫して教育の近代化を希求し続けたことが確認される。

第五章では、日本統治下の膠州湾租借地における日本人学校の整備が、「在外指定学校」である青島日本人小学校の設立を起点として、初等・中等学校の日本人教員人事のネットワークに照準しつつ跡づけられる。第六章では、山東還附後の日本人学校の管轄の変化と初等・中等学校の再編過程が、第七章では、1930年代の青島居留民団と教員人事との関係が解き明かされる。終章は、論点の総括と今後の課題と展望を述べて結ばれる。

以上のような論脈のもと、青島という都市に対して、膠州領総督府(ドイツ)→青島守備軍(日本)→膠澳商埠督辨公署(北京政府)と連なる複数の統治権力が持ち込んだ教育の近代化が折り重なり、重層化していく姿を「連続/断絶」を軸に据えて活写しようとしたのが本論文である。すなわち、近代国家の出先機関が移植した「近代」は、「連続/断絶」のどちらか一極に偏倚することなく、双方の極の間で摩擦を生じつつも受容されようとした。そうしたダイナミックな模索過程を、一都市に準拠しながら丹念に解明している。

現地調査を重ね、埋もれた資料を発掘・読解した努力は多とすべきであり、それを生かすためにも「近代学校」や「教育」などの基礎概念のさらなる彫琢が必要とされるであろうが、東アジア近代の教育史に《都市の定点観測》というアプローチを導入した点で、独創性と教育史研究への貢献とを二つながら実現しえている。よって、博士(教育学)の学位を授与するに十分な水準に達しているものと認定した次第である。

UTokyo Repositoryリンク