学位論文要旨



No 126615
著者(漢字) 蔡,寧
著者(英字)
著者(カナ) サイ,ネイ
標題(和) アメリカの互恵通商協定法、ガットの誕生と関税交渉 : ディロンラウンドまでを中心に
標題(洋)
報告番号 126615
報告番号 甲26615
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第252号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩澤,雄司
 東京大学 教授 石黒,一憲
 東京大学 教授 城山,英明
 東京大学 教授 齋藤,誠
 東京大学 教授 水町,勇一郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、戦後から1962年通商拡大法成立以前のアメリカの互恵通商協定法の変遷とガットの関税会議(ディロンラウンドまでの五回の関税会議)でアメリカが参加した関税交渉を考察するものである。一般的に、戦後から1960年代後半までのアメリカの通商政策は、一定の例外があったものの、その基本は自由貿易政策にあったことが、現在の日本学界の通説であり、アメリカの自由貿易政策があったからこそ、ガットの関税交渉を通じて、当時の(主に西側)世界の貿易自由化もほぼ順調な発展を遂げた、とされている。しかし、本論文の考察を通じて、戦後から1962通商拡大法成立以前のアメリカ通商政策の本流が、「自由貿易的」というより、むしろ、明確に「保護主義寄り」のものであり、それゆえに、同時期のガットの貿易自由化の発展もアメリカの通商政策によって、かえって遅らされたことが明らかにされたのである。

具体的な考察において、本論文は、アメリカ通商政策の根幹である互恵通商協定法の立法過程を縦軸に据え、前記の時期(戦後から1962年通商拡大法成立以前)におけるすべての互恵通商協定法に対して、それぞれの法律のもととなる法案の立案から、議会への提出、議会での審議を含む成立までの経緯と、かかる法案の具体的な内容(法案の審議過程で削除され、日の目をみることができなかった条項をも含む)を詳細に追うことを通じて、互恵通商協定法の制定をめぐるアメリカ国内政治の駆け引きを描き出すものである。また、本論文は、個々の特徴ある条項が何故特定の時期に作られ、あるいは修正されることになったのかを常に問題にし、かかる条項の出現、変遷がいかなる政治的駆け引きの結果であるか、また、それによって、互恵通商協定法の制定をめぐる政治過程におけるそれぞれのアクターの思惑が、どこまで反映されたか、互恵通商協定法をめぐるそれぞれのアクターの妥協点がどこにあったのかを抉り出し、かかる妥協の結果として成立したそれぞれの互恵通商協定法が、果たして、「自由貿易的」なものであるか、「保護主義的」なものであるかを、総合的に判断、評価する。その結果、その時代のアメリカの互恵通商協定法の性格が、明確に「保護主義寄り」のものであったという結論を示す。

さらに、より全面的に、前記の時期におけるアメリカの互恵通商協定法の性格を判断、評価するために、本論文は、時間の推移と共に微妙に変化してきた互恵通商協定法の変遷を縦軸として考察するとともに、この時期のアメリカの互恵通商協定法とガットの貿易自由化の進展との連動関係を重視し、アメリカが参加したガット関税交渉の内実を論文の横軸として、この時期のガットにおける貿易自由化に対するアメリカの姿勢と、アメリカ以外の締約国の姿勢との違いを指摘しながら、アメリカが参加した関税交渉の展開過程を検討する。そして、この時期のガットの貿易自由化の進展が、明確にアメリカによって「遅らされていた」ことを明らかにすることによって、アメリカの互恵通商協定法が「保護主義寄り」のものであったことを、重ねて証明する。なお、アメリカが参加した関税交渉に関する考察を通じて、ディロンラウンドまでのガットの関税会議の歴史の解明にも有益な示唆が与えられる。

本論文の概要は以下の通りである。

第一章では、まず、1958通商協定延長法までのアメリカの通商法の基本的枠組を確立した1934年互恵通商協定法の成立の背景、具体的なその成立過程を検討し、さらに、日本内外の研究を整理、分類、概観してそれぞれの研究の問題点を指摘した上で、1934年互恵通商協定法によって確立された互恵通商協定プログラムの性格については、「保護主義の大原則を維持しながら、輸出利益(輸出の回復と拡大)を保護するものであり、すなわち、国内産業の保護に対して、輸出利益の保護は二次的なものであるに過ぎなかった」ことを示す。

それから、同章は、戦後国際貿易体制の再建(すなわち、ガット体制の成立)について検討する。当初、アメリカ行政府は、互恵通商協定プログラムの枠組みを突破する形で、戦後国際貿易体制の再建を計画したが、1945年通商協定延長法の立案において、かかる計画が議会の支持を得られなかったため、従来の互恵通商協定プログラムのアプローチによって戦後国際貿易体制の再建に取り組むことを余儀なくされたことを紹介し、さらに、アメリカがいかに互恵通商協定プログラムを戦後国際貿易体制、すわなち、ガット体制の基盤にしたかを検討した上で、ガットの成立過程におけるアメリカの役割についての二つの異なる認識(すわわち、「強いアメリカ」と「相対化されたアメリカ」との二つの認識)を対比しながら、ガット体制が、成立当初からアメリカの互恵通商協定プログラムに潜む矛盾の影響を受けたことを指摘する。

第二章では、1948年から1952年までの互恵通商協定法の変遷とガットの1949年アヌシー関税会議及び1950-1951年トーキー関税会議でアメリカが参加した関税交渉を検討する。この時期のアメリカの互恵通商協定法の立法は、臨界点(peril point)条項をめぐって展開された。当該条項の下で、関税引下げは、アメリカ関税委員会が計算した限度内に抑えられることになる。本論文は、臨界点条項による事前保護機能と免責条項(escape clause)による事後救済機能の違いを検討した上で、1951年に臨界点条項の確立によって、「国内産業に損害を与えないという前提で、輸出利益を保護する」とする、1934年法によって確立された互恵通商協定プログラムの原則が、制度化されたことを指摘する。関税交渉における国内産業に対する全体的な事前保護システムが確立されたことで、互恵通商協定プログラムの「国内産業の保護に対して、輸出利益の保護は二次的なものあるに過ぎなかった」という性格が明確に再確認されたのである。

そして、同章は、1950-1951年トーキー関税会議において、アメリカ行政府は、十分な関税引下げ権限を有していたにもかかわらず、イギリスやオーストラリアなどのガットの主要な締約国から対等な関税譲許を得られないことを理由に、これらの国との間の関税交渉を決裂させたことを取り上げ、「国内産業に損害を与えないという前提で、輸出利益を保護する」と「貿易相手国の市場開放度に応じてアメリカも市場開放を行う」という、互恵通商協定プログラムの二つの大原則に縛られた結果、ガットの関税交渉におけるアメリカ行政府の行動が大きく制限されたことを明らかにするのと同時に、アメリカの互恵通商協定法に従い作られた「選択的で産品対産品」のガットの関税交渉方法の下で、1950-1951年トーキー関税会議における他のガット締約国の関税交渉の結果も制限されたことを指摘する。

第三章では、1953年から1957年までの互恵通商協定法の変遷、ガットプランの挫折、および1956年ジュネーブ関税会議を検討する。すなわち、当時では、「選択的で産品対産品」の関税交渉方法がガットにおける関税交渉の大きな制約要因となったため、さらなる貿易自由化の実現を求めるべく、1954年にガット締約国団は、「一括関税引下げ方法」の導入を目指す、いわゆる「ガットプラン」をまとめた。他方、ガットでの貿易自由化に向けた積極的な動きとは対照的に、アメリカでは議会の保護主義傾向が強まり、行政府には、互恵通商協定プログラムを改革してさらなる貿易自由化を進める余力がなく、1953年と1954年の互恵通商協定法の立法過程において、行政府の法案はいずれも廃案に追い込まれ、1953年通商協定延長法及び1954年通商協定延長法は、強硬な保護主義者といわれる議員達が作った法案を基にして成立した。1955年通商協定延長法は、議員を中心とした対外経済政策委員会の勧告を基に作った法案に対し、保護主義を主張する議員達の求める修正をほぼ全面的に認めたうえで成立した。国内産業をより手厚く保護するために、臨界点条項、免責条項がさらに修正され、互恵通商協定法が一層保護主義の方向に向かっていたことは、かかる時期の互恵通商協定法の条文の変化を見れば明白であり、何よりも互恵通商協定プログラム自体が、20年の歳月を経て、ガットのさらなる貿易自由化の発展の、最大の障害となったのである。関税の引下げについて、当時大多数のガットの締約国が求めた一括関税引下げ方法を採用すれば、「選択的で産品対産品」の交渉方法と臨界点条項の組合わせによって構築された、国内産業を保護するためのシステムが崩壊することになる。かかるシステムとその背後に隠されていた「国内産業に損害を与えないという前提で、輸出利益を保護する」との原則を守るために、アメリカは、ガットプランの実施を拒否し、「選択的で産品対産品」の交渉方法に固執した。その結果、1956年ジュネーブでの関税交渉、すなわち、当時のガットの貿易自由化も、大きく制限されたのである。

第四章では、1958年通商協定延長法と、ディロンラウンドでアメリカが参加した関税交渉について検討する。西欧諸国に対するアメリカの輸出利益がEECの成立によってマイナスの影響を受けないようにするには、より自由貿易志向の通商法の成立が必要であったにもかかわらず、アメリカ行政府は、従来の互恵通商協定プログラムを改革して新たな通商体制を作ることを議会に求めなかった。そのため、1958年通商協定延長法の立法過程においては、1950年代の他の互恵通商協定法の立法過程と同じく、輸出利益を保護することよりも国内産業を保護することが重視され、その結果1958年通商協定延長法は、1955年通商協定延長法以上に保護主義的なものとなった。

ディロンラウンドの関税交渉に参加したアメリカ行政府が議会から授与されていた関税引下げ権限はもともと少なく、その上臨界点条項の束縛もあって、それらの権限は、もはや使えるものでなかった。アメリカはEECとの関税交渉において、EECの提示した関税譲許に応じることができず、結局、その一部を放棄した。このことによって、アメリカは、自らの輸出利益を拡大させるためのチャンスを、放棄すると同時に、交渉相手国の貿易自由化拡大の動きをも封じ込めることになった。第四章では、以上のアメリカとEECの関税交渉の詳細な検討を通じて、アメリカが当時のガットの貿易自由化の進展を遅らせたことを指摘する。

終章では、それまで各章で示した観点を纏め、結論を示した上で、1934年法によって確立された互恵通商協定プログラムが1958年通商協定延長法の後に成立した1962年通商拡大法によって改革されたことの意味合いを指摘し、かかる改革が、いかなる経緯で行われ、通商政策をめぐるアメリカの政治力学のいかなる変形と再編によってなされたなのか、いかなる政治プロセスでなされ得たのか、また、かかる改革によってもたされた輸出利益の強化が、アメリカにとっていかなる意味を持ち、その後のアメリカ通商政策にいかなる影響を与えたのか、といった課題を提示し、戦後から1958通商協定延長法までの互恵通商協定法と、ディロンラウンドまでのアメリカが参加した関税交渉についての本論文による検討はかかる改革を検討するための確かな地盤になることを指摘することを以て、結びとする。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、戦後から1962年通商拡大法成立以前のアメリカの互恵通商協定法の変遷とガットの関税会議(ディロンラウンドまでの五回の関税会議)でアメリカが参加した関税交渉を考察するものである。一般的に、戦後から1960年代後半までのアメリカの通商政策は、一定の例外があったものの、その基本は自由貿易政策にあったことが、現在の日本学界の通説であり、アメリカの自由貿易政策があったからこそ、ガットの関税交渉を通じて、当時の(主に西側)世界の貿易自由化もほぼ順調な発展を遂げた、とされている。しかし、本論文の考察を通じて、戦後から1962年通商拡大法成立以前のアメリカ通商政策の本流が、「自由貿易的」というより、むしろ、明確に「保護主義寄り」のものであり、それゆえに、同時期のガットの貿易自由化の発展もアメリカの通商政策によって、かえって遅らされたことが明らかにされる。

本論文は、アメリカ通商政策の根幹である互恵通商協定法の立法過程を縦軸に据え、前記の時期(戦後から1962年通商拡大法成立以前)におけるすべての互恵通商協定法に対して、それぞれの法律のもととなる法案の立案から、議会への提出、議会での審議を含む成立までの経緯と、このような法案の具体的な内容(法案の審議過程で削除され、日の目をみることができなかった条項をも含む)を詳細に追うことを通じて、互恵通商協定法の制定をめぐるアメリカ国内政治の駆け引きを描き出す。また、本論文は、個々の条項がなぜ特定の時期に作られ、あるいは修正されることになったのかを問題にし、このような条項の出現・変遷がいかなる政治的駆け引きの結果であるか、また、それによって、互恵通商協定法の制定をめぐる政治過程におけるそれぞれのアクターの思惑が、どこまで反映されたか、互恵通商協定法をめぐるそれぞれのアクターの妥協点がどこにあったのかをあぶり出し、このような妥協の結果として成立したそれぞれの互恵通商協定法が、「自由貿易的」なものであるか、「保護主義的」なものであるかを、総合的に判断、評価する。その結果、前記の時期のアメリカの互恵通商協定法の性格が、「保護主義寄り」のものであったという結論を示す。

さらに、本論文は、時間の推移と共に微妙に変化してきた互恵通商協定法の変遷を縦軸として考察するとともに、この時期のアメリカの互恵通商協定法とガットの貿易自由化の進展との連動関係を重視し、アメリカが参加したガット関税交渉の内実を論文の横軸として、この時期のガットにおける貿易自由化に対するアメリカの姿勢と、アメリカ以外の締約国の姿勢との違いを指摘しながら、アメリカが参加した関税交渉の展開過程を検討する。そして、この時期のガットの貿易自由化の進展が、アメリカによって「遅らされていた」ことを明らかにすることによって、アメリカの互恵通商協定法が「保護主義寄り」のものであったことを、重ねて証明する。アメリカが参加した関税交渉に関する考察を通じて、ディロンラウンドまでのガットの関税会議の歴史の解明にも有益な示唆が与えられる。

本論文の概要は以下の通りである。

第一章では、まず、1958年通商協定延長法までのアメリカの通商法の基本的枠組を確立した1934年互恵通商協定法の成立の背景、成立過程を検討し、さらに、日本内外の研究を整理、分類、概観してそれぞれの研究の問題点を指摘した上で、1934年互恵通商協定法によって確立された互恵通商協定プログラムの性格については、「保護主義の大原則を維持しながら、輸出利益(輸出の回復と拡大)を保護するものであり、すなわち、国内産業の保護に対して、輸出利益の保護は二次的なものであるに過ぎなかった」ことを示す。

続いて同章は、戦後国際貿易体制の再建(すなわち、ガット体制の成立)について検討する。当初、アメリカ行政府は、互恵通商協定プログラムの枠組みを突破する形で、戦後国際貿易体制の再建を計画したが、1945年通商協定延長法の立案において、このような計画が議会の支持を得られなかったため、従来の互恵通商協定プログラムのアプローチによって戦後国際貿易体制の再建に取り組むことを余儀なくされたことを紹介し、さらに、アメリカがいかに互恵通商協定プログラムを戦後国際貿易体制、すわなち、ガット体制の基盤にしたかを検討した上で、ガットの成立過程におけるアメリカの役割についての二つの異なる認識(すなわち、「強いアメリカ」と「相対化されたアメリカ」との二つの認識)を対比しながら、ガット体制が、成立当初からアメリカの互恵通商協定プログラムに潜む矛盾の影響を受けたことを指摘する。

第二章では、1948年から1952年までの互恵通商協定法の変遷とガットの1949年アヌシー関税会議及び1950-1951年トーキー関税会議でアメリカが参加した関税交渉を検討する。この時期のアメリカの互恵通商協定法の立法は、臨界点(peril point)条項をめぐって展開された。当該条項の下で、関税引下げは、アメリカ関税委員会が計算した限度内に抑えられることになる。本論文は、臨界点条項による事前保護機能と免責条項(escape clause)による事後救済機能の違いを検討した上で、1951年に臨界点条項の確立によって、「国内産業に損害を与えないという前提で、輸出利益を保護する」とする、1934年法によって確立された互恵通商協定プログラムの原則が、制度化されたことを指摘する。関税交渉における国内産業に対する全体的な事前保護システムが確立されたことで、互恵通商協定プログラムの「国内産業の保護に対して、輸出利益の保護は二次的なものあるに過ぎなかった」という性格が明確に再確認されるのである。

そして、同章は、1950-1951年トーキー関税会議において、アメリカ行政府は、十分な関税引下げ権限を有していたにもかかわらず、イギリスやオーストラリアなどのガットの主要な締約国から対等な関税譲許を得られないことを理由に、これらの国との間の関税交渉を決裂させたことを取り上げ、「国内産業に損害を与えないという前提で、輸出利益を保護する」ことと「貿易相手国の市場開放度に応じてアメリカも市場開放を行う」ことという、互恵通商協定プログラムの二つの大原則に縛られた結果、ガットの関税交渉におけるアメリカ行政府の行動が大きく制限されたことを明らかにすると同時に、アメリカの互恵通商協定法に従い作られた「選択的で産品対産品」のガットの関税交渉方法の下で、1950-1951年トーキー関税会議における他のガット締約国の関税交渉の結果も制限されたことを指摘する。

第三章では、1953年から1957年までの互恵通商協定法の変遷、ガットプランの挫折、および1956年ジュネーブ関税会議を検討する。「選択的で産品対産品」の関税交渉方法がガットにおける関税交渉の大きな制約要因となったため、さらなる貿易自由化の実現を求めるべく、1954年にガット締約国団は、「一括関税引下げ方法」の導入を目指す、いわゆる「ガットプラン」をまとめた。他方、ガットでの貿易自由化に向けた積極的な動きとは対照的に、アメリカでは議会の保護主義傾向が強まり、行政府には、互恵通商協定プログラムを改革してさらなる貿易自由化を進める余力がなく、1953年と1954年の互恵通商協定法の立法過程において、行政府の法案はいずれも廃案に追い込まれ、1953年通商協定延長法及び1954年通商協定延長法は、強硬な保護主義者といわれる議員達が作った法案を基にして成立した。1955年通商協定延長法は、議員を中心とした対外経済政策委員会の勧告を基に作った法案に対し、保護主義を主張する議員達の求める修正をほぼ全面的に認めたうえで成立した。国内産業をより手厚く保護するために、臨界点条項、免責条項がさらに修正され、互恵通商協定法が一層保護主義の方向に向かっていたことは、この時期の互恵通商協定法の条文の変化を見れば明白であり、互恵通商協定プログラム自体が、20年の歳月を経て、ガットのさらなる貿易自由化の発展の、最大の障害となったのである。関税の引下げについて、当時大多数のガットの締約国が求めた一括関税引下げ方法を採用すれば、「選択的で産品対産品」の交渉方法と臨界点条項の組合わせによって構築された、国内産業を保護するためのシステムが崩壊することになる。同システムとその背後に隠されていた「国内産業に損害を与えないという前提で、輸出利益を保護する」との原則を守るために、アメリカは、ガットプランの実施を拒否し、「選択的で産品対産品」の交渉方法に固執した。その結果、1956年ジュネーブでの関税交渉、すなわち、当時のガットの貿易自由化も、大きく制限されたのである。

第四章では、1958年通商協定延長法と、ディロンラウンドでアメリカが参加した関税交渉について検討する。西欧諸国に対するアメリカの輸出利益がEECの成立によってマイナスの影響を受けないようにするには、より自由貿易志向の通商法の成立が必要であったにもかかわらず、アメリカ行政府は、従来の互恵通商協定プログラムを改革して新たな通商体制を作ることを議会に求めなかった。そのため、1958年通商協定延長法の立法過程においては、1950年代の他の互恵通商協定法の立法過程と同じく、輸出利益を保護することよりも国内産業を保護することが重視され、その結果1958年通商協定延長法は、1955年通商協定延長法以上に保護主義的なものとなった。

ディロンラウンドの関税交渉に参加したアメリカ行政府が議会から授与されていた関税引下げ権限は、もともと少なく、臨界点条項の束縛もあって、もはや使えるものでなかった。アメリカは、EECとの関税交渉において、EECの提示した関税譲許に応じることができず、結局、その一部を放棄した。このことによって、アメリカは、自らの輸出利益を拡大させるためのチャンスを放棄すると同時に、交渉相手国の貿易自由化拡大の動きをも封じ込めることになった。第四章では、以上のアメリカとEECの関税交渉の詳細な検討を通じて、アメリカが当時のガットの貿易自由化の進展を遅らせたことを指摘する。

終章では、それまで各章で示した観点を纏め、結論を示した上で、本論文後への展望を示す。即ち、1934年法によって確立された互恵通商協定プログラムが1958年通商協定延長法の後に成立した1962年通商拡大法によって改革されたことの意味合いを指摘し、このような改革が、いかなる経緯で行われ、通商政策をめぐるアメリカの政治力学のいかなる変形と再編によってなされたものなのか、いかなる政治プロセスでなされ得たのか、また、同改革によってもたされた輸出利益の強化が、アメリカにとっていかなる意味を持ち、その後のアメリカ通商政策にいかなる影響を与えたのか、といった残された課題を提示し、戦後から1958年通商協定延長法までの互恵通商協定法と、ディロンラウンドまでのアメリカが参加した関税交渉についての本論文による検討が、1962年法による1934年体制の改革を検討するための確かな地盤になることを指摘することを以て、結びとする。

本論文の長所としては、以下の点が挙げられる。

第1に、本論文が、「戦後から1962年通商拡大法成立前の時期」のアメリカの通商法の包括的な研究を実質上日本で初めて行い、多くの新たな知見をもたらしたことは、今後の国際通商法研究にとって画期的な意義を有する。特に、従来の日本における通念たる「アメリカの一貫した通商政策が、GATTの成立を経て戦後の世界の貿易自由化を支え続けた」との一般的認識には根本的な疑問があり、実際には、1934年法以来1962年法による改革までアメリカによって維持され続けた「選択的で産品対産品」の関税交渉方法が、欧州諸国が提案した関税の一括引き下げを内容とする「ガットプラン」の採用を阻害し続けたこと、従来の日本での研究ではセーフガード(免責)条項に比して軽視されがちだった「臨界点(peril point)条項」(国内産業に重大な損害を与えないように関税引き下げの限界を定める条項。1948年法で挿入され49年法で廃止されたが、51年法で復活し、結局62年法まで存続した)が、前記の関税交渉方法とともに、アメリカ行政府にとって大きな足枷となって機能したこと、等の基本構図を初めて解明した意義は大きい。

第2に、本論文における1934年法、45年法、48年法、51年法、53年法、55年法、56年法、58年法の、アメリカ議会での制定過程に関する分析は綿密で徹底しており、高く評価できる。例えば、アメリカ行政府が1945年法の制定過程で、34年法の制約を脱しようと議会側と交渉したが挫折し、以後は、議会内で次第に高まる保護主義の波に一層配慮せざるを得ず、従来型の(34年法以来の制約の下での)対外交渉権限の維持が精一杯といった状況に陥る過程が、ダイナミックに描かれている。

第3に、本論文は、アメリカ通商法の各条項の、ドラフト段階から審議過程、そして修正されるに至る過程を全体的にかつ詳細に、徹底して一次資料で辿ることを「縦糸」としながら、それらの条項によって、いかにアメリカ行政府が、初期のGATT関税交渉において行動上の制約を受けつつ、1934年法を基本的に引きずるアメリカ通商法の枠組をGATTの中に定着させたか(雇用問題をGATTの目的に組み込もうとするイギリスの提案の否定、等を含む。)という、ディロンラウンドまでのGATTの初期段階での関税交渉の内実を、同じく一次資料に遡って解明することを「横糸」とし、その双方を、見事なまでに"織り上げて"いる。このような分析手法により、例えば、日本のGATT加入がアメリカとの関係で遅れたという、それ自体は従来指摘されていた事実の、背景をなす諸事情が、アメリカ国内での議会と行政府との関係から、具体的に解明されている。

以上の諸点はいずれも、日本での従来の研究の空白部分をなす。それを埋めようとした本論文は、野心的であり、かつ、相当程度に説得的である。内外の先行業績について、それらの文脈を明らかにしつつ本論文の論旨と対比させる作業が、丹念になされていることも、特筆すべきである。

もっとも、本論文にも、疑問点がないわけではない。

第1に、アメリカ議会内部での論争の実際の姿と各時期の通商法の基本的性格を明確化するのに、本論文は、「保護主義(国内産業保護)対自由貿易主義(アメリカの輸出利益の保護)」の対立軸を立てているが、それで本当に全てを論じ尽くせるのかという、若干の疑念が生ずる。例えば、「相互主義概念の採用と変遷」といった別な座標軸を立てた場合にどうなるのか、といった点である。

第2に、本論文の検討が1958年法とディロンラウンドまでで終わっている点は、極めて残念である。本論文の分析手法を、アメリカ通商政策の大きな転換点たる1962年法の制定過程、更には74年法のそれについて当てはめた場合にどうなるかが、更に問われるべきであろう。だが、本論文の末尾には、それ以後の展開について研究する上の必須の資料が掲げられており、今後同様の研究がなされる際の最低限の道筋を示していることをもって満足せざるを得ないところかとも思われる。

以上の点も、本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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