学位論文要旨



No 126616
著者(漢字) 金久保,茂
著者(英字)
著者(カナ) カナクボ,シゲル
標題(和) 事業取得型買収と労働者保護法理 : 労働法の視点から見たEU・ドイツ,アメリカ,日本における事業譲渡法制の比較法的考察
標題(洋)
報告番号 126616
報告番号 甲26616
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第253号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神作,裕之
 東京大学 教授 荒木,尚志
 東京大学 教授 水町,勇一郎
 東京大学 教授 高原,明生
 東京大学 教授 浅香,吉幹
内容要旨 要旨を表示する

第1章 問題の所在

合併や会社分割の場合,包括承継により労働契約も承継会社に移転することに争いはない。これに対して,事業譲渡の場合は,個別承継であるため,労働契約が自動的に譲受会社に移転するか(事業譲渡当事者間の合意により労働者の引き継ぎを排除できるか),また,仮に労働契約が承継されるとすればその際の労働条件について争いがある。

日本における事業譲渡は,特に企業の再建時にその有用性が発揮されるため,経営が悪化した事業について,事業譲渡の機会を捉えてリストラクチャリングを図る必要性が生ずる。しかし,一方で,譲受会社が労働契約を引き継がないとすると,譲渡会社の清算に伴い労働者が雇用を失う場合があり,労働者保護の観点から問題視されている。そこで,迅速・機動的なM&Aや事業再生の要請と労働者保護との調整が必要となる。

本研究は,この問題の回答のヒントを得るために,現在の日本の学説及び裁判例を概観した後,先進諸国の事業譲渡法制を比較・検討し,自説を展開するものである。海外では,事業譲渡の場面において,通常の労働者保護規制(日本でいえば,解雇規制・労働条件変更規制)はどのように機能しているのだろうか,事業譲渡独自の労働者保護規制があるとすれば,どのような場面で労働者保護がなされ,その場合の経営の柔軟性はどのように図られているのだろうか。かかる問題意識の下で,本論文では,事業譲渡独自の保護規制があるEU・ドイツ法と,規制がないアメリカ法を取り上げて比較・検討し,その上で日本の事業譲渡法制について労働法の視点から検討を加えたものである。

第2章 日本における事業譲渡と労働契約に関する現状

第2章では,日本における学説と判例を整理・検討した。現在の判例・通説は,事業譲渡が個別承継(特定承継)であることから,労働契約の承継のためには事業譲渡当事者間での労働契約の承継に関する合意が必要であり,労働契約の引継ぎを排除できるとする。そして,譲受会社が雇用を引き継ぐ場合でも,新規採用の形式がとられれば,譲受会社の労働条件で雇用されるため,原則として労働条件不利益変更法理も回避可能としている。

第3章 ドイツにおける事業譲渡

1.M&Aの手法と事業譲渡の機能

まず,第1節では,事業取得型買収のストラクチャーとして,合併,分割および事業譲渡について概観し,事業譲渡の機能について検討した。事業譲渡は,日本と同様,移転される資産および負債を自由に選択できること等から,再建時,さらには倒産手続においても利用されている。

2.解雇規制と労働条件変更法理

第2節では,事業譲渡が生ずる以前の,通常の場面における労働者保護規制(経済的理由による解雇の規制と労働条件変更規制)を検討した。ドイツでは,解雇制限法などにより解雇の理由および手続の規制がある。

しかも,労働条件変更手段については,労働者の同意がない場合,変更解約告知制度があるものの,厳格な要件の下でのみ許容され,統一的労働条件の変更手段としても実際的でないと考えられている。他方で,集団的労使関係については,日本の就業規則の不利益変更法理のように個々の企業の実情に合わせた柔軟な労働条件変更手段が用意されていないという問題点が指摘できた。

3.事業譲渡における労働者保護規制

第3節では,EU・ドイツの事業譲渡の際の労働者保護規制を概観し,その要件・適用範囲について検討した。

EUの企業移転指令およびドイツ民法典613a条は,事業譲渡の場面で労働契約が自動的に承継される旨を定めている。そして,ドイツ民法典613a条は,事業譲渡を理由とする解雇を禁止しているが,別の理由による解雇が許容され,事業移転それ自体を理由としなければ,通常の解雇制限法の要件の下で解雇が許容されうる。そのため,特に企業の再建の場面では別の理由による解雇とされ,解雇が許容されている。

次に,企業移転指令および民法典613a条における要件論について論じた。企業移転指令および民法典613a条は,企業の経済的統一体が同一性を保持して移転される場合に適用される。企業所有者や経営者の変更は問わず,その適用範囲は非常に広範となっている。しかも,その適用の予測可能性が担保されていないという批判がある。そこで,ドイツでは,統一的な労働条件変更手段がないこともあり,解雇規制の緩和によって経営の柔軟性と労働者保護とのバランスを図っていることを確認した。

4.ドイツ倒産法における事業譲渡と平常時規制の変化

第4節では,倒産手続における平時の規制との差異について検討した。ドイツでは,倒産手続においても民法典613a条が原則的に適用される。しかし,倒産の場面における民法典613a条の適用が,譲受企業に買い受けを控えさせることにより,かえって労働者保護とならないという問題があるため,倒産法上,労働法規制を緩和するための諸規定が定められていることが確認できた。

第4章 アメリカの事業譲渡

1.M&Aの手法と事業譲渡の機能

第1節では,アメリカの事業取得型買収のストラクチャーとして,合併および資産(事業)譲渡について概観し,事業譲渡の機能について論じた。アメリカでは,ドイツや日本のように会社分割が制度化されていないため,平時に会社分割と同様の取引を実現する目的や,また,倒産手続においても事業譲渡が利用されている。

2.解雇規制と労働条件変更規制

第2節では,アメリカの解雇規制と労働条件変更規制について検討した。すなわち,アメリカの個別的労働関係は,随意的雇用原則が妥当しており,労働条件変更も解雇を通じて可能である。一方,集団的労使関係については,排他的交渉代表制が採用され,交渉代表組合が選出されると,使用者は,当該組合とのみ団体交渉義務を負い,労働条件変更についても一定の制限が課せられる。

3.事業譲渡における労働者保護規制

第3節では,集団的労使関係を中心としたアメリカの労働者保護制度が,事業譲渡によってどのような影響を受けるかを検討した。譲受会社は,譲渡会社の労働者を雇用する義務は負わないが,集団的労使関係に関する承継者法理と分身法理が形成され,労働者保護が図られている。

すなわち,承継者法理は,譲渡会社における組合が譲受会社に対して組合の承認および交渉を求めることや不当労働行為の責任の承継を可能とする。この承継者法理の基本的要件は,新旧企業(事業)の実質的継続性であり,労働者の過半数の雇用が重視されている。

一方,分身法理は,企業所有者が単に会社形式を変更することによって全国労働関係法等の下での義務潜脱を防止するために形成されてきた法理であり,譲受会社が,譲渡会社において締結された協約を含め,旧使用者の義務を引き継ぐ。そして,分身法理の適用に際しては,新旧企業の実質的同一性と,使用者の不法な動機・目的が相関的に考慮されている。

但し,以上の規制も,譲受会社自らの意思で労働者の過半数を雇用したり,不当労働行為等がない限り,原則として譲受会社は責任を負わない。その意味で,アメリカの事業譲渡法制は,使用者側の大きな柔軟性と予測可能性が確保されていることが指摘できた。

4.連邦倒産法における事業譲渡と平常時規制の変化

第4節では,平時の労働者保護法理が倒産時においてどのような変容を受けるかについて検討した。近時の判例の多くは,裁判所の許可により負担のない財産の譲渡を認める連邦倒産法363条を承継者法理に優先させ,不当労働行為の承継責任について免責を認めている。

第5章 日本の事業譲渡と労働契約に関する考察と私見

以上のEU・ドイツ法およびアメリカ法の状況を踏まえた上で,第5章では,日本法について検討した。まず,日本では,所有者および経営者の異なる別会社に事業譲渡がなされた場合,譲渡契約当事者間の合意により雇用契約が排除されると,労働者が譲受会社に対して雇用責任を追及することが困難となる(法人格否認の法理も適用されない)。この点,EU・ドイツでは,この場面での労働者保護が法定されているのとは大きく異なる。

一方,日本の集団的労使関係については,不当労働行為制度があり,新旧企業間に事業自体の実質的同一性がある場合,労働委員会の命令により労働者保護(原職復帰命令など)が認められており,アメリカにおいて事業自体の実質的同一性がある場合に承継者責任(組合の承認・交渉義務など)が認められていたのと同じ判断枠組みであることが確認できた。

そこで,あらためて個別的雇用関係について,経営主体が交替し,事業自体の実質的同一性がある事業譲渡の場合の労働者保護について検討を加えた。この点,契約自由の原則から,事業譲渡当事者間の意思を問題とせざるを得ず,事業譲渡当事者が雇用契約の不承継特約を定めていた場合は,意思に反して労働契約を承継させることは難しい。

これに対しては,解雇法理の潜脱であるとして不承継特約を制限すべきとの見解がある。確かに解雇と類似した状況となるが,倒産・再建時の経営悪化の状況による迅速な事業譲渡の必要性や事業譲渡において移転の対象を選別できるという経済的必要性を考慮すると,原則として不承継特約は有効と解さざるを得ない。そこで,株式譲渡や合併・分割と類似した,平時の例外的な場合に限って,解雇の脱法と評価して雇用責任を譲受会社に追及可能であるとの解釈論を展開した。

その上で,最後に立法の要否について検討した。所有・経営が交替する事業譲渡において雇用契約の不承継特約がある場合,ごく例外的な場面に限り労働者保護がなされるべきこと,EU・ドイツでは労働契約承継立法の要件・効果・脱法等をめぐり多くの紛争が生じていること等から,むしろ規制を置かず,解雇の脱法と評価すべき場面を個別に解釈論で対応する方がベターであるとの結論に至った。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、企業組織再編や再建の手段として活用されている事業譲渡において、企業の経営の柔軟性と労働者の保護とをどのようにバランスさせるべきかという課題に、比較法研究を踏まえて、取り組んだものである。

EU指令では合併・会社分割・事業譲渡のすべてについて、労働契約の自動承継ルールが定められている。これに対して、日本では会社分割制度の導入に際して労働者保護のために労働契約承継法が制定されたが、事業譲渡については立法的対処はなされていない。そこで、日本でもEUやドイツのような事業譲渡の際の労働契約自動承継ルールを定めるべきであるとする見解も有力に主張されている。こうした労働法上の重要課題について、本論文は、労働者保護規制を定めたEU・ドイツ法とそうしたルールを持たないアメリカ法を検討対象とし、そのルールが平常時と倒産時とで相違があるか否かという点も含めて考察を行い、日本における解釈論と立法論の両面において、著者自身の見解を明確に提示したものである。

本論文は5章からなる。

第1章は問題の所在として、本論文の問題意識について次のように述べる。

労働契約の承継が一般承継により処理される合併や会社分割と異なり、事業譲渡の場合は、個別承継であるため、労働契約が譲受会社に移転するか、あるいは事業譲渡当事者間の合意により労働者の承継を排除できるか、また、その際の労働条件は維持されるのか否かについては争いがある。

日本における事業譲渡は、特に企業の再建時にその有用性が発揮されるため、事業譲渡の機会を捉えてリストラクチャリングを図る必要性がある。しかし他方で、譲受会社が労働契約を引き継がないとすると、譲渡会社の清算に伴い労働者が雇用を失うなど労働者保護の問題が生ずる。そこで、迅速・機動的なM&Aや事業再生の要請と労働者保護との調整が必要となる。

本論文は、この問題の解を求めて、事業譲渡独自の労働者保護規制があるEU・ドイツ法と、規制がないアメリカ法を取り上げて比較検討し、日本の事業譲渡法制について試論を提示しようとするものである。

第2章は、日本における事業譲渡と労働契約の承継および労働条件変更に関する学説・判例の状況の概観である。現在の判例・通説は、事業譲渡が個別承継(特定承継)であることから、労働契約の承継のためには事業譲渡当事者間での労働契約の承継に関する合意が必要であり、労働契約の引継ぎを排除することも可能としている。そして、譲受会社が雇用を引き継ぐ場合でも、新規採用の形式がとられれば、譲受会社の労働条件で雇用されるため、変更の合理性を要求する労働条件変更法理も原則として回避可能となる。

第3章は、ドイツにおける事業譲渡と労働者保護規制の検討である。まず、第1節では、合併、分割および事業譲渡がどのような場面で活用されているかを検討し、ドイツにおいても事業譲渡は、日本と同様、移転される資産および債務を自由に選択できること等から、企業再建時、さらには倒産手続において利用されていることを明らかにしている。

第2節では、事業譲渡における解雇と労働条件変更問題を検討する前提として、経済的理由による解雇規制と労働条件変更規制の一般的規制を概観している。解雇については、解雇制限法や事業所組織法などにより解雇の正当理由や解雇手続についての精緻な規制があること、労働条件変更規制については、変更解約告知は厳格な要件の下でのみ許容され、統一的労働条件の変更手段としても実際的でないこと、集団的労使関係上の変更法理については、日本の就業規則の不利益変更法理のように個々の企業の実情に合わせた柔軟な労働条件変更手段が用意されていないことを指摘する。

第3節は、EUの企業移転指令およびドイツ民法典613a条による事業譲渡の際の労働契約の自動的承継を定めた労働者保護規制の検討である。EU指令およびドイツ民法典613a条は、事業譲渡を理由とする解雇を禁止するが、事業譲渡とは別の理由による解雇は許容している。そしてドイツの判例は、禁止される解雇について事業譲渡を主たる理由とするものと限定的に解し、特に企業再建の場面での解雇は事業譲渡とは別の理由によるものとして許容する解釈を採っていることを明らかにする。また、EU指令および民法典613a条の適用される要件論について検討し、EU指令も民法典613a条も、企業の経済的統一体が同一性を保持して移転される場合に適用されること、企業所有者や経営者の変更は問わず、その適用範囲は非常に広範であること、適用要件が満たされることの予測可能性がないという批判があることなどを指摘する。結局、ドイツでは、統一的な労働条件変更手段が用意されてないこともあり、厳格な事業譲渡時の解雇規制を解釈によって緩和することにより経営の柔軟性と労働者保護とのバランスを図っているとする。

第4節は、倒産手続における事業譲渡規制が平時の規制とどのような差異があるかを検討する。ドイツでは、倒産手続においても民法典613a条が原則的に適用されるが、それによって、譲受企業に買い受けを控えさせ、かえって労働者保護とならないという問題が生ずる。そこで、1994年倒産法では、労働法規制を緩和するための諸規定が定められたが、それでもなお再建を阻害するとの批判があり、連邦労働裁判所は解釈によって労働契約の自動承継ルールを緩和し、解雇を緩やかに認める態度を採っていることを明らかにしている。その背景には、事業譲渡における労働者保護の強調は、企業再建を阻害し、かえって労働者保護にならないという考慮がある。

第4章はアメリカにおける事業譲渡と労働契約承継問題の検討である。まず第1節では、アメリカの組織再編手法として合併および資産(事業)譲渡について概観し、事業譲渡の機能を分析している。アメリカでは、ドイツや日本のような一般承継の法的効果を有する会社分割制度がないため、平時に会社分割と同様の取引を実現する目的、および、倒産手続において企業の再編や再建を図る目的で、事業譲渡が利用されているとする。

第2節は、解雇規制と労働条件変更規制の検討である。個別的労働関係では、随意的雇用原則が妥当しており、労働条件変更も解雇を通じて可能である。これに対して、集団的労使関係においては、排他的交渉代表制が採用され、交渉代表組合が選出されると、使用者は、当該組合とのみ団体交渉義務を負い、労働条件変更についても団体交渉が行き詰まりに達するまで一方的変更ができないなど、一定の制限が課せられている。

第3節では、集団的労使関係を中心としたアメリカの労働者保護制度が、事業譲渡によってどのような影響を受けるかを検討している。譲受会社は、譲渡会社の労働者を雇用する義務は負わないが、集団的労使関係に関して「承継者法理」と「分身法理」が形成され、集団法上の保護が図られている。すなわち、承継者法理は、譲渡会社における労働組合が譲受会社に対して組合の承認および交渉を求めることや、譲渡会社の不当労働行為の責任の譲受会社への承継を可能とするものである。この承継者法理の基本的要件は、新旧企業(事業)の実質的継続性であり、労働者の過半数の雇用が重視されている。一方、分身法理は、企業所有者が単に会社形式を変更することによって集団的労使関係法上の義務の潜脱を防止するために形成されてきた法理であり、譲受会社が、労働組合と譲渡会社との間で締結された協約を含め、旧使用者の義務を引き継ぐ。分身法理の適用に際しては、新旧企業の実質的同一性と、使用者の不法な動機・目的が相関的に考慮されている。但し、譲受会社自らが労働者の過半数を雇用したり、不当労働行為を行う等の事情がない限り、原則として譲受会社は責任を負わない。その意味で、アメリカの事業譲渡法制は、使用者側に大きな柔軟性を確保し、また予測可能性も担保されているといえる。

第4節では、平時の労働者保護法理が倒産時にどのように変容しているのかを検討する。そして、近時の判例の多くが、裁判所の許可により負担のない財産の譲渡を認める連邦倒産法363条を承継者法理に優先させ、不当労働行為の承継責任について免責を認めていることを明らかにしている。

以上のEU・ドイツ法およびアメリカ法の状況を踏まえた上で、第5章では、日本法について検討する。まず、日本では、所有者および経営者の異なる会社に対して事業譲渡がなされた場合、譲渡契約当事者間の合意により雇用契約が譲渡対象から排除されると、労働者が譲受会社に対して雇用責任を追及することは困難となる。この点、EU・ドイツでは、労働者保護(契約の自動承継)が法定されているのとは大きく異なる。一方、日本の集団的労使関係については、不当労働行為制度があり、事業譲渡の対象である事業自体に実質的同一性が認められる場合、労働委員会の命令による労働者保護が認められており、アメリカにおいて承継者法理による責任(組合の承認・交渉義務など)が認められていたのと同じ判断枠組みであるといえる。

そこで、あらためて個別的雇用関係について、経営主体が交替し、事業自体の実質的同一性がある事業譲渡の場合の労働者保護について検討を加えている。この点、契約自由の原則から、事業譲渡当事者間の意思を問題とせざるを得ず、雇用契約の不承継特約が定められていた場合は、当事者の意思に反して労働契約を承継させることは難しい。これに対しては、解雇法理の潜脱であるとして不承継特約を制限すべきとの見解がある。確かに解雇と類似した状況となるが、倒産・再建時の経営悪化による迅速な事業譲渡の必要性や移転対象を選別できるがゆえに事業譲渡という手段が選択されたという経済的必要性を考慮すると、原則として不承継特約は有効と解さざるを得ない。そこで著者は、株式譲渡や合併・分割と類似した、平時の例外的な場合に限って、解雇規制の脱法と評価して雇用責任を譲受会社に追及できるとする解釈論を提示している。

最後に立法の要否について検討し、EU・ドイツでは労働契約承継立法の要件・効果等をめぐり多くの紛争が生じていること、事業譲渡において当事者間に不承継特約があっても承継を認め労働者を保護すべき場合はごく例外的な場面に限られること等から、むしろ立法による規制は設けず、解雇規制の脱法と評価すべき場面を個別に解釈論で対応する方がベターであるとの見解を主張している。

以上が本論文の要旨である。

本論文の長所としては次の点が挙げられる。

第1に、事業譲渡の際の労働契約承継問題は学界でも盛んに議論されている課題であるが、本論文は、事業譲渡という企業組織再編・再建の手法が、実際にどのような場面でどのような機能を期待して選択されているのかを、労働法のみならず、会社法・租税法・倒産法など関連法領域を幅広く見渡して説得的に解明して議論を展開している点が従来の研究に見られない特色として高く評価できる。そうした分析が日本法のみならず、ドイツ法・アメリカ法についても試みられている結果、各国における事業譲渡の実務上の意義と機能を踏まえたリアリティのある比較法研究に結実している。筆者の実務家としての経験と関心が、比較法研究でも十分に活かされており、既存の比較法研究には見られない視野の広さと説得性を備えた分析は、学界に対する大きな貢献といえる。

第2に、事業譲渡と労働契約承継問題に関するドイツ法・アメリカ法の研究としても、先行研究の水準を大幅に高めたものと評価できる。例えば、事業譲渡が、平時ではなく企業再建時に多用されているとの認識から、平時のルールと企業再建ないし倒産時のルールの相違について解明したこと、厳格な労働契約の自動承継ルールがあるドイツで、事業譲渡の不成就により雇用全体が失われる事態を考慮して、判例が自動承継ルールの適用を回避して解雇を緩やかに認める解釈を採用していることを明らかにしたこと、これまで十分に研究されてこなかったアメリカにおける事業譲渡問題について承継者法理、分身法理による集団法上の保護とその射程を明らかにしたことなどである。

第3に、事業譲渡において労働契約が承継されないという問題に、解釈論および立法政策としてどのように対処すべきかについて、筆者が比較法研究の成果を十分に踏まえて私見を明瞭に提示している点も高く評価できる。筆者の立場は、現在の日本の通説的見解を基本的に支持し、例外的な場面に限って解釈によって修正しようとするに留まり、立法によってEUやドイツのような自動承継ルールを採用することにはむしろ反対している。そのため、一見すると比較法の成果を十分反映していないかのような印象を与える。しかし筆者は、この結論を導くために、事業譲渡が企業再生において営んでいる機能と役割の重要性と、その際の労働者の保護の必要性とのバランスの取り方を、EU法、ドイツ法、アメリカ法を分析することで問い続け、そのバランスの取り方に係わる自動承継ルールについて、EU・ドイツにおける評価,判例の態度等の子細な検討を経て、日本においてこれを採用することに消極的な結論に到達したものである。その結論の当否については様々な評価があり得ようが、比較法研究の成果を熟考した上で導いた試論として,今後の日本における事業譲渡と労働者保護に関する解釈論および立法論に多大の貢献をなすものと評価できる。

もっとも本論文にも改善の余地を指摘できない訳ではない。

第1に、ドイツ法では自動承継ルールによる解雇禁止と、柔軟な労働条件変更法理の欠如が、非現実的な硬直的処理を強いる問題があるため、判例がこれを回避する解釈を展開していると理解できる。しかし、日本ではドイツにはない柔軟な労働条件変更法理が存在するのであるから、むしろ自動承継ルールを採用して労働者保護を強化すべきではないかとの反論もありうるところ、そうした立論に対する検討は必ずしも十分ではない。これらの検討がより積極的に展開されていれば、本論文の試論の説得力もさらに増したものと思われる。

第2に,各国の議論において実質的同一性という用語が重要概念として登場するが、その内容や判断基準について、本論文においてより詳しい解説があれば、論旨がよりわかりやすくなったと思われる部分もある。

以上のように改善すべき点がないわけではないが、これらは本論文の価値を大きく損なうものではない。以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者として高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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