学位論文要旨



No 126618
著者(漢字) 娜鶴雅
著者(英字)
著者(カナ) ナヒヤ
標題(和) 清末・中華民国前期における近代裁判制度形成過程の研究 : 「司法資源」の視角からの考察
標題(洋)
報告番号 126618
報告番号 甲26618
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第255号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,信行
 東京大学 教授 高見澤,磨
 東京大学 准教授 松原,健太郎
 東京大学 教授 高原,明生
 東京大学 教授 水町,勇一郎
内容要旨 要旨を表示する

清朝末期から中華民国にかけて、中国の政治・経済・社会は大きく変化した。裁判制度も例外ではなく、伝統的な知県などの地方長官が裁判を含めて統治を行う「行政兼理司法」から裁判所の裁判官による裁判を基本とする近代的な「四級三審制」の導入へと改革が進められていった。しかしながら、司法資源、即ち司法経費と司法人員が不足していたため、改革は清朝政府あるいは中華民国の北洋政府が望むとおりには進展せず、また不徹底に終わった。

清末においては、不平等条約の締結による賠償金、及び賠償金を返済するために借りた外債は、清朝政府の中央財政に大きな負担を与え、さらに地方財政コントロールの力の低下により、光緒27年以前から、清朝の中央収支は釣り合わなくなった。民国になると、軍閥が地方に割拠し始め、中央へ納めるべき送金を抑え、直接収入としての関税と塩税が外国によって支配されたため、北洋政府の財政収入は極めて限られていた。それに対し、当時の軍閥割拠による軍事費用などの支出は非常に膨大であった。そこで、北洋政府は絶えず内外債を募集せざるを得ず、しかしながら、莫大な内外債を募っても、軍事費及び政治経費の濫用で、北洋政府の財政収支は変わらず赤字であった。光緒32年(1906)に司法改革が始まり、新しい裁判機関、即ち審判庁を設置するために、必要とされる司法経費が莫大であった。しかし、財政赤字に陥った清朝政府はその経済力を持たなかった。審判庁の設置の不完全は当時に各省の一般的な現象であった。民国期に入ってからは、莫大な財政赤字を抑えるため、民国3年(1914)に北洋政府は大幅に地方司法経費を削減した。それにより、全国の全ての初級審判庁と一部の地方審判庁が廃止され、審判庁の数は清末よりさらに減らされた。

経費不足の問題のほかに、清末・民国前期の中央政府は、司法改革の過程において人員不足の問題にも直面しなければならなかった。

清朝においては、地方長官が司法裁判を兼ねて行うこと、即ち「行政兼理司法」であったため、司法を専門とする人員はまったく存在しなかった。そこで、清末の最初の司法人員は推薦によって候補官・旧来の官吏などから選ばれるとされた。しかし、審判庁が全国に普及されるに従って、必要とされる司法人員数は大幅に増加し、さらに清朝政府は司法官(裁判官と検察官)の重要性を意識してきた。そのため、審判庁の普及に合わせて、司法人員の養成が急速に展開され、かつ宣統年間に司法官試験が行われた。しかし、司法官試験は裁判官と検察官の選抜試験であり、さらに試験の合格者が僅かであったため、設置できた審判庁においては半分以上の司法人員は相変わらずに旧来の官吏であった。民国時代に入り、司法人員の中に旧来の官吏が存在する問題に対し、北洋政府は清末からの留任司法人員を改組し、さらに法を定めて司法官試験で司法官を選抜することとした。北洋政府が四級三審制に照らして各司法機関を設けるつもりであったのであれば、全国に必要とされる司法人員数は清末よりも増員されるべきであったが、民国前期の司法官試験の合格者は清末宣統年間の司法官試験よりさらに少なく、民国前期の司法人員数は極めて不足していた。民国3年(1914)に全ての初級審判庁が廃止されることによって、各県は「県知事兼理司法」へ戻った。それに従って、地方に必要とされる承審員(県知事が事件を取り扱う助役である)の数が上昇し、法に規定された承審員資格を満たすものが不足となることをもたらした。このように、清末から民国前期にかけて、実際に、末端の司法機関において法律知識と実務経験を持っている人員が不足していた。

清末・民国前期における司法資源の不足はさらに当時の裁判手続きに大きな影響を与えた。

清朝の基本的な裁判手続きは、滋賀秀三『清代中国の法と裁判』によると、事案の決定権はその重要さに応じて異なるレベルの統治機関に属し、即ち、「州」、「県」が第一審であり、笞、杖、枷号の刑を結審することができ、第二審の「府」と第三審の「按察使司」は事件結審の権限がなかったが、第四審の「督撫」(総督と巡撫)は人命に関係しない徒刑を結審することができた。そして、中央の裁判機関としては、「刑部」が人命に関係する徒刑および流刑を結審することができ、死刑事件の場合は、「三法司」によって審理される必要があって、さらに皇帝の裁可を仰がなければならなかった。州県から、府・按察使司・督撫・刑部・三法司・皇帝まで、決定権を有するレベルのところまで、事案は未決のままに繰り返し覆審を受けて上げてゆき、その中でも、州県から督撫まで、犯罪者及び関係者の身柄も繰り返して上級機関に送らなければならなかった。滋賀はこのような裁判手続きを「必要的覆審制」という名づけた。

清末改革により、裁判機関としての審判庁が従来官僚機構から裁判機能を取り出した。しかし、清朝が終わるまでに、司法資源の不足のため、審判庁は、京師及び各省の省城と商埠しか設置できず。そのため、審判庁の設置情況によって、その裁判手続きは異なっていた。まず、審判庁が完全に設置された地域(例えば、京師)においては、その裁判手続きが「四級三審制」に従って行われた。次に、審判庁が一部設置された地域(例えば、順天府と直隷)においては、州県の長官が裁判を兼ねて行ったが、県の上級行政機関である府(州県が第一審とする場合)、督撫及び按察使司は司法的機能を失い、新しい裁判機関である高等審判庁(或いは高等審判庁分庁)が第二審として裁判を行った。一方、州県から高等審判庁(或いは高等審判分庁)に行く段階では、必要的覆審制の「解審」(下級機関の役人によって犯罪者の身柄を上級機関へ護送すること)が残され、即ち州県は犯人身柄と関係書類などを高等審判庁または高等審判庁分庁へ送付しなければならないこととした。要するに、審判庁が一部設置された地域においては四級三審制と必要的覆審制の二つの裁判手続きが混在して適用されていた。審判庁が完全に設置されなかった地域(例えば、直隷省)においては、相変わらずに「必要的覆審制」に従って行ったが、解審の回数がかなり減らされたため、その裁判手続きは簡略化された。

民国になると、司法資源、特に司法経費の不足を原因とし、北洋政府は全ての初級審判庁と一部の地方審判庁を廃止した。そのため、全国にある審判庁はさらに数を減らし、「県知事兼理司法」の地域が拡大した。そこで、民国前期の司法改革は裁判機関の整備を重視していた。まず、審判庁が廃止された地域の一部に地方審判庁または高等審判庁の支部を設置した。次に、地方審判庁または高等審判庁の支部を設置しなかった地域においては、県知事兼理司法による弊害を抑えるために、県の上級機関である道に高等分庭を設置した。特に県知事のもとで審理した事件をできる限り新型の裁判機関の下に置こうとした。

清末の知県と比べれば、民国前期の県知事の裁判権限は大きくなった。即ち県知事が出した判決に当事者が不服を申し立てないと、その判決は確定判決となり、必要的覆審制のように上級裁判機関に解審する必要がなくなった。そのため、北洋政府は、県知事の司法権限の拡大が司法の公正性を損ねやすいことを配慮したうえ、清末の「覆判制度」を続けて適用した。清末の覆判制度は死刑事件を限って大理院によって覆審を行う制度であり、死刑事件へ慎重に対応するために作り出した救済方法であった。但し、北洋政府の覆判制度は、死刑事件から地方管轄の刑事事件にまで拡大し、さらに上述の事件が県知事の判決を経て上訴しなかった場合に限られたため、北洋政府は覆判制度を借りて裁判を兼ねる行政機関を制限しようとした。

清末・民国前期においての司法改革は不徹底であった。旧来の「行政兼理司法」と新しい「四級三審制」との併用として体現された。「四級三審制」は「行政兼理司法」の仕組みを借りて、地方、特に県レベルで行政長官が裁判を行うことによって、審判庁が不完全に設置される問題を解消した。しかし、「行政兼理司法」の存在は、司法が行政から完全に脱出していなかったことを意味し、従来の「四級三審制」が目指していた司法の公正性が維持されにくくなった。それでも、清朝政府及び民国前期の北洋政府は、司法資源の不足という現実を認識したうえで、行政兼理司法を採用せざるを得なかった。同時に、制度の設置と裁判機関の整備を強化し、裁判手続きを通じて行政兼理司法を制限し、それによって司法の公正性を維持するという目的を達成していた。その中でも、清末においては裁判手続きへの整備という手段を採用し、即ち州県が審理した事件はすべて新型の裁判機関の覆審を受けなければならず、死刑事件の場合はさらに覆判制度の手続きを適用することとした。民国前期においては裁判機関への整備という手段を採用し、即ち新型の裁判機関の支部を広範に設置し、県知事の判決を不服した事件はできる限り新型の裁判機関によって第二審として審理されることとした。そして、県知事の判決に対して上訴しない地方管轄の事件の場合は覆判制度の手続きを適用することとなった。

従って、清末から民国前期にかけて、清末の清朝政府また民国前期の北洋政府は近代裁判制度形成の意欲があった。しかし、司法資源が不足していたため、当時の司法改革はとても不徹底であった。その不徹底性は、裁判手続きからみれば、旧来の行政兼理司法と新しい四級三審制との併用から体現された。しかし、行政兼理司法の存在は司法の公正を脅かしており、そこで、清末の清朝政府また民国の北洋政府は裁判手続き及び裁判機関の整備を行って司法の公正を維持しようとした。

小論では、清末・民国前期の裁判制度について制度の面から検討したが、実務の面に触れていない。そのため、省の档案資料を利用し、省において当時の司法経費の情況や、裁判官とその他のスタッフの給与基準と業務基準や、裁判手続きの運用などを明にし、地方の裁判制度の実態を解明することは今後の課題としたい。そして、近代以来の中国の司法改革は近代と伝統との妥協をしつつある過程においてその進めを解明するため、北洋政府以後、即ち国民党政権期から人民共和国初期及び接収期の台湾は如何に司法資源の問題を解決したのか、行政兼理司法の廃止と四級三審制の樹立が如何に実現されたのかについて検討しなければならない。そのため、この点も今後の課題としたい。さらに、清末から民国前期にかけて民事事件の手続きについても今後に研究したい。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は二〇世紀初頭、清末から中華民国前期にかけての近代裁判制度形成過程を「司法資源」の視角から考察したものである。ここにいう「司法資源」とは近代裁判制度形成に向けられた財源と人材とを指す。

清末以降中華民国の時期にかけて、中国はその法制度をそれまでの律を頂点とするものから近代西洋型のものへと改めた。この過程を研究する中国近代法史研究は、それより以前の固有法を研究する法制史研究や中華人民共和国法研究に比べると蓄積の薄い分野であった。しかし、近年この分野においても活発な研究が行われるようになっており、本論文はそのひとつに数えられるべきものである。

従来の研究の重点は、立法史を中心とするものであり、清末には、中央に大理院、各省には高等審判庁、府には地方審判庁、州・県には初級審判庁(または郷〓局[きょうげんきょく])の四級の裁判所を配置することが目指されたものの、民国初期には初級審判庁は廃止され、県知事が司法を兼理する「県知事兼理司法」制度(または「行政兼理司法」)が採られるようになったことは多くの著作で論じられている。また、そうなった原因は財源の不足にあったことも触れられてきた。しかし、どの程度に財源が不足し、また、人材が不足したのかについては、全体にわたる実証的な研究がなかった。さらに、裁判制度形成が順調に進まなかったことは、清朝の延命策としての側面や中華民国における政情の不安定から論じられるのが一般で、上記県知事兼理司法制度その他の対応策は必ずしも十分には論じられてこなかった。本論文は、この研究の空白を埋めるべく、財源と人材との不足及び近代裁判制度形成が順調に進まなかったことへの対処の策を資料に基づいて検討を行っている。その上で、清朝及び民国前期北洋政府は、司法資源が不足していることを認識した上で、県知事兼理司法を採用せざるを得なかったが、他面で県知事兼理司法を管理して、司法の公正性を一定程度維持しようとしていたという結論を得ている。

以下、論文の要旨を述べる。

全体は、序、第一章から第三章の本文、結語からなる。

まず、序において課題が設定され、主要な先行研究の整理、主たる資料の紹介が行われている。

第一章においては、清末・民国前期の司法に関する財政が論じられている。清末、とくに日清戦争後は軍事費、賠償金支払い、借款返済などで財政赤字が膨大な額となり、近代司法制度形成に必要な経費の確保に困難が伴う様子が、新たな財源確保の試みとあわせて、東華録・文献通考・文書資料・官報、財政関係の先行研究をもとに述べられている。この財政的不足により省の官衙が置かれる省城や開港地に審判庁を設置するだけでも容易ではなかった。この状況は中華民国になっても変わることはなかった。むしろ軍閥が割拠し、地方で徴税した収入が省から中央に送金されなくなり、中央直轄の財源しか頼れず、その財源も関税や塩税は対外借款のために外国人の管理下におかれ、手にすることができたのは、返済にあてた余額のみであった。こうした状況のもとでの司法経費についても、司法公報や官報などを用いて論じている。清末以上に財政的な困難にあったため、民国政府は一九一四年に初級審判庁設置を断念し、県知事兼理司法の制度が採用された。

第二章においは、清末・民国前期の人材(論文は「司法人員」の語を用いている)確保の状況を論じている。清末には、大理院、京師各級審判庁、直隷省各級審判庁の官制が定められた。また、法院編成法と直隷省の官制及び上奏文とに基づき地方において必要な司法人員数(浙江省、広西省、全国省城・開港地について)を試算している。全国省城・開港地だけで約二〇〇〇名、著者がひく清朝続文献通考によれば全国では五万名であり、司法人員の養成は急務となった。法律学堂の設置、留学、各省課吏館仕学速成科などでの教育が始められ、司法官試験も始められた。しかし清末において新たな法学教育を受けた人材は必要とされる数に遠く及ばなかった。民国になってもこの状況は変わらなかった。上述のように初級審判庁設置が断念され、すでに設置されている初級審判庁は廃止され、また、設置予定であった地方審判庁のうち三分の二が廃止されることとなった。解雇された司法人員は研修を受けた後試験に合格すれば採用されることとなった。県知事兼理司法の制度が採られたことにより、県知事のもとで司法事務を行う承審員がおかれることとなった。承審員となるための条件は司法官よりも低いものであったが、全国的に県知事兼理司法の制度が採られることとなったため、承審員の不足も新たな問題となった。

第三章においては、清末・民国前期の裁判手続が刑事事件を中心に論じられている。清末において、初級審判庁は、笞、杖、人命に関わらない徒などの適用の可能性のある事件及び一定額以下の民事事件を受理し、地方審判庁は、人命に関わる徒、流、死などの刑の適用がある事件及び一定額を超える民事事件を受理するものと定められた。高等審判庁は第二審裁判所、大理院は第三審(終審)裁判所であった(一定の事件を一審として扱う場合を除く)。審判庁が設置されなかった地域では、旧制どおりであった。民国初期においても状況は同様であった。一九一三年には初級審判庁を設置していない県には「審検所」を設置し、「幇審員」を置くこととした。それでも必要な経費をまかなうことができなくて実現できず、翌年の県知事兼理司法の制へと移った。京師においては県に地方審判庁の分庭と刑事簡易庭とを置き、初級審判庁が担うはずであった任務を負うこととなった。また、管轄域の広い省においては、高等審判分庁が地方審判庁内に置かれる旨清末の法院編成法は定めていたが、この制度は民国においても受け継がれた。県知事兼理司法の制度は創設後、司法の独立の観点から批判され、また、県公署内に県司法公署を置き、裁判官を設置するという制度も一九一七年に制定されたが普及しなかった。審判庁が設置されない地域についての対処は清末以来行われ、地方審判庁及び高等審判庁の死刑判決については確定すればそれにつき上級の裁可を経る必要がないとされる一方で、審判庁が設置されていない地域の旧制による死刑判決についてはすべて大理院に書面で送られて審理されることとされ、覆判制度と呼ばれた。さらに、秋審(清代には死刑に二種あり、直ちに執行すべきである死刑判決と秋にもう一度検討する監候とがあり、その後者についての制度)も改められ、旧制通りの場合にのみ秋審制度が適用されることとなった。民国になると覆判は高等審判庁によって担われることとなった。また、適用される範囲も死刑判決以外に懲役刑にまで拡げられた。

結語においては、上記の議論が整理され、財政的要因と人材不足とから県知事兼理司法の制度が設けられたが、それに対する対処もまた行われたという結論が述べられるとともに、省ごとの詳細な研究及び民国後期すなわち国民党統治期や中華人民共和国成立初期についての研究は今後の課題であるとする。

以下、本論文の評価に入る。

本論文の長所の第一は、清末・民国前期の財政上及び人材上の不足を資料に即して検討したことである。清末に構想された近代的司法制度は財政上及び人材上の困難から実現できず、このことは民国期も同様であるといったことは、これまでも一々資料で証明はしないが当然のことと受け取られてきた。しかし本論文はそれを歴史資料をひろく調べ、中央レベル・京師・直隷や若干の地方の範囲ではあるが一定程度明らかにした。北京・南京・上海・台北・東京・京都の文書館や図書館を精力的に調査し、また、官報・公報・文献通考・東華録などの資料も調べている。

第二は、財政上の理由により採られた県知事兼理司法の制度は、従来、近代法制形成の不徹底さを示すものとしてのみ扱われてきたが、本論文においては、そのことの問題点は清朝も民国前期北洋政府も自覚しており、そのための対処の措置として覆判制度や普及しなかったものの県司法公署などの制度が採られたことを詳細に指摘していることである。このことは、本来の趣旨とは異なる臨時の措置が制度として定着するパターンのひとつを示すものであり、制度形成過程研究にとって一定の寄与をなすものである。

しかしながら、本論文にも短所がないわけではない。第一には、清朝及び民国における財政を中心とした政治過程への考察に欠ける点である。清末に定められた官制及び上奏文から示される必要経費と定員とをもとに司法資源の不足を述べるが、それらの官制や上奏文自体が内容においても過程においても合理的なものであったのかについての考察があればさらに説得力を持ったであろう。また、清末・民国期は司法制度形成以外にも多くの分野で資金と人材とを必要としたのであり、その中でどれだけが司法制度形成のために向けられたのかということへの検討も行われれば、本論文の説得力を増すことができたであろう。

第二に、財政的不足や人材の不足は官制、上奏文、官報、公報など歴史資料の提示とともに示されるので、読者にとっては読みづらく、また、表五は司法公報に掲載されて以来しばしば論文に引用される組織図であるが、これも煩雑でわかりにくいものである。図や表の形で工夫して示せば、より読みやすいものとなったであろう。

但し、これらは、今後の研究によって改良し、完成度を高めることができることがらであって、結語に示された今後の課題とあわせて、これからの著者の研究の進展によって達成可能なことであり、本論文の意義と価値を大きく損なうものではない。

以上から、本論文の筆者が自立した研究者あるいはその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度な研究能力およびその基礎となる豊かな学識をそなえていることは明らかであり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

UTokyo Repositoryリンク