学位論文要旨



No 126619
著者(漢字) 伏見,岳人
著者(英字)
著者(カナ) フシミ,タケト
標題(和) 政党内閣確立過程における予算と政治 : 桂太郎の政治指導を中心に
標題(洋)
報告番号 126619
報告番号 甲26619
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第256号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 五百籏頭,薫
 東京大学 教授 北岡,伸一
 東京大学 教授 中山,洋平
 東京大学 教授 齋藤,誠
 東京大学 教授 水町,勇一郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、明治33年(1900年)の立憲政友会の創設から大正3年(1914年)の第1次山本権兵衛内閣の終焉までの期間を主たる対象とし、内閣での予算編成過程と議会での予算審議過程にそれぞれ焦点を当てて、政党内閣確立過程における予算と政治の関係について考察した研究である。特にこの時期に内閣総理大臣を長く務めた桂太郎の政治指導に注目し、議会開会中に衆議院多数党の政友会幹部との間で実施された予算交渉会の展開を詳しく分析している。これにより桂を中心とする安定政権の下で予算が円滑に成立する慣行が徐々に形成された過程を明らかにすると同時に、政友会を中心とする政党勢力の台頭過程を再検討する新たな視角を提供できたと考えている。

大日本帝国憲法によって分立的に規定された行政府と立法府を統合して毎年度の予算を成立させていくためには、統治機構内部の多元的な政治主体が互いに協調していく慣行を漸進的に積み重ねる必要があった。議会開設からの約10年間はこの慣行の欠如もあって不安定な政権運営が行われたが、その後の約10年間は維新の元勲より若い藩閥指導者の桂を中心に安定的な政権が続いた。首相在任時の桂は、予算の成立に向けて政友会幹部と協議する予算交渉会を開催し、それを「立憲的動作」と位置づけて緩やかな制度化を図っていった。この政治指導を桂方式と名付け、その形成・展開・終焉の各過程を分析することが、本論文の第一の課題である。

この予算交渉会の慣行は、政友会側にも一定の変化をもたらした。桂が政府内での権力を集中させていくのに対応して、在野時の政友会を代表して予算交渉会に参加した原敬と松田正久の二人は、桂との交渉を巧みに利用して党内の議員団を指導する態勢を次第に確立していった。この予算交渉会を通して桂から政友会総裁の西園寺公望への二度の政権移譲が実施され、さらに政友会は政権担当の経験を重ねることで自律的に予算の成立を図れるように成長した。本論文の第二の課題は、この間の予算編成過程や予算審議過程に注目して、政友会の台頭過程を再検討することにある。

本論は概ね内閣の変遷に従って全4章に区分されている。第1章は第4次伊藤博文内閣と第1次桂内閣の時代を、続く第2章は第1次西園寺内閣の成立から崩壊までをそれぞれ扱う。また第3章は第2次桂内閣期の3度の議会が主な対象となり、最後の第4章には、第2次西園寺内閣、第3次桂内閣、第1次山本権兵衛内閣の3つの内閣の期間が含まれている。以下では各章の概要を述べていく。

第1章「桂方式の形成」は、第1次桂内閣期の各議会において予算交渉会が実施され、桂と政友会幹部が提携する方式が次第に形成されたことを明らかにした。

本章では、創立直後の政友会を構成主体とする第4次伊藤内閣の迷走過程を導入としてまず論じた。前任者の編成した予算案を引き継いだ伊藤内閣は、初めて臨んだ第15議会で貴族院の激しい反発に接し、さらに議会後には次年度予算編成方針をめぐる大蔵大臣と政友会閣僚の対立が激化して、7ヶ月程度の短命政権に終わる。伊藤内閣からこの財政問題を受け継いだ桂は、鉄道敷設などの公債支弁事業を普通歳入支弁化した明治35年度予算案を編成し、第16議会で政友会幹部と予算交渉会を開いて無事に成立させた。

続いて桂は、翌明治36年度予算案において第3期海軍拡張計画などの新事業に着手し、その財源として5年間の時限措置だった地租増徴を継続する方針を決める。これに反対する政友会と政府は第17議会で激しく対立し、予算交渉会でも合意に至らず、衆議院は解散された。解散後から桂は鉄道事業の一部を公債支弁に戻す妥協案を伊藤等と作成し、それを選挙後の第18議会で成立させる。この過程において桂方式は確立し、また予算交渉時に原等が鉄道要求を桂に提示する方法も原初的に現れた。これが後に政友会が党勢を回復する足がかりとなる。

日露戦争の勃発に伴い挙国一致体制が形成される中、桂は二度の戦時議会に増税案を提出し、原たちとの交渉を通してそれを成立させる。そして第21議会での予算交渉会の前日に、桂は次期政権を西園寺に譲る意向を明らかにして政友会との連携を強化した。

第2章「挙国一致的内閣による国家財政統合」は、桂の支援を受けて第1次西園寺内閣が成立させた3年間の予算の編成過程と審議過程を主たる分析対象とした。

政友会総裁を首班とするこの内閣は、日露戦後経営を安定的に進めるための挙国一致的内閣として発足した。そして前内閣の大蔵次官であった阪谷芳郎が大蔵大臣に昇進し、予算編成には閣外の桂たちが強い影響力を行使した。日露戦後の財政方針を規定する明治39年度予算は前任の第1次桂内閣が編成したものであり、翌明治40年度予算案の編成時には桂等の調停によって閣内での合意に達することができた。さらに明治41年度予算編成過程でも桂が深く介入し、鉄道予算に関する騒動によって全閣僚が辞表を提出する混乱が生じた。この内閣の予算編成は桂の監視下で行われており、政友会の意向を予算に直接反映させることはまだ難しかった。

しかし政権与党の経験を重ねることで政友会は少しずつ勢力を拡大し、議会での円滑な予算審議を主導していった。第22議会に出された明治39年度予算案は衆議院で僅かな金額が削減されただけで成立し、第23議会で扱われた明治40年度予算案は一切の削減が加えられずに衆議院を通過した初めての予算案となり、そして第24議会は政府の提出した予算案が原案のまま両院を通過した初めての議会となった。

上記の経過に併せて当初の挙国一致的基盤が解体していく中、政友会は貴族院議員を新たに入閣させて政権維持を図り、第10回総選挙で過半数を回復する。その後も予算編成を主導すべく大蔵次官の更迭に着手したものの、それにより桂の倒閣運動が強まり、次期議会を待たずに内閣総辞職となった。

第3章「桂方式の展開」では、第2次桂内閣期の3回の議会において、桂方式が本格的に展開される過程を考察した。

第2次内閣で桂は総理大臣と大蔵大臣を兼任し、財政整理や税制整理を力強く推進した。そして非募債主義の予算を3年連続で編成し、それを政友会幹部との予算交渉会を通して成立させた。また国有化後の鉄道経営を整理しつつ、前任の第1次西園寺内閣が着手できなかった大規模な鉄道拡張政策も実施する。第1次桂内閣期に形成された桂方式は、この第2次桂内閣期でも引き続き展開され、3年間の安定政権を経て桂は再び西園寺へ円満に政権を譲ることにした。

桂方式の継続を受けて、この間には政友会が議会審議を統制する仕組みも一層整えられた。政友会の査定が事実上の決定となるように予算審議を多数党の力によって支配する一方で、予算支持の交換条件として政友会幹部が束ねた鉄道要求を桂内閣に一元的に突き付ける交渉が行われた。この交渉は桂が税制整理と共に大規模な鉄道拡張計画を提出した第26議会で本格化し、政友会はより積極的な鉄道計画を次期議会に提出するように政府に迫った。そして第27議会では政府の立案した鉄道広軌化計画を延期させ、政友会のみが積極的な鉄道要求を独占的に提示するように議事運営を導いた。これらが、政権から離れても政友会が過半数の結束を維持し、原や松田の指導の下で次期政権を獲得できた要因となった。

第4章「政友会による国家財政統合」は、第2次西園寺内閣期において政友会を中心に予算成立が図られる態勢がほぼ確立し、その後の桂方式の終焉を経て、それが第1次山本内閣へと引き継がれる過程を論じた。

第2次桂内閣期の予算交渉の経験を踏まえ、第2次西園寺内閣では原と松田が西園寺と協力して桂から自律的な予算編成を進めていく。この明治45年度予算案はそれまでの桂の予算案と大きな違いは見られなかったが、複数年度の予算編成が可能となる政党内閣の利点を活かすことで、政友会は国家財政を統合する中心勢力として存在感を強めた。また政友会の希望する鉄道拡張計画も一部実施し、鉄道拡張の手綱を政友会のみが独占する方法がさらに強固なものとなった。

こうした政友会内閣の勢力拡大に対して、陸軍は2個師団増設問題で強引な倒閣運動に走り、さらに桂も準備不足のまま新党構想を打ち出して大失敗に終わる。第3次桂内閣の編成した大正2年度予算案は、それを引き継いだ第1次山本内閣によって速やかに成立された。これで桂方式は終焉し、政党内閣の存立は不可逆的な趨勢となった。翌大正3年度予算編成は原が中心となって平穏に行われ、さらにジーメンス事件の最中の第31議会でも従来通りに政友会主導で衆議院の予算審議は進行した。そして議会終盤になると原は後継首相を引き受ける覚悟を固め、会期末に山本首相は原を後継者に推薦して総辞職した。

以上の考察によって、第一に、この間の桂太郎の政治指導によって、行政府と立法府が協力して予算を成立させる慣行が次第に形成されたことが解明された。予算交渉会の制度化や財政整理を推進した桂は、それまでの立憲制度の創設者たちとは異なる方式に基づいて長期政権を実現した新しい藩閥指導者であった。しかし財政整理だけでは消極的との批判を諸方面から浴び、権力基盤を弱体化させて悲劇的な結末を迎えた。

第二に、この間の政友会の台頭を議会審議の態様に引きつけて再考した。多数党の力で予算審議を支配し、かつ独占的に集約した鉄道要求を政府に提示することで、政友会は桂との交渉を次第に有利に展開していき、さらに政権担当の経験を重ねることで徐々に桂を凌駕していった。しかし原が中心になって限られた財政資源を配分する仕組みは、強固ではあるが硬直した政治でもあり、それがジーメンス事件での民衆運動の勃興や第2次大隈重信内閣の成立を促した背景となった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、明治33年(1900年)の政友会の創設から大正3年(1914年)の山本権兵衛内閣の終焉までの政治統合のあり方を、予算問題を通して考察したものである。

本論文が扱った時代には、19世紀末までの元老、あるいは1920年代の政党といった統合主体が存在せず、明治憲法体制の分立的な性格が顕在化していた。それにもかかわらず、桂太郎と政友会総裁西園寺公望が政権を授受していた時期は、憲法体制の運用が最も安定していたという評価を受けることが多い。このような安定はいかにして可能になったのか。

この時期の政治については、政党指導(三谷太一郎)、陸軍・大陸政策(北岡伸一)、鉄道政策(松下孝昭)などの観点から優れた研究が蓄積されている。本論文は、これらの業績を謙虚に摂取しつつ、政治的な相克と協調の中心的な舞台たる予算交渉について、その中核となった桂と政友会領袖の原敬を中心に、どのような力学が働き、いかなる技法が駆使されたかを明らかにしようとしている。予算交渉そのものについても、既にインパクトのある先行研究はあるが(坂野潤治)、それがもっぱら安定の崩壊を説明しようとしているのに対し、本論文はそもそもいかに安定が可能になったかを深く探求し、崩壊の原因についても新たな知見を導きだしている。

本論文はこうした課題を達成すべく、政府内の予算編成と議会での予算審議、そして何よりも両者の結節点として桂らと政友会首脳が行った予算交渉会による調整(桂方式と呼ぶ)を詳細に分析している。桂、政府内各省、井上馨ら元老、衆議院・貴族院、政友会、憲政本党、そして折に触れ地方の鉄道敷設運動など、多元的なアクターの動向を、一次史料の綿密な渉猟に基づいて、バランス良く描いた力作である。

以下、内容の要旨を紹介する。

「第一章 桂方式の形成」は、桂の交渉相手として政友会が成熟していく過程を描いている。

まず、創立直後の政友会を与党とする第四次伊藤博文内閣(明治33~34年)の混迷が描かれている。衆議院の意向を背景とした各省の大蔵省に対する挑戦と、政党内閣への反発を背景とした貴族院の自己主張から、以後の予算交渉が多元的かつ困難なものとなることを予告するためである。

続く第一次桂内閣(明治34~39年)は、財政整理を強力に推進し、予算交渉会を通じて政友会との調整を進める。ただし、その調整が緊張をはらんだものであることに筆者は自覚的である。

すなわち、明治35年度予算においては、政友会内部の不統一、特に執行部に敵対的な鉄道敷設要求の存在に桂が便乗する形で交渉が妥結した。地租増徴の継続が争点となった36年度予算では、予算全体の対立軸を明確にし、有利に解散を行うための布石として桂は予算交渉会を招集した。このように、筆者は予算交渉におけるいわば権力闘争の側面にも目配りすることで、叙述の緊張感を保っている。

とはいえ、筆者はこうした洞察にも拘泥せず、最も重要と考える因果関係を、抑制された筆致で辿っていく。すなわち、桂が最も期待したのは、政友会が財政的制約を直視し、交渉の良きパートナーとなることであり、この期待は次第にかなえられていくとする。

36年度予算をめぐる交渉は決裂し、第17議会は解散された。その後、伊藤・桂間の調整により第18議会で地租増徴継続の否決と一部公債支弁による海軍軍拡が可決されたこと、これが政友会からの多数の脱党を招いたこと、はよく知られている。本論文はこのプロセスも丁寧に再現し、伊藤のリーダーシップの限界に加えて、原ら政友会執行部が伊藤側近(伊東巳代治)による調整を排除し、かつ党内の鉄道敷設要求を一元化して政府に突き付けるスタイルを形成するという、党組織の構築の側面があったことを指摘している。

日露戦争が始まると、衆議院第二党の憲政本党も予算交渉会に参加するが、政友会の方が、これまでの経験の蓄積から頼もしい交渉相手を演ずることができ、桂から戦後の政権禅譲を打診されるにいたる。

「第二章 挙国一致的内閣による国家財政統合」は、政友会が、与党としての統治能力にはまだ欠けていたことを明らかにする。

第一次西園寺内閣(明治39~41年)は、閣外の桂・元老の協力を不可欠とする点で、挙国一致的な性格の強い内閣であった。政友会の鉄道敷設要求と地方組織の強化とは、相互促進的に高まっていたが、一定の自制を強いられていた。政友会議員は予算案を受け入れつつも、さらなる敷設を求める建議案を提出・可決することでこの矛盾を緩和しようとした。政友会の党勢拡張は地方利益の充足ではなく、充足への期待をつなぎとめることで実現した、というのが本論文の一貫した主張であり、説得的である。

他方で鉄道敷設要求の党派化は、内閣の挙国一致的性格を弱めることになった。

41年度予算の編成においては、鉄道予算をめぐって阪谷芳郎大蔵大臣と山県伊三郎逓信大臣が激しく対立する。桂は予算編成の責任を分有するからこそ強硬に介入し、両大臣の辞任をもたらすと共に、内閣の統治能力に見切りをつけて倒閣を準備しはじめる。本論文は、政友会側が大蔵省・日銀の人事にすら介入して抵抗した経緯を明らかにし、これが元老を刺激し、倒閣と桂の政権復帰への支持を強めることになったと指摘する。

第一次西園寺内閣は比較的長く安定しており、それを挙国一致と桂・元老への依存という観点で整理することに苦心した跡も本章には見られる、しかし、軍部も含めて諸アクターの動向を簡潔・周到に描く叙述の精度は損なわれていない。

「第三章 桂方式の展開」は第二次桂内閣(明治41~44年)における桂方式の最盛期を描いている。

この時期、予算交渉会は予算審議のための定例的な制度として確立した。政友会はこれに協力しつつ、鉄道敷設要求を地方から積み上げ、衆議院において他党の建議を否決・排除しつつ独占的に表出する仕組みを整えた。

とはいえ、桂方式によって財政整理と公債価格の回復がある程度達成されたことは、軍拡・治水・鉄道など政府内外の予算要求の再度の活発化を帰結した。その結果、桂や後藤新平は鉄道広軌化計画を棚上げせざるを得なくなった。本論文では、政友会も広軌化に原理的に反対していたわけではなく、狭軌鉄道敷設をめぐる予測不可能性が高まることを忌避したにすぎないことが強調されている。この程度の反対を打破できなかったことを通して、単年度毎に予算を均衡させなければならなかった桂の苦衷を浮かび上がらせているのである。政友会への依存を強めた桂は、再び西園寺に政権を禅譲する。

「第四章 政友会による国家財政統合」は、第二次西園寺内閣(明治44~大正元年)において政友会が政権担当能力を高め、桂の相対的地位が低下したことを明らかにしている。

政友会内閣は、軍拡・減税・鉄道要求に直面しつつも、45年度予算の自立的な編成に成功した。その手法の主たる特徴は、事実上、複数年度での決済を想定した予算編成を行うことで、様々な要求が次年度には充足されるという期待をつなぎとめ、予算成立と行財政整理への協力を確保することにあった。副次的な特徴は、このようにして貴衆両院で予算を通過させることで、他党による予算外の鉄道敷設要求を封殺することにあった。

皮肉にも桂方式の積み重ねは、衆議院を確実に掌握し、次年度以降の予算審議の予測可能性を高くできる政友会の優位を帰結したのである。

これが他勢力に与えた危機感は深刻であった。陸軍の二個師団増設要求は、財政上の自己主張というよりは、政党の権力確立に対する軍部の必死の抵抗であった。桂はこの陸軍の反撃に乗じて政権を奪回し、新党結成によって新たな権力基盤を創設しようとする。

しかし現に第三次桂内閣(大正元~2年)が成立すると、桂は複数年度の予算編成をも承継することになった。次年度の予測可能性を高めるためにも、また単年度での均衡を政友会よりは重視したことからも、桂は衆議院における多数派形成を急いだ。新党結成工作は桂らしからぬ拙速なものとなり、失敗に終わる。

しかも、長年の交渉により桂と政友会の財政政策が接近していたために、一方で政友会の吸収を主目標とすることで政友会の決定的反発を招き、他方で衆議院解散の機を逸することになった。桂は退陣し、やがて病死した。

桂の排除に成功した原は、第一次山本権兵衛内閣(大正2~3年)において内務大臣として政府・政友会双方の窓口を一身に兼ね、強大な権力を手中に収めた。しかしそれ故に世間には自作自演の調整に映り、民衆と知識人からの批判を強めることになった。このようにして複数政党政治への展望を示唆することで、本論文は締め括られている。

本論文への評価は以下の通りである。

分立的な憲法体制の下での統治技術を極限まで析出した点に、本論文の最大の功績がある。当該期の歴史研究として優れている上に、同様の手法で予算交渉過程を分析することにより、他の時代についても多くの研究の書き換えをうながす可能性をはらんでいる。さらには、およそ合意形成が困難な仕組みをいかに政治的に運用するか、という普遍的な問題について、参照すべき文献の一つとなりうるであろう。

また、個人文書から議会議事録まで様々な史料を活用し、多元的な諸アクターの動向を正確かつ簡潔に描ききった力量は、高く評価できる。

細部にまで目配りの行き届いている本論文には、個別の論点における長所も少なからず見出せる。

例えば、第一に、桂は第二党の憲政本党との提携(「一視同仁」)よりも、政友会との交渉を重視していたことが、本論文によってほぼ確定したといえよう。

第二に、鉄道を敷設するか、改良(広軌化を含む)するか、という対立が相対的なものであったことを従来以上に明らかにした。これとあわせて、後藤新平の役割について、周知の広軌化の推進者という側面のみならず、政友会との鉄道敷設の競合者という側面をも析出している。

第三に、衆議院を掌握している政友会が複数年度にわたって地方利益充足への期待をつなぎとめることができたのに対して、桂は単年度毎の決済を達成しなければならないため、地位を低下させていった、という知見は、議会に依拠する権力と官僚制に依拠するそれとの力関係を考える上で、きわめて重要な知見である。これを自覚した桂の焦りが、大正政変とそこでの桂の敗北をもたらした、という説明も鮮やかである。

だが本論文にも短所がないわけではない。

第一に、筆者の立論は堅実な反面、禁欲的に過ぎるため、従来の通説的な理解とどのような点が大きく異なるのか、一見すると分かりにくいところがある。

第二に、政治統合に関心を払うため、例えば政友会が日本の経済発展に関してどのような構想を有していたか、といった政策の内実については明確な判断を示していない場合がある。

第三に、政友会の政権担当能力の向上についての説明には、やや結論を急ぐ印象を与える部分もある。例えば、第二次西園寺内閣の複数年度予算編成を評価しているが、財源の問題を翌年度以降に先送りするともいえる手法であり、過大評価にも見える。

しかし、第一の短所は、本論文の課題設定から避けがたく派生するものであり、またその長所を大きく損なうものではない。第二の短所は、後日の課題として取り組むことが十分に可能である。第三の短所についても、政友会の政権担当能力が向上し、桂の役割が減少した、という全般的傾向については充分に説得的であり、かつ複数年度予算の承継という視角から導き出した大正政変の卓抜した分析の意義を、より高く評価すべきであろう。

以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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