学位論文要旨



No 126622
著者(漢字) 庵原,さおり
著者(英字)
著者(カナ) イハラ,サオリ
標題(和) 公共政策の決定に関する政治経済学的研究
標題(洋)
報告番号 126622
報告番号 甲26622
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第295号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 現代経済専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩本,康志
 東京大学 教授 田渕,隆俊
 東京大学 教授 金本,良嗣
 東京大学 教授 井堀,利宏
 東京大学 教授 松村,敏弘
内容要旨 要旨を表示する

この博士論文は、公共政策の決定に関し、政治経済学的な分析を行った四つの章を中心に構成される。具体的には、第2章から第4章では、特にメディア報道と政策決定の関係性に注目した議論を行う。また第5章は、それまでの章とは視点を変え、政策を決定するにあたり、ある公共サービスと同様のサービスを各人が私的に購入できる可能性に注目した分析を行う。以下、各章の概要および各章の関係性について、より詳細に示したい。

ある公共政策に関するメディア報道を振り返るとき、報道はその政策の決定に影響を及ぼしているようである。また他方で、その政策決定もまたメディア報道に影響を与えていると思われる。そこで第2章では、政策の中でも、特に公共サービスへの政府支出の選択に注目し、政府支出の無駄もしくは不足に関するメディア報道と支出規模の決定の相互作用を検討する。なお、第2章(および次の第3章)では、政府支出の「無駄」や「不足」を考えるとき、大衆にとっての最適な支出規模との比較によって捉えている。また、政府支出の規模は政治的な過程を経て選ばれると考え、分析は、政治経済学的な分析手法を用いた理論モデルを構築することで行う。具体的には、第2章ではまず、ある公共サービスへの支出に関する報道の量に注目し、メディア企業による報道量の選択をモデル化する。そして主要な結果としては、支出の無駄もしくは不足の程度が、報道量に影響することを示す。特に、無駄・不足の程度が小さければ、メディア企業は報道量ゼロを選ぶ一方、無駄・不足の程度がある規模より大きければ、報道量を増やすことを明示する。また、第2章では次に、ある公共サービスへの支出に関し、2大政党が公約として掲げることを選ぶ支出規模を考察する。そして主要な結果としては、報道量が、支出規模の選択に影響することを示す。具体的には、報道量がゼロであれば、どちらの政党も大衆の選好を重視せずに支出規模を選択するが、報道量が増えるほど、大衆の選好を考慮にいれて規模を選ぶようになり、特に無駄・不足の程度を縮小するように支出規模を変更することを明らかにする。そして、最終的に第2章では、それらの結果をもとに、報道量と政策決定の関係性を数期間に渡り描写する。いま、政治経済学の分野で、公共政策の決定に関し理論的な分析を行った研究は多数見られる。しかし、メディア報道が政策決定に及ぼす影響を加味した研究はまだ少ない。また、メディア報道の政策決定への影響を加味したいくつかある研究でも、議論の中心は一期間の様子についてであり、メディア報道と政策決定の数期間に渡る関係性に注目したものは私の知る限りでは存在しない。しかし、メディア報道と政策決定の間には無視できない相互作用が予想されるので、これらの関係の理論的な分析を行った点が、第2章の主要な意義と考える。

ただし、第2章では単純化のため、ある一つの公共サービスに注目した議論を行っている。よって、複数の公共サービスが存在するなかで、あるサービスへの政府支出には無駄が生じ、他方で他のあるサービスへの政府支出には不足が生じるという現象については第2章では説明できていない。そこで第3章では、第2章の議論を拡張しこの点に関する考察を加えるとともに、モデル分析の結果から予想される事態と現実に起きている現象との整合性を確認する。

具体的には、第3章では特に以下の現象に注目する。各種公共サービスに関するマスメディアの報道を振り返るとき、「無駄な公共事業」といった、ある公共サービスへの政府支出に無駄が生じていることを指摘する報道を見つけることができる一方で、「看護師不足」や「医師不足」といった、他のある公共サービスへの支出に関しては不足を予想させる報道も見ることができる。そこで第3章ではまず、政府支出に無駄が生じているサービスと不足が生じているサービスが存在(時に併存)する理由、および、どのようなサービスへの政府支出に無駄や不足が生じやすいのかを、財源をめぐる政策間の相互作用に注目しつつ検討する。主な結果としては、各サービスの提供に携わる利益集団の特徴(人数、賃金水準、浮動票層の割合等)の違いから、政府支出の規模でみて優遇されやすい集団と優遇されにくい集団があり、その結果、支出の無駄や不足が生じうることを明示する。また、第3章ではさらに、ある公共サービスへの政府支出に無駄、もしくは不足があることを伝える報道の量と、政府支出に関する政策決定の関係性にも注目する。ただし、マスメディアの報道量の選択過程に関しては第2章でも検討を行っているため、第3章では、より簡単なモデルのもと分析を行う。

なお、第2章・第3章の分析では、マスメディアは大衆の立場に立った報道を行うと考え議論を行っている。しかし現実には、各マスメディアがある公共政策に関し報道するときの論調には、違いが観察されるだろう。そこで第4章では、複数のマスメディア(特に新聞社)の間で論調に差が生じる理由、および各マスメディアの論調の不一致が政策決定に及ぼす影響について考察する。より詳細な第4章の内容は以下のようになる。

ある公共政策に関する各新聞社の論調(もしくは報道立場、報道姿勢)に注目するとき、各社の論調には程度の差はあれ違いが観察できる。具体的には、特に各新聞の日々の社説を見比べるとき、同じ内容を選んでいても議論の方向性やある政策について望ましいとする姿に違いを見ることができる。そこで第4章では、政治経済学の分析手法を用いた理論モデルを構築することで、第一に、各新聞社の報道立場(論調)が新聞社間で異なりうることを先行研究とは異なる方法により説明する。具体的には、まず、期待利潤最大化を目指す新聞社による、ある公共政策に関する論調の選択をモデル化する。そして主な結果としては、各新聞社の報道立場の一致が均衡で実現することはないこと、また、各新聞社の報道立場が一致しない状況は均衡の結果として説明可能であることを明示する。また、特にどのようなときにどの程度の報道立場の乖離が起こりうるのかについても考察する。ここで、メディア報道が各政党の政策位置の決定に与える影響を考えたい。このとき、第2章・第3章でも示しているように、メディア報道は大衆の行動に影響を与えることで各政党の政策位置の決定にも影響を及ぼすことが予想される。そこで第4章では次に、各新聞社の報道立場の違いが政党の政策位置の決定に与える影響を考察する。具体的には、新聞社間の報道立場の違いを検討するうえで得られた結果を利用しつつ、期待得票数最大化を目指す2大政党による、ある公共政策に関する政策位置の選択をモデル化する。そして主要な結果としては、新聞社間の報道立場の不一致が政党の政策位置の決定に影響を与えることを示し、かつ、ある場合には、新聞社間の報道立場が異なることにより、政党間の政策位置の不一致が説明可能であることを明示する。なお、先行研究に、各新聞社の報道立場の違いが政党の政策位置の決定に与える影響を考察したものは少なく、特に各人の政党への評価方法について、先行研究とは異なる方法を考え分析した点が第4章の主要な意義のひとつと考える。

ここまでに概要を示した第2章から第4章は、主にメディア報道と政策決定の関係性に注目した議論を行っている。ただしそれらでは、政策を決定するにあたり、ある公共サービスと同様のサービスを各人が私的に購入できる可能性については捨象して考えている。そこで最後の第5章では、医療政策、なかでも混合診療に関する政策に注目しつつ、公共サービスと同様のサービスが容易に私的に購入可能な状況では、公共サービスへの政府支出はどのような規模が選ばれるのかを考察する。また、それに加えて第5章では、同様のサービスが容易に私的に購入可能な状況はどのようなときに選ばれるのかを検討する。より詳細な第5章の内容は以下のようになる。

第5章では、医療政策に関する多くの議論のうち、混合診療禁止・解禁をめぐる議論に注目する。現在日本では混合診療は原則禁止である。この状況では、公的保険の給付対象である医療サービスに加えて追加的に医療サービス(特に公的保険の給付対象外のサービス)を受けようとするとき、前者も含めた医療サービス全体の費用をすべて私的に支払うことになる。これに対し混合診療を解禁するならば、追加的に医療サービスを受けても、公的保険の給付対象サービスについては依然として公的保険からの給付を受けられるといえる。そこで第5章ではまず、混合診療禁止・解禁の状況を理論モデルを用いて描写することで、禁止から解禁に政策を変更するときの医療サービスに対する政府支出の変化、および各人が受ける医療サービスの質の変化を考察する。なお、その際、労働者だけでなく労働者と高齢者が共存する状況を分析する点が先行研究との大きな違いになる。そして主要な結果としては、ある場合には、禁止から解禁に政策変更するとき、公的保険の給付対象である医療サービスの質が低下することを示し、かつ人によっては政策変更により効用水準が低下することも明示する。第5章では次に、各人の効用水準が混合診療禁止時と解禁時とではどちらのほうが高いかを考察し、均衡では禁止と解禁のどちらの政策が選ばれるのかを検討する。特に、均衡概念としてマルコフ投票均衡を定義することで、この均衡において禁止が選ばれる条件、および解禁が選ばれる条件を検証する。そして主な結果としては、先行研究とは異なり、混合診療禁止の状況も均衡において実現しうることを説明する。

審査要旨 要旨を表示する

当論文は,公共サービス支出決定の政治過程に関する理論的研究である。具体的には,全体の総論となる第1章に加え,メディアによる報道と政治過程の相互作用を分析した3編の論文と公共サービスと同様のサービスを私的に購入できるとするか否かの政治的意思決定を扱った論文の4編の論文から構成されている。

現実の政治過程では,政府支出の過剰・不足をメディアがとりあげはじめ,大きな社会問題になった後に改革がされ,その後に報道が減少するという現象が見られる。第2章「Political Economics of the Temporal Interaction between Media Coverage and Political Decisions」は,このような現象が生じるメカニズムを,政治家・メディア・有権者の行動をモデルで記述し,その均衡の過程として説明することを目指している。モデルでは,二大政党間の確率投票モデルを用いて,効率的な支出水準からの乖離が生じるメカニズムが明らかにされ,さらに,メディアが有権者の関心を呼ぶ事実を報道するという行動原理によって,メディアの扱いが政府支出の状態によって変化する現象を説明することに成功している。報道内容に関する調査費用が必要であるため,メディアは実際の支出が一定以上,最適な水準から乖離しないと報道をはじめない。報道がされるようになると,有権者はその事実の知識を得た上でつぎの投票を決定するため,やがて政府支出の乖離は小さくなる。このようにして,報道と政府支出の動学的な関係がモデルのなかで生まれてくる。

第2章は1つの公共サービスに着目した議論であるが,第3章「公共サービスの無駄と投票者の評価をめぐる政治経済学」では,複数の公共サービスが存在するもとで,過剰となるサービスが存在する一方で過小となるサービスも存在するという現象を説明しようとしている。サービスごとに利益集団が存在し,それぞれのサービスに対する評価が異なることによって,投票ゲームの結果として,無駄と不足が同時に存在し得る状態が生じることが示される。さらに,第2章と同様に,報道が多くなれば最適により近い水準の支出が選ばれるという結果が得られている。

第4章「各新聞社の報道立場の不一致と政策決定に関する政治経済学」では,メディアの論調に違いがあるときの,報道と政治過程の相互作用を分析している。モデルでは2つの新聞社が報道の立場と報道の質を選択して,読者を得ようとする競争を考え,新聞社間で報道の立場が異なる均衡が生じることを示している。先行研究では政党間の競争で同種の行動を分析したものがあるが,本章はそれをメディアの論調の選択に応用したことが新しい貢献である。また,有権者の政策への好感度の表現をより現実的なものとすること,非対称の状態も考慮すること等で,従来の政党間競争の研究に対しても新たな貢献をしている。そして,政策の決定はメディアの報道に影響されることが示されている。

現代の政治過程においてはメディアの役割の重要性が増しており,政治経済学の分野では最近に研究が盛んになっているトピックである。以上の3編の論文は,メディアと政治過程の相互作用について,モデル分析の新しい展開を含んだ,質の高い研究である。

第5章「公的医療保険と民間医療保険の政治経済学」は,医療保険制度の意思決定を考察の対象にしている。各国の医療システムを見ると,ほとんどを公的支出でまかなう国もあれば,民間支出が大きな役割をもっている国もある。この現象に着目し,公的部門と民間部門の役割分担がどのように政治的に決定されているのかを解明することが論文の目的である。具体的には,公的医療保険のみのシステムとするか,私的医療保険を併用するシステムとするかを投票での選択肢として,所得水準の異なる個人の投票行動をモデル化して,投票の帰結を分析している。

医療保険の政治過程に関する先行研究では,公的医療保険と民間医療保険が並存する状態が過半数の支持を得るという結果が導かれていた。これは,民間医療保険を禁止することに,投票者がさほど利点を感じないためである。この章では,労働者と退職者の2世代が共存する状態においては,高齢者が公的医療保険のみの状態を選好する可能性があることに注目した。このような現象が生じるのは,公的医療保険では所得再分配が生じるが,民間医療保険は再分配を起こさないために,所得再分配の受益者側になる高齢者が公的医療保険のみの状況をより好む可能性があるからである。このことから,先行研究ではうまく説明できなかった,民間医療保険の役割が各国で多様であるという観察事実を説明することが可能となっている。これは,この研究分野での独創的で重要な貢献といえるだろう。

以上,各章の内容と貢献を概観したが,いずれの章も非常に緻密に構成されており,投票ゲームの均衡を求める複雑な計算を丁寧におこない,正確な結果を導いている。また,各章とも現実の政治過程に生じている現象を説明しようとする問題意識をもっており,単なる理論のための理論に終わらない分析がおこなわれている点は高く評価される。

ただし,当論文にはいくつかの限界点も指摘できる。第2章から第4章にかけての,報道が政策決定に与える影響についての結論は順当なものであって,サプライズが見られないため,インパクトの弱さを感じる。先行研究がむしろサプライジングな結果を導いているので,どの設定が変更されることによって順当な結果が導かれるのか,という視点から議論を構成するのがよいのではないかと思われる。第2章の主眼は報道と政策決定の動的な相互作用の解明になるのだが,メディアは近視眼的に利潤最大化をするものと想定されている。ここは通時的に最適化行動をとるという設定の方が望ましいだろう。第4章では,政党間で政策位置が違うという現象はモデルでは説明できてはいないため,現実に妥当するモデルとするためには,何かの要素をモデルに加える必要があるだろう。また,新聞の報道の意思決定の順番を変更した場合に,ここでの結論が維持されるかどうかの検討が望まれる。

以上のような課題は今後の研究によって解明が期待されるが,それらは,この論文がなした貢献の価値を減じるものではない。当論文の価値はすでに評価され,第3章は『国際公共経済研究』誌に,第5章は『公共選択の研究』誌にいずれも査読の上,掲載されている。残る2編の論文も,学術雑誌に投稿中あるいは投稿予定である。また,2月4日には当論文に関する口頭試問をおこなった。これらの点を総合的に判断して,審査委員の全会一致で本論文が博士論文にふさわしいとの結論に至った。

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