学位論文要旨



No 126627
著者(漢字) 西田,季里
著者(英字)
著者(カナ) ニシダ,キリ
標題(和) 関係性の中の子ども : カンボジア3つのフィールドにおける、子どもの営む対面的他者関係の質
標題(洋)
報告番号 126627
報告番号 甲26627
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1044号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 教授 岩本,通弥
 東京大学 教授 川中子,義勝
 東京大学 准教授 渡邊,日日
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、カンボジアの3つの地域において、「子ども」というカテゴリーに含まれる人々の営みに、対面的他者関係の質という視点からアプローチすることを通して、子どもの人類学的研究の新たな方向性を論じるものである。

第1章は、本論文の理論的視座を同定する作業を行っている。まず、「子ども」という概念・カテゴリーがこれまでどのように論じられてきたかということを概観し、そうした子どもの諸定義は、「大人」とされる人々が「子ども」カテゴリーに含まれる人々への関わり方を洗練していくという要請の下で、彼らに様々な性質を付与することによってなされてきたことを論じた。次に、人類学における子ども研究 ― 「文化とパーソナリティ」から続く教育人類学及び心理人類学を中心に― がこれまでどのような性質を子どもに付与してきたかを概観し、現在の人類学における子ども研究が子どもに付与してきた2つの性質、すなわち、内的機能の統合体としての個人を単位とする子ども、通時的に変化する者としての子どもという性質を指摘した。そして、カンボジアの4つの小学校の事例を用いて、教育的意図に照らして失敗もしくは崩壊と見られるような授業場面が、これら従来の視点に立つ議論では十分に説明しきれないことを指摘し、授業の前提とされている対面的他者関係の次元に立ち戻ることを提起する。また、年齢が大きく離れた生徒が、他の生徒や教師の中で一見「適応的」に見えるような場面が、従来の一面的な個人の通時的適応的変化というよりも、彼らの対面的関係の新しい様相としての方が理解しやすいことを指摘する。さらに、そうした学級内での対面的他者関係が授業時間以外の学校活動における対面的他者関係と連続的であること、また、学校外の生活における対面的他者関係を背景としていることを指摘し、子どもの生活のより多様な側面から彼らの営む対面的他者関係の質を分析することを本論文の理論的視座とし、後の章につなげている。

続く第2・3・4章は、対面的他者関係の質という視点から、事例を分析することを試みている。それぞれの事例分析においては、子どもの生活のそれぞれ異なる側面、すなわち、活動をすること、場所にいること、認識といった各側面にアプローチしている。

第2章では、カンボジア中部コンポントム州の農村に隣接する遺跡で、クロマーというカンボジア式スカーフを、外国人観光客に土産物として売る、クロマー売りの子ども達を対象に観察調査し、彼らのクロマー売り活動を「する」ということを、単に労働と遊びの「曖昧な」融合としてではなく、或いはそれを通じた社会的発達といった通時的変化プロセスとしてでもなく、対面的他者関係の営みとして分析することを試みた。クロマー売り達は、クロマー売り活動の中の、ついていく客の選択、客と独占的に話すことによる印象争い、客に嘘をつくこと、売り競争、分配といった場面において、労働なのか遊びなのか、或いは経済合理的ではないが遊びともいえないような諸行為を見せる。それらの諸行為は、クロマー売り同士の対面的関係を連続させるという志向に基づいており、労働や遊びといった行為の特徴で見れば曖昧に見えたものが、クロマー売り同士の対面的関係の志向として見るとより理解しやすいことを結論として論じている。

第3章では、プノンペン市スラム再定住地区A地区の住民である子どもを対象に、彼らが地区内の小路と大通りという2つの場所に「いる」ということが、そこでの対面的他者関係によってどのようにつくられていくのかを分析することを試みた。A地区は地区を横断・縦断する大通りと居住区画を区分する小路とで構成されるよう、計画的に造営された居住地であり、A地区住民の子ども達は自宅に面する小路と、大通りを通れば、地区内の主要な場所に行くことができる。子どもがA地区に「いる」ことは、しかし、小路と大通りとでは、或いは小路間でも、大きく異なって現れる。それはそれぞれの場所で関わる他者と、その関わりによって部分的には規定されているのである。小路では小路沿い住民と「互いにいることを知っている」また、「互いの生活を知っている」ことに基づく保護の関係、大通りでは「どこから来てどこへ行くのか知らない」「誰であるか知らない」という匿名的関係を生成する。また、小路には空き地が、大通りには屋台が、それぞれ異なる他者関係を生みだす「出っ張り」としてあり、A地区の子どもが地区に「いる」ということを複雑化している。こうして、子どもがA地区に「いる」ということは、均質な場所としていられるのではなく、或いは、例えば幼児期は家の中にいて大きくなるにつれて家の前の通りからより遠くへ広がっていくという通時的変化でもなく、子どもが地区内のいくつかの場所を行き来することで、異なる他者関係に規定される「いる」ということが現れる、共時的バリエーションを持つものであると論じ、結論としている。

第4章では、コンポントム州立AS孤児院の孤児院生が持つ奇妙に複数的な親子・きょうだい関係を事例に、子どもが他者関係をどのように「認識する」のかという次元に踏み込んだ。AS孤児院生は、生みの親、代親、乳母といった複数の異なる「親」と呼ばれる人々を持ち、また、実家のきょうだい、国際養子きょうだい、義きょうだいといった複数種類のきょうだいを持つ。一方で、学校や日常生活での言及に表れる彼らの親子・きょうだい観は、一対の夫婦の自然生殖によって生まれた子と、両親を共有するきょうだいとが、居住、生計を共にし、親が子を育て、子は親に敬い従い、成人した子は老親を扶養するとい親子・きょうだい観と一致しない、実際の複数種類の親子・きょうだい関係を、それぞれどのように個別的関係として認識し、一方で親子関係/きょうだい関係の認識の下にそれら複数の個別的関係がどのように認識的に関わり合うのかということを分析した。それは、関係の正統性の議論や、繋がりの有無、そこからの自己アイデンティティ議論ではなく、関係そのものの認識としてどのように論じることができるかという試みでもあった。結果、親子の個別的関係認識においては、親子観に対する不足の認識が生じ、一方で、親子関係の複数性が親子観に対し過剰の認識を生むこと、きょうだい関係認識においても、きょうだい観に含まれる「きょうだいの共有原則」とでもいうべきものに対し、個別の関係認識は十全な共有を持たないために不足の認識を生じるが、共有のバリエーションだけが、きょうだい観におけるそれを超えて増殖していくということを論じた。

第5章では、これまでの事例分析を踏まえ、子どもが関係を営むということの全体イメージを描き、それを子ども研究における人類学的視点として打ち出すことを試みた。まず、これまでの人類学における子ども研究の前提として挙げていた、個体としての子ども、及び、通時的変化する者としての子どもという2点を、それぞれ、関係及び共時的バリエーションによって相対化することを試みた。個を関係で相対化することにおいては、大人を前提とした人間一般において、関係という視点が、存在論として、或いは社会学的視点として展開してきた一方で、子どもの関係においては、乳幼児精神医学における母子愛着研究など限定的な他者関係に留まってきたことを指摘し、乳幼児以降の子どもの関係への視点の有効性と必要性を論じた。次に、通時的変化を共時的バリエーションで相対化することにおいては、発達心理学や教育哲学の反発達論的な見方を概観し、そうした発達だけで子どもを見ることに対する学問的違和感を、さらに共時的バリエーションの発見へと結び付けることを論じた。このような関係の共時的バリエーションは、子どもの教育ではなく福祉の立場に立ち、さらには、ウェルフェアではなくウェルビーイングの概念にその根拠を置くといえる。子どものウェルビーイングはこれまで、家庭の安定によって結果的に実現される、或いは権利の主体として扱うことで実現されるといった議論がなされており、また、特にカンボジアなどの発展途上国においては、児童買春、人身売買、ストリートチルドレン、HIV孤児、貧困、教育機会の不足といった特定の領域に限定されてきた。しかし、ウェルビーイングは単に病や欠乏を治療・保障することで目指されるものではなく、全ての人が営むそれぞれの生活をよりよく生きることを目指す概念であり、それを構成するとされる複数の項目に分けて検討されるべきものである。それはカンボジアの子どもを日本の子どもの問題から離れたものとしてではなく、同じ水準において検討することを可能にし、また、カンボジアの子どもの生活を検討する新たな枠組みを提起するものでもある。そして、本論文の最後として、こうした子どものウェルビーイングの検討において、子どもの他者関係の共時的バリエーションがQOL(Quality Of Life)を構成する単なる独立変数ではなく、1つの分析軸となりうることを主張し、この分析軸に沿った子どもの日常生活の研究こそが、子どもの人類学的研究の可能性となり得るということを提起する。

審査要旨 要旨を表示する

西田季里氏の論文、『関係性の中の子ども ー カンボジア3つのフィールドにおける、子どもの営む対面的他者関係の質』の目的は、カンボジアの3つのフィールドにおける「子ども」たちの生活の、それぞれ異なる側面を事例とし、従来の文化人類学ではとらえることができなかった、子どもたちの生きる世界を、「対面的他者関係」、すなわち、「規範や観念や行動枠組みによる関係ではなく、日々、常に直接対面して行う他者との継続的な相互作用」、という切り口で新たに検討、解釈することである。

本論文のデータは、西田氏によって、2006年5月から2008年3月にかけて合計1年11ヶ月間、カンボジア王国の、コンポントム州の遺跡、プノンペン市のスラム再定住地区、コンポントム州の孤児院の三カ所において行われた調査によって得られた。

本論文は、全5章の本文と、地図、図表、文中に挿入された55葉の写真資料、文献表から成る。第1章では、論文全体への導入と、分析の視点が示されている。西田氏は、まず、三カ所の調査地に共通する「学校」を現場として、その資料を用い、新たに、前述の「対面的他者関係」という視点で、子どもの世界と行動を分析することを提起した。

第2章は、遺跡で外国人観光客を相手に土産物を売る子どもたちの行動を分析の対象とした。西田氏は、子どもたちが土産物を売る際の、さまざまな要素が入り交じった活動が、従来、子どもの研究で用いられてきた、遊びや労働といった視点では説明しきれない曖昧さを含むことを指摘し、遊びと労働などの混在が、対面的他者関係を連続的に保とうとする志向によって生じていることを論じた。

第3章は、スラム再定住地区で、子どもが住んでいる地区のそれぞれの場所に「いる」ということを分析の対象とした。ここでは、たとえば、A地区の小路と大通りにおける対面的他者との関わりが、それぞれの場所に子どもが「いる」ということをかたちづくっていること、そして、その「いる」ということが、半ば偶然的に出来た「空き地」や「屋台」によって複雑化すること、などを、印象的な多くの事例と共に論じた。

第4章では、コンポントム州立の孤児院で生活する孤児院生の親子・きょうだい関係が、奇妙な複数性を持つことに注目した。たとえば彼らには、親として、生みの親、代親、乳母、と三種類の親が同時に存在する。こうしたことは、従来の親子関係の正統性の議論や、個人的アイデンティティの議論などからは見えてこない。ここでも、対面的他者関係という視点を用いて、親子の個別的な関係認識においては親子観に対する不足の認識が生じ、他方、親子関係の複数性は親子観に対し過剰の認識を生む、といったことを明らかにした。

第5章では、子どもが対面的他者関係を営むということの全体的なイメージを描き、それを子ども研究における人類学的視点として打ち出すことを結論とした。そして、本研究が、子どもの、教育ではなく福祉に関与することを主張した。その子どもの福祉、ウェルビーイングの検討においては、子どもの他者関係のさまざまなあり方が、子どものQOL(Quality of Life)を分析する一つの軸となりうることを主張し、この分析軸に沿った子どもの日常生活の研究が、子どもの人類学的研究の大いなる可能性となり得ることを提起した。

審査では、多くの質疑がなされた。子どもを、内的機能の統合体としての個人としてではなく、対面的他者関係の中で理解しようとする西田氏の方法の、有効性、及び、これまでの視点との違いがどこにあるのか、との問いには、本論文に基づき、それに対応する説明がなされた。また、共時的な対面的他者関係の中で生きる子どもたちにとっても、通時的に変化、成長するものとしての側面があるはずである、との問いがあり、本論文ではそれを扱わなかった方法論的理由が述べられた。

上記の内容を持つ本論文は、以下の三点において、文化人類学に対する貢献が顕著である。第一に、子どもの世界を参与観察すること自体が困難であるうえに、観光地の物売りの子ども、スラム再定住地区の住民の子ども、孤児院の孤児たち、といった三カ所の対象を調査する困難な作業を遂行し、子どもたちの世界を微視的にかつ包括的にとらえたこと。第二に、従来の子ども研究の分析枠組みである、個としての子ども、次第に大人になる通時態としての子ども、とは異なる、「対面的他者関係」の中を生きる、いわば共時態としての子どもをとらえようとする新しい視角を提示したこと。第三に、そうした、新たにとらえられた子どもの生きるありさまを、子ども教育の分野にではなく、子ども福祉の分野に接合させようとする可能性を提示したこと、である。

むろん、本論文にも、その革新的な方法と実施が完全に成功したとまでは言えないうらみがある。しかしながら、本論文の持つ価値は、現時点においても十二分に高いものがあり、本論文は文化人類学の研究に対して重要な貢献をなしていると判断された。したがって、本審査委員会は、全員一致で、本論文提出者は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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