学位論文要旨



No 126630
著者(漢字) 田中,靖彦
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ヤスヒコ
標題(和) 三国志をめぐる言説についての研究 : 魏晋から北宋における正統論との関わりを中心に
標題(洋)
報告番号 126630
報告番号 甲26630
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1047号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 代田,智明
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 准教授 石井,剛
 東京大学 准教授 小島,毅
 駒澤大学 准教授 石井,仁
内容要旨 要旨を表示する

一.問題提起

中国史の中でも、三国時代ほど特に熱心に語られ、多くの愛好者を持った時代は少ない。しかも、三国時代に関する議論は、多くの人々に愛され、語られてきたがゆえに、時代の流れの中で大きな変遷を遂げてきた。言うなれば、後世の三国志をめぐる言説は、実際の三国時代とは乖離し独自の発展を遂げた、中国文化の重要な一側面を形成しているのである。筆者は、これらの言説やそこに含まれる思想を、「三国志文化」という、一つの文化現象として捉えている。

歴代の「三国志文化」は、単なる三国時代に関する昔語りではない。そこには発言者の置かれた政治的・社会的境遇、ひいてはその時代や国際関係といった現実的要素が色濃く反映されている。換言すれば、三国志が後世の人々に愛され、多く語られてきたが故に、「三国志文化」は語られた時代を如実に反映しているのである。その内容は時代や発言者によって様々だが、君主や臣下、在野の者といった別を問わず、その多くが自らの立場や境遇に端を発する個人的思惑から三国時代を論じている。それは基本的にどの時代も変わらない。従って、この「三国志文化」変遷の歴史は、言説がなされた時代の中国をより鮮明に捉える恰好の材料であり、ひいては中国人の歴史認識を知る重要な手掛かりともなっている。筆者の大きな関心は、中国における「歴史」の形成というテーマに、「三国志文化」史という切り口から取り組むことにある。本論文ではその中から、主に魏晋より北宋における三国論の展開に着目し、「三国志文化」と「正統」の概念との関係について論ずるものである。

中国における三国時代評価は、常に魏蜀正統論争に終始していたかのような印象を持たれがちであるが、実際には決してそうではない。本論文では、「三国志文化」の持つ同時代性について言及するのと平行して、初期の「三国志文化」が持つ多様性と、それが北宋期を転機に多様性を失ってゆく様子を見てゆき、そこには同時期に萌芽した「正統」の概念の影響が色濃かったことを検証する。「三国志文化」の一大転換点が北宋初期、具体的には壇淵の盟が結ばれた第三代・真宗朝期に求められることを明らかにするのが、本論文の一つの大きな目的である。

二.各章概要

一章では、陳寿の意図と『三国志』が後世に与えた影響を論ずる。陳寿の主眼は蜀漢正統論の宣伝ではなく、処世術としての尊晋にあるのであり、『三国志』という題名すら尊晋の一環であった。だがこの題名は図らずも「皇帝は常に一人とは限らない」ということを後世に知らしめ、後世における「正統」の概念の形成を惹起することとなる。

二章では、范曄が『後漢書』に込めた筆誅について分析する。范曄は反曹論者であり、曹魏に対し史家としての筆誅を随所に加えた。だが彼は、蜀漢にも孫呉にも同様の筆誅を加えたばかりか、諸葛亮ら蜀漢人士にはまるで注目しない。反曹と尊蜀が同義でなかったことが端的に看取できる。

三章では、後世「初の蜀漢正統論」と位置づけられる習鑿歯の『漢晋春秋』を中心に、魏晋期の三国論を検証する。当時はやはり尊曹の傾向が圧倒的であり、その傾向は五胡に中原を奪取された東晋以後も変わらなかった。斯かる時期を生きた習鑿歯は、故郷の先達として諸葛亮を絶賛し、自分を抜擢してくれた桓温を仮託して曹操を評価した。自分につれない態度のまま世を去った桓温への愛憎が、曹操への複雑な評価として形を成したことが見て取れる。

四章では、干宝の『捜神記』を中心に、孫呉正統論が擡頭しなかった理由を検証する。孫呉滅亡よりしばらくは、孫呉正統論が芽吹く土壌は十分にあった。しかし、北来の貴族が江東貴族を制圧するにつれ、孫呉への称揚も影を潜めてゆく。この時期に編まれた『捜神記』は、もと孫呉に仕えた寒門貴族の孫呉に対する憎悪の念を雄弁に物語っている。地元貴族からも寒門からも支持を失った孫呉は、三国の「正統」を巡る争いからいち早く脱落していった。

五章では、志人小説と名高い『世説新語』を題材に、南朝貴族社会における三国論を分析する。同書の編纂に携わった貴族たちが関心を寄せたのは、魏蜀呉といった王朝ではなく、三国の名門人士たちの言行であった。そして曹操ら君主は、その名門人士の対極として否定的に扱われる。そこにはやはり魏蜀の対立構造は存在しない。また『世説』の伝える曹丕・司馬炎描写からは、皇帝に迫害される皇弟の苦衷が読み取れる。そこには、撰者として名の残る劉義慶の境遇が投影されている。彼は決して名義のみの撰者だったのではなく、同書編纂には彼の意向が反映している側面が認められるのである。

六章では、隋唐期における「史」と政権の接近を手がかりに、同時期の「三国志文化」について検証する。「史」が政権の自己正当化の道具たる性格を強めた同時期、李世民ら唐朝皇帝は自己投影として曹操評価を行った。斯かる政権による「史」の掌握が進む中、『史通』を著した劉知幾は、曹魏批判に言寄せて唐朝への批判を展開し、勧善懲悪の観点から三国を論じた。斯かる劉知幾の三国論は、魏蜀を対極に置くという点において宋代以降の三国論の先駆と位置づけられる。

七章では、北宋・真宗朝期に結ばれた壇淵の盟を契機として萌芽した「正統」の概念が、「三国志文化」に取り入れられる様子について、亳州における曹操祭祀を手がかりとして論ずる。契丹と対等の立場で条約を結んだ宋は、封禅とそれに伴う曹操祭祀を挙行し、自己の権威付けに腐心した。「正統」の概念は、まさにこの時期に登場したのであり、以後の三国論もまたこの「正統」の概念に基づいて展開していくこととなる。真宗朝期は、「三国志文化」の一代画期であった。

八章では、宋代における「正統」の概念を取り入れた三国論の展開について概観する。欧陽脩をはじめとする宋儒の三国論は、いずれも「正統」を軸として展開されており、北宋以後の三国論が「正統」の概念抜きには語れぬものとなってゆく様子が見て取れる。ただし一方で同時期の三国論は、それまでと同様に多様性をも有していた。宋代は三国論の過渡期であったと位置づけられる。

三.「三国志文化」の画期と「正統」

三国論が唐代までと宋代以後で大きな差異を見せた理由は、ひとえにその当時の「正統」に対する関心の差異に起因する。宋以前においては、漢唐帝国は言うまでもなく、中原を失陥した東晋や南朝ですら、自己が唯一の受命王朝であることは(少なくとも表向きは)余りに常識であった。そのため、「正統」について論ずるという発想自体が無く、三国に関する論もまた『三国志』以来の常識に従って、曹魏を中心に語られながらも、後世のように「蜀漢と曹魏は不倶戴天の敵」というような概念に縛られることもなく、多様な三国論が展開されてきた。

ところが宋代以降はそうではない。契丹・西夏そして金といった非漢民族政権は、この時期に著しく擡頭し、宋を苦しめた。特に燕雲十六州を領土に組み込んだ契丹は、自らの元首を皇帝と呼ぶことを宋に認めさせ、対等な立場で条約を締結することに成功している。漢族士大夫が抱いていた「天に二つの日無し」という大原則は、ここに脆くも崩壊した。そこで生み出された自己正当化のための概念こそが「正統」だったのである。

斯かる「正統」の概念の登場は、史上初めて皇帝が三人も並立するという「正統」の一大争奪戦を現出した三国時代に注目が集まるという結果をもたらす。宋代の士大夫は、三国に比して現今の「正統」を検証、あるいは正当化しようとした。それが『冊府元亀』に始まる宋代の三国論の特徴である。そしてその後の三国論は、「正統」の概念に基づいて語られてゆくことになる。

こうして見ると、「正統」の概念の登場以前と以後で三国論が大きく性質を変えたことが改めて確認できよう。宋代に「正統」の概念が導入された三国論は、魏蜀二極対立の構造と、王朝への評価と人物への評価が不可分となるという性質を強めてゆく。欧陽脩の正統論も、司馬光の『資治通鑑』も、そして従来は三国時代評価の画期と見なされてきた朱熹の『通鑑綱目』ですら、その延長上にあると位置づけられる。北宋真宗朝期における「正統」の概念の形成を以て「三国志文化」の一代画期と措定する所以である。

四.中国を映す鑑としての「三国志文化」

「正統」の概念が確立して以後、「三国志文化」は「正統」の所在に関する議論を軸として展開していく。だがその一方で「三国志文化」には、「正統」の概念の影響に関係なく不変な性質もあることを忘れてはならない。それは、「歴代の三国論には常に、論者自身の境遇や主張が色濃く投影されている」ということである。

いつの時代でも三国論は、単なる三国志愛好家による昔語りにとどまらず、生々しい同時代性を有しているのであり、その傾向は早くも『三国志』に看取できる。その後も三国論は、ある時は再就職活動の道具として、またある時は権力者の自己仮託先として、そしてまたある時は政権批判の暗喩として、さらには漢民族による非漢民族に対して自己の優越を感じるための手段として、というように、言説が為された時代を色濃く反映し続けてきた。こういった傾向は、程度の差こそあれ、昨今の中国でも健在である。「三国志文化」は、古今を通じて中国をよく表す鑑なのであり、古の中国を分析する恰好の材料であると同時に、現在と今後の中国を知るための手がかりともなる、興味尽きない題材なのである。

審査要旨 要旨を表示する

田中靖彦氏の論文は、魏呉蜀の三国が覇を競った三国時代の歴史評価と人物評価について、包括的に論じたものである。中国史における近世が始まる北宋時代までを視野に入れて、各時代のさまざまな三国志言説を時系列的に整理し、その言説がなされた背景と意図をテクスト分析の手法で解き明かす。各時代の作者は、自分の置かれた環境のなかで、三国の評価になにがしかを仮託し、歴史や人物の評価の形でメッセージを残そうとしたというのである。それとともに、南宋以降、とりわけ明清時期に顕在化する王朝正統論(三国志では、蜀漢正統論となる)との関わりを軸に、三国志評価を通して正統論が形成され成立していく経過を解明した。本論では、中国における「史」(歴史)のあり方と系譜を探求して、これを「三国志文化」と呼んでいる。三国志文化が、司馬遷以来、史を書くことの重要な文化的要素であることを証そうとするのである。

問題提起を述べた「序章」についで、第一章では、魏から禅譲を受けた晋王朝時期に陳寿が書いた史書『三国志』がまず取りあげられる。ここでは、もともと蜀の出身であった作者が、ひそかに蜀を賞賛する記述を一部に潜ませたものの、晋に仕える者として基本的に魏を主軸(「本紀」)としたのは当然であった。こうして天命を受けた王朝が魏でそれを継いだのが晋だという認識を強固にはした。しかし史書を『三国志』と命名したことによって、後代に三国志論が展開する余地をつくり、「正統論」を育む基礎となったと論じている。

第二章では、范曄の『後漢書』を扱う。彼は、脚色をしてまで、荀或を後漢の忠臣として美化し、曹操を強く批判するが、決して後世いわれるように、「蜀漢崇拝」だったわけではない。ここでは、彼にとっては、劉備が曹一族と変わらぬ、皇帝を僭称した者にすぎなかったことを明らかにした。

第三章では、おもに習鑿歯の『漢晋春秋』を取りあげる。習が西晋の実力者桓温から寵愛を受けていたものの、その後疎まれてのち、この書を書き上げたことを指摘する。この書は習の故郷が、諸葛孔明の故郷であったことから、人物評価だけでなく蜀漢に対する評価も高いが、曹操に対しては毀誉半ばする。本論文は、習の観念では蜀漢は漢王朝の一部として、それを晋王朝が継承したとした。そこには、かつての上司桓温に対する、アンビヴァレントな感情が託されており、蜀漢賛美は、後世「蜀漢正統論」の嚆矢というのとは違い、むしろ晋の正統化に繋がって、現王朝への追従の側面もあったと指摘する。

第四章では、従来、奇怪な事象を扱った「伝奇小説」とされている干宝『捜神記』を取りあげる。ここでは、三国のうち影の薄い孫呉政権が「正統」となる可能性はなかったかを、この書物から探索した。曹魏と劉蜀との対立はおなじみなのだが、三国志文化では孫呉はほとんど脇役であった。これについて『捜神記』の三国言説を読み解くことによって、呉王朝が地元の下層知識層の支持を得られなかったこと、『捜神記』の意図が、当時の東晋王朝が南下知識人を重用して、地元人士を軽視したことへの警鐘にあったことを指摘し、わずかにあった呉正統論の展開は絶たれてしまったとする。

第五章も、文学的に読まれることの多い『世説新語』を、三国志文化の枠組みのなかで読み解いている。編者劉義慶は編者ではあっても、実作者ではないとされ、従来あまり分析の対象となっていなかったが、ここでは『世説』を史書として読み直し、劉に焦点を当てている。テクストは曹一族を批判し、とくに曹丕が弟を暗殺したり、虐げたりしたことを叙述するが、この記録は他に見えず、『世説』の創作に近いと判断する。これは劉が当時の皇帝宋・文帝の弟に等しい存在で、文帝の政治的ライバルと見なされ、疎外追放され、事実急死を遂げていることから、劉とその文人グループが、当時の状況を仮託して創作したものと推測している。

第六章は唐代に到り、史書が王朝政権のもとで編纂されるようになるが、当時まだ曹魏に受命王朝を認定する傾向が強かった政権側の三国論に対し、劉知幾の『史通』の叙述を取りあげる。劉は「曹操と魏は悪、諸葛と蜀は善」という勧善懲悪の定型評価の先駆けを提示したが、それは自らを不遇に遇した唐王朝玄宗に対する、恨み言でもあったという。さらにこの書により、歴史を対象として評論する「史評」というジャンルが開拓されたこと、劉が司馬遷と同じ史家の意識を強くもっていたことなどが論じられる。

第七章では、北宋時代に明確になる「正統論」の萌芽が生まれることを論ずる。それは『冊府元亀』という書物において、三国を含めた歴代王朝について一つひとつ、正統の資格があるかどうか検証している点である。ここで漠然とした曹魏正統論は、明確化した形で正統論への傾向をもつこととなった。この時代になると、北方に漢族とは異なる遼や金が勃興し、とりわけ壇淵の盟によって、遼と対等の条約を結ぶことになった。それまでの王朝は、華夷秩序のなかで、自らの「正統性」は自明であり、問うまでもなかったが、宋王朝はこの事態に直面して自らの正統性を確認するためにも、「正統」概念を導入していく。宋の真宗は権威付けのために曹操祭祀を行うことで曹魏に自己投影を行い、その「正統」性を誇示しようとしたのであった。

第八章は、「正統論」の枠組みがさらに強化していくとともに、曹魏正統論から蜀漢正統論へと転換していく様子を議論していく。まずはおもに欧陽脩の議論を取りあげ、当初は曹魏を正統とするかのごとき言述をしていた彼が、のちに曹魏を正統からはずすべきことが述べられる。ここには、中華全土を統一できなかった宋王朝の現実が反映しているのではないか、と本論は推測している。また蜀漢正統論への過渡期として、蘇軾や司馬光の三国論を扱っている。とくに司馬光の『資治通鑑』には、非漢族政権の台頭の中、正統の連続性が自己にあることを確証するためにも、より明らかな「正統」概念により三国時代を扱う姿勢が見てとれるとする。一方、王安石には諸葛亮に同化するかのような賞賛があったが、正統概念の意識は希薄であった。過渡期にあって、人物評価と王朝評価はなお別べつでありえたという。諸葛亮の評価が「正」なるものと結びつくのは、程顯・程頤のいわゆる二程になってからであった。ここにおいて蜀漢もまた「正」なるものと位置づけられていく。さらに朱熹『資治通鑑綱目』において、蜀漢を「正統の余」と述べ、正統論への橋渡しをしている。しかし彼は蜀漢を「正統」とは言わず、これは彼が生きた南宋をすら、北方を失った以上「正統」とするに足らないという認識と合致するというのである。こうして、宋代の危機意識が次第に「正統意識」を醸成していき、「曹操と諸葛亮の同時賞賛」というような、自由で多様な三国言説が成立しがたくなっていくのであった。ここにおいて「三国志文化」は大きな画期を迎えたと本論は述べている。

審査委員会において、本論文が、三国時代直後以来の、文学的とも言えるものを含め、多様なテクストを突き合わせ、それを三国志論として丹念に読み解き、著者の言う三国志文化の趨勢を叙述したこと、それによって、中国における「史」を書くことの現実的意味と意図を、鮮明に浮き彫りにしたこと。あいまいな仮託や嗜好の範囲にあった三国志言説が、早くは北宋時代に到って「正統」概念に影響され、また「正統」概念の形成に関わったこと、などを明らかにしたと認定した。ただし問題点がないわけではない。審査委員からは、本論中に「正統」概念が様々な位相で使われており、正統論に絡み取られて、かえって三国志言説の解釈の多様性が失われた嫌いがないでもないこと、蜀漢を善とし曹魏を悪とする、明清『三国志演義』の歴史通念の大衆性についても、掘り下げた言及がほしかったこと、三国志がひとつの典型性を有しているにしても、項羽劉邦や春秋戦国時代など、中国の文化現象として歴史評論の材料は数多く、本論は視野がやや狭いこと、記述や解釈に一面的なところや誤りもあり、やや強引な結論を引き出している点などが指摘された。しかしこれらは、今後の課題として、本論文のさらなる研究探索と対象の拡大によって果たされるものと考え、本論文の貢献は学術的に十分に大きいものと判断した。したがって、本審査委員会は全員一致で、本論文に対し、博士(学述)を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク