学位論文要旨



No 126632
著者(漢字) 鴨野,洋一郎
著者(英字)
著者(カナ) カモノ,ヨウイチロウ
標題(和) フィレンツェ商人とオスマン帝国 : 15-16世紀におけるフィレンツェ繊維工業とオスマン帝国との経済的関係
標題(洋)
報告番号 126632
報告番号 甲26632
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1049号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,董
 東京大学 教授 池上,俊一
 東京大学 准教授 長谷川,まゆ帆
 信州大学 特任教授 齋藤,寛海
 同志社大学 准教授 堀井,優
内容要旨 要旨を表示する

中世後期において、イタリア商人はヨーロッパ・地中海規模で広範な商業活動を行っていた。彼らは数人で合資会社を設立し、代理人および支店を通じて商業ネットワークを構築し、商業書簡で情報を交換し合った。また、為替手形によって安全な送金を実現し、海上保険で輸送上の危険を減らし、そして取引の結果を複式簿記で詳細に記録した。これら一連の商業技術を駆使して活動したイタリア商人は、近代における「ホモ・エコノミクス」の先駆として歴史的に重要な役割を果たした。

フィレンツェ商人は、このようなイタリア商人として、とりわけ広範かつ大規模な商業活動を行っていた。フィレンツェ商人は、13世紀に金融業で、そして14世紀からは繊維工業で大きく成長し、イタリアを代表する商人となった。彼らによって蓄えられた富がフィレンツェのルネサンス運動を支えていたことは、今日、よく知られている。

本論では、こうしたフィレンツェ商人の活動を考えるため、15-16世紀にフィレンツェ商人がオスマン帝国との間で行っていた貿易活動を具体的に検討した。フィレンツェは15世紀半ば以降、スルタンとの友好的な外交関係を背後にオスマン市場へ進出し、同地でフィレンツェ毛織物および絹織物を大規模に販売した。折しも、この時期からフィレンツェは、毛織物工業を復興させ、かつ絹織物工業を成長させることで、経済的不況を克服したと考えられている。従って、オスマン帝国との貿易がフィレンツェ経済に与えた影響は決して小さくはない。

本論では、まず、フィレンツェ毛織物工業および絹織物工業の発展の過程を説明し、オスマン帝国との外交関係に基づくフィレンツェ・オスマン貿易の枠組みを提示した。そしてその上で、オスマン帝国との経済的な関係を有していたフィレンツェの二つの会社―グワンティ会社およびセッリストーリ会社―を取り上げ、これらの会社の特定期間における経営を詳細に分析した。その際、これまで利用されてこなかった未刊行の経営記録を用い、フィレンツェ・オスマン貿易に関する新たな知見を提供しようと試みた。

では以下、章ごとの内容をまとめていく。まず第1章では、本論のテーマであるフィレンツェ・オスマン貿易の歴史的背景を概観した後、フィレンツェ・オスマン貿易史に関する先行研究を整理した。また、本論で利用される経営記録についての説明を行った。フィレンツェが行ったオスマン貿易は、中世後期におけるイタリア商人の活動の最後の一つとして位置付けられる。オスマン貿易は、フィレンツェ繊維工業と密接な関係を持つことで1世紀以上にわたり継続した。この貿易に関してはこれまで数人の経済史家が取り上げてきたものの、オスマン貿易の具体的なあり方に焦点を絞った本格的な考察はこれまでなされてこなかった。しかし、フィレンツェの各古文書館に残る経営記録を利用することで、フィレンツェ・オスマン貿易の実態へさらに迫っていくことは十分に可能である。第1章ではこれらの諸点を確認し、本論のテーマを検討する意義について論じた。

続く第2章では、フィレンツェ・オスマン貿易の制度的枠組みを条約文書や居留民規約の内容から検討した。フィレンツェ商人は、ピサ人の商業特権を引き継ぐ形で、スルタンからオスマン領内における安全を約束された。この結果、フィレンツェ商人がオスマン領内に駐在してフィレンツェ製品を販売し、その収益で購入した東方物産をフィレンツェに発送する、というフィレンツェ・オスマン貿易枠組みが完成する。フィレンツェ人領事はスルタンとの折衝や領事裁判等を通じて、この貿易枠組みの維持に努めた。またフィレンツェ政府も、スルタンからの好意を確保するため、たびたびスルタンへ贈り物を提供していた。フィレンツェの各社がオスマン貿易へ参入することが可能になったのは、こうした両国間の外交関係に基づく貿易枠組みが構築されたからに他ならない。第2章ではこの貿易枠組みの構築について、その歴史的経緯を論じた。

そして第3章および第4章では、フィレンツェの会社であるグワンティ社およびセッリストーリ社と例として、この貿易枠組みの下で行われたフィレンツェ・オスマン貿易の実態を検討した。またこの検討により、これらの会社がオスマン貿易を行った経済的要因を明らかにしようと試みた。ここは、本論での中心的な議論となる。

両章ではまず、グワンティ社およびセッリストーリ社がオスマン市場向け製品を販売する際、会社は1) フィレンツェでの販売、2) オスマン貿易による販売、という二つの選択肢を持っていたことを確認した。オスマン貿易における販売までの費用や危険を考慮するならば、前者のフィレンツェでの販売は、会社にとって製品販売のための重要な選択肢となっていた。この前提を踏まえ、両章では二つ目の方法であるオスマン貿易による製品販売について考察を進めた。グワンティ社およびセッリストーリ社は、代理人をオスマン領内に駐在させ、彼らに製品を委託することでオスマン市場での直接販売を行った。ここでは、二つの会社がオスマン貿易へ参入した積極的要因を探るべく、会社がオスマン市場で販売した製品の種類や価格、販売までにかかる費用、代金の徴収過程に焦点を合わせた検討を行った。

これらの検討の結果、以下の諸点が判明した。まず、オスマン貿易における代理人の役割である。代理人はオスマン領内に駐在し、オスマン市場における需要の把握および顧客の確保に努めていた。この代理人の働きにより、フィレンツェの本社は市場に合わせた製品を製造することが可能となった。その証拠として、グワンティ社はオスマン市場およびフィレンツェ市場において、またセッリストーリ社はオスマン市場およびイギリス市場において、異なる種類の製品を販売していた。また、グワンティ社の代理人が特定の顧客に多くの毛織物を販売していたことや、セッリストーリ社の代理人がオスマン宮廷へ最高級絹織物を大量に販売していたことは、代理人と顧客との密接な関連性を物語っている。

次に、オスマン貿易を行うために必要な諸費用の予測可能性である。両章では、グワンティ社およびセッリストーリ社がかけたこの費用の各項目、各項目の収益に対する割合、費用全体の収益に対する割合を検討した。費用は主に、輸送費や関税、仲介料、居留地基金、代理人の食費や宿泊費ないし手数料、そして心付け等の臨時費用から構成されていた。また各発送分の間で、費用項目のバランスおよび収益に対する費用全体の割合はほぼ一定であったことが判明した。ここから、両社がオスマン貿易を行う際、貿易にかかる費用をある程度、予測した上でこれを行っていたのだろうという推論を導いた。

最後に判明した点は、オスマン領内で行われた代金徴収の確実性である。第3章では、グワンティ社の代理人バルトロメーオ・グワンティがつけた代理人帳簿の内容から、ブルサで行った代金徴収の詳細を分析した。その結果、バルトロメーオは代金の大半を4ヶ月以内に徴収するか、第三者の勘定へ振り替えていたことが判明した。フィレンツェ政府は居留民規約において、代金徴収を4ヶ月以内に行うよう規定していた。この規定内容に従えば、バルトロメーオは代金の徴収を、概ね遅延なく遂行していたと見なすことができる。ただ、代金徴収の遅延ないし不能は無視できない危険として存在してことも確かである。

両章での検討から判明したこれらの特徴は、グワンティ社およびセッリストーリ社がオスマン貿易を行う上で、十分な積極的要因となっていたはずである。確かに、繊維製品の販売および生糸の購入を軸とするフィレンツェ・オスマン貿易から得られる利益は、ヴェネツィアが行ったような香辛料貿易と比べて低いものであった。しかし、これら積極的要因となる条件が整っていれば、オスマン貿易はフィレンツェの会社に確実で安定した利益をもたらしていたと考えられる。

「最後のイスラーム的世界帝国」となったオスマン帝国は、ムスリム以外であっても歓迎される他民族・他宗教の開放的な社会を基礎としていた。この開放的な帝国には、様々な国際商人が多様な特産品を持って集い、そこで大規模な商業活動を行った。スルタンとの友好関係によって歓迎されたフィレンツェ商人もまた、この魅力的な商業ネットワークに参入し、フィレンツェ毛織物および絹織物の販売を通じて一定の利益を上げていた。本論では、二つの会社の経営記録を素材として、このフィレンツェ・オスマン貿易の具体的な諸相を分析した。この分析により、フィレンツェ商人がオスマン帝国と行っていた活発な貿易活動の一端が明らかとなった。

ただ、本論で明らかにできた事実は、二つの会社が行ったオスマン貿易に関するもののみである。他のフィレンツェの会社が行ったオスマン貿易の実態把握や、ヴェネツィアないしジェノヴァが行ったオスマン貿易との比較、さらにはオスマン史料を利用した調査など、本論で検討できなかった課題はいくつもある。今後は、本論で得た結論を基礎にこれらの課題にも取り組み、フィレンツェ・オスマン貿易を様々な角度から実証的に検討する。そして、フィレンツェ・オスマン貿易という活動が持っていた経済史的な意味を、広い視野の下で明らかにしていきたい。

審査要旨 要旨を表示する

鴨野洋一郎の論文「フィレンツェ商人とオスマン帝国―15-16世紀におけるフィレンツェ繊維工業とオスマン帝国との経済的関係」は、中世後期におけるイタリア商人の地中海交易活動の中で、特にフィレンツェ商人とイスラム世界の超大国オスマン帝国との間の交易関係を、毛織物及び絹織物を対象として交易活動に従事した二つの商社のケースを取り上げ、未刊の経営文書を中心に諸史料を渉猟して、解明した労作である。

本論文は、「はじめに」及び「おわりに」と、本文4章から構成されている。

「はじめに」においてはまず、ヨーロッパ・地中海世界におけるイタリア商人の商業活動の全体像を概観した後、フィレンツェ商人のケースを取り上げ、フィレンツェ商人がオスマン帝国といかなる形で関わりを持つに至り、いかなる形で交易に従事したかを明らかとした。その上で、オスマン帝国との東方貿易がフィレンツェにとっていかなる意味を持っていたかを明らかにした。

第1章においては、まず、古代末期以降中世に至る時期における地中海商業において、イタリア商人がいかにして台頭してきたかを回顧し、その中で、イタリア繊維工業の発展が商業活動の発展といかなる形で関わっていたかを明らかにした。その上で、フィレンツェにおける繊維工業の発展を13世紀から16世紀まで辿り、フィレンツェ繊維工業の経営組織がいかなるものであったかを明らかとした。これらの議論を踏まえた上で、フィレンツェ繊維工業と東方貿易との関わりについての、従来の我が国及び、欧米、特にイタリアにおける研究史を回顧し、本研究についての位置づけを行った。

それに引き続いて本研究において主として使用するフィレンツェの会社組織の残した経営記録の種類及び性格について研究史を踏まえて解説を加え、とりわけその中で本研究の主要研究対象となるグワンティ家及びセッリストーリ家の経営記録の特色について明らかとした。

第2章においては、両家の対オスマン貿易の具体的分析に先立ち、ビザンツ時代に遡り、フィレンツェがピサの征服をきっかけとして、ピサが対ビザンツ貿易において与えられていた特権を継承する形で東方貿易に進出した経過について明らかにした。その上で、とりわけ1453年のコンスタンティノープル征服後において、フィレンツェが対オスマン貿易活動を活発化させたこと及びその背後の事情を明らかとし、さらに、フィレンツェ・オスマン貿易の枠組みを与えた両国間の商業協定の大綱を示した。その上で、貿易枠組みの支柱としての役割を果たしたフィレンツェ人領事の機能を史料に基づいて明らかとし、合わせて、対オスマン貿易枠組みの維持のための様々な取り組みの詳細を解明した。

第3章及び第4章において、フィレンツェの繊維工業に関わり東方貿易においても活躍したグワンティ社とセッリストーリ社を対象として、両社に関する未刊の経営文書類を中心に分析を加え、対オスマン商業活動の実態を、西欧世界内における商業活動と対比しつつ詳細に明らかとした。

第3章においては、まず、中世後期のフィレンツェにおける毛織物工業の発展・停滞・再発展の全体像を明らかとし、その過程におけるオスマン市場開拓の試みとその影響について論じた。そしてこれを踏まえ、15世紀フィレンツェにおけるグワンティ家の毛織物会社を取り上げ、グワンティ家の毛織物製造業における発展とグワンティ家の家産の拡大過程を詳細に明らかとした。その上で、自社製の毛織物販売の状況に目を転じ、販売市場としてフィレンツェ市場とオスマン市場という二つの重要な市場が同時に並存していたことを史料に基づき詳細に明らかにした。その上で、販売対象の毛織物の種類について論じ、オスマン市場においては二級品としてのガルボ織が重要な販売対象となっていたことを明らかとした。オスマン市場とりわけオスマン帝国の最初の帝都でもあり、国際貿易の一大中心でもあったブルサにおけるガルボ織を中心とするグワンティ家の毛織物販売の実態を、フィレンツェにおける販売活動と対比しながら明らかとした。さらに、ブルサ市場における色彩別の需要構造の詳細も明らかとした。また、ブルサにおける販売の諸費用について代理人帳簿を中心とする経営文書に基づいて詳細に明らかとし、ブルサにおける実際の代金徴収過程についての詳細も国際的にも初めて解明した。

第4章においては、金箔会社として出発したが、すでに1500年頃には絹織物製造に特化するに至っていたセッリストーリ金箔会社を中心的対象として取り上げ、まず、15世紀におけるフィレンツェの絹織物工業の状況と国際市場との関わりについて論じた。これを踏まえ、セッリストーリ金箔会社の絹織物製造及び販売の実態について、未刊経営文書類に基づき、国際的にも初めて詳細を解明した。さらに、会計帳簿に基づき、イギリスにおける販売活動と対比しながらオスマン市場における販売の費用及び利益についても詳細を明らかとした。

そして「おわりに」においては、両会社共に、オスマン市場との貿易活動において、巨利ではないが確実な利益を上げており、その経済活動はオスマン帝国の開放的帝国体制によって支えられていたことに論及した。ただ、高リスクであるにも関わらず、必ずしも高利益とは言えないオスマン市場貿易にかなりの比重で関わった真の理由が何であったかについては、今後の一層の研究の課題となることに言及して論を閉じている。

本論文は、フィレンツェの古文書館に収蔵される未刊の膨大な経営文書の博捜に基づいて、本邦・欧米のみならずイタリア本国においてもいくつかの先駆的な事例を除けば従来必ずしも十分に解明されていなかったオスマン市場を中心とするフィレンツェの対東方貿易の実態を詳細に明らかとした国際水準に達する労作である。とりわけ、毛織物商業については、ガルボ織を中心にフィレンツェ市場とオスマン市場という二つの市場が並存してこれを支えていたという問題提起を国際的にも初めて明確に行った点で、学説史上独自の価値を有する。絹織物商業については、イギリス市場とオスマン市場とでは取り扱い品目が異なっており、とりわけオスマン市場においては、宮廷が最も重要な販売対象であり、最高級の金糸織り製品が多量に販売されていたことを明らかとし、東方貿易史のみならず東西文化交流史にとっても重要な指摘を行っている。

とはいえ、本論文は、フィレンツェ経営文書の精査に基づく極めて実証的な労作ではあるが、より巨視的な東方貿易史全体の枠組みの中における位置づけがなお不十分であるきらいがある。また、二つの商社のみを対象として取り上げており、フィレンツェさらにはフィレンツェ以外の諸国の商社と比較して、この二つの商社の持つ特殊性と他の諸商社とも共有する共通性が明らかとされていない。さらに、二つの商社に限っても、各商社の経済活動の全体像が示されていないために、対オスマン貿易の両商社の全体的活動の中における相対的な位置づけと意味が必ずしも明らかになっていない。

これらの問題点を孕みながらも、本論文は、未刊の経営史料の精査に基づき、従来十分に解明されてこなかったフィレンツェの対東方貿易の構造の一端を詳細に明らかとした点で、国際的にも重要な学術的貢献ということができる。

以上、本審査委員会は、本論文は、博士(学術)の学位を授与するのに十分値するものであることを認定した。

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