学位論文要旨



No 126635
著者(漢字) 島,亜衣
著者(英字)
著者(カナ) シマ,アイ
標題(和) インスリン様成長因子とビタミンCは低温における骨格筋細胞の分化を促進する
標題(洋)
報告番号 126635
報告番号 甲26635
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1052号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 松田,良一
 東京大学 教授 久保田,俊一郎
 東京大学 教授 太田,邦史
 東京大学 准教授 坪井,貴司
 東京大学 教授 石浦,章一
内容要旨 要旨を表示する

常時37℃前後の深部体温を維持する恒温動物においても、体表面や四肢末端では体温が低下する。本研究では、このような低温環境が細胞の分化に与える影響について、骨格筋細胞を用いて調べた。骨格筋組織は全身に分布するため、生体内でも実際にさまざまな温度変化に曝されることが予想される。また、筋分化制御因子 (muscle regulatory factor; MRF) などの転写因子レベルで分化制御機構が明らかになっているため、細胞分化の温度感受性に関する研究モデルとして適当であると考えた。

マウス筋芽細胞株C2C12を38℃で増殖させた後、分化を誘導して30℃で培養すると、筋管 形成が抑制された。30℃ではMRFのうちMyoDは発現していたが、myogeninの発現が転写段階で大幅に抑制されていた。30℃で培養すると、MRFの正の制御因子であるE2Aは38℃と同様に発現したが、38℃では分化に伴って減少するMRFの負の制御因子、分化抑制因子Id3の発現が高レベルで維持されていた。また、38℃では分化に伴って発現が増加する、骨格筋分化の制御に関与するマイクロRNA (miR-1, -133a, -181a, -206) が30℃ではほとんど発現しなかった。すなわち、30℃では骨格筋細胞の分化が著しく抑制されることが示された。

そこで、30℃でもId3の発現が低下して筋分化が進行する条件を探索した。通常培養温度でmyogenin発現を促進させることが報告されているインスリン様成長因子 (insulin-like growth factor; IGF) -IとビタミンCをそれぞれ100ng/mlと200 uMで培養液に添加したところ、30℃でもId3の発現が低下し、myogeninが発現して38℃と同様に多核の筋管細胞が形成された。IGF-Iは30℃でのmyogenin発現に対して濃度依存的に作用した。ただし、分化初期のみではなく、長期的な添加を必要とした。なお、IGF-IIも30℃でのmyogenin発現と筋管形成を促進した。IGF-IとビタミンCの添加は骨格筋分化に関与するマイクロRNAの発現も増加させた。これらの結果は、30℃における筋分化抑制の原因がIGFとビタミンCによってレスキュー可能な特定段階の阻害で あることを示唆する。IGF-IとビタミンCによる筋分化促進作用は30℃以下でも認められ、これらを同時に添加するとC2C12はマウス深部体温より約10℃低い28℃でも筋管細胞を形成し、25℃でもmyogeninを発現した。

次に、IGF-I過剰発現マウス(以下IGF-I Tgマウス)の長趾伸筋を用いて単一筋線維培養を行ない、筋衛星細胞の分化に対する低温の影響を調べた。IGF-I Tgマウスと野生型マウスから単離 した筋線維をビタミンCは加えずに38℃と30℃で培養すると、どちらの温度でもIGF-I Tgマウス筋衛星細胞のmyogenin発現は野生型マウスよりも促進された。ただし、30℃ではほとんどmyogeninを発現しなかったC2C12とは異なり、30℃で培養した野生型マウス筋衛星細胞は一定の割合でmyogeninを発現していた。これは、分化した筋細胞自身がIGFやビタミンCのように低温でもmyogenin発現を促進する因子を分泌したためではないかと考えた。そこで、38℃で分化させたC2C12の培養上清を用いて30℃でC2C12を培養したところ、myogeninの発現が促進される ことを認めた。これらの結果から、生体内には、局所的に体温が低下しても筋分化が阻害されないように、温度低下に対する耐性を高めるメカニズムが存在することが示唆された。

これらの30℃における筋分化抑制と、IGF-IとビタミンCによるレスキュー効果は、マウス 骨格筋細胞だけではなくヒト骨格筋細胞でも同様に認められた。従って、哺乳類の筋細胞に共通 した現象である可能性が高いと考えられる。

最後に、低温での筋分化におけるミトコンドリアの役割について調べた。骨格筋細胞は分化に伴って酸化的リン酸化依存的なエネルギー産生に移行することが報告されており、多くの先行研究がミトコンドリアの機能阻害によって筋分化が抑制されることを示している。電子伝達系のシトクロムc酸化酵素 (cytochrome c oxidase; COX) サブユニットIの発現を調べると、38℃では分化に伴って発現が増加したが、30℃では発現が低かった。また、蛍光試薬JC-1を用いてミトコンドリア膜電位を可視化したところ、30℃では膜電位の低い細胞が多かった。しかし、IGF-IとビタミンCを培養液に添加するとCOXサブユニットIの発現とミトコンドリアの膜電位が回復したことから、低温におけるこれらの筋分化促進作用がミトコンドリアの機能回復を介することが示唆された。

本研究は、骨格筋細胞の分化に必須である筋分化制御因子の発現やミトコンドリアの機能に、温度が大きな影響を与えることを明らかにした。骨格筋細胞が温度を感知する機構や下流の情報 伝達経路については未だ明らかになっていないが、IGFやビタミンCなどの生体因子が低温の影響をキャンセルすると示したことは、今後、温度という物理的シグナルがいかにして化学的シグナルに変換されるのかを知る上で、大きな手掛かりとなると考える。本研究が、これから発展するで あろう「温度生物学」の端緒となることを期待したい。

審査要旨 要旨を表示する

脊椎動物の進化において恒温動物の出現は非常に大きな出来事であるが、いまだ充分に研究が進んでおらず、恒温動物と変温動物の遺伝子発現レベルでの相違は不明である。本論文は恒温動物と変温動物の細胞分化における温度感受性の違いを明らかにするため、転写因子レベルで分化制御機構が明らかになっている哺乳類骨格筋細胞を用いて、分化制御遺伝子の発現に対する培養温度の影響を調べた。まず、マウス筋芽細胞株C2C12を分化誘導後38, 35, 30℃で培養したところ、35℃では筋分化が遅れるが正常に進行したのに対し、30℃では長期間培養しても多核の筋管細胞が形成されず、筋分化の進行が抑制された。このとき、30℃では筋分化制御因子のうちMyoDは発現したもののmyogeninの発現が著しく抑制されていた。また、30℃では、筋分化制御因子が骨格筋特異的遺伝子の発現を活性化するのに必須であるE2Aは発現していたが、通常は分化に伴い発現が低下する分化抑制因子Id3の発現が高いまま維持されていた。Id3はE2Aと筋分化制御因子の相互作用を阻害するため、これが30℃における筋分化抑制の一因であると考えられる。

低温においても筋分化を促進する生体因子の探索を行なったところ、インスリン様成長因子(IGF)-Iとアスコルビン酸リン酸(安定型ビタミンC)を培養液に添加すると、30℃でもId3の発現が低下し、myogeninを発現して筋管細胞を形成することを見出した。C2C12は分化に伴ってIGF-IIや骨格筋特異的マイクロRNA(miR-1, -133, -181, -206)の発現が増加することが報告されているが、これらについても30℃では発現が認められなかったものが、IGF-IとビタミンCの添加により発現が回復した。すなわち、IGF-IとビタミンCは30℃における骨格筋細胞の分化抑制を全面的に解除する効果を示した。さらに、IGF-IとビタミンCを添加すると28℃でも筋管細胞を形成することが示された。IGf-IとビタミンCを添加し、温度を変化させて培養すると、筋分化の進行速度を任意に調節できることから、低温での培養系は筋分化を詳細に研究する実験ツールとしても有用である。

さらに、低温でのmyogeninの発現抑制とIGF-I、ビタミンCによるレスキュー効果はマウスだけではなくヒト骨格筋細胞においても認められた。このことから、哺乳類骨格筋細胞に共通した現象であることが示唆された。また、骨格筋でIGF-Iを過剰発現させたトランスジェニックマウスの筋衛星細胞を30℃で培養すると、野生型マウスより高い割合でmyogeninを発現したことから、生体由来の培養系でも骨格筋細胞分化における制御遺伝子発現の温度感受性は示された。

次に、骨格筋細胞分化に大きな影響を与えるミトコンドリアの機能が、低温によってどのように変化するのかを検討した。C2C12細胞を用いて、38℃では分化に伴って発現が増加するシトクロムc酸化酵素サブユニットIの発現を30℃で調べたところ、発現が著しく低下していた。すなわち、30℃ではミトコンドリアが正常に機能していないことが示唆された。ただし、IGF-IとビタミンCを添加するとサブユニットIの発現は回復した。ミトコンドリア膜電位についても調べたところ、30℃ではミトコンドリア膜電位の高い細胞はほとんど存在しなかったのに対し、IGF-IとビタミンCを添加すると膜電位の高いミトコンドリアが増加した。これらの結果から、低温での筋分化抑制にはミトコンドリアが大きく関与していることが示された。また、IGF-IとビタミンCを添加して培養した場合、myogeninが発現した細胞で特にミトコンドリア膜電位の上昇が認められたことから、筋分化に伴うミトコンドリアの変化がmyogeninによって制御されることが示唆された。

今後は、マウスおよびヒト骨格筋細胞で得られた以上の結果を変温動物や長期の低体温に耐えるシステムを有する冬眠動物の骨格筋と比較することで、進化生物学的にも新たな知見をもたらすものと期待される。また、低温でも筋分化を促進するIGF-IやビタミンCは低体温療法や凍傷治療に対しても重要な示唆を与えると考えられ、医学的価値が極めて高いと思われる。本論文は、哺乳類骨格筋細胞における分化制御遺伝子の発現やミトコンドリア機能の温度感受性を初めて示すものであり、本審査会は博士(学術)を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/43839